2009年05月24日

暫く休まざるを得ませんでした

パソコンが壊れ、年金が頼りの生活で、修理代も新規購入代もままならず、暫く休まざるを得ませんでした。持つべきものは友達で、大学時代の友人がパソコンを無償で譲ってくれ、ようやくブログを書く環境が整いました。ただ、いろいろと処理しなければならないこともあり、ブログは6月に入ってから始めたいと思っています。ご興味のある方は、時折ご覧いただければ幸甚に存じます。
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2009年01月08日

大圓寺の五重塔

 大圓寺五重塔の計画当初からの経緯について、故吉田実氏は、昨日も見ました「史迹と美術」に次のように記されています。

 ……寺院の環境を考慮し、種々試案を研究検討した末、納骨堂塔院を建設してその屋上に五重塔を建て上げる構想に到達し、清水建設株式会社の設計により、第一期工事として鉄筋コンクリート造三階建の塔院に着工された。このときの計画は五重塔も鉄筋コンクリート造で、(中略)福岡市の定める高さ四〇メートルという建築制限に合致するものであった。しかし、仏塔は矢張り木造でなければという念願で、あらためて地元猪ヶ倉建築設計事務所の設計を採用しその準備を進めていたとき、平成三年九月の一九号颱風は西日本の社寺建築に甚大な災害をもたらした。ために設計を検討し直して鉄骨補強構造に変更し見積り合わせの結果、五重塔工事は鹿島建設九州支店の協力を得ることに決まった。(中略)木工事は大坂四天王寺金剛組が担当されることになり、かくして五重塔地鎮起工式の運びとなった。

 同著によれば、平成5年10月1日に起工式を執行、同7年10月31日に完成し、同年11月3日に開眼落慶式が執り行われたといいいます。
 続けて同著には、「ここに大圓寺五重塔断面詳細図から読み取った数字を報告する」として、塔高などについて記されていますが、それは次のとおりです。すなわち、基壇上塔身の高さは60・80尺(18・422メートル)、相輪の長さは25・41尺(7・69メートル)、基壇上の塔総高は86・21尺(26・121メートル)で、これに塔院の高さを加えると、地上の塔総高は124・95尺(37・860メートル)といいます。
 そして氏は、「堅固な鉄骨構造によって建造物強度を確保されるこの塔にあっては、軒廻りの木組は外装化粧材として用が足りる」とされたうえ、次のように記されています。

 鉄骨補強構造木造五重塔は昭和五八年四月、大分県宇佐郡安心院町、大建寺五重塔で松井建設株式会社社寺建築部が開発施工した工法を嚆矢とするようである。私共が塔に参詣し見事な木造建造物として拝観するのはその外容と軒下の巧みな木組の妙であって、軸部内部の構造は目にする機会が無い。建物を木造で多重に積み上げる技法には、耐風耐震性能や経年縮寸による変形対策等の問題点の研究と熟達が永年伝承されて来たが、代って鉄骨補強構造が採用されてもそれは見隠れの楽屋裏での出来事である。寧ろ構造計算により強度に充分の効果が有り、長期的に外観の変形が防止され、更に今後次第に入手困難が予想される良質長尺物木材にとって代わるようになると云うのであれば、昭和、平成の時代の木造多重塔の新技術として容認されるのではなかろうか。但しこの新技法の遠隔成績は今後の研究課題である。(原文のママ)

 さて、そんな予備知識をもって私が大圓寺を初めて訪れましたのは、平成10年の6月14日でありました。この時も出張の機会を利用したのですが、昨夜の宿を福岡市営地下鉄の天神駅の近くに求めていた私は、その天神駅から地下鉄で3つ目の唐人町駅で下車、進行方向の後方の出口から左側の階段を昇りました。地上に出ますと、すぐ眼の前に西日本銀行がありますが、そのすぐ先の黒門西の信号の所で左折し、唐人町商店街を横切って暫く行きますと、燦然と輝く相輪を付けた朱塗りの五重塔が見えてきます。唐人町駅から、五分ほどの距離です。
 五重塔は、やや古さびた本堂の裏手に建っています。本堂の右手の墓地に入り、そこから数枚の写真を撮りましたが、その墓石に彫られた戒名が金色に輝いているのを珍しく眺めましたものの、墓石が邪魔になります。
 境内から外に出て、門の左手の道を少し行きますと、塔の全容が見られる場所に出ます。しかし、五重塔は塔院の屋上から建ち上がっていますので、下から仰ぎ見るしかありません。しかも周辺は住宅が建て込んでおり、塔の基壇から相輪の先端までをカメラに収めるのは難しいのですが、幸い小さい空間ながら公園があります。しかし、最後部まで下が
って身体を反らせてカメラを向けましても、ファインダーに塔の全容が入りません。もちろん、軒下の木組などは、望遠鏡でも用意していない限り、その状況は判りません。この時は小雨模様であったので光線の具合など気になりませんでしたが、塔は西向きに建っていますので、小公園からの写真撮影は午後でなければなりません。この寺は、平成14年の2月1日に再訪していますが、この時は24ミリのワイドなレンズの用意がありましたので、何とか塔の全容を収めることができましたものの、でき映えは余り良くありませんでした。
 写真のリンクを許可していただいている同好の方も苦労されたようですが、こちらの写真を ↓ ご覧ください。なお、今日の時点では、写真だけをご覧いただき、塔の説明文は無視してください。写真のリンク提供者は、どこかの塔と間違えておられるようで、この後、直ちにご連絡するつもりでいますので、そのうち訂正されると思います。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/40fukuoka/daien5/daien5.html

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2009年01月07日

福岡県いや九州で二番目の塔へ

 ようやく、福岡県、と言いますより九州で2番目の塔を訪れることになりますが、その大圓寺(だいえんじ)の五重塔を識りましたのは、実に思いがけない偶然からでありました。私は平成5年の7月9日から10日にかけまして、JR鹿児島本線沿いにある塔のある寺をめぐりました。その帰路、福岡空港で時間待ちと空腹を癒すために入った寿司屋で、ふと、福岡名店百選会発行の小冊子「月刊はかた」を手にしたのですが、墓所販売の宣伝の中に、この塔のことが掲載されていたのです。それには、「都会に咲く新名所、大圓寺『五重の塔』が誕生します」というキャッチフレーズのもとに、次のように記されていました。

 お釈紳士服様のお墓として、古来より大変縁起の良いものとして祭られてきた「五重の塔」。平成七年の秋頃、福岡の都心に初めて木造「五重の塔」が建立されます。当寺ではその礼拝の対象であるお釈紳士服様のお墓の下に、墓所をつくりました。墓相についても理想に近いものです。たくさんのお墓をやさしく守って建つ美しいこの塔は、福岡の方々の新しい心の拠り所となることでしょう。

 上の文中に、「古来より大変縁起の良いものとして」とありますことには、喉に小骨がつかえているような感じがしないでもありませんが、それはともかく、イラストによる完成予想図を見る限り、墓所となる建物の屋上から建ち上がるといったものながら、塔そのものの形は悪くなさそうでした。そして、何といっても木造であることが嬉しく、既にご存じのこととは思いましたが、さっそく故吉田実氏にご連絡しました。
 氏は、やはり既に識っておられ、折り返しいただいた平成5年7月19日付のお手紙には、「何時頃から具体化していたのか、この塔の噂は割合い早い頃から聞いて居りましたが、詳細不詳で居りました。木造塔で着工になる模様、工事の進捗が心待たれます」とありました。心待ちする思いは、私も同じでした。
 それから2ヶ月ほど経て、9月16日付のお手紙を同氏からいただきました。それには、「大圓寺・略縁起」、塔建物他境内配置図、五重塔院正面図・側面図、および立面図・断面図・寸法整理表などの貴重な資料が同封されていました。
 氏は、「史迹と美術」の平成9年5月発行の第674号から「平成の木造五重塔」というシリーズで、その研究成果の発表を開始されましたが、その3番目として、平成9年8月発行の第677号に、この大圓寺の五重塔を採り挙げられました。以下、それを参照させていただき、寺歷や塔の構造などについて、予備知識として頭に入れておくこととします。

 総本山を知恩院とする浄土宗鏡智山慈眼院大圓寺は、福岡市中央区唐人町三丁目一〇番九号に位置し、福岡ドームを指呼の間に望む市街地に所在する。昭和四三年二月、住居表示変更により現在の町名になる時計は大圓寺町一四番地が公称されていたように、当地方の中核寺院であった寺歷がうかがわれる。

 その寺歷については、先にお送りいただいていた「大圓寺・略縁起」に眼を通すこととします。

平安時代……康平三年(一〇六〇)庚子九月朔日。筑前国早良郡西入部村字黒塔(福岡市西区西入部四六五番地)の地に鎮守府將軍従五位下、源頼信公により大圓寺は創建され隆盛をきわむ。其の後平清盛の博多経営と原田氏との挟み打ちにより焼失す。
鎌倉時代……文久八年(一二七一年)頃崇福寺第五祖大応国師(南浦紹明、鎌倉建長寺管長)により中興開山される。
室町時代……度々の戦火により寺運傾く、姪浜興徳寺の支配に入る。(荒平城の戦その他)
江戸時代初期……慶長十二年(一六〇七年)の始め、荒戸山(西公園)荒神堂の西に、黒田如水公夫人光姫の援助をうけ、浄土宗鎮西派の寺院として再建される。
開山上人は豊前国築上郡の豪族、福島刑部の一子源道和尚なり。
江戸時代……慶安二年(一六四九年)荒戸山に東照宮造営の事おこり、荒戸後浜(抱ノ浜)の地を拝領し移転し終る。此の頃より黒田藩士族寺として確立する。(原文のママ。ルビ省略。以下、この「略縁起」からの引用について同じ)

 同「略縁起」には、続けて「江戸時代中期」以後のことが記されていますが、それは省略するとしまして、「近代」を見ますと、「明治二十二年福岡に市政が施行され福岡市大圓寺町十四番地が公称となる」と記されています。

 この先を続けますと長くなりますので、続きは明日のこととします。

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2009年01月06日

次の塔へ行く前に、もう一日、寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、寄り道が続いていますが、次の塔へ行く前に、もう一日、寄り道をします。

 時を確認しますと平成11年の旅とも言えない小さな旅の時ですが、4月10日、大分廃寺跡を見学した後、博多駅まで戻った私は、JR鹿児島本線で東福間駅まで行き、そこからタクシーで神興廃寺跡、というより神興神社へ向かいました。「福岡県の歴史散歩」には、「畦町(あぜまちしゅく)宿と神興(じんごう)神社」(ルビは括弧で表記)という小見出しがあり、「JR福間駅JRバス福丸行畦町下車五分」とあったうえ、次のように記されています。

 畦町宿は筑前27宿の一つ、南北に通じる町並には寄棟造中2階の家が少し遺っており宿場町の名残が感じられる。(中略)畦町宿から西へ30分ほど歩くと福間東中学校に隣接して神興神社がある。神社の境内に置かれている手洗石は、隣接丘陵上にあった寺院(神興廃寺)の塔心礎を移したもの。上面の枘穴は、径56・3p、深さ8・2pでかなり大きい。古瓦も奈良時代末から平安時代にかけてのものが出土しており、そのなかには「延喜11(911)年」と記されているものもある。(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)

 何かあるんですか、との運転手の質問に応えますと、「へぇー、あんな所に、そんなものがあるとは知らなかった」、という意味の土地の言葉が返ってきました。なるほど神社は、拡張されたと想われます道の傍らに忘れられたようにしてあり、私のような者でないかぎり、近隣の人が初詣に来るだけであろうと思われました。
 この廃寺について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、「この神社は高い石段の上にあり、心礎はもとこの下の方にあったらしい」とあり、「心礎の大きさは一・八メートル×一・四メートル」とあって、更に「創建年代は奈良時代も古い方であろう」とあります。
 上で見ましたとおり、神興神社が福間東中学校に隣接してあるとのことであり、道路地図で見る限り東福間駅からの方が近かったので同駅からタクシーを利用したのですが、「博多まで戻るなら福間駅へ出た方が快速も停まるので便利で、料金も東福間駅へ戻るのと変わらない」と運転手が言いますので、帰りは福間駅まで行って貰いました。
 ここで時を平成14年2月1日へと移しますが、この時も福岡出張の機会を利用しまして、市営地下鉄箱崎線で箱崎宮前駅まで行き、筥崎宮を訪れました。筥崎宮について「福岡県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 JR箱崎駅より西へ5分ほどのところに、日本三大八幡宮の一つ筥崎宮(祭神応神天皇・神功皇后・玉依姫命)がある。筥崎宮は923(延暦元)年筑前大分(嘉穂郡筑穂町)より、今の地に遷座された。(中略)
 一の鳥居(国重文)は藩主黒田長政が1609(慶長14)年に、楼門(国重文)は1594(文禄3)年に小早川隆景が、本殿・拝殿(ともに国重文)は1546(天文15)年に大内義隆が、それぞれ建立したものである。

 上に、筑前大分より今の地に遷座されたとありますが、私は訪れていませんものの、同書によれば、筑前大分駅から7分ぐらいの所に大分八幡宮があるといいます。
 筥崎宮には、塔もなければ塔跡もありませんが、楼門、本殿、拝殿などは見応えがありましたし、同書に、「境内には、楼門のそばに神木である筥松、謡曲『唐船』にちなんだ唐船塔、蒙古碇石(県文化)などがある」とあるものなども、興味をそそられるものでありました。唐船塔というのは、石塔です。
 そうと知っていて、この時期に訪れたわけではありませんが、寒牡丹が盛りで、私は牡丹の花が大好きですので、みごとな花を咲かせた寒牡丹を堪能することができましたのはラッキーでした。

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2009年01月05日

今日も寄り道ですが

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、今日も寄り道です。

 平成15年のことになりますが、私は、みやこ町と行橋市の境に当たります八景山から国道496号線を北上しました。行橋市の中心部を流れる今川に架かる今川橋を渡りますと、国道は直角に左に折れ少し行った先で更に直角に右に折れます。更に少し行った先、突き当たった所が国道201号線で、そこを左に折れ、少し行った先で右に折れ、県道28号線(直方行橋線)に入りました。この道は平尾台への道ですが、3・5キロほど行きますと左手に椿市小学校があります。小学校の少し先、道が平尾台への登りにさしかかる手前辺り、今でもありますかどうか左手の酒店のすぐ手前の道を右折しますと、左前方の小さな森の中に、願光寺という寺があり、その境内が目指す椿市(つばいち)廃寺跡になります。右折した道は小型車がやっと、といった細さですので、酒店の辺りに車を駐め、歩いて行った方が無難でしょう。
 現地には、行橋市教育委員会によって立てられた説明板があり、それには次のように記されていました。なお、同説明板によれば、この廃寺跡は、昭和56年2月2日、市の史跡に指定されたといいます。

 椿市廃寺は、九州における初期寺院の一つで7世紀末から8世紀の初めに建てられた古代寺院跡である。
 現在までの調査により、椿市廃寺は塔、金堂、講堂といった主要な建物が南北に一直線にならぶ九州では稀な四天王寺式の伽藍配置である。
 講堂跡は、遺構の保存状態が良く乱石積の基壇や礎石が残っている。建物は7間×4間で、基壇の規模は、東西27m、南北18mほどである。
 塔は、参道の西脇に心礎が残っている。花崗岩の巨石で上面に直径65pの円形の柱穴がある。この心礎は、現在の位置より約20mほど南から出土したと伝えられ、その付近に三重塔が建っていたと推定される。
 本尊を安置した金堂の遺構は未確認であるが、講堂と塔の間に位置するものと考えられる。
 講堂の東側では回廊跡と考えられる柱穴の列が見つかっていて、東西74m、南北100mの範囲に主要伽藍があったと考えている。回廊の外側でも寺院に関連すると考えられる建物跡が確認されているため、寺域はさらに広がるであろう。
 出土する瓦の文様には、朝鮮半島の百済、高句麗、新羅など三国時代の影響が認められるものが多い。また、奈良の平城宮と同じ文様(同笵)の瓦も出土していて、中央政府とも何らかの関係があったものと思われる。
 このように多彩な文化に彩られた椿市廃寺は、古代仏教文化を考える上で極めて重要な史跡である。(ルビ省略)

 願光寺を後にした私は、そのまま県道を北西に進み、平尾台(国天然記念物)を目指ました。わずかの時間ではありましたものの眺めを楽しんだのですが、この旅日記としては全く関係ありませんので、先へ進むこととします。
 平尾台を下り国道322号線に出た私は、4キロほど先にあります小倉南インターから九州自動車道に入り、一気に八女インターまで車を駆しらせたのですが、九州自動車道は、平成17年1月24日、旧津屋崎町と合併し今は福津市となっています旧福間町をかすめます。

 ちょっと中途半端なのですが、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めることとします。したがって、明日も寄り道になります。

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2009年01月04日

まだ寄り道なのですが

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記も、三が日は休みましたが、今日から再開することとします。ただし、未だ寄り道です。

 新飯塚駅からJR筑豊本線で南へ向かいますと、三つ先に桂川(けいせん)という駅があります。そこでJR篠栗線に乗り換えますと一つ目に筑前大分(ちくぜんだいぶ)という駅があります。私は竜王寺を訪れた前日(平成11年4月10日)に、福岡駅から筑前大分駅まで篠栗線に乗りました。小学生のように、前方が見える先頭車両の一番前に乗って、かすめ過ぎる風景に心を遊ばせているうちに筑前大分駅に着きました。この駅までの途中には、長者原(ちょうじゃばる)、九郎原(くろうばる)などという珍しい名の駅もあり、門松(かどまつ)という目出度い駅名もあります。九州では、「原」を「はる」、濁って「ばる」と読みます。降り立った駅前などは寂れた感じでありましたが、首都圏の感覚で言えば楽な通勤圏になり、塔跡への道筋には新しい家並みも見ら
れ、かつての炭坑の町がベッドタウンに変貌しつつあるように見受けられました。
 筑前大分駅から15分ほどの所に大分廃寺塔跡がありますが、「福岡県の歴史散歩」では、その所在地について、嘉穂郡筑穂町大分字長楽寺となっていますが、前に書きましたとおり、現在は飯塚市大分となっています。
 現地には、筑穂教育委員会によって立てられた説明板があり、次のように記されていました。なお、説明板によれば、この塔跡は昭和16年12月13日に国の史跡に指定されています。

 大分廃寺塔跡は、嘉穂郡で唯一の古代寺院の塔跡です。
 塔跡は、保存状態が大変良く、塔の中心柱を支えた心礎を中心に十七個の礎石がほぼ創建当時のままの良行な状態で残っています。心礎は大変丁寧に作られており二条の排水溝が見られます。また、心礎側面に見られる線刻は伽藍造営の基準線と密接に関連するものとみられます。
 現在までの発掘調査の結果などにより、寺域を区画すると思われる溝と柵列を検出し、その寺域は南北約九十四m・東西約百二m、大分廃寺の建立は八世紀初頭(今から約千三百年前)と推定されます。また、心礎柱座の直径から計算すると、三十mを超える三重の塔であったと考えられます。出土する古瓦は、新羅系と呼ばれる華麗な瓦であり、当時太宰府から豊前への官道の中継地点として、文化交流が盛んだったことがわかります。現在では塔跡以外は見ることができませんが、当時は七堂伽藍と言って塔・金堂・講堂などがそろった立派な寺院であり、その伽藍配位置は金堂を左に、塔を右に配する、法起寺式と推定されます。(原文のママ。ただし、ルビ省略)

 さて、ここへ来る途中、筑前山手駅の手前で、左手の車窓から塔らしい建物が見えました。ちらっと見たかぎりでは、立派な三重塔のようでありましたので、新しい塔を発見、と胸をときめかせたものでありました。しかし帰りの電車の中から改めて見ますと、相輪などは体をなしておらず、果たして塔といってよいものかどうか判りませんでした。しかしながら眼にした以上、近くへ行って確かめねばなりません。ホテルに戻って明日のドライブコースを地図で確認しますと、幸いその近くを通ることを知りました。
 翌日のことになりますが、新飯塚駅の辺りからは国道201号線の方が良いのではないかと判断し、これまで辿ってきた道を西へ向かいました。20キロほど山道(といっても立派な舗装路である)を登り降りしますと、やがて前日に乗った篠栗線が左に寄り添ってきます。間もなく筑前山手駅であるはずですが、前方に建物が見えてきました。しかし結論からいえば、塔風の建物であって、塔ではありませんでした。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 11:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月01日

あけまして、おめでとうございます

明けまして、おめでとうございます

 昨年中は 大変お世話になり ありがとうございました

 ところで 昨年は皆様にとって どんな年でしたか

 良い年でしたか

 余り良い年ではなかったですか

 悪い年でしたか

 私にとっては、どちらかと言えば悪い年でした

 今年は良い年になって欲しいと願っているのですが 景気回復の見通しも立たず どうなりますことやら

 それでも 紅白歌合戦を見ながら 細々ながら自宅で年を越せるのは幸せなのですね

 何はともあれ 皆様にとりましては 良き年でありますよう 心より お祈り申しあげます
 
 今年も よろしく お願い申しあげます

    平成21年 元旦










 
posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 00:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月30日

私の対象とする塔ではありませんが……

 五重塔、三重塔をめぐる私の旅の対象ではありませんが、こんな塔も訪れました。

 香春神社を後にした私は、国道201号線に戻って飯塚市へ向かいましたが、現在の飯塚市は、平成18年3月26日に、旧飯塚市、旧穂波町、旧筑穂町、旧庄内町、旧頴田(かいた)町の合併により、新しく生まれ変わっています。国道は、田川市を通過、旧庄内町を抜けますと、旧飯塚市域に入りますが、JR筑豊本線を陸橋で越えた先の新飯塚駅入口の信号を鋭角に右折して少し行きますと、左手に目指す竜王寺があります。
 この寺のことについては、同好のA氏からの平成5年6月1日付のお手紙によって知りました。それには、「(総鑑)のコメントに直方竜王寺に小五重塔と二重小塔が有ると書いて有りますが、直方に竜王峡は有りますが寺は見当たりません。隣の飯塚市の竜王寺かと思っています」とありました。手紙の文中に「総鑑」とありますのは、中西亨先生の「日本塔総鑑」のことですが、その頃の私の手元には同書はありませんでした。今は手元にありますそれを見ますと、確かにそのようなことが記されています。A氏が指摘されたとおりであり、そのことに気付かれたのでありましょう、中西亨先生は「続・塔の旅」では、「多宝塔が北九州市の阿弥陀院(昭和四十二年)と直方市の東おやゆびサイン寺(昭和四十一年)にできたが、共に本式とはいえまい。直方市には他に随尊寺に二重塔がある。(中略)飯塚市の竜王寺にも二重塔があるが、その同じ境内に小さい八角五重塔があった」と記しておられます。
 この寺が、JR筑豊本線の新飯塚駅の北東の立岩という所にありますことを、何によってであるか記憶がないのですが知った私は、福岡駅まで戻る道筋でもありましたので立ち寄ったのです。しかし、実見したところ、私の旅日記の1頁を埋めて採り挙げるものではありませんでしたので、こんな塔もあるという程度の、ご紹介に止めます。

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2008年12月29日

暫くの間、塔跡などをめぐります

 現に建つ五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、これから暫くの間、塔跡めぐりになります。

 御所ヶ谷神籠石を後にした私は、県道へ戻って左折し、国道201号線で西へ向かいました。やがて前方に新仲哀(ちゅうあい)トンネルが見えてきますが、トンネルの入口のすぐ右手前の高台に菩提廃寺跡があります。廃寺跡といいましても、そこは民家の庭先のような所であり、礎石がある所も、あるいは個人の敷地かもしれません。
 現地には、平成6年3月に勝山町教育委員会によって立てられた説明板があり、「昭和三十年三月十二日 県指定」とあったうえ、次のように記されていました。

 菩提廃寺は、八世紀後半頃の創建とされ、建物配置に明確な規則性をもたない山岳寺院的な寺院跡です。
 ここに見える三間×三間の塔礎石とこの北方に位置する四間×五間の金堂の礎石が今も残っています。(中略)
 昭和六十一年には、塔礎石の周囲が調査され、基壇とその外側を巡る石列の存在が確認されました。一辺十一・二メートルの基壇を構築する石には、割れた礎石三点が含まれており、この基壇が改築されたものであることがわかりました。改築の原因としては、礎石が転用されていることや焼けた土が確認されたことから、塔の一部が炎上し部分的な倒壊があった可能性が指摘されています。

 塔跡は整備されており、礎石の間には花が植えられていましたので、心礎の近くまで行って写真を撮ることができませんでした。
 ところで、岩井隆次著「日本の木造塔跡」に眼を通しますと、「四天柱礎、側柱礎はすべて自然石で、塔の一辺は五・一五メートル、中の間が脇の間より相当大きいがこれは塔の規模が小さいためである。この寺は宝積寺といい、平安初期の創建といわれ」、とあります。なお、トンネルの名に「仲哀」という文字が見えますのは、古代史の愛好家にとって興味あるところではないでしょうか。
 さて、そのトンネルを抜けますと香春(かわら)町で、石灰岩の採取で無惨な恰好になった香春岳が眼に入ってきます。

 九州で最も注目すべき寺は、田川郡香春の天台寺ではないかと思います。香春の神さまが自ら新羅からおいでになったという、その香春神社の近くにある天台寺です。香春神が、(中略)渡来氏族の氏神であったのに対し、天台寺は氏寺であったと考えられます。その天台寺址からはすばらしい新羅系文様の瓦が出ているでしょう。

 上は、「宇佐八幡と新羅花郎」と題された座談会(司馬[]太郎・上田正昭・金達寿編「朝鮮と古代日本文化」所収)での、田村圓澄(えんちょう)の発言です。新旧の「福岡県の歴史散歩」を見ましても、天台寺については何も記されていませんので無駄になるかとは思いましたが、気になっていた私は、次の目的地である飯塚市へ行く道筋に当たっていましたので、香春神社に立ち寄ることにしていたのです。しかし、この辺りはセメント工場が建ち並ぶだけの埃っぽい所で、香春神社への案内標識なども見当りませんでした。見当で国道201号線を右に折れ、その先の角にありましたコンビニに入りかけていた女性に香春神社の場所を尋ねました。その女性は、たぶん、この道を行って……、と教えてくださったうえ、「この辺りの者ではないので、間違っていたら、ごめんなさい」と言い添える親切な方であった。お礼を言い、教えられたとおり細い道を進みますと、間違いなく左手に香春神社がありました。しかし、近くまで行っても神社の案内板もなく、ましてや天台寺のそれなどありません。神社の境内を歩きまわりましたが、それらしい気配も感 じられませんでした。ただ、桜の花が見頃であったことが、唯一の慰めでした。

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2008年12月28日

これから先は、またしても寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、暫くの間、寄り道をします。

 平成15年の塔めぐりの時は、豊前国分寺を辞した私は、県道238号線を進み、国道496号線に出ました。その左手角に観光案内所がありましたので立ち寄り、付近の案内図などを貰い、道を尋ねて国道を南下、上坂(かみさか)廃寺跡へ向かいました。この廃寺跡について、「福岡県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 豊津町の台ヶ原台地の東端と祓川に挟まれた水田下に上坂廃寺跡(県史跡)が埋没している。その塔の心礎は、直径2m以上の花崗岩でできており、柱を立てる円形の穴がうがたれ、さらにその底に舎利を入れる穴もあった。この塔心礎から塔の高さを推定すると約34mとなり、古代の京都平野のなかでも相当な高さであることがわかる。ただ文献にはこの寺についての記録がなく、豊前国分寺の経蔵跡とも、国分寺の前身寺ともいわれており、謎の多い寺院である。(ルビ省略)

 上にもあるとおり、この心礎は水田下にありますので眼にすることができないことは判っていましたものの、ともかく行ってみたのですが、標識など何もなく、ここら辺りではないかと思われる所の近くで働いていた人に尋ね、大体の場所が判ったような次第です。そして、旧版の「福岡県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 このほか、京都郡内には勝山町仲哀トンネル入口右上に菩提廃寺(県史跡)、行橋市福丸に四天王寺式伽藍配置とみられる願光寺境内の椿市廃寺、犀川町木山に木山廃寺と三つの古代寺院跡があるので、平安初期には京都郡内に六つの大寺院が存在し、三重以上の大塔が群立していたことになる。

 上に、「六つの大寺院」とありますが、同書を見ても、もう一つが、どの廃寺なのか不明です。それはともかく、菩提廃寺と椿市廃寺については後に訪れますが、木山廃寺へは行かずじまいでした。
 上坂廃寺跡を後にした私は、国道496号線を戻り、八景山という信号まで車を進めました。平成15年の旅では、そのまま国道を進み、行橋市へ向かったのですが、ここで時を平成11年4月11日まで遡らせることとします。なお、八景山の信号の左手には、町のシンボルである豊前国分寺の三重塔の相輪をイメージしたものといいます石造の相輪を象った「天平の塔」が設置されています。
 平成11年の時は、八景山の信号で左折し、県道58号線を西へ向かいました。そして、国道201号線へ出るべくレンタカーを駆しらせていますと、御所ヶ谷神籠石(どしょがたにこうごいし)の標識が左手に見えてきました。予定に入れてあったわけではありませんが、機会があれば訪れたいと思っていた所でありましたので、私は躊躇なく、その標識に従いました。
 神籠石は塔とは全く関係がありませんが、寄り道ついでに、「福岡県の歴史散歩」に眼を通すこととします。

 ……この御所ヶ谷神籠石(国史跡)は、九州・中国各地に7世紀頃つくられた朝鮮式山城の一つと考えられている。
 門跡は、東門・中門・西門・東北門・南門・南西門の6ヵ所、列石は部分的に残存して10ヵ所あり、すべて花崗岩が使われている。(中略)中門は、高さ6・5mから7・5m、長さ18m、ととのった石樋(せきひ)を有しており、その雄大さに圧倒される。(ルビは括弧で表記)

 同書には、「1市2町にまたがり門跡・列石・土塁が約3qにわたっって続いている」ともありますが、申し上げるまでもなく、私はその総てを眼にしたわけではありません。車が通れる道の終点は、上の引用文中の「中門」の跡が遺る所であり、ほんの一部分をみただけですが、それだけでも、まさに「その雄大さに圧倒」されました。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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