2007年11月30日

知性溢れる熟年男性の魅力を感じさせる三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、中山道から東海道へ向かいます。御上神社前の信号で左折し、県道27号線を東南へ進み、菩提寺という信号で右折して少し行きますと、国道1号線すなわち東海道へ出ます。この辺りは、江戸より51番目の宿場、石部(いしべ)宿であった所です。国道1号線を突っ切り、JR草津線の踏切を越えた先、石部の信号で左折して道なりに進みますと、目指す常楽寺(じょうらくじ)に行き着きます。所在地は旧石部町、現在の湖南市西寺ですが、地名の由来は、常楽寺が西寺とも呼ばれているからです。ということは、東寺もあるのでは、と思われる方もおられるでしょう。そのとおりで、湖南市東寺という所に長寿寺(ちょうじゅじ)、すなわち東寺とも呼ばれる寺があります。そうです、一昨日に訪れたハ見寺に移された三重塔の実家で、本堂は国宝です。私は、その寺も訪れていますが、本堂左手の高台の塔跡には説明板が立てられているだけでした。
 さて肝心の常楽寺の三重塔ですが、鄙びた印象の参道を進んだ突き当たりが本堂、その左手奥、ちょっと登った高台に三重塔(友に国宝)が建っています。西寺、東寺と呼ばれたように、伽藍配置も似通っています。三重塔は、古色を帯びていますが、軒下の木組には僅かながら往年の彩色の痕も認められ、国宝とされるに相応しい堂々とした塔です。1週間ほど前に訪れた西明寺の三重塔も国宝で、滋賀県では二つ目の国宝の三重塔ですが、あちらの方は女性的な華麗さが感じられましたのに対し、こちらは、タイトルに書いたような感じを受ける三重塔でした。
 私は、この寺を平成6年8月11日と平成9年8月19日に訪れていますが、最初に訪れた時は、その後、旧甲西町、現在の湖南市岩根にある善水寺(ぜんすいじ)も訪れました。ここにもかつては塔があったようですが、現在では、塔があったことを示す説明板も立てられておらず、境内を掃除していた人に尋ねて初めて塔があった場所を識ることができたような次第でした。しかし、この寺の本堂も国宝で、重文の仏像群も見応えのあるもので、訪ねた甲斐はありました。

☆       ☆       ☆

 ところで、お寺めぐりもいいのですが、お寺では石段を登らなければならない所が多いので、歳と友にきつくなりました。そろそろ、キャッツクローなどの世話になることになるかもしれません。キャッツクローって、ご存じですか。とにかく、こちら ↓ を覗いてみてください。




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2007年11月29日

朝鮮人街道をゆく―昨日のつづき―

 五重塔、三重塔をめぐる旅で、ハ見寺を後にした私は、安土城址前という信号まで戻り、右折して南西へ向かいました。その道は県道2号線ですが、朝鮮人街道とも呼ばれています。そう呼ばれるようになったことについては、私があれこれと書くよりも、李進煕(リジンヒ)先生が「江戸時代の朝鮮通信使」で記されていることをご紹介することとします。

 ……この街道は古くから京街道・浜街道ともよばれ、『近江蒲生郡志』には「慶長五年九月、家康関ヶ原の一戦に大勝を得て上洛の時この街道を上りしにより、爾来徳川氏は吉例の道なりとして代々の将軍上洛の時はこの街道を通行せり。故に朝鮮信使の来りて将軍の代替りを賀するに当りても亦其の交通を吉例ある浜街道に定められたるなり」とある。つまりこの街道は、徳川将軍と朝鮮通信使のばあいだけに使われる吉道で、一六三四年に家光上洛のときもこの街道が使われた。しかし、参勤交代の諸大名はもちろん、他の外国使節(オランダや琉球王国)には、この街道を通ることが許されなかった。(ルビ省略)

 私がハ見寺を最初に訪れた平成6年の8月11日の旅では、この朝鮮人街道を辿ることが目的の一つでもありました。車での旅でしたが、車を駐めて歩いて見物した方がよい所があれば、そうするつもりでありましたが、近江八幡の町中は別として、その他では、当然と言えば当然のことながら、それらしいものを全く眼にすることはできませんでした。そんなこともあり、また次の本来の目的地へ向かう都合もあり、JR東海道本線の野洲(やす)駅を右手に見た辺りで左折し、この辺りでは国道8号線となっている中山道に出、近江富士とも呼ばれる三上山(みかみやま)の麓とも言うべき所にある御上(みかみ)神社(国宝の本殿のほか重文の建造物があります)に参拝したのでした。

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 昨日、一昨日は、鍋料理が美味しい季節になったことを書きましたが、鍋料理とくれば、やはりお酒が欲しくなりますよね。私は冷酒派だったのですが、健康面を考えて、最近は焼酎の方が多くなりました。みなさんは、焼酎をどのようにして呑まれますか。私は梅、特に紀州の梅を入れて、オンザロックで呑む派です。私と同派の方には、こちら ↓ は如何でしょう。




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2007年11月28日

神になった織田信長を祀る?

 と、タイトルを書きましたが、これは、私の五重塔、三重塔をめぐる紀行文集「塔に魅せられて(中部日本篇)」で、節のタイトルに用いたものです。そのタイトルの下に記した寺は、安土町にあるハ見寺(そうけんじ)ですが、この寺は、織田信長が建てた安土城のあった山の南麓にあります。平成4年のNHKの大河ドラマは「信長」でしたが、このドラマの原典となっていたのは、信長の時代に来日したルイス・フロイスという宣教師の書いた「日本史」でした。私は中公文庫で発刊した「完訳フロイス日本史」(全12巻)を購入し読みましたが、とにかく大著ですので、そのエキスだけでも、という方は、松田毅一・川崎桃太編訳の「回想の織田信長」、「秀吉と文禄の役」(中公新書)を読まれるといいでしょう。
 そして、秋田裕毅著「神になった織田信長」も興味深い書ですが、その中で著者は、安土城の中核施設について記した後、「このほかにもう一つ中核施設があった。それは、城下町に近い峰に建てられたハ見寺である。(中略)安土城は、四周を内湖と沼に囲まれていて、城下町と接するのは、ハ見寺の建てられている百々橋口だけである」(ルビ省略)と記しています。その百々橋(どどばし)口に駐車場があり、そこから自然石の石段を登った所に目指す三重塔(国重文)が建っています。しかし、この三重塔は、この寺のものとして建てられたものではなく、明後日に訪れる常楽寺の近くにある長寿寺に、享徳3年に建てられたものを、信長がハ見寺に強制的に移させたものです。フロイスは、次のように記しています(「回想の織田信長」)。

 ……この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なり造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に価する者は誰もいないと言うに至った。

 この記述から、「神になった」という言葉が出てきているのである。上に掲げた書の他に、今谷明著「信長と天皇」とを合わせ読むと非常に面白いので、特に信長が好きな方には、お奨めしたい。

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 さて、鍋が旨い季節になったということで、昨日は牡蠣を取り挙げましたが、蟹しゃぶもいいですよね。蟹ならば、こちら ↓ は如何がでしょうか。




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2007年11月27日

井上靖の小説の重要な舞台でもあった寺の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅では、所々で古い町並み見物もしました。石塔寺を後にした私は、旧五個荘(ごかしょう)町の中心部、現在の東近江市五個荘五位田町にある近江商人が多く輩出した古い町並みを散策した後、西国三十三観音霊場の第32番に当たる観音正寺(かんのんしょうじ)へ向かいました。しかし、平成5年、この寺は不幸に見舞われ、本堂が全焼し、国の重要文化財に指定されていた本尊の木造観音菩薩立像をはじめ、貴重な仏像九体が灰になってしまいました。寺では平成10年の完成を目指して復興を計画しているとのことでしたが、私が訪れた平成9年8月19日の状況では、それは覚束ない感じでした。しかし、遅れたとはいえ、現在は復興されているようです。
 次いで、本日の第一の目的である近江八幡市にある、西国三十三観音霊場の第31番に当たる長命寺(ちょうみょうじ)へ向かいました。観光案内書などには、この寺についても、八百数十段あるという石段を登っての参詣を奨めていますが、その石段の下まで行って見上げると、果てることなどないような急勾配の石段が続いていて、さすがに尻込みしてしまいました。実を言いますと、この寺へは二度訪れていますが、再訪した時は、蛮勇をふるって石段を登り始めたのです。しかし、どこでどう間違ったのか未だに腑に落ちないのですが、風情のない車道を登る羽目になってしまいました。とはいえ、歩いて寺まで行ったことだけは事実です。
 それはさて措き、仁王門をくぐりますと、正面に本堂が建ち、その右手に三重塔(いずれも国重文)が建ち、左手の高台に諸堂が建ち並んでいます。三重塔の細部を見るには近くまで行かねばなりませんが、伽藍の美しさを眺めるには、鐘楼などもある諸堂が建ち並ぶ高台に登って見ることが、お奨めです。そこから遠く三重塔を眺める光景は、井上靖の小説「星と祭」の重要な場面の舞台でもあります。この小説は、近江観光を計画される場合は、その前に、一読されることをお奨めしたい作品です。

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 ところで、秋も深まり鍋物が美味しい季節になりましたね。とりわけ、今は牡蠣が美味しい季節です。産地直送の牡蠣は、こちら ↓ など如何でしょう。
 



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2007年11月26日

道半ばにして、ちょっと寄り道を

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での滋賀県の旅も、半ばに差しかかりました。ここで、ちょっと一服することとします。
 湖東三山を辿ってきた国道307号線を更に南下しますと、日野町に至ります。この日野町の新善光寺という寺には、未完成のままの三重塔が残っていたのですが、その完成の目処がたたなかったからでありましょう、いつの間にか姿を消してしまいました。そのことは識っていましたが、物好きな私は、何も残っていないであろうことは判っていましたものの訪れることにしました。しかし、訪れる前に日野町役場に照会したところ、寺そのものが廃されたとのことでした。それでもなお、新善光寺の跡地を訪れたようとしましたが、結局は辿り着くことができませんでした。
 次いで私は、旧蒲生町、現在の東近江市石塔町にある石塔寺(いしとうじ)を訪れました。この寺は名神自動車道の八日市ICからも近い所にありますが、詳しい所在地などについては省略します。その町名にも採り入れられているように、この町にある石塔寺には、素晴らしい三重石塔があります。それについては、司馬[]太郎が、その著「歴史を紀行する」の中で記していることをご紹介して、今日のブログを終わることとします(ルビは省略)。

 最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、私は生涯わすれることができないだろう。
 頂上は、三百坪ほどの平坦地である。まわりにも松がはえている。その中央に基座をおいてぬっと立っている巨石の構築物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである。

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 ところで、みなさんは、お歳暮の手配はお済みですか。ワインは、飲まない方に差し上げても、最近のレシピでは、よく使われているようですので、喜ばれるのではないでしょうか。そんな時は、こちら ↓ など如何でしょうか。
 



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2007年11月25日

半壊のままの状態で国重文に指定された三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、湖東三山の北から2番目の寺、金剛輪寺(kんごうりんじ)へと向かいます。今はどうなっているか判りませんが、この寺も、制限付きではありましたものの、途中まで車で行けます。障害をお持ちの方は、今でも間違いなく行ける筈です。ただ、幸いに健常者である場合は、西明寺と同様、参道を自分の脚で登ることを、お奨めします。私が最初に金剛輪寺を訪れたのは平成6年8月9日ですが、たまたま観音地蔵盆の日に当たっていて、参道の両側には、真新しい涎かけをかけられ、色鮮やかな風車と花々で飾られた小さなお地蔵さんが、延々と立ち並んでいました。緩やかとは言い難い、しかも自然石の石段が続く参道ですので、脚腰に自信のない方にとっては辛い登りですが、慌てず、ゆっくりと登ってみてください。
 山門に辿り着き、門をくぐると正面が本堂で、三重塔は本堂に向かって左手の高い所に樹木に囲まれて建っています。ここの三重塔は新しく見えますが、それには次のような事情があります。

 待龍塔とよばれ、古文書によれば寛元四年(一二四六)四月九日の記があり国宝の本堂より四十年余り先に建立されました。しかしながらいろいろな事情がその時代、時代で十分な管理、修理ができずに天保以降、写真のような荒廃した姿になり、その復興が歴代住職の悲願でありました。昭和四十五年より三重塔の復興祈願のお写経を信者さんに呼びかけましたところ沢山の方のお力添えを得て四十七年、半壊のままの状態で国の重要文化財に指定され、一年をかけて調査工事が行なわれました。その結果、復原の許可が文化庁よりだされ昭和四十九年春、天保からの夢であった三重塔復興へと工事は進み、一億七千万円の巨費を投じ、昭和五十三年秋、創建当時の雄姿を見るにいたりました。(寺発行のリーフレット)

 上に「写真」とありますが、このブログでは、それをご覧いただくわけにはいきません。しかし、私は実見していませんが、その半壊状態の三重塔の姿は実に無惨なもので、一・二層のみの残欠といった状況でした。それが、今見る姿の三重塔に復元されたのですから、喜ばしいことです。
 さて、湖東三山の最後の寺、百済寺にも、かつては塔があり、裏山に塔跡、心礎が遺っているとのことですが、そこへ至る道も定かでなく、私は実見しておりません。

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 事情により、過日ご紹介したものを削除いたします。こちらは、↓ 引き続きどうぞ。

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2007年11月24日

湖東三山のうち国宝の三重塔がある寺

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、湖東三山へ向かいます。湖東三山とは、北から南へ西明寺(さいみょうじ)、金剛輪寺、百済寺(ひゃくさいじ)と続きますが、第1番目の西明寺を最初に訪れたのは平成6年8月9日ですから、もう13年余りも前のことになります。特別な場合は別として、内部を拝観できる塔は少ないのですが、今でもそうかどうかは確認しておりませんものの、この寺にある三重塔は、初層の内部を拝観することができます。最初に訪れた時は、そのことを識っていましたので、無理を承知で、事前に内部の写真撮影の許可を求めたのですが、案に相違して許可を得ることができ、それを最大の楽しみとして訪れたのでした。しかし、それには行き違いがありましたが、結果的には写真撮影もできましたので、そのことについては省略します。
 昨日の長浜から車で西明寺へ向かう場合は、国道8号線を南下し、彦根市内で国道306号線に入り、多賀町で国道307号線へと右折して南下しますと、やがて西明寺の駐車場が右手にあります。今はどうなっているか判りませんが、当時は拝観受付のある所まで車で行けました。しかし、この寺を訪れる場合は、駐車場に車を置いて、参道を登ることを、お奨めします。というよりも、そうしなければ、この寺の良さの半分は解らずじまいで終わってしまうでしょう。
 拝観受付を済ませて境内に入りますと、室町時代初期に建てられたという八脚門(二天門、国重文)があり、それをくぐった正面が本堂、その右手に三重塔があります。いずれも国宝ですが、国宝とされるに相応しい建物で、雄大な本堂と華麗な三重塔の対照的な美しさ、そして、それらの建物が周囲の環境とも相俟って立つ光景は、語彙に乏しい私には、ただただ素晴らしいとしか表現のしようがありません。伊東延男著「密教の建築」には、「本堂と塔と門、この三者は中世寺院には必須な建物」とあり、「現在三者が完全に遺存しているのは、石山寺、西明寺、金剛輪寺、長保寺、浄土寺、石手寺などにすぎない」とあります。私は、和歌山県にある長保寺(多宝塔あり)には遂に行く機会を得ませんでしたが、他の寺は全て訪れています。金剛輪寺には明日、その他は後に訪れます。
 さて、先にも書きましたとおり、この寺の三重塔の初層の内部を拝観し、写真も撮り、拙著「塔に魅せられて(中部日本篇)」では、塔そのものと、大日如来坐像と彩色も鮮やかに遺る壁画で飾られた荘厳な内部の写真を口絵としました。最近になってデジタルカメラを購入しましたが、元来フィルム派で、スキャナーを持っておりませんので、ここに、その写真を掲載できないのが残念です。厚かましい言い様ながら、それらをご覧になりたい方は、拙著をご購入いただければ幸いです。「塔に魅せられて(中部日本篇)」は、3,200円で頒布させていただいております。自分で言うのも何ですが、素晴らしい写真が撮れました。

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 ところで、来週の土曜日は、もう12月ですね。1年が経つのは、あっと言う間で、12月に入りますと忘年会の話題も出てくるでしょう。もし、忘年会の幹事に指名された場合、こちら ↓ などが参考になるかもしれません。



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2007年11月23日

竹生島へ渡り再建された三重塔を訪れる

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、北海道の洞爺湖の弁天島にある三重塔を訪れたのと同様、この度は、琵琶湖の竹生島へ渡ることになります。竹生島にある三重塔は、「塔に魅せられて(中部日本篇)」を発刊した時には未だ完成していませんでしたので、「近畿・岡山篇」で補遺として採り挙げた塔です。
 竹生島へは幾つかの船のルートがありますが、長浜港からの定期船が最も時間がかからず25分ほどで島へ着きますし便数も多いようです。マイカーでの旅でない場合は、島から他の港へ向かうこともできます。長浜港から乗船した定期船は、40分後に出航してしまいますので、島内をゆっくり観光するには時間が少な過ぎます。したがって、1〜2便ほど後の便で戻ることを前提に、計画を樹てることが肝要です。なにしろ、三重塔の建っている所までは、165段の石段を弁才天本堂のある所まで登り、更に20段ほどの緩やかな石段を登らなければならないのです。ところで、三重塔が建てられているのは、西国三十三観音霊場の第33番札所の宝厳寺(ほうごんじ)ですが、この寺には、かつて三重塔があったようです。しかし、度々の火災により失われ、他の諸堂は豊臣秀頼により再建され、国宝や重文に指定されていますが、三重塔は、ようやく平成12年5月に再建されました。三重塔は、先ほど書きましたとおり高い所に建てられていますので、島へ近づくにつれ船からも見えますが、狭い所に建てられていますので、写真撮影という点では、かなり難しいものがあります。
 さて、何時の頃からか、私は塔の心礎の美しさにも魅せられるようになりました。拙著で塔跡を写真(平成6年10月14日撮影のもの)も掲げた上で採り挙げた最初は、宮城県の陸奥国分寺の七重塔の心礎ですので、その頃からかもしれません。しかし、この心礎は摩耗が激しく美しいものではありませんでしたが、その前(平成5年8月11日)に訪れた多賀城廃寺跡の塔心礎は実に美しいものでしたので、その頃からかもしれません。そして、それを助長されたのは、愛知県豊田市にある舞木(まいき)廃寺の塔心礎を眼にした時でした。拙著「塔に魅せられて(中部日本篇)」には写真を掲げていますが、言ってみれば石ですので、それを美しいと見るかどうかは、人それぞれでしょう。その舞木廃寺の塔心礎に似た心礎が、長浜市の新庄馬場という所にある八坂神社の境内に遺されています。しかし、この神社は、訪ねあてるのに苦労しますので、まず、近くにある萩の寺と呼ばれている神照寺(しんしょうじ)を訪ねるといいでしょう。塔心礎はともかく、この寺の収蔵庫には国宝、重文に指定されているものが収められており、庫裡に申し出れば拝観できますので、お奨めです。八坂神社は、この寺から歩いて行ける距離にありますが、マイカーでの旅でない場合は、長浜市の中心部に戻ることも前提において、旅の計画を樹てることが必要かもしれません。上記のことは別として、長浜は北国街道沿いの宿場町でありましたので、古い町並みも残る一方、モダンな店も並ぶ、特に女性の方には、お奨めの観光スポットではないかと思います。

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 私のブログをお読みいただいている方は、いろいろな夢をお持ちかと思います。ちょっと一般的ではないかもしれませんが、中には、何時の日かネットショップを立ち上げてみたい、思っている方もおられるかもしれません。そんな方は、こちら ↓ が参考になるかもしれません。夢を持つことは、いいことですし、大事ですよね。



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2007年11月22日

佐々木京極家の菩提寺にある三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での滋賀県の旅で最初に訪れるのは、中山道の柏原宿であることは、きのう書きました。
 柏原(かしわばら)宿は、旧山東(さんとう)町、現在の米原市柏原に当たります。かつては、背後に聳える伊吹山で採れる、もぐさを売る店が並んでいたといわれます。国道21号線の北側にある旧中山道は、現在でも宿場町としての名残をとどめており、古い構えの、もぐさ屋も残っている風情のある道です。「柏原宿の西北十町余の所に清滝という集落」(児玉幸多著「中山道を歩く」)がありますが、そこに、目指す清滝寺(きよたきでら)こと、徳源院(とくげんいん)があります。私は、この寺を三度訪れていますが、最初の訪れは昭和61年11月10日の紅葉が真っ盛りの時で、黄や朱で織りなされた絨毯の上を歩むような感触が、未だに足裏に残っている気さえします。
 砦のような石積みの塀に沿って短い参道を進みますと、「史跡 清滝寺 京極家墓所」と彫られた大きな石柱が立っていますが、そこが境内への入口です・境内はさほど広くはなく、左手にある三重塔を除けば、これといって見るべきものもありませんが、宇多源氏の系譜に繋がる戦国の名家である佐々木京極氏の菩提寺だけあって、何とも言えない風格、気品が感じられます。佐々木氏と言えば、ばさら大名として知られる道誉(どうよ)が想い浮かびますが、林屋辰三郎著「佐々木道誉」という書には、「室町末期に創建された三重塔があるが、寛文十二年(一六七三)に旧規によって再建されたという」とあり、三重塔は滋賀県の文化財に指定されています。
 ところで、この寺を訪れたならば、見逃してはならないものがあります。それは京極家歴代の墓で、道誉の墓もあり、関ヶ原の戦いの時、大津城主で、徳川方につき戦功をあげ、後に若狭小浜藩主となった京極高次(たかつぐ)の墓もあります。かなり以前に読んだので、うろ覚えではありますが、井上靖の小説「淀どの日記」では、後の淀君が浅井家に嫁ぐ前、高次と恋仲だったという設定になっていました。事実だとすれば、高次が徳川方についたというのも、皮肉な巡り合わせではないでしょうか。それはさて措き、殆どの墓が宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、鎌倉時代から江戸時代に至るまでの宝篋印塔の変化の様が見られ、さながら宝篋印塔の博物館のようです。
 さて、中山道の柏原宿の次の宿場は醒井(さめがい)宿で、ここにもご紹介したところがありますが、塔とは関係ないので省略します。次いで番場(ばんば)宿と続きますが、明日は琵琶湖に出て遊覧船に乗らねばなりませんので、今日は長浜泊まりとしたいと思います。

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 ところで、だいぶ寒くなってきましたね。そして、この時期は空気が乾燥しますが、この時期ならずとも乾燥肌に悩まされている方もおられるのではないでしょうか。そんな方は、こちら ↓ など如何でしょう。




 さて、前にアンケートに答えることにより、自分の意見を、いろいろなことに反映させることを提案いたしましたが、モニターになるには、どうしたらよいのか、と思っておられる方もいることでしょう。その一つとして、こちら ↓ を、ここ暫くの間、併せてご紹介することとします。

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2007年11月21日

いよいよ近江へ〜プロローグ〜

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での旅は、滋賀県となります。中部日本篇としたのですから、近畿地方となる滋賀県へ入るのは可笑しいのですが、それには二つの理由があります。一つは、続けて中山道を辿るということ、二つ目は、全体の紙幅の関係でした。
 昨日訪れた中山道の垂井宿の次の西の宿場は関ヶ原宿ですが、ここはまだ岐阜県内で、次の柏原(かしわばら)宿から滋賀県となります。したがって、この二つの宿の間に、美濃国と近江国の国境(県境)があるわけですが、ちょっと面白い話を、滋賀県の塔めぐりのプロローグとして、ご紹介したいと思います。
 私は、司馬[]太郎の大ファンで、中でも「街道をゆく」は大好きで、朝日文庫(後に朝日文芸文庫と改名)のシリーズは、全巻取り揃えてあります。その第1巻の最初が「湖西のみち」ですが、司馬[]太郎は、その冒頭で次のように記しています(ルビなど省略)。

「近江」
 というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。


 実に歯切れのいい、「街道をゆく」の冒頭を飾るに相応しい文章ではありませんか。司馬[]太郎は、よほど近江が好きなのでしょう、「街道をゆく」の第24巻に収録されている「近江散歩」では、「私はどうにも近江が好きである」とした上、「下り列車が関ヶ原盆地をすぎ、近江の町がひらけてくると、胸の中でシャボン玉が舞いあがってゆくようにうれしくなってしまう」とも書いています。この「近江散歩」の中で、司馬[]太郎も「寝物語の里」として書いていることですが、ここでは、岩波書店「新日本古典文学大系」第98巻に収録されている、貝原グー軒の「東路記」に眼を通すこととします(ルビ省略)。

 今須と柏原の間に、長久寺と云小里あり。是、美濃と近江のさかひ也。車返しとも云。両国より家を近く作りならべ、其間に小溝を一つへだつ。国をへだてゝ寝物語をすると云。此故に此所を、「ね物語」ともいふ。

 物好きな私は、そこを訪れましたが、これといって見るべきものはありませんでしたものの、ほのぼのとした雰囲気を味わうことができる所でした。ここを過ぎれば柏原宿はすぐ先で、そこに滋賀県で最初に訪れる塔があります。

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2007年11月20日

南宮大社の別当寺であった真禅院の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での岐阜県の旅も、今日で終わりです。昨日は赤坂宿まで中山道を辿りましたが、次の西の宿場は垂井(たるい)宿で、現在の垂井町です。「垂井宿の中ほどに十字路があり、左側に石の大鳥居がある。南宮神社の鳥居である」(児玉幸多著「中山道をあるく」)。この神社は美濃国の一の宮で、社殿は国の重要文化財に指定されていますが、上記の書には、昭和60年10月に南宮大社と社号を改めたとあります。ここまで来たならば、南宮大社に参拝しなければなりませんが、私の場合は、どうしても先に脚が塔に向かってしまいます。南宮大社の参拝は後回しにして、大社の角で右折し、大社の横手の緩い坂道を10分ほど登りますと、かつては南宮大社の別当寺であったという真禅院があり、ここに三重塔があります。数十段の石段を登りますと、正面に本堂(本地堂、国重文)があり、その右手奥に三重塔(国重文)が建っています。寺発行のリーフレットによれば、創建は天平11年(739)といいますが、文亀元年(1511)4月の火災で灰燼に帰し、永正8年(1511)に再建されました。しかしながら、再建された建物も、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で烏有に帰したといいます。その関ヶ原がある関ヶ原町は、垂井町の西隣りですから、当然ながら戦火を被ったのです。現在の建物は、明治初年の神仏習合の廃止により現在地に移されたものではありますが、寛永19年(1642)に建てられたものです。
 私が真禅院を最初に訪れたのは昭和61年の秋で、紅葉が見事でしたが、三重塔も化粧直しがなされて間もないときで、紅葉に負けじとばかり建っていました。再訪したのは、平成9年8月20日ですが、新緑とは言えませんものの、緑の樹木に囲まれて朱塗りの三重塔が、相変わらず美しく建っていました。
 真禅院を後にした私は、後回しにしていた南宮大社に参拝、大社の近くにある、塔心礎も遺る宮代(みやしろ)廃寺跡を訪れたのですが、塔心礎は摩耗が激しいものでしたので、詳しいご紹介は省略します。

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 ところで、私はペットを飼っていませんが、ワンちゃんがいるお宅では、旅行に出かける場合、いろいろなご苦労があることでしょう。そんな場合、こちら ↓ は如何でしょうか。

ペット 旅行
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2007年11月19日

中山道沿いにある塔を訪ねる

 塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での旅で、静岡県、愛知県の塔を訪ねたときには、五重塔もありましたが、中山道沿いには五重塔であったと想われる塔の心礎はありましたものの、現存する五重塔はありません。かつての中山道は、岐阜市内を通っていて、今は国道21号線となっていますが、かつての加納(かのう)宿は、現在の岐阜市の中心部の南、JR岐阜駅の南になります。加納宿から西へ向かった次の宿場が神戸(ごうど)宿で、現在の神戸町です。鉄道の駅で言えば、近鉄養老線の広神戸(ひろこうど)駅から、徒歩20分ほどの所に日吉(ひよし)神社があり、ここに三重塔(国重文)があります。平成6年1月16日の日本経済新聞朝刊には、「どんど焼が飛び火、重文の塔の屋根焼く、岐阜の神社」との見出しがあり、言うまでもなく直ちに内容に眼を通しましたが、檜皮葺の屋根の一部が焼けた程度で、ほっと胸を撫で下ろしました。その塔が、日吉神社の三重塔であることは、言うまでもないことでしょう。
 私は、この神社を三度訪れていますが、最初は昭和61年11月10日、二度目は平成9年8月17日、三度目は平成10年8月13日でした。この頃は、まだまだ訪れなければならない塔が他にも多くあったにも拘わらず再々訪したのは、過去に訪れた時に撮った三重塔の写真が、いずれも拙著に掲載できる代物ではなかったからです。ちなみに、塔の写真撮影という点からは、午後に限られるようです。その三重塔は、三層目に勾欄がないため、その部分だけ何となく貧相な感じでバランスも悪いのですが、その点を除けば、室町時代の塔の特徴をよく表した美しい塔です。同じ時代で、しかも檜皮葺ですので、一昨日訪れた新長谷寺の三重塔に似た感じです。
 さて、中山道の神戸宿の二つ先の宿場は赤坂宿ですが、今は大垣市内になっています。その大垣市の青野町には、美濃国分寺跡(国史跡)があります。現在は史跡公園として整備され、塔跡も遺っておりますが、ここには七重塔が建てられていたようです。

☆       ☆       ☆

 ところで、マイカーでの旅の場合はトランクに詰め込んでくればいいのですが、そうでない場合、みやげものを持って帰るのは大変ですよね。みやげものを探すのも旅の楽しみの一つ、という方もいらっしゃるでしょうが、つい買いそこねたものがあったりした場合、おみやげの宅配など便利だとは思いませんか。そんなときは、こちら ↓ では如何でしょう。


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2007年11月18日

紅葉の真っ盛りの中で拝した三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での岐阜県の旅も、後半に入ります。今日の第一の目的地は、旧谷汲(たにぐみ)村、現在の揖斐川(いびがわ)町谷汲にある横蔵寺(よこくらじ)ですが、その前に一つ立ち寄る所があります。
 岐阜市の中心部から国道157号線を西へ向かいますと、目的の円鏡寺(えんきょうじ)の大きな案内標識が随所にありますので、迷うことなく辿り着けます。北方(きたがた)町にある円鏡寺に、平成元年6月に三重塔が建てられました。鉄筋コンクリート造ですが、冷たい感じはせず、木造塔と見間違うほどで、形も美しい塔です。境内は庶民信仰の寺らしく、やや俗っぽさを感じますが整備されており、特に池を手前にした本堂と三重塔の眺めは、一幅の絵と言っても良いでしょう。
 さて、横蔵寺へ向かう場合、まず、西国三十三観音霊場の満願の寺、谷汲山華厳寺を目指すと良いでしょう。横蔵寺は華厳寺の西北約9キロの深い山あいにありますが、初めて訪れたのは昭和61年11月10日で、境内は紅葉の真っ盛りでした。横蔵寺は、京都大原の三千院を想い起こさせる山城のような寺で、黄や朱に彩られた紅葉の錦の中の参道を進みますと、江戸時代初期の豪壮な山門(仁王門、県文)があります。門をくぐりますと、白壁に真っ赤な紅葉が映える土塀があり、そこより一段高い所に、錦の衣装につつまれて三重塔が経っていました。ただ、周囲の空地は狭く、樹木も繁っていますので、肉眼での観賞には支障ありませんが、写真撮影という点では、その全容をスッキリとした状態で撮ることはできません。内容までご紹介するわけにはいきませんが、白州正子著「十一面観音巡礼」に、明日訪れる日吉神社との関係が記されていますので、興味のある方は、お読みになると良いでしょう。
 その日吉神社へ向かうには池田町を通過しなければなりませんが、西美濃三十三番霊場の第10番の札所である平等寺(最寄り駅は近鉄養老線の揖斐駅または美濃本郷駅)に、平成9年8月、横蔵寺を再訪した時に立ち寄りました。この寺には、建立年代など不明ですが、さほど古いものとは思われない小さな二重塔があります。

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 11月13日にアンケートサイトをご紹介しましたが、もう一つ、こちら ↓ も如何でしょう。

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2007年11月17日

岐阜と言えば、あなたは何を想い浮かべられますか

 岐阜と言えば、カラオケ好きな人は、美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」を、まず想い浮かべられるかもしれませんね。私もカラオケは好きで、たまに、この歌も唄います。今でも(多分)路面電車が走っている懐かしい町ですが、歴史好きな人は、斎藤道三や織田信長を想い浮かべられることでしょう。ちょっと急ぎ足になりますが、今日は、その岐阜市にある幾つかの塔などをご紹介したいと思います。
 まず、信長ゆかりの金華山の麓の岐阜公園内にある三重塔ですが、金華山へ昇るロープウェイ駅の左手上に建っています。大正6年、当時の岐阜市長が、大正天皇の御大典の記念に建立したものといわれます。駅の裏手にある石段を数段登った所にあるのですが、私が訪れた頃(平成9年8月16日)には、周囲の樹木が繁っていて、塔姿の全容を見ることはできませんでした。そこで出会った人に、塔姿を最もよく眺められるのは岐阜市歴史博物館の2階のロビーだと教えられて、そこへ向かったのですが、確かに良く見えました。しかし、写真に撮るには少し遠すぎて、かなりの望遠レンズがないと駄目な上、それでも塔の初層は、樹木で隠されてしまいます。
 ところで、博物館の見物は当初からの計画でしたが、というのは、そこには、白鳳期の厚見寺(あつみじ)の五重塔の推定復元模型があると聞いていたからでした。この厚見寺の塔心礎(県史跡)が、岐阜市の中心部にある瑞龍寺(ずいりゅうじ)の総門を入った左手に置かれていますが、博物館を見学した後に訪れました。
 次いで私は、国道256号線で北へ向かい、金華山を右手に眺めつつ長良川を渡り、渡った先で右折し、長良雄総(おぶさ)という所にある護国之寺(ごこくしじ)へ向かいました。この寺には、貞享3年(1686)造立という三重小塔があります。不躾にも、何の前触れ(事前申込)もなしに訪れたのでしたが、快く拝観させていただきました。今にして思えば、何と失礼なことをしたかと悔やまれます。もし、訪れられる場合は、是非、前もっての申込をしていただきたいと思います。そして、この寺の境内から、50mほど登った奥の院に塔心礎が遺されていますが、その心礎は原位置とは思われませんものの、それが置かれている所からは、前方に金華山、眼下に長良川の流れを眺めることができる、絶景の地でした。

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 またまたグルメですが、こちら ↓ で、岐阜の旨いもの探しができるかもしれません。情報量が多いので、ちょっと重たいサイトですが。



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2007年11月16日

檜皮葺の屋根の美しい新長谷寺の三重塔

 昔の美濃国で最初に訪れるのは、刃物で有名な関市にある新長谷寺(しんちょうこくじ)です。美濃の法隆寺とも称され、地元の人には吉田(きった)観音の名で親しまれています。と言うより、この寺への道を近くまで行って尋ねる場合は、吉田観音と言わねばなりません。新長谷寺と言って尋ねても、首を傾げられるでしょう。
 仁王門(市文)から境内に入りますと、まず左手に護摩堂と客殿、その奥に手前から釈迦堂、阿弥陀堂、大師堂、右手には鐘楼、三重塔、薬師堂などが建ち並び、正面の奥まったところに本堂、その背後に鎮守堂といった伽藍配置で、美濃の法隆寺と称されるのも、むべなるかなといった、たたずまいです。これらの建物の総てが檜皮葺であることが、見る者をして安らかな気分にさせてくれます。流行りの言葉で言えば、癒しの寺とでも言えましょう。そして、上に列挙した建物群のうち、鐘楼と薬師堂を除く8棟の建物が、国の重要文化財に指定されています。
 境内は、そこそこの広さがあり、三重塔を拝したり写真を撮ったりするのに苦労せず、室町時代の特徴を表した軒反りの強い塔ですが、檜皮葺であるからでしょう、それを余り感じさせず、私の大好きな塔の一つで、この三重塔の写真を、「塔に魅せられて(中部日本篇)」のカバー写真としたほどです。そのように、近くで拝しても美しい塔ですが、もう一つ美しく眺められる場所があります。それは、客殿の拝観を申し出て、そこの庭から望んだときに、塔を借景とした庭の眺めです。この寺を訪れたときは、このスポットを、是非ともお忘れなきように。
 さて、もし塔の心礎に興味を覚えられた人がおられたならば、新長谷寺を訪れたときは、弥勒寺跡をも訪れことを、お奨めします。ただ、近くまで行って現地の人に尋ねても、知らない人の方が多いと思いますので、ちょっと所在地について触れておきます。私の手元にある古い道路地図には、名鉄美濃町線というのが弥勒寺跡の近くを通っているのですが、どうも、それは廃線になってしまったようで、インターネットで調べたところ、見当たりません。したがって、マイカーでの場合はともかく、そうでない場合は、吉田観音からタクシーということになりそうです。インターネットで弥勒寺跡とインプットして検索されれば判ることですが、さほどの料金ではないと思います。
 この弥勒寺は円空の終焉の地とも言われている寺で、これで円空ゆかりの場所を三箇所廻ったことになります。今は近くに、円空館という施設もあるようです。そして、弥勒寺跡には、やや風化していますが、塔の心礎も遺っており、五重塔もあった有数の法起寺式伽藍配置の寺であったと推定されているようです。

☆       ☆       ☆

 関市の中央部を長良川が流れていますが、長良川といえばですね。しかし、もう季節は過ぎましたが、こんな ↓ ところを「お気に入り」に入れておけば、その季節には、フィットするかもしれません。


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2007年11月15日

飛騨国分寺の塔心礎も遺る高山の国分寺

 春秋の高山祭りの時ならずとも、高山を訪れたことがある人は多いのではないでしょうか。しかし、一般(というのも変ですが)の人は、古い町並みとして国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている上町や下町の三筋の町の散策、そして高山に宿を求めた人は、朝市などを見物するのが主たる目的で、私がこれからご紹介する国分寺に脚を運ばれた人は少ない、というより、殆どいないのではないでしょうか。それは無理のないことで、高山市のHPでさえ、この寺のことは、私の検索の仕方が悪いからかもしれませんが、何も記されていません。
 上記の高山の有名な観光スポットは、ちょっとJR高山駅から離れていますが、国分寺は駅から徒歩5分ほどの所にあります。山川出版社刊の「岐阜県の歴史散歩」には、「境内東北隅の巨石は、かつての飛騨国分寺跡(国史跡)であることから考えれば、現国分寺境内は天平時代の国分寺跡の一角であることはまちがいない」とあります。その巨石は、かつて建てられていた塔の心礎であることは言うまでもありません。この塔心礎の前に、現在、三重塔が建っています。その建立年は、文政3年(1820)とも4年ともいわれますが、いずれにせよ、それほどの古塔ではなく、国ではなく県の指定文化財に指定されています。この寺へは、昨日書いた秋祭り見物のついで(というのも変ですが、その時の旅は、正直言って祭り見物がメインでした)に訪れたのが最初で、その後、平成8年8月8日、8が三つ揃った日に再訪しました。それから、10年余り経った今日、どう変化しているか判りませんが、私が訪れた時は、垂木の木口が白く塗られており、それが際だって見えたせいか、見た眼には、余り姿がよくありませんでした。それよりも私が感動したのは、巨石の心礎です。もともとは七重塔であったようですが、途中で五重塔に建て替えられたという説もあります。どちらにせよ、狭い境内に経つ現存する塔よりも、立派な塔が建てられていたことは間違いないでしょう。
 高山の北には、今では飛騨市の一部となってしまった古い町並みの残る古川町もあり、私も二度訪れていますが、このブログでは、美濃国へ向かわねばなりません。

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2007年11月14日

飛騨高山へのアプローチ 

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での旅も、岐阜県となります。岐阜県は、昔の国名で言えば、飛騨国と美濃国になりますが、飛騨国は山国ですので、塔は当然ながら美濃国に多いことになります。もっとも、いわゆる飛騨の匠が関わった塔は、他の地域に幾つかありますが。
 ところで皆さんは、飛騨という地名から想い浮かべられることは、どんなことでしょうか。おそらく今は、世界遺産になった白川郷ではないでしょうか。世界遺産に登録される以前のことですが、白川郷には私も二度訪れ、一度は合掌造りの民宿に泊まり、見るべき所は総て見て廻りました。また、アルピニストは、いろいろな名山を想い浮かべられることでしょう。しかし、最もポピュラーなのは、全国に幾つかある小京都といわれる町の一つ、高山ではないでしょうか。高山へのアプローチは幾つかありますが、お奨めは、やはり長野県側から乗鞍越えで行くコースです。途中からちょっと道を逸れれば上高地にも行けますし、平湯温泉や私も宿を求めたことがある新平湯温泉など、温泉にも恵まれたコースです。
 私が初めて高山を訪れた時の主たる目的は、春秋に行われる高山の祭りの秋祭り(10月10日)の見物でした。この時節に高山を訪れる場合、上記のコースを辿りますと、その年にもよりましょうが、素晴らしい紅葉を眼にすることができます。
 ところで、ここでご紹介しておきたいのは、旧丹生川(にゅうがわ)村、現在の高山市丹生川町の下保(しもぼ)という集落にあります千光寺(せんこうじ)です。この寺には、「50余躯の円空作仏像(県文化)が保存され、特に古代の飛騨建国伝説に登場する」(山川出版社刊「岐阜県の歴史散歩」)という両面宿儺(すくな)像は、円空仏ファンには欠かせないものではないでしょうか。同一に扱うのはどうかと思いますが、秋祭りと共に、旅の思い出として残っている所です。

☆       ☆       ☆

 このブログは、塔めぐりの旅であると共に、グルメの旅でもありますが、新平湯温泉の宿でであったか、高山市内の宿でであったか、飛騨牛を、朴葉みそで食べた記憶があります。しかし、何しろ20年以上も前のことになりますので、記憶は薄れてしまっていますが。
 ともあれ、香ばしい朴葉みそと、柔らかな飛騨牛の肉の食感は、忘れられません。そんなグルメを、こちら ↓ で探そうと思っているのですが。


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2007年11月13日

愛知県で最後に訪れる明蔵寺三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での愛知県の旅も、いよいよ最終日となります。
 甚目寺を最初に訪れた時のことですが、私はタクシーで、甚目寺から稲沢市にある明蔵寺(みょうぞうじ)へ向かいました。というのは、この時点で、この寺について記した書は1冊しかなく、それにも、この寺の所在地については、「稲沢市浅井町、国鉄・稲沢駅の西方二粁」とあるのみで、稲沢駅まで行っても、そこからバス便があるのかどうかさえ、確かめようがなかったからです。その書には、「名古屋を出て間もなく、新幹線の窓外に、まだ見ぬ三重塔があることを発見した」ともありましたので、道路地図で見当をつけたところ、甚目寺からの距離は、さほどあるとも思われませんでしたので、思い切ってタクシーを奮発したのでした。しかし、タクシーの運転手さんも、この寺のことは知らず、無線で営業所に連絡をとったりしてくれたのですが、その結果、タクシー代は思いの外の金額となりました。この寺は、いわゆる観光寺院ではありませんので、HPなどありませんが、Yahooの地図情報で検索し、サイト内で明蔵寺と入力して検索しますと、地図上に明蔵寺の名があり、詳しい周辺地図を見ることができます。実際に寺を訪れた後、新幹線で関西方面へ向かった際に、名古屋駅を出た時から左窓の光景に目を凝らしていましたら、あっと言う間でしたが、なるほど三重塔が見えました。その後も関西へ行く機会は度々ありましたが、最後に確認したのは何時だったか明確ではありませんものの、明蔵寺の周辺は、それほど変わっているとは思われませんでした。その前提で言いますと、寺の周辺は田園地帯でして、雰囲気としては、斑鳩の塔を訪ねるのに、どこか似ていました。そんな所ですので、そう言っては何ですが、寺を辞すに当たり、こんな所で商売が成り立つのだろうかと、余計な心配までしたくなる寺の近くの喫茶店に入り、タクシーを呼んで貰った時に尋ねましたところ、最寄りの駅は名鉄名古屋本線の国府宮(こうのみや)駅で、そこからであれば、甚目寺からのタクシー代の半分以下で済むだろうとのことでした。そして、運転手が寺の所在地を知らない時は、稲沢市営グランドの近くまで、と言えば、判るだろうとのことでもありました。帰路は国府宮駅までタクシーで行きましたが、そのとおりで、また、この駅の近くに、駅名にもなっている国府宮(尾張大国魂神社)もあり、国の重要文化財に指定されている社殿を拝観することもできます。
 さて、三重塔以外のことに字数を費やしましたが、明蔵寺の三重塔は昭和51年4月18日に落慶法要が執行された新しいものでありますものの、すっきりとした美しいものす。そして、私は塔そのものが好きであることは言うまでもありませんが、塔のある風景に魅せられてもおり、その点からすれば、お奨めの塔と言えましょう。

☆       ☆       ☆

 突然ですが、私も60歳半ばを過ぎ(実際は66歳、誕生月は5月)ましたので、あと数年でニックネームを変えなければなりません(70歳を過ぎても、マイブログを続けられる間は変えるつもりはありませんが)。現在、ブログを書いておられる方の中で最高齢者が何歳であうか知りませんが、少なくとも、インターネットができなければ、とう時代は、そう先のことではないでしょう。私のマイブログを読んでいただいている方、すなわちインターネットをおやりの方は、ご自分の意見を大いに世の中に発信していただきたいと思いますが、その発信の方法の一つは、アンケートに回答することかと思います。そのようなサイトはかなり多いかと思いますが、 ↓ こんなサイトは如何でしょうか。

12/1より一時休止とのことですので、クリックは見合わせてください。

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2007年11月12日

飛鳥、白鳳期のものといわれる塔の心礎も遺る

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での愛知県の旅も、終わりに近づいてきました。
 鳳凰山(ほうおうざん)甚目寺(じもくじ)が、今日の第一の目的地ですが、この寺を、私が初めて訪れたのは、昭和61年2月2日のことでした。その時は、新名古屋駅から名鉄津島線を利用しました。それから8年余り後の平成6年8月13日に再訪しましたが、この時は車での訪れでした。そして3度目に訪れたのは平成9年の6月19日のことですが、この頃、かなりの頻度で金沢市に出張していた私は、出張用務を終えた翌日、家路につくに当たり、金沢から名古屋まで特急電車で向かって、甚目寺を訪れたのでした。今は、そおような機会もなく、やや寂しい思いです。
 その名も甚目寺となっている駅から細い道を5分ほど行きますと、甚目寺の東門(とうもん、国重文)に突き当たりますが、やはり正面から訪れたいもので、その場合は、左に折れて僅か行き、クランク状に右に折れますと、国の重要文化財に指定されている南大門(仁王門)の雄大な姿が眼に入ってきます。その南大門をくぐった左手奥に、これまた国の重要文化財に指定されている、どっしりとした感じで、姿も美しい三重塔が建っています。
 この寺の起源は古く、1264(文永元)年の「甚目寺縁起」にとれば、奈良時代に遡るようで、その証拠として、飛鳥または白鳳期のものといわれる塔の心礎が遺っています。塔の心礎などに興味のない方にとっては、単なる石としか思えないでしょうが、その心礎は、現在、境内にある鐘楼の組石の西南隅に組み込まれており、中央に円形の穴がありますので、それと判ります。
 ところで、書き漏らすところでしたが、昨日訪れた荒子観音に近い浄福寺(じょうふくじ、と読むのでしょう)という寺に三重塔が建てられました。この三重塔は平成16年に建てられたものであり、私は未だ訪れる機会を得ておりませんので、その詳細は不明ですが、中川区役所(高畑駅の北東)の近くのようですので、市役所に行けば所在地が判るでしょう。
 また、現在は愛西(あいさい)市佐屋町となっている開運寺という寺にも、塔風の建物があり実見していますが、私は塔と認めておりませんので、詳しいことは省きます。

☆       ☆       ☆

 私は鰻が好物なので、またウナギですが、「うまい日本一」という、こちら ↓ の愛知県三河産の鰻など、如何でしょうか。

鰻
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2007年11月11日

日タイ友好を象徴する日泰寺の五重塔

 と、タイトルを書きましたが、タイとは言うまでもなくタイ国です。この寺は、いろいろな経緯のもとに明治37年に誕生した寺で、山号を覚王山(かくおうざん)と言いますが、覚王とは釈尊、すなわち釈紳士服を表しています。その経緯については、ご紹介したいところながら、余りにも長くなりますので省略します。
 昨日訪れた興正寺から公共交通機関を利用して日泰寺に行く場合は、市営の地下鉄の鶴舞線で名古屋駅の方へ三駅戻り、御器所(ごきそ)駅で桜通線に乗り換え、二つ目の今池(いまいけ)駅で東山線に乗り換えて藤ヶ丘方面へ向かって二つ目の覚王山駅で下車しますと、歩いて10分ほどの所にあります。車の場合は十数分ですが、それは、以上の地下鉄の駅を目安に、ご自分でお調べいただきたいと思います。
 この寺には、鉄筋コンクリート造ではありますが、形の上では興正寺のものよりも美しい五重塔があります。特に少し離れた位置から見た場合、鉄筋コンクリート造であることを忘れさせてくれるほどです。そして、五重塔の建つ境内は広々としていて、何の障害物もなく、正面、左右から拝することができます。省略した寺建立の経緯も興味深いものですので、訪れをお奨めしたい寺です。
 さて、覚王山駅まで戻り、東山線の西の終点、高畑(たかばた)駅まで行き、「南東出口から350mほど南に行った交差点を左折し、さらに東へ約400m行くと荒子観音の名で知られる観音寺(天台宗)の山門前」(山川出版社刊「愛知県の歴史散歩(上)」)に出ますが、この寺には国の重要文化財に指定されている多宝塔があります。というよりも、この寺は、200体以上もの円空仏があることにより知られれています。毎月第2土曜日には一般公開されているとのことですので、円空仏ファンの方には、お奨めの寺ではないでしょうか。私は、この寺を一度しか訪れておらず、その日に当たっていませんでしたので拝観していないのですが。

☆       ☆       ☆

 昨日は、ちょっと別な方へ行ってしまいましたが、こちら ↓ のサイトで「きしめん」を検索してみたところ、名古屋コーチンの味噌鍋とのセット商品もありました。



posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 16:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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