2007年12月31日

もう数時間で除夜の鐘の音が聞こえてきますね

 昨日やった大掃除で、し残した部分をやりましたら、歳のせいでしょう、疲れました。そこで今日は、これまでバナーを貼り、自分でも注文して美味しいと思ったお店のバナーをアンコールして、五重塔、三重塔をめぐる旅日記も、今年の最後とさせていただきます。

 皆様、良いお年を、お迎えください。

 来年もよろしく、お願いいたします。

☆       ☆       ☆















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2007年12月30日

もう明日は大晦日ですね

 朝昼兼用の食事を終えて、これから大掃除です。ゆっくりブログを書く時間がなさそうですので、五重塔、三重塔をめぐる旅日記は、お休みさせていただきます。

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 思えば、悪戦苦闘の末に、ブログを立ち上げたのが10月3日です。(10月2日の記事がありますが、どうしてなのか判りませんものの、これは11月2日のものです)そして、バナーを貼れるようになったのは、10月10日です。10が並ぶこの日が、私の本当のスタートかもしれません。文章ま、「である」調から「です・ます」調に途中から変わりました。そんな状態であり、まだまだ初心者ですが、よろしく、ご指導、ご鞭撻のほど、お長い申しあげます。
 そこで、思い出のバナーを貼ることとします。


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2007年12月29日

平成の名塔と言って良い三重塔

 五重塔にせよ三重塔にせよ、残念ながら大阪府には、それほど古い塔は残っていません。今日訪れる塔も、平成になって建てられたものです。
 天王寺駅からJR阪和線で二つ目、南田辺駅で下車、進行方向の左の線路の脇の道を戻るように行きますと踏切があります。そこで右折して少し行きますと、左手にキラキラと輝く三重塔の相輪が見えてきます。そこへと辿る道は、大阪市の下町、というか新興住宅街というか、そんな感じの町並みですが、境内に入りますと、大阪府の天然記念物に指定されているものを含め楠の木が繁っておりまして、近隣の高い建物を視界から消してくれます。
 ここ法楽寺(ほうらくじ)は、治承2年(1178)に、平清盛の嫡子の重盛が草創したと伝えられているといいます。そして、この寺の三重塔は、平成8年11月26日に落慶法要が執行されたということですので、11余年前に建てられた新しいものですが、タイトルにも書きましたとおり、平成の名塔と言える美しく、かつ立派な三重塔です。ただ、それほど広くはない境内の本堂の前に、23.5メートルという三重塔としては大型な塔が建てられていますので、写真撮影という点ではワイドなレンズが必要でしょう。
 ところで、この寺へのアプローチですが、地下鉄谷町線の田辺駅からも10分足らずです。

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 今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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2007年12月28日

四天王寺から勝鬘院へ

 昨日、四天王寺の五重塔の最上層まで昇ったことがあると書きました。しかし、鉄筋コンクリート造になったからということではなくて、少なくとも私が知る限り、6代目の塔に昇った外国からの客人が4人います。その4人を代表して、「シーボルト事件」で知られるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにご登場いただくこととします。
 彼が書いた記録が、平凡社東洋文庫から「江戸参府紀行」として刊行されていますが、それには次のような一節があります。

 われわれはそれから天王寺にゆく。最古の寺院のひとつで非常に古い時代の神社のような建築様式である。この寺には全部木で造った巨大な塔が建っている。ドクトル・ビュルガーと私は七七段の階段が通じている塔の五階までのぼった。この建築物は、中央に立っている船のマストのような非常に太い円柱〔心柱という〕によってしっかりと支えられているようである。私は塔全体の高さを一二〇フィートと見積もった。塔の上はすばらしく遠見がきき、平坦な土地を見渡すとちょうど人間がうごめいているのが見えた。(括弧内訳注。ルビ省略)

 ここに記されていることについては、いろいろ注釈が必要かと思うのですが、それはさて措き、五重塔の拝観を終え、石舞台、六時堂(ろくじどう)、そして元三(げんさん)大師堂(いずれも国重文)などを拝観しつつ進みますと、中ノ門に至ります。門を出ますと広い通りがありますが、そこから地下鉄谷町線の四天王寺前・夕陽ケ丘駅までは5分ほどです。近くには、「花も嵐も踏み越えて〜」の主題歌で有名な映画「愛染かつら」ゆかりの寺、勝鬘院(しょうまんいん)があります。ここには見応えのある多宝塔(国重文)がありますので、四天王寺を訪れた時は、立ち寄られることをお奨めしたい寺です。

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 ところで、アルコール類が好きな人は、ビタミンCの摂取が必要とか。そして、パソコンを頻繁に使う人にとっても、ということで、今日は、こちらを ↓ ご紹介します。


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2007年12月27日

聖徳太子の創建と伝えられる四天王寺の五重塔

 四天王寺については、その所在地などについて書く必要はないでしょう。我が師である中西亨先生の「続・塔の旅」には、この寺にある五重塔の創建について、次のように記されています。

 ……日本最古の塔はまず伝説的な大野丘の塔(五八一)、ついで遺址が明らかになった飛鳥寺の塔(五九三)だが、四天王寺塔はおそらくそれにつぐ古さで、その創建の年ははっきりしないが、推古天皇の元年から工事をはじめたようだから六〇五年頃、即ち七世紀のごく早い頃に、聖徳太子発願の四天王寺伽藍の一棟として完成をみたものと思われる。

 そして同書には、創建当初の塔は平安時代初期の承和3年(836)に雷火で焼失し、その後、再建と焼失を繰り返し、6代目として文化9年(1812)に建てられた五重塔も、昭和9年(1934)9月1日に室戸台風で倒壊したとあります。この6代目の塔を眼にしたと思われる小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーン(ヘルン)は、その著「日本の心」の中で、「塔は今では荒廃して、五層の屋根の四隅に釣り下げられていた青銅の風鐸はほとんど落ちてしまっている」(ルビ省略)と記しています。そんな状態であったからでしょう、中西先生も「塔が台風で倒壊というのは珍しい」と記しておられるとおりの原因で亡失したのです。そして7代目の五重塔は、昭和20年に空襲により焼失、8代目となる今の五重塔は、それまでの木造と違い鉄筋コンクリート造となりました。それについて中西先生は、「でき上ってみるとなんだか荒けずりの感じがしてならない。特に内部を近代的にしたのはいかがであろうか。いま塔内に入ってみて目にする壁画のなんと異様なことか」と記されています。私も一度だけ塔内を拝観のため五層目まで昇りましたが、総高39メートルという高さの五層までの昇降は大変なものでした。どこかの塔とは違い、エレベーターが設置されていないことが、せめてもの救いかもしれませんが。

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 ところで、昨日は焼酎をご紹介しましたが、貴方は、お湯割り派ですか、それとも水割り派ですか。私はオンザロック派ですが、割って呑む場合、暖かくても冷たくても、おいしい水でないと、焼酎も旨くないですよね。おいしい水は、こちらで ↓ どうぞ



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2007年12月26日

訪れる価値を見出せない三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる大阪の旅で訪れる最初の塔は、圓妙寺(えんみょうじ)という寺にある三重塔(昭和56年建立、鉄筋コンクリート造)です。しかし、この三重塔は、私のように、ともあれ自分の眼で確かめたうえでということでなければ、わざわざ訪れるに値しないものです。しかし、拙著では省くわけにもいかず、採り挙げたのでした。ただ、別の角度からみると、この圓妙寺のある周辺は、いわば寺町といった所で、私とは違った興味をお持ちの方もおられるかと思いますので、この寺へのアプローチなどについて、ちょっと触れることとします。
 この寺の西に、仁徳天皇を祀ってはいますが、天皇の高津宮(たかつのみや)とは関係がないという高津(こうづ)神社があり、そこであれば駅員さんにでも尋ねられれば教えてくれるでしょう。その神社に行き着き参拝を済ませられたら、本殿に向かって右の方向へ抜ける階段を上りますと通りに出ますが、その道の斜め向かいに、本経寺(ほんきょうじ)の山門と豊竹若太夫墓所と刻された石柱があります。圓妙寺は、その本経寺と道を挟んだ左手前にありますので、そちらに眼を向ければ、三重塔の相輪などが見えるはずです。そして、この寺の周辺には、井原西鶴や近松門左衛門の墓などもあります。
 最後は余談ですが、東京の新宿に相当する「みなみ(南)、すなわち南波」はすぐ近くですので、法善寺横町の水かけ地蔵などにも詣で、大阪の夜を楽しまれるのも、いいのではないでしょうか。

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 クリスマスも過ぎ、平成19年も残すところ僅かとなりました。ところで、お正月にはアルコール類を呑まれる方が多いのではないかと思いますが、貴方は何党ですか。私は日本酒党だったのですが、最近は多生とも健康のことを考え、焼酎に切り替えつつあります。焼酎ならば、こちらで ↓ 如何でしょう。


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2007年12月25日

大阪の塔めぐり〜プロローグ〜

 塔めぐりの旅も、大阪府へ、ということになります。藤本篤著「大阪府の歴史」に眼を通しますと、「大阪府の成り立ち」について、大阪府の地域も、大和朝廷の成立後その支配下に入って、凡河内(おおしこうち)国と呼ばれたが、やがて七世紀の後半には、そこから摂津国が分離し、八世紀のはじめには和泉国が設置されて、摂津・河内・和泉の3ヵ国になり、摂河泉(せっかせん)と呼ばれている、といったことが記されています。
 そして、岸井良衞著「山陽道」には、次のような一節があります。

 ……山陽道の振り出しを京の三条にすることに変りはないが、ここに二つの道がある。それは京から淀川を下って大坂へ出る道と、伏見から淀を通って山崎村の陸地を行く道で、また淀川の道にしても船ではなく陸地を歩くという道もある。したがって、くわしくは三通りあることになる。

 そして、「淀川を大坂へ下る道」という小見出しが付けられた文章の中に、「高槻城が見える。芥川には古城址がある」とあります。私の大阪(昔は大坂と書きました)の塔めぐりの旅は、この辺りから始まります。平成11年8月10日、常磐・首都高・東名・名神と自動車道を駆しり続け、茨木インターで一般道へ出て、まず最初に目指したのは、高槻市の中心部に近い芥川(あくたがわ)廃寺でした。廃寺跡には「素盞鳴尊(すさのおのみこと)神社」がありますが、その神社の手水鉢に利用されているのが、塔の心礎です。次いで私は、百済寺跡へ行きました。しかし、そこはもう昔の河内国で、摂河泉の順序で書いていきたいと思いますので、後に書くこととして、翌日に訪れた東淀川区にある法華寺(ほっけじ)について、ご紹介することとします。現地には「摂津国分尼寺伝承地」の石柱が立てられており、本堂の前に、塔心礎と伝えられている礎石があります。恐らく、塔心礎でありましょう。
 その後、西国三十三観音霊場の第22番札所の総持寺(そうじじ)を訪れましたが、「総持寺縁起」の絵巻には、五重塔や三重塔も描かれており、これが本当の姿を描いたものであれば、2基の塔を擁する荘厳な寺であったことになります。

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 ところで、大阪に本拠を持ち、高級飲茶専門店として、点心を扱う、こんな ↓ 店もあるんですね。


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2007年12月24日

紀州路の塔めぐり旅〜エピローグ(2)〜

 五重塔、三重塔をめぐる紀州路の旅も、いよいよ最後となります。
 大森貝塚の発見者で知られるE・S・モースが著した「日本のその日その日」には、次のような一節があります。

 和歌山への旅は興味深々たるものであった。八月三十一日、我々は和歌山を立って奈良へ向かった。最も美しい谷間を、二日にわたって人力車で行くのであった。我々の日本の旅で、ここ程魅力に富んだいい景色の多い所は他に無かった。

 これから先の旅は、モースが辿った道をなぞるような恰好になりますが、詳しいことは省略し、私が訪れた所を列挙することにします。
上野(うえの)廃寺跡(国史跡・和歌山市)――ここには立派な塔心礎がありますが、案内者がいないと判らない所にありますので省きます。
山口(やまぐち)廃寺跡(県史跡・和歌山市)――上野廃寺跡の近くですが、探し当てるのには苦労するかもしれません。
根来寺(ねごろじ)――木造の塔としては、わが国最大最古のものと言われる高野山の 旧大塔形式を伝える根本大塔(国宝・岩出市)は見応えがあり、根来衆と呼ばれ戦国時代に活躍した僧兵集団のことや、鉄砲伝来と根来寺のことなどに思いを馳せながら訪れるのも一興でしょう。
西国分(にしこくぶ)廃寺跡(国史跡・岩出市)――ここに残されている塔心礎ほ、実に美しいものです。
紀伊国分寺跡(国史跡・紀の川市)――塔後は、心礎ほか、総ての礎石が殆ど旧状を保っている、貴重な国分寺跡です。
打田町(うちだちょう)歴史民俗資料館――ここには、紀伊国分寺の想定伽藍模型が展示されています。(なお、打田町歴史民俗資料館としましたが、紀の川市歴史民俗資料館となっているかもしれません。いずれにせよ、紀伊国分寺跡に隣接してあります)
長田観音寺(ながたかんのんじ)――昭和36年に倒壊したという三重塔の再建が計画されましたが、未だに実現したとは聞き及んでいません。
粉河寺(こかわでら)――西国三十三観音霊場第3番の札所です。
神野々(このの)廃寺跡(県史跡・橋本市)――三重塔であったと言われる美しい塔心礎があります。
高野山――ここは何の説明もいらないでしょう。ここで私が拝観した塔は5基あります。すなわち、壇上(だんじょう)伽藍と呼ばれている所にある鉄器コンクリート製の根本大塔、西塔(多宝塔)、東塔(多宝塔)、金剛三昧院(こんごうさんまいいん)の多宝塔(国宝)、金輪塔(多宝塔)ですが、言うまでもなく、金剛三昧院のものが最も美しい建物です。しかし、ここに脚を運ぶ人は少ないようです。

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2007年12月23日

紀州路の塔めぐり旅〜エピローグ(1)〜

 1960年から翌年にかけて「藝術新潮」に連載されたものが元というので60年近くも前のものですが、岡部伊都子著「観光バスの行かない……」の中の「恋の火焔絵巻<道成寺>」には、次のような一節があります。

 ……こんなにたくさんの仏像があるとは思っていなかった。「紀州の博物館」という称もある由。地方には時にこのような豪華な存在があるのであろう。
 困ったのは、ステテコとシャツ姿の団体客がドヤドヤ上ってきたことだった。「観光バスの行かない……」のシリーズなのに、典型的な観光バスのご光来である。

 これとはちょっと違う光景でありましたが、「豪家な存在」の拝観を終え石段を下ってきますと、元気な足取りで私を追い抜いていく「おばさんたち」がいました。団体旅行の一群であったようですが、他のお仲間さんより先に境内に入ったのでしょう、跡から石段を上ってくるお仲間に、「なんもないで、寺があるだけや」と告げている大きな声には驚きました(念のために書きますが、作り話ではありません)。五重塔、三重塔をめぐる紀州路の旅の、実際に塔の建つ寺の最後は、こんな光景で終わりました。
 それはさて措き、道成寺を辞した私は、紀三井寺に向かいました。貝原グー軒は、その著「己巳紀行(南遊紀事)」の中で、次のように記しています。

 ……金剛峯寺と号す。是、西国丗三所観音の第二番也。堂は山のかたはらの高き所にあり。長き石階、五段あり。観音堂、大也。山上より臨めば、和歌山の城、東照宮、天神の社、玉津しま、妹背山、すべて弱浦眼下に見えて、海山のけしきかすみわたり、塩竃の煙たちのぼりて風にたなびき、眼界広ければ、かしここゝ、見所多し。日本三景の内、松嶋はいまだ見ず。安芸の厳嶋、丹後の天橋立も尤美景也といへども、おそらくは此浦の烟景には及ぶべからず。予が遊観せし諸国の佳境多しといへども、かくのごとくなるはいまだ見ず。(ルビ省略)

 すごい絶賛ぶりでありますが、私は境内をゆっくり見て廻ったわけではなく、ひたすら室町時代、文安6年(1449)の建立という多宝塔(国重文)を拝観することが目的でしたので、確かなことは言えませんものの、今では、こんな眺望は得られないのではないでしょうか。

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 それにしても、今年も残すところ10日足らずとなってしまいました。皆さまがたは、もうすっかり年越し、そして新年を迎える準備はお済みのことと思います。しかし、正月もあっという間に過ぎ、おせち料理にも飽きたという時に、寒さを凌ぐためにも。もつ鍋など如何でしょうか。もつ鍋なら、こちらで ↓ どうぞ。25日までに注文すれば、格安のようです。


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2007年12月22日

安珍・清姫の物語で知られる寺に建つ三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる紀州路の旅も、今日が最後となります。もっとも、書きたいことはまだまだあり、明日と明後日も、和歌山県に留まりますが。まず、昨日のブログの誤りを訂正しておかなければなりませんが、三栖廃寺の所在地を上富田町としたのは誤りで、田辺市です。
 さて、紀州路において現実に塔の建つ所としては最後となる道成寺(どうじょうじ)を最初に訪れたのは平成5年4月17日のことで、電車での訪れでした。この寺は、JR紀勢本線の道成寺駅で下車、歩いて5分ほどの所にあります。みやげもの店の並ぶ参道を行きますと、左右に蒲鉾型に土を盛り上げた珍しい土手のある石段がありますが、それを登り詰めた正面に朱色も鮮やかな仁王門(国重文)があります。仁王門をくぐりますと、正面に本堂(国重文)、その右手に目指す三重塔が建っています。
 この寺の歴史などについて、「道成寺参観券」には、次のように記されています。

 道成寺は文武天皇勅願所として、大宝元年(七〇一年)に創立された。紀州路では最古の寺であり、すぐれた仏像が現存し、重要文化財を多数所蔵する南紀第一の宝仏の殿堂である。創立の由来は文武帝の夫人・聖武帝の御母宮子姫(かみなが姫)のめでたくも尊い物語による。また安珍清姫の説話をもとにした芸能は、能楽・歌舞伎をはじめ、あらゆるジャンルで道成寺芸術として重要な地位をしめている。

 引用文中に「かみなが姫」という名が出てきますが、これについて興味を持たれた方は、梅原猛著「海人と天皇」をご覧になってください。その中に、有吉佐和子の「かみながひめ」なども引用されており、興味深いものがあります。
 肝心の三重塔は江戸中期のもので、県の文化財に指定されています。この三重塔は、近くで仰ぎ見る姿も決して悪くありませんが、広い境内の反対側から遠望するのが最も美しいのではないでしょうか。流れるような本堂の屋根の線とは対照的に、すっきりと空に向かって聳え建つ塔の姿は、実に美しいものです。
 塔の拝観を終えたならば、縁起堂・宝仏堂に入ってみましょう。1日に行われる回数は確かめていませんが、縁起堂では、道成寺縁起絵巻の写を展げて絵とき説法が行われておりますし、宝仏堂には幾体かの国重文指定の仏像が安置されており、見応えがあります。

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 今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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2007年12月21日

わざわざ訪れることもない五重塔

 今日ご紹介する五重塔は、タイトルに書いたようなものです。所在地は、有名な白浜温泉の近くですが、そんなわけで詳しいことは省略します。その五重塔があるのは、白浜金閣寺と命名されている戦後に開創された寺です。そして五重塔は、昭和51年10月21日に竣工したものといい、鉄筋コンクリート造の簡略なものです。
 そんなわけで、ここは早々に切り上げ、車ならば僅かな距離の所にある三栖(みす)廃寺(国史跡)へ向かうこととします。そこには、三重塔と推定されている美しい塔心礎が遺されていますが、所在地は、上富田町(かみとんだちょう)です。しかし、近くに住んでいる人も塔後などに興味がないのでしょう、知っている人は少なく、訪ね当てるのに、ちょっと苦労するかもしれません。現地に田辺市教育委員会により立てられた説明板には、次のように記されていました。

 三栖廃寺は奈良時代前期(白鳳時代・七世紀後半)の創建とされ、塔跡の位置などから、法隆寺式伽藍配置で、寺域は方一町(約一〇〇メートル四方)と推定されている。白鳳時代の寺院跡としては近畿地方で最も南であり、古代牟婁郡牟婁郷の中心地における郡寺とも考えられている。
 塔基壇上には、砂岩系の三角形状の自然石を利用した心礎が残っている。この心礎には心柱を受ける凹柱座があり、さらにその中には舎利を納める孔が穿たれているが、ほかに後世に削られたと考えられる痕跡もある。(ルビ省略)

 さて、三栖廃寺を後にした私は、高山寺(こうざんじ)へ向かいました。この寺には、文化13年(1816)建立の多宝塔があり、さほど古いものではありませんが、美しい姿の塔です。そして、この寺の墓地には、粘菌学、民俗学の南方熊楠(みなかたくまぐす)の墓もあります。余談ですが、田辺市の夜を楽しむ場合は、南方熊楠のことを頭に入れていくと、スナックの女性には大モテでしょう。南方熊楠は、スナックの女性にも大人気なのです。

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 さて、田辺市の北隣りは旧南部町、現在のみなべ町ですが、言わずと知れた南高梅の産地です。こちら ↓ では南宝梅という銘柄になっていますが、如何でしょうか。


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2007年12月20日

日本一の名瀑を借景として建つ三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(近畿・岡山篇)」で1番目に訪れる塔は、本宮、新宮とともに熊野三山と呼ばれる那智にあります。その熊野とは、どんな所であったか、ということについては、司馬[]太郎が「街道をゆく(熊野・古座街道)」の中で次のように記しています(原文のルビは括弧で表記しました)。

 熊野というのは大小無数の山塊を寄せかためたようなところで、いかにも隱国(こもりく)という感がふかい。
 しかしながら古代では僻地ではなかったらしく、『古事記』『日本書紀』にしばしば主要舞台として登場する。おそらく古代にあっては独立性の高い政治圏もしくは文化圏であったのかもしれない。

 そして、桜井徳太郎著「祭りと信仰」には、熊野那智大社について、次のように記されています。

 いうまでもなく那智神社の成立は崇厳な滝を神格化した古代の信仰を足がかりとしたものであろう。鎌倉時代にはすでに現在の形を示す壮大な社殿が営まれ、多くの信者の尊崇を受けていた。いっぽう神仏習合化された熊野信仰は、那智山を観音浄土に擬することによって、いっそう信者の心をひきつけて放さなかった。こうして神社の別当たる青岸渡寺は、観音信仰の一つのメッカとみなされ、また明治初年の神仏分離にいたるまで熊野詣でに参集する熊野道舎の宿坊となり祈願所となり、本宮や新宮以上のにぎわいを示した。(ルビ省略)

 さて、目的の三重塔は、上の文章に出ている青岸渡寺(せいがんとじ)にありますが、ここは西国三十三観音霊場の第1番の札所です。引用文ばかりになってしまいますが、この三重塔について、塔に関する我が師、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、次のように記されています。

 ここの塔は記録によると永久五年(一一一七)白河法皇によって塔供養があったとされ、以後多くの曼荼羅にも必ず三重塔が描かれてきた。しかし天正九年(一五八一)兵火により焼失して以後姿を消したようで、江戸時代の伽藍図に描かれているのは想像ではないだろうか。それがこのたび久々に復興され、昭和四十七年(一九七二)十一月落成した。木造風の鉄筋コンクリート製でエレベーターもついたもの。

 これ以上、この塔について書くべきことはありません。ただ、タイトルを「日本一の名瀑を借景として建つ三重塔」と書きましたが、歯に衣を着せずに言えば、三重塔は那智の滝の添え物でしかないでしょう。

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2007年12月19日

いよいよ紀州路へプロローグ〜

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて」の旅も、いよいよ紀州路となります。しかし、関西地方に住まいがある方はともかく、千葉県在住の私にとっては遠い所です。塔めぐりに限定すれば、別の方法、ルートもありますが、紀州路となれば他にも訪れたい観光スポットが幾つかあり、往復の交通費を有効に活用したいと考えざるを得ません。そんなわけで、紀州路の塔めぐりは、そこまでのアプローチはともかく、紀州に入ってからの足の便を考えますと、マイカーでということにせざるを得ませんでした。
 平成14年4月26日、首都高を駆しり抜けるには深夜に限るということで、夜半に我が家を出発、東名に入って仮眠をとったうえ、浜松インターで高速道を下りたのは、翌4月27日の午前7時頃でした。一般道に出て目指したのは伊良湖岬で、伊良湖港からフェリーで、鳥羽へ渡る算段でした。旅の計画を樹てるに当たり、いろいろ検討しましたが、このルートが時間的にも疲労度の面でも、そして経済的にも最も良いのではないかと判断したのです。しかし、鳥羽は三重県でして、そこから和歌山県域に入るのは長い道のりで、他に目的もありましたが、鳥羽の南の、まだ三重県内である大王町(現在の志摩市大王)で旅の第一夜を迎えねばなりませんでした。そこから先も、ただただ塔のある所へということであればともかく、ここまで来た以上は、と、幾つか観光スポットを訪れますと、和歌山県域に入った辺りで、もう1泊しなければなりませんでした。
 宿に選んだのは、県境の熊野川に架かる橋を渡った先で右折し、国道168号線(十津川街道)を北上した所にある湯の峰温泉でした。小栗判官と照手姫の伝説でも知られる由緒ある温泉の宿で、和歌山県での第一夜を迎えたのでした。翌4月29日、熊野本宮大社に詣で、瀞峡探訪もした後、国道168号線を戻り、熊野速玉神社に詣で、ようやく「塔に魅せられて(近畿・岡谷篇)」での塔めぐりの旅の、第一番目となる所へ向かったのでした。

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 昨日は、生さば寿司をご紹介しましたが、寿司ともなれば、欠かせないものがありますよね。中には、さび抜き、という方もおられますでしょうが、おせちを食べるときにも、やっぱり、わさびが必要な物が多いのではないでしょうか。わさび、なら、こちらで ↓ どうぞ。


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2007年12月18日

中部日本の塔めぐりを終えて〜エピローグ〜

 最初から自慢話めいて恐縮ですが、流通ルートに乗っていない拙著が、どのようにして眼にとまったのか判りませんものの、講談社から出版されている五木寛之の「百寺巡礼」というシリーズ本の第2巻「北陸」の「主要参考文献一覧」の中に、その著では第19番となっている明通寺について、著者である私の本名も明記されたうえで、拙著が掲げられています。その部分を読んでも、拙著の何が主要な参考になったのか判らないのですが。
 それはさて措き、小浜市には、まだまだ見るべき所が多いので、それらを極く簡単にご紹介して、五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での旅のエピローグとしたいと思います。
 私が泊まった民宿の近くには、淀君の妹が建立したといわれる常高寺(じょうこうじ)や、八百比丘尼(やおびくに)が入定したところと伝えられる洞穴のある空印寺(くういんじ)などがあり、昨日訪れました。
 さて、明通寺から宿へ戻り朝食を済ませた私は、まず羽賀寺(はがじ)を訪れました。この寺の本尊の十一面観音菩薩立像(国重文)は、彩色も残る像で見応えがありました。次いで多田寺(ただじ)、神宮寺と訪れましたが、その手前にある若狭国分寺跡(摩耗が激しいものながら塔心礎も遺っています)や若狭彦神社、若狭姫神社のある鵜の瀬という所は、これまた昨日のうちに訪れました。ある意味では、この辺りが最も若狭らしい所かもしれません。なお、神宮寺の本堂は国重文となっている立派な建物ですが、堂内にあった古図を見ますと、ここには三重塔が建てられていたようです。神宮寺を後にした私は萬徳寺(まんとくじ)を訪れた後、瓜割(うりわり)の滝を見物したうえ、この日の宿を求めてあった、古い町並みの残る熊川宿へ向かいました。熊川宿というのは、小浜から京都まで鯖を運んだ道ともいわれ鯖街道(幾つか説があるようですが)とも呼ばれる若狭街道に残る古い宿場ですが、そこで若狭の旅の最後の夜を味わったのでした。

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2007年12月17日

朝日に輝いて聳え建つ国宝の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での旅も、終わりに近づきました。いや、塔そのものは、今日で終わりですが、明日は、ちょっと余計なことを書く予定にしています。
 その三重塔がありますのは、若狭湾に面する小浜市ですが、ちょっと市の中心部からは外れています。その三重塔がある明通寺(みょうつうじ)を訪れたのは平成10年8月11日ですが、その日は光線の具合が悪く、仏像などを拝観した後、小浜市の中心部に求めてあった宿へ向かいました。そして、翌朝、朝食の前に車を駆しらせ、明通寺へ向かいました。市の中心部から、車であれば20分足らずです。
 三重塔の前に立った時は、まだ陽が昇っておらず、三重塔も薄闇の中に静かに眠っておりました。待つこと暫し、陽が昇り始めますと、塔の先端の相輪から、徐々に朝日に輝く三重塔の姿が現れてきました。その時の感動を表す語彙に不足していることを、嘆くばかりです。私の感動を代弁してくれているとも思えませんが、津村節子の「若狭路の旅」には、次のような一節があります。

 ……苔むした石段を一歩一歩登って行くにつれて山の冷気が肌に感じられ、身も心も引き締まるような感じがする。途中休みなく息をはずませながら上って行くと、急に台地がひらけ、端正な姿の本堂、本堂の左手更に一段と高い部分に、みやびやかな三重の塔が忽然と浮かび上る。見事な演出である。(中略)
 三重の塔は、威厳に満ちた男性的な本堂と対照的に、華麗で女性的な美しさに満ちている。
 
 この三重塔については、余計な説明をすることなく、できれば私のように早朝に訪れて、ご自分の眼でご覧になっていただきたいのですが、塔は文永7年(1270)に建てられた鎌倉期の古塔で、もちろん国宝となっています。
 なお、新しいものですが、この三重塔の模型が、JR小浜線の東小浜駅下車7分の所にある福井県立若狭歴史民俗資料館に展示されていますので、興味のある方は訪れては如何でしょうか。

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2007年12月16日

日本一高いと喧伝された五重塔だが……

 昭和62年5月28日の朝日新聞朝刊に、2頁に亘る広告が掲載されました。その広告の大きな活字での中見出しを拾っていきますと、「霊峰白山や加賀の山々を望み大師山を背に広がる22ヘクタールの広大な聖地」、「季節ごとに風情漂う回廊は、大門と大仏さまを結ぶ全天候型プロムナード」、「五重塔も日本一。屋根まで五一メートル。エレベーターで昇れるステキな展望スペース」などとあります。これは、某不動産会社が建造した施設を、翌昭和63年5月29日から一般公開するに当たっての新聞広告でしたが、お問い合わせの欄には、勝山市役所商工観光課の電話番号も記されており、行政も何らかの形で関与していたのではないかと想われます。そして、昭和63年7月20日の朝日新聞夕刊には、「京都の東寺の五重塔よりも高い五重塔、参道には四十軒のみやげもの店が並び、五階建てのホテル二棟を建設中。温泉も二ヵ所で掘っており、すでに三百八十五億円の巨費を投じたとされる。いずれ宗教法人に衣替えしたい」と考えているようだ、と報じられました。更に宗教法人を監督する文化庁が、「最近、宗教活動とはかかわりのない者が、宗教法人の設立を申請するケースがみられるが、宗教団体は、一朝一夕で生まれるものではない。いくら形式的に要件が整っても、活動実績がないと宗教法人にはなれない」と、クギを刺している旨も記しています。
 そんな越前大仏こと清大寺(せいだいじ)を平成10年8月10日に訪れましたが、その頃すでに、シャッターを下ろしている店もありました。案の定、ご覧になった方もおられるでしょうが、10月3日の某テレビ曲の番組で、この清大寺の施設が、35億円で「公売」に出されたことが採り挙げられました。10分の1の価格ですが、某コメンテーターは、売れないとコメントしていました。私もそう思いますが、「公売」というのは、どういうものなのでしょうか。それはともかく、これこそ「現代日本の、みにくい正体」の一つの表れと言えるのではないでしょうか。それにしても、取り壊すのも大変でしょうし、この五重塔は、どうなってしまうのでしょうか。

☆       ☆       ☆

 ところで、お正月は如何お過ごしですか。どこかでのんびりと、思われている方は、冬の北陸など、どうでしょうか。日本海が望める芦原温泉で越前がになど、如何でしょうか。宿探しは、ちょっと重いサイトですが、こちらで ↓ どうぞ。




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2007年12月15日

中部日本の塔めぐり最後の県〜プロローグ〜

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での旅も、最後となる福井県です。「福井県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 福井県は本州日本海沿岸のほぼ中央に位置している。昔の国名でいうと越前と若狭の二ヵ国からなりたっているが、現在この県では北陸トンネルが貫く木ノ芽山嶺を境として、以北を麗北地区、以南を麗南地区とよんでいる。(ルビ省略)

 ところで、芭蕉は那谷寺から山中温泉、現在の加賀市を経て、越前と若狭の境という吉崎の入江を舟で渡り、汐越(しおこし)の松というのを訪ねています。芭蕉の足跡を辿ったイギリス人女性のレズリー・ダウナーは、その時の紀行を「芭蕉の道 ひとり旅」という書として著しています。彼女は、汐越の松はどうしても見たいということで、いろいろと尋ね歩いた末、ある寺を訪れたところ、その寺の住職の答えは「もうないよ……二十年前に切り倒された。ゴルフ場を造るんでね」というものだったとあります。それを聞いた彼女は、「二十年前……。何世紀も珍重されてきたあげくに……。しかも、よりによってゴルフ場なんかのために……」、と記したうえ、次のように記しています。

 私は砂埃の中、足取りも重くその場を立ち去った。いいだろう。確かにゴルフ場は日本人にとって重要きわまりないものだ。繁栄のしるしであり、一種のステイタス・シンボルであり、地域発展のバロメーターでもある。百歩譲ってここまでは認めよう。だが、それでもなお私は、汐越の松に対してなされた愚かな蛮行に、深い驚きと憤りを感じずにはいられなかった。(中略)現代日本の、みにくい正体をかいま見たような気がした。

 人それぞれの趣味があり、それをとやかく言うつもりなど全くありませんが、私はゴルフはやりません。だから言うわけではありませんが、レズリーの深い驚きと憤りに共感するところ大なるものがあります。どこかの元次官のこともありますが、明日は、「現代日本の、みにくい正体」を、自分の眼で見ることになります。

☆       ☆       ☆

 今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。
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2007年12月14日

石山の石より白い秋の風を受けて建つ三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる「塔に魅せられて(中部日本篇)」での石川県の旅も、今日が最後となります。芭蕉の「おくのほそ道」には、次のような一節があります。

 山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智・谷汲の二字をわかち侍しとぞ。(ルビ省略)

 そして、

   石山の石より白し秋の風

 という一句が添えられています。「石山」とありますのは、滋賀県の石山寺のことを指しており、凝灰岩の風化によって自然にできあがった光景が似ていることから、このように詠まれたのでしょう。
 この句が詠まれた所は、小松市にある那谷寺(なたでら)ですが、この寺を私が最初に訪れたのは、昭和48年の早春でした。その後、昭和60年6月9日に再訪、平成10年8月10日に再々訪していますが、その間には、両手の指を折っても余りある歳月が過ぎていました。
 寺発行のリーフレットに眼を通しますと、次のように記されています。

 九八六年(寛和二年)六十五代 花山天皇様が当山に御幸のおり、岩窟洞内にて光明赤々とした観音三十三身のお姿を拝せられました。「これ全く観音妙智力の示現なり、朕が求むる三十三ヵ所はすべて此の山にあり、他に求むるべからず、何ぞ西国を巡るの要あらんや」と詔され、一番札所紀伊の那智山と三十三番札所美濃の谷汲山の各一字をとって那谷寺と改められました。

 しかし、「延元年間と文明年間に兵乱にあい、一山堂宇は悉く焼失」し、「その後、一六四〇年(寛永一七年)当山の荒廃を嘆いた加賀藩主前田利常公が後水尾天皇の勅命を受け、岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院等を再建されました」(同上)。
 さて、山門をくぐりますと、すぐ左手に国重文の書院があり、これを囲む庭園は国名勝に指定されていますが、それについては省略(といっても、この寺を訪れたら見逃してはならない所です)し、参道を進みますと奇岩遊仙境が左手に現れます。これも省略し、更に参道を進み何段かの石段を登りますと、1642(寛永19)年建立という本堂大悲閣(国重文)があります。目指す三重塔(国重文)は、その南西の高台にあります。しかし、この三重塔は、初重が二重、三重に比し、その幅が広く、それだけ安定感はありますが、全体のバランスという点では、やや鈍重な感じがあり、正直なところ、余り美しいとは思えません。ただ、最初に訪れた時のことですが、雪を冠った三重塔は、例えようもなく美しく見えました。

☆       ☆       ☆

 クリスマスまでは残すところ10日となりましたが、クリスマスが過ぎると、すぐお正月ですね。お正月は、やっぱり日本酒が合うのではないでしょうか。お正月ぐらい、こんな ↓ お酒が呑みたいですね。



 そして今日は、酒の肴として、北国からの贈り物もセットしました。こちらで ↓ どうぞ。



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2007年12月13日

北陸・能登地方随一の大伽藍の寺に建つ五重塔

 輪島市から次の目的地の羽咋市へは、ひたすら国道249号線を南下することになります。もちろん途中には、いろいろな観光スポットがありますが、ここでは触れる余裕がありません。それらに立ち寄りながらということになりますと、羽咋市までは、ほぼ1日の行程になります。そして、目的の五重塔のある妙成寺(みょうじょうじ)へは、羽咋市の中心部から10キロ足らずですので、この日は宿へ直行し、ちょっと戻る恰好になりますが、翌朝に訪れた方が良いでしょう。といいますのは、五重塔を眼にすれば写真を撮りたくなるでしょうが、塔は東面して建てられていますので、午前中でなければ逆光になってしまいます。
 その妙成寺について、寺発行のリーフレットには、次のように記されています。

 当山は北陸に於ける日蓮宗の本山である。今から七百有余年前の永仁二年(一二九四)日蓮聖人の弟子日像聖人が師命により妙法を京都に広めんとして、佐渡から都上りの途中、船中で能登石動山天平寺座首満蔵法印(日乗上人)を教化改宗、一寺を建立したのが当山のはじめである。
 今の重要文化財十棟に指定されておるものは、加賀前田家初代から五代に亘って造営されたもので、殊に三代利常公は生母寿福院の菩提所として本堂、祖師堂、五重塔等を造立し、前田家御用大工坂上又三郎親子三代に亘って桃山時代の雄渾華麗な面を建築上遺憾なく発揮していると云われる。

 門前に立ちますと、正面に二王門(国重文)、その上に、ぐんと抜きん出て五重塔が聳え建っている光景は、何とも言えないものです。五重塔は、元和4年(1618)の建立で、橡(とち)葺の屋根は五重塔としては全国唯一のものだとのことであり、もちろん国の重要文化財に指定されています。
 この塔を、素晴らしい条件のもとに見ることのできるところがあります。塔の左手前にある寛文10年(1670)建立の経堂(国重文)、延宝5年(1677)建立の開山堂(県文)を拝し、境内の西の奥まった所にある貞享3年(1686)建立の丈六堂(釈紳士服堂ともいい県文)なども拝した後、丈六堂への参道を戻って、慶長19年(1614)建立の三十番神堂(国重文)、元和9年(1623)建立の三光堂(国重文)を経て、慶長19年建立の本堂(国重文)を拝し更に行きますと、寛永元年(1624)建立と伝えられている祖師堂(国重文)があります。途中の階段を下った所に建つ大きな建物が客殿で、その奥に、万治2年(1659)建立の書院(国重文)があります。建物もさることながら、この書院には県指定名勝の庭園があり、それは五重塔を借景とした素晴らしい庭です。この寺を訪れた場合は、お見逃しなきように。

☆       ☆       ☆

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2007年12月12日

霊園の中に建てられた三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、いよいよ石川県がその大半を占める能登半島の中心部、言い換えれば昔の能登国の中心部へ向かうことになります。国泰寺を初めて訪れた平成8年8月4日、国道160号線で七尾市を目指しました。七尾市には能登国分寺跡(国史跡)がありかすが、「石川県の歴史散歩」には次のように記されています。

 ……「エボ石」とよばれる塔の心礎と、「草塚」といわれる金堂跡を中心に講堂・回廊などの遺構、南門が整備復原されて古代の国分寺が今にあらわれている。

 私は、国分寺跡については、塔めぐりの旅の途次、できるだけ訪れることにしていますので、幾つかの国分寺跡を訪れていますが、能登国分寺跡は、整備されているという点では、屈指の所と言えましょう。
 能登国分寺跡を後にした私は、249号線となった国道を穴水町へ向かいました。穴水町域に入って5キロほど行きますと、道は一つの小さな半島の付け根の部分に至りますが、その辺りから、前方に注意をしながら、左右にも視線を向ける必要があります。そうすれば、右手に小さな真和温泉の看板が見られるはずです。そして左手には、新崎口のバス停があります。新崎というのは、小さな半島の先端部の地名のようで、その新崎へ向かう細い道へ右折し少し行きますと、左手に霊園へ入る道があります。砂利道ではありますが、奥まで続いていますので、行き止まりまで車を進めますと広場に出、その奥まった所に目指す三重塔があります。この塔は、真和園(しんわえん)三重塔と呼ばれています。真和園というのは財団法人ですが、具体的にどのような事業をしているのかは確かめておりません。推するに、霊園と真和温泉施設を運営しているのではないでしょうか。真和温泉とはいっても、宿泊施設はなく、言ってみれば立ち寄り湯のようなもので、あるいはお墓参りに来た人が一休みできるようにと設けられた施設かもしれません。
 前置きが長くなりましたが、真和園三重塔は平成5年7月15日に完成した新しいものですが、姿は美しく、写真も良く撮れましたので、拙著の口絵の一つにしたくらいです。

posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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