2008年01月31日

兵庫県下で二番目に古い塔

 五重塔、三重塔をめぐる神戸市の旅の最後に相応しい塔が、ここ如意寺にあります。この寺の三重塔は、後に訪れる一乗寺の三重塔に次いで、兵庫県下では二番目に古い塔です。この三重塔は、「ひょうごの塔」によりますと、至徳2年(1385)の建立で、元和5年、文政10年、天保2年に修理がなされていることが、相輪や風鐸の銘で知られるといいます。
 さて、話が前後するようですが、門前に車を駐め、伽藍地の入口へと脚を進めますと、まず文殊堂があり、その背面が眼に入ってきます。そして、既に文殊堂の屋根越しに、三重塔の上層部が見えています。文殊堂の左手参道を上り堂の正面に立って境内を見渡しますと、そこには、他の寺院では見られない印象的な光景が展がっています。境内の中央部は広々とした空地となっており、その奥の小高い所が本堂跡で、左手に鎌倉時代の阿弥陀堂、そして右手に三重塔が、それぞれ小高い所に建っています。すなわち、中央部は窪地のようになっているのですが、お寺の人の聞では、この窪地には池があったのではないかということです。
そうであったならば、素晴らしい塔のある風景であったことでしょう。「ひょうごの塔」には、三重塔について次のように記されています。

 ……境内に入ると、遮るものなく全身像を見せてくれる。文殊堂付近から見上げても、本堂跡から見下ろしても、阿弥陀堂から離れて見ても、全貌の見やすいほれぼれする塔である。県下二番目に古い塔の名に恥じない堂々としたものである。

 まさにそのとおりで、特に阿弥陀堂から望む塔のある光景の素晴らしさは、語彙に乏しい私には、表現のしようがありません。下の写真は、阿弥陀堂のある辺りから、望遠レンズを使用してのものと想いますが、このように、素晴らしい塔です。なお、文殊堂、阿弥陀堂、三重塔は、国の重要文化財となっています。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/28hyougo/nyoi3/nyoi3.html

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2008年01月30日

荒涼とした感じながら広大な境内に建つ三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる神戸市の旅も、いよいよ最後の塔となります。しかし、太山寺と同様、ここでも今日中には三重塔に辿り着けそうにもありません。
 太山寺から前開の信号まで戻って右折、一昨日も辿ってきた県道65号線(神戸加古川姫路線)に入り僅か行きますと、福谷という信号があります。この信号で左折して県道52号線(小部明石線)を南西に向かって僅か行きますと、谷口というバス停があります。そのバス停の所に左へ入る細い道がありますが、その道を少し行きますと仁王門が現れ、道は仁王門の左手を迂回して続いています。
 この辺りのこと、そこから先のことについては、「ひょうごの塔」をお藉りすることとします。

 ……明石から出るバスに乗って谷口という所で降りる。東へ山道を一`ほど進むと、狭くなった谷間の山裾に仁王門が見えてくる。(中略)この門から東の方に、遠く三重塔が望まれる。門から塔までの長い距離が、昔の寺の境内の広かったことを教えてくれる。谷間の平地は黄色に実った稲田が段をなして連なっているだけで人家はない。ところがそんな風景を破るように塔のすぐそばに○○鋼業玉津工場という殺風景な二階建てほどの高さの建物が、谷を埋めるようにして建てられている。寺の雰囲気に全くなじまない景色をなしているのが惜しい。
 
 全くそのとおりで、工場の建物と乱雑な周辺の様子が、ぶち壊しています。なぜ、わざわざここを選んで工場など建てたのかと、冷たい視線を向けたものでした。
 それはさて措き、これから訪れようとしています如意寺(にょいじ)の由緒について、同書には次のように記されています。

 この寺も大化元年(六四五)、法道仙人による開基という寺伝を持つ。今の地より四`ほど奥地に創建され、後に里近い現在地に移された。承和の末年(八四〇年代)慈覚大師が入唐した時に得た文殊菩薩像を安置するようになり、阿弥陀堂もでき上がった。隆盛時には二十四坊を数えたという。

 そして、「兵庫県の歴史散歩(上)」によれば、平安時代の正暦(しょうりゃく)年間(950―995)頃、願西(がんせい)聖人が復興したといいます。
 冒頭での予感どおり、今日は、これで筆を擱く、いやキーボードから指を離すこととします。

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2008年01月29日

失礼ながら中年太りの女性のような太山寺三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記でありながら、昨日は先延ばししてしまった太山寺の三重塔について見ることにします。昨日も見ました「報告書」には、次のように記されています。

 三重塔は本堂正面東方の一段下の敷地に西面して建つ。心柱の墨書銘によって貞享5年(1688)に心柱が寄進されたことがわかり、元禄初年に完成したと考えられ、塔の形式手法も江戸時代中期の特色をよくあらわしている。(中略)
 この三重塔は規模も大きく、(中略)施工も丁寧で全体のまとまりもよく、近世塔婆の重要な遺構と認められるが、特に国宝本堂と一体となり、伽藍を構成する重要な建物である。

 そして、現地に立てられていた兵庫県教育委員会の説明板には、「古い時代のものにくらべて、各層の屋根がほぼ同じ大きさで、ずんぐりしており」とありましたが、失礼を顧みず正直な印象を申し上げますと、中年太りの女性のようでした。しかし、いずれ訪れることになります福岡県瀬高町の清水寺の三重塔に比べますと、ややダイエットされているようです。
 と申しました以上、写真をお目にかけないわけにはいかないでしょう。こちらで ↓ どうぞ。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/28hyougo/taizan3/taizan3.html

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2008年01月28日

新西国霊場の第25番札所の太山寺に建つ三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる神戸市の旅も、徐々に終わりに近づいていますが、須磨寺に次いで訪れるのは太山寺(たいさんじ)です。私は、この寺を二度、それも須磨寺を訪れた後に訪れていますが、二度とも道に迷いました。しかし、迷う方が可笑しいのでして、須磨寺で県道65号線へ出る道を尋ね、県道へ出ましたら、後は山手へ向かって道なりに進み、前開(ぜんかい)という信号さえ見落とさなければいいのです。その信号で右折し、県道18号線(明石神戸宝塚線)に入り、右手に注意しながら車を進めれば、「新西国廿五番」と刻まれた自然石の石柱と、色も鮮やかな仁王門が眼に入ってきます。
 この寺のことについて、「ひょうごの塔」には次のように記されています。

 旧播磨国に属す所で市の西南部、同じ市内の如意寺とは山一つ隔てたあたりに太山寺はある。西方は本格的な播州平野になる。明石駅または神戸駅からバスが出ており、太山寺前で下車すると大きな八脚門が目に入る。仁王さんもそろった立派な門である。大きな樹木が門にかぶさるように繁り、すぐそばのバス道と一線を画している。
 石畳のある参道を東に進む。崩れかかった寺院の煉塀がサクラの並木の横に続く。寺に近づいて思うことなのだが、寺の周辺の雰囲気がどこか他の寺院と異なる。やがて、その原因は寺の背景になる裏山の樹木の差であることに気づいた。太山寺原生林として県の天然記念物にも指定されている豊かな山バックにして寺が建っているのである。

 さて、中心の伽藍地に入りますと、正面に堂々たる構えの本堂があります。そして、眼を転じますと、左に阿弥陀堂、右手やや奥まった所に三重塔(県文)が建っています。ちょっと引用が長くなりますが、兵庫県教育委員会の「昭和六三年度指定 兵庫県文化財報告書」(以下「報告書」とします)に眼を通すことにします。

 太山寺は藤原鎌足の子定恵の開基、藤原宇合堂塔建立と伝え、平安時代以降永く栄えた天台宗寺院で、鎌倉時代弘安8年(1285)建立の本堂は国宝に指定され、八脚門の仁王門は室町時代建立で重要文化財に指定されているが、もとは二重門であった。

 上の文中に「藤原鎌足の子定恵の開基」と伝えるとありますが、この点については俄に納得できませんが、その理由については、いずれ書く機会があろうかと思います。
 それはさて措き、長くなりましたので、三重塔のことについては、明日のこととします。

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2008年01月27日

何かとケチをつけるようですが

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記では、これまでも苦言を呈したり、疑問を投げかけたりしたことがありますが、須磨寺の三重塔に関連して言いたいことがあります。
 中西亨先生の「続・塔の旅」には、「この寺に塔がいつからあったか不明である。とにかく中世末には三重塔があったが、文禄五年(一五九六)前述の大地震で倒壊してしまった」とあります。
 そして、「ひょうごの塔」にも、「慶長元年(一五九六)、近畿一帯を襲った慶長地震のため、須磨寺でも三重塔はじめ多くの伽藍が崩壊した」とあります。両者を見ますと、文禄五年、慶長元年と分かれていますが、丁度この年に文禄から慶長に年号が変わったようです。
 ところが、平成7年1月26日の日本経済新聞の夕刊に、「神戸 四〇〇年前の地震でも大被害」という見出しで、次のような記事が掲載されました。

 ……都司嘉宣東大地震研究所助教授(中略)が、近畿地方で今回の地震のような大被害を及ぼした地震が過去にあったかどうか古文書などを調べたところ、一五九六年(慶長元年)の京都伏見地震が該当することが判明した。

 右の記事では、初めて判ったかのように記されていますが、中西先生や前田重夫氏が、これをご覧になったとして、どう思われたかと、私は新聞を冷ややかな眼で見たものでした。何しろ地震に強い塔が倒壊したというのですから、その被害の大きさは想像するに難くないのです。新聞社のデータベースも、十分ではないようです。

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 さて、これから暫くの間、最近、広告掲載要請があり、私も良いのではないかと思ったものを、ご紹介することとします。
 最初は、ほっと一息、梅酒で、ということで、身体にも良さそうな、こちらの ↓ 商品をご紹介します。


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2008年01月26日

青葉の笛も遺る平家ゆかりの寺の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる神戸市の旅も後半に入って最初に訪れる塔は、正式名称を福祥寺(ふくしょうじ)といいますが、一般的には須磨寺(すまでら)として親しまれている寺にある三重塔です。駐車場に車を入れ、中門をくぐり小さな池にに架かる橋を渡って進みますと仁王門があります。春はさぞや、と想われる桜並木の参道を進み、数段の石段を上り唐門をくぐりますと、正面に本堂があり、その左手奥、小高い所に三重塔が建っています。平成7年に訪れた時はどうなっていたのか記憶が薄いのですが、唐門も大震災の被害を受けたのでしょう、平成12年8月14日に訪れた時には、脇に宝物館やお札や土産物の売店もでき、そこから本堂のある所までエレベーターで昇れるようになっていました。
 まず、この寺の歴史について見ることにしたいと思いますが、「兵庫県の歴史散歩(上)」には、次のように記されています。

 ……この寺は平安時代の初期、八八六(仁和二)年、聞鏡(もんきょう)上人が勅命を受けて上野の地(現在地)に七堂伽藍(がらん)を建立し、漁師が和田岬の海から拾い上げて会下山(えげやま)の北峯寺(ほくぶじ)に安置していた聖観世音菩薩坐像(国重文)を移して本尊としたと伝えられている。以来、幾度かの火災にあい、かつての七堂十二坊も失われて、一時は本堂・大師堂・仁王門だけになるまで荒廃したという。明治以後、寺院復興の声があがって堂塔があいついで復興され現在に至っている。(ルビは括弧で表記)

 そして三重塔については、中西亨先生の「続・塔の旅」に次のように記されています。

 ……平敦盛八百年遠忌、弘法大師入定千百五十年遠忌、それに須磨寺開創千百年の記念事業として昭和五十七年五月工事に着手、二年余で完成、同五十九年十月六日に盛大な落慶法要が営まれた。

 続いて同書には、「基壇の部分は部屋になっていて納骨堂となり」とあり、また、「相輪は型の通りだが、水煙は大きく」ともあり、更に、そのデザインは、「象の上に天上天下唯我独尊の誕生仏、その上に菩提樹といった形で、すべて金色に輝く」、ともあります。なお、この三重塔は、台湾桧を用いた木造塔です。

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 今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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2008年01月25日

大震災で大きな被害を受けた須磨寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅も後半になり、北区から須磨区へと向かいます。三宮のホテルを出発した私は、国道2号線で西へ向かい、須磨区に入ったすぐ先で天神橋を渡り、綱敷天満宮に立ち寄りました。というのは、この神社には三重小塔があるからでした。それは、神社であるからには可笑しいのですが、新しく飾り物として設けられたもので、改めてご紹介するほどのものではありません。ただ、次の目的地の近くでしたので、立ち寄った次第です。
 時は平成7年6月16日のことになりますが、須磨寺を訪れました。この寺を最初に訪れたのは全く偶然ですが、昭和60年2月15日のことです。その時は、まさに偶然で何の用意もありませんでしたので、翌日に改めて訪れました。そんなわけで、二度目といいますか、三度目といいますかに訪れたのが、前述の平成7年でした。全くの偶然ながら、この日から開通するという山陽電鉄を利用し須磨寺駅へ向かいました。そこへ至るまでの車窓から眼にする光景は痛々しいものでしたが、須磨寺駅の周辺の民家の被害も相当なものでした。寺の山門まで真っ直ぐに延びる道は商店街になっていますが、所々、歯が抜けたように建物がありませんでした。そして、須磨寺自体も大きな被害を受け、塔頭のおやゆびサイン生院の本堂が倒壊し住職が亡くなられ、桜寿院という塔頭も倒壊しました。
 今日は、このあたりで止めて、須磨寺にある三重塔のことについては、明日のこととします。

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2008年01月24日

教育委員会の記述も鵜呑みにはできないということ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記としては余計なことかもしれませんが、昨日見た六条八幡神社の三重塔についての神戸市教育委員会の説明板の内容を、真実と思われる方がおられるといけませんので、書くこととしました。
 説明板には、神社に遺っている塔が「全国で十八」とありましたが、どのように数えたのでしょうか。私の手元の資料では、神社に遺る三重・五重の塔は十四ヶ所(十三重塔のある奈良県の談山神社を含めても十五ヶ所)しかありません。多宝塔も含めてのこととすれば、とてもこんな数ではありません。そして、「上層になる程小さくなる形に時代(室町中期)の特長が見られます」というのは、ナンセンス、というのが言い過ぎであれば、言葉が適切でないといいますか、足りないといいますか。塔は初重から上層にいくにしたがい小さくなる(これを逓減といいます)のは当たり前のことで、それが室町中期の特長などとは言えません。もっとも時代が下り、江戸になるにつれ、逓減率の少ない塔が多くなることは確かです。それよりも、室町時代の塔の最大の特徴は、軒反りが大きくなることです。「ひょうごの塔」の記述を、ご参照ください。そして、室町時代の典型的な塔については、いずれご紹介する機会があるでしょう。
 それはさて措き、六条八幡神社を後にした私は、箕谷の町中を抜け、小部峠で左折して再度山(ふたたびさん)を経由してこの日の宿を求めてあった三宮へ向かいました。神社の周辺の田園風景、箕谷界隈のコンクリートジャングル、樹木の生い繁った再度山中と、変化に富んだドライブでした。

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2008年01月23日

神仏混淆の名残をとどめる神社にある三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅の本来の目的の場所に向かいますが、国道から無動寺への標識にしたがって細い道へと右折して進みますと、無動寺と神社への分岐点があります。右へ向かえば無動寺、左へ向かえば目的の六条八幡神社に至ります。この神社の歴史について「ひょうごの塔」には、「中村八幡宮の創建は縁起によると一条天皇の長徳元年(九九五)、周防の国の基灯法師という人が夢告によりこの地に神社を建てたと伝えている」とあり、しかし、「基灯法師の話は後世の追加と考えられる」ともあります。神社本庁発行の「神社名鑑」には単に「八幡神社」とありますが、他の八幡神社と識別するためでしょう、一般には「中村八幡神社」あるいは「六条八幡神社」と呼ばれています。そうすることの理由は省きますが、私は後者を採用しています。
 さて、三重塔については、神戸市教育委員会により説明板が現地に立てられており、それには次のように記されていました。

 山田の歴史は、神社を中心に発展したところで、多くの文化遺産を残しています。
 この塔は、五百年前の文正元年(一四六六年)神社の世話役であり、地方の有力者であった鷲尾綱貞によって建てられたものです。
 緑の木々を背景に、やわらかな檜皮葺(桧の皮で屋根をふく)と上層を区切る細縁の手すりなど優美な姿を見せています。軒先の強い反りや、上層になる程小さくなる形に時代(室町中期)の特長が見られます。
 仏教建築である塔が神社にあるのは、神仏は一体であるとの考えのあらわれですが、明治以降は、区別され、神社にあった塔の多くは姿を消しました。今、全国で十八、県下で三ヶ所残っていますが、その一つがこれです。(ルビ省略)

 しかし、これが本当に教育委員会よって立てられたものであるのか疑わしい点が多いのですが、それは明日のこととします。一方、「ひょうごの塔」には、「軒先の反りが軽快な曲線美を見せている。上層になるほど逓減率も大きいので安定感があり、相輪も整っていて実にすっきりした塔である。色の落ちた古色もそれなりに落ち着いていて美しい。塔のイメージとしてまず頭に浮かんでくる姿の典型のように思える」と記されています。室町時代の典型的な塔として、国の重要文化財に指定されています。
 その姿を、写真でご覧いただきましょう。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/28hyougo/rokujyouhatiman3/rokujyouhatiman3.html

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 しかし、今更ながらではありますが、時の経つのは早いものですね。お正月を迎えたのは、ついこの間の感じがするのですが、世の中は、もう、ヴァレンタイン商戦になっているんですね。神戸にも、こんな ↓ お店があって、どこでも、お取り寄せができるようです。

神戸パティスリーネット

    
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2008年01月22日

次の目的地へ行くちょっと手前で立ち寄り

 五重塔、三重塔をめぐる旅の次の目的地は、現在は北区山田町となっている所です。石峯寺を後にした私は、野瀬のバス停まで戻り三木三田線を西へ向かいました。15分ほど駆しりますと淡河(おうご)本町の交差点に至りますが、そこで左折して国道428号線を南下しました。目的地の山田町のことについて、昨日も見ました故金達寿先生の書には、神戸市教育委員会編の「神戸の史跡」の中の「山田町と丹生文化」が引かれていますが、それを孫引きさせていただきます。

 山田町は、以前にはほかの山田と区別するためか、有名な丹生山(たんじょうざん)があるので、「丹生(にぶ)の山田」とよばれていた。神戸市内といっても、中心地からは北方八キロをへだて、未だに山村の風趣ゆたかな町である。六甲背面の有野川は、この町へ入って山田川となって町の中央を貫き、沿岸の田園をうるおして、山田米の産地として有名にさせている。川に沿うて東西に走る街道は、西国街道の裏街道として交通上の要路であった。そのため古くから文化の流入に恵まれ、古跡や重要な文化財を多数伝えていて、盛んであった当時の土地のありさまをしのばせている。
 たとえば福地の無動寺には、本堂を圧するほどの巨大な藤原時代初期の大日、釈迦、弥陀の三尊仏をはじめ不動明王、十一面観音など五体の重要文化財があり、同寺の鎮守若王子神社の本殿と中村八幡の三重塔は、いずれも室町初期の建造になるもので、同じく重要文化財である。

 上記の中にあります無動寺(むどうじ)は、国道のすぐ脇とも言える所にありますので、目立たない(今はどうでしょうか)標識さえ見落とさなければ、すぐ判るはずです。
 そして、「中村八幡神社の三重塔」へは、明日訪れることとします。

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 さて、まだここは兵庫県で広島ではありませんが、広島で醸造される有名な賀茂鶴などにも、山田錦(山田米)が使われているようですので、いずれまたご紹介することもあるでしょうが、ここでもご紹介することとしました。広島のお酒なら、こちらで ↓ どうぞ。


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2008年01月21日

石峯寺における出来事

 と、タイトルを書きましたが、私自身の五重塔、三重塔をめぐる旅での出来事ではありません。ただ、今は日本人の意識や考え方も変わっていると思いますが、心しなければならないと感じたことですので、ご紹介することとしました。したがって、殆どが引用となることをお許しください。
 故金達寿先生の「日本の中の朝鮮文化(六)―播磨・淡路」には、次のような一節があります。石峯寺を訪れた先生は、「住持らしい白い着物の人」から寺の由緒書を貰い、「相当古いようですが、古代朝鮮の――」と話かけられたといいますが、文章は次のように続いています。

 「朝鮮?」と白い着物の人はこちらを振り返ったが、すぐまた向こうを向いてこう言った。「朝鮮とは何の関係もないです」
 私は、ちょっとそこに立ちつくした。そして立ち去って行くその人のうしろ姿を見送ったものであるが、「何の関係もない」とはどういうことか、と思わずにいられなかった。
 そもそも仏教そのものからして、朝鮮の百済から伝来したものではなかったか、とも思ったが、しかしそんなことをいってみたところではじまるものではなかった。

 そして、「ちょっと待てよと私は首をかしげた。そんなかっこうで私は待たせてあったタクシーに乗り込んだ」といいますが、文章は次のように続いています。

 ……薬師堂を建立したという行基はもちろんのこと、「法道仙人」というのも、どうもどこかで訊いたことがあるような気がしてならない。
 「ああ」と、タクシーが走りだしてしばらくしてから、私はやっと思い出した。さきにみた尼崎の猪名寺廃寺、それがやはり法道仙人の開基になるもので、『摂州川辺郡猪名山縁起』に「百済国人法道仙人の開基したる」うんぬんとあるのを私は読んでいたのである。
 「なあんだ」と私は、クルマのなかでひとり苦笑した。「朝鮮とは何の関係もない」どころか、その開基からして「百済国人法道仙人」というものではないか。それからまたさらに、薬師堂を建立したという行基にしたところで、これも百済から渡来の王仁(わに)系氏族から出たものなのである。(ルビは括弧で表記)

 私が、こんな文章を引用した意図は、ご理解いただけたでしょうか。

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 先週の金曜日、女性向けの商品のご紹介は、いったん終わるとしながら、またまた女性向けの商品になってしまいますが、ここでご紹介する蓮根水というのは、(株)神戸居留地倶楽部とい会社が発売しているものだからです。ともあれ、こちらを ↓ どうぞ。


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2008年01月20日

市内ながら山寺の趣のある石峯寺の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅にあって、神戸市内で二番目に訪れるのは石峯寺(いしみねじ)ですが、鏑射寺を辞し国道176号線に出て、ちょっと戻るようになります。石峯寺へは、すぐ先の日下部という信号で右折することになりますが、右折せずに直進し中国自動車道をくぐった先の天上橋という信号で右折して少し行きますと、有名な有馬温泉に至ります。折角ですから有馬の湯に浸かりたいところですが、私には、その余裕がありませんでした。日下部の信号で右折して入った道は府道38号線(三木三田線)ですが、暫く行きますと野瀬というバス停(妙徳小前信号)があります。そこら辺りで出てくるゴルフコース(有馬ロイヤルGC)への案内標識にしたがって右折し山道を行きますと、石峯寺までは僅かな距離です。その山道の途中に石柱が立てられており、そこから舗装路とは別に自然の山道(階段状に木が据えられています)がありますが、その道を登った所に仁王門が建っています。急傾斜を避けた舗装路は、左回りに迂回して仁王門に至りますが、そこから100メートルほどの参道が、まっすぐ石峯寺の伽藍地まで延びています。
 この寺の由来について、「ひょうごの塔」には次のように記されています。

 石峯寺」は神戸市北区の北の端で、数百b北に行くと隣はもう美嚢郡の吉川町になるという奥地にある。神戸と合併する前は、播磨国三木郡で明石領になっていた。(中略)
 ここも播磨に多い法道仙人開基の由来を持つ寺で、白雉二年(六五一)建立、孝徳天皇の勅願所として栄え、奈良時代には行基菩薩により薬師堂が建立されたと寺伝にある。嵯峨天皇の時に勅願により三重塔が建てられ、弘法大師の手で落慶が行なわれた。法道、行基、空海と役者がそろいすぎているようだが、ともかくそれまでの法相宗が真言宗に変わって現在に至る。

 三重塔(国重文)について同書には、「現存の塔は文安―応仁年間(一四四四〜六八)のものとされる」とありますが、昭和42年に解体修理が行われたようで、歳月を経て塗装も落ち着き、安定感のある姿が、周囲の緑と美しいハーモニーを奏でていました。その姿については、同好の方に許可を得ましたので、次のURLで見ていただきたいと思います。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/28hyougo/syakubu3/syakubu3.html

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 有馬温泉に触れましたが、私も、こんな ↓ 旅館に泊まって、有馬の温泉を味わいたかったと思います。



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2008年01月19日

工事断念から蘇った戦後初の木造塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅の今月15日、私は宝塚市の冬花庵三重塔を訪れましたが、そこから方向を大きく変え、いったん淡路島に渡りました。そして今また宝塚市に戻り、JR福知山線の宝塚駅から四つ目、三田(さんだ)駅の一つ手前の道場(どうじょう)駅を目指します。といっても、実際は車での旅でしたが、ともかく道場駅まで行き、道を尋ねるといいでしょう。もっとも、関西にお住まいで、ゴルフをやられる方ならば、武庫(むこ)ノ台ゴルフ場は既知のことでしょう。ゴルフ場に行く途中に鏑射寺(かぶらいじ)という寺がありますが、ここが神戸市内で最初に三重塔がある寺です。門前の駐車場に車を駐め、道を挟んで反対側にある境内に入りますと、参道の正面に朱色も鮮やかな三重塔が眼に飛び込んできます。
 この三重塔には奇縁がありますが、そのことについて、ふとしたご縁でご交誼を得た「ひょうごの塔」の著者の前田重夫氏は、同書の中で次のように記されています。

 護摩堂の左手奥の一段と高い所に三重塔が立っている。高さは二三bと普通の大きさであるが、古式どおりの木造建築で形もよく、立派な塔である。京都の某寺で建立計画中の三重塔が推進の中心人物を急に失って宙に浮いていた。この話が鏑射寺に伝えられて交渉がまとまり、準備されていた材料などが一括して鏑射寺の塔として転用されることになった。木造の本格的な三重塔としては戦後初めての建立で、大和の法輪寺よりも古い。ヒノキの材やまっすぐな心柱を探すのに苦労されたという。

 上記の内容に、私が付け加えることは何もありませんし、形の良さなど、まさに美しく、立派な三重塔です。

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 今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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2008年01月18日

神戸市内にある6基の塔をめぐる〜プロローグ〜

 五重塔、三重塔をめぐる旅は神戸市へとなりますが、いきなり引用で恐縮ではありますものの、「兵庫県の歴史散歩(上)」には次のように記されています。

 「神戸」という地名は、生田(いくた)神社の神戸(かんべ)つまり神社の経済を支えた住民という意味からで、1889(明治22)年、この名称をとって神戸市が生まれた。(ルビは括弧で表記)

 そして、「当時の市域は現在の中央区と兵庫区の南半」に当たるとあり、平成元年(1988)の統計によると、約1世紀を経過した現在では、面積は25倍強、人口は10倍に増加したとあります。それは言うまでもなく、近接の町村を吸収合併したことが最も大きな要素ですが、加えて海を埋め立ててポートアイランドや六甲アイランドを造成したことにあります。同書には、現在の市域は、奈良時代以来の国や郡で言えば、摂津・播磨の2国にまたがり、菟原(うばら)・八部(やたべ)・明石・有馬・美嚢(みの)の5郡にひろがっているともあります。
 どうでもよいことかもしれませんが、昔の摂津国と播磨国の境は、今の何処らあたりになるのでしょう、ちょっと気になります。和田萃著の「古墳の時代」には、「摂津と播磨の国境は、現在、神戸市須磨区と垂水区との境になっている境川と考えられ」(ルビ省略)るとあります。南部の方はそれでよいとして、北部はどうなのでしょうか。今までのところ、それを明確にした書に出会っていません。
 それはともかく、摂津国であったと想われる所から出発し、暫くは、二つの国を行ったり来たりという恰好になるでしょう。

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2008年01月17日

折角、淡路島まで来たのですから……

 五重塔、三重塔をめぐる旅であれば、淡路島には千光寺の三重塔以外にはないのですが、このまま淡路島を去るのは島の人たちに申し訳ないような気がしますので、私が訪れた所を幾つかご紹介することとします。
 最初に千光寺を訪れた時のことですが、現在の淡路市釜口、旧東浦町釜口にあります世界平和大観音像を訪れました。しかし、その大観音像を見たかったからではなく、そこには十重塔があると知ったからですが、詳しく触れるまでもないものなので、総て省略します。高速道路を別とすれば、淡路島を縦断するメイン道路である国道28号線(四国街道)を駆しっていれば、嫌でも見えるはずです。
 次は千光寺を再訪した時のことですが、現在の淡路市志筑(しずき)、旧津名町志筑にあります「静(しずか)の里」という所を訪れました。ここを訪れましたのは、同好の方から、この里にある相輪だけの写真をお送りいただいていたからです。何故ここに相輪が、という思いでしたが、その里には源義経と静御前の墓という2基の宝篋印塔もありました。
 次いで私は、旧津名町生穂(いくほ)長沢にある尼寺、東山寺(とうざんじ)を訪れましたが、ここの寺の薬師如来立像、十二神将立像(ともに国重文)は、なかなか見応えのあるものでした。
 東山寺を辞した私は、千光寺を再訪したのですが、その後、現在の南あわじ市の市役所の北東にある淡路国分寺塔跡(国史跡)を訪れました。しかし、塔の心礎は、基壇の上に建てられた大日堂の中にあって、眼にすることはできませんでした。
 他にもあるのですが、この辺で淡路国の旅を終えたいと思います。
 たまたまではありますが、今日は阪神・淡路大震災が発生した日です。震災で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたしますと共に、テレビの報道によれば、13年を経た今なお爪痕も残り、心の傷も完全には癒されず、経済的にも大変ご苦労されている方々がおられるご様子、何も手を差し伸べられないのがもどかしいのですが、心からエールをお送りしたいと思います。

☆       ☆       ☆

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2008年01月16日

阪神・淡路大震災にも耐えた三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、いったん淡路国へ参ります。阪神・淡路大震災と名付けられた平成7年に発生した大震災は、言うまでもなく震源地に近かった淡路島にも大きな被害をもたらしました。しかし神ならぬ身、そんな大惨事が発生するなど想いも及ばなかった私は、4月末から5月半ばにかけて、勤続20年の社員に与えられるリフレッシュ休暇を利用して、四国の塔めぐりを計画し、早めに宿の予約などをするのが慣わしであった私は、16泊17日の旅の全日程が決定していました。こんな時に、という思いはありましたが、今更とり止めるわけにもいかず実行しました。実は最初の宿を淡路島の民宿に求めてあったのですが、それどころではないであろうと想い、宿を変更すべく民宿に電話をかけたのです。なかなか通じなかった電話がやっと繋がったのですが、多忙な時だったからでありましょう、いき違いが生じ、民宿の人には大変な迷惑をかけてしまいました。ここで改めてお詫びを申し上げたいのですが、通じますかどうか。結果として、旅の第一夜は和歌山市に近い所に求め、フェリーで淡路島へ渡りました。そして、最初に訪れたのは、淡路島の洲本市の淡路富士とも呼ばれる標高448mの先山(せんざん)の頂上にある千光寺(せんこうじ)の三重塔でした。その時は車での旅でしたが、当時のマイカーは習志野ナンバーでした。門前の駐車場に車を入れますと、私が千葉から遙々やってきたことが判ったのでしょう、途中で検問にひっかからなかったかと声をかけてきた人がいました。というのも、ちょうどこの頃、オウム真理教によるサリン事件の捜査で、高速道路などで一斉検問が行われていると、テレビや新聞で報道されていたからです。幸い私は検問には出会いませんでしたが、想えば、昨平成6年から忌まわしい事件、大震災が起こったわけです。
 さて、千光寺の入口には、地震により六角堂は全壊したとありましたが、三重塔は無事な姿を見せてくれました。三重塔の周囲を掃除していた若い寺僧に声をかけますと、あちらこちらを指し示しながら、被害の状況を説明してくれました。そうしたことはありましたものの、木造の塔の地震に対する強さに感心させられたのでした。三重塔は、江戸末期の文化10年(1813)に建立されたといいます。
 それから7年を経た平成14年、私は再訪する機会を設けました。その時は、六角堂も再建され、三重塔も完全に修復されていました。

☆       ☆       ☆

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2008年01月15日

西国三十三観音霊場第24番の札所を経て

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、宝塚市へとなります。阪急宝塚線の梅田駅から宝塚へと向かいますと、宝塚駅も近くなった所に中山駅があります。この駅の近くには、西国三十三観音霊場の第24番の札所である中山寺がありますが、この寺に参詣し、次の駅の売布神社駅から5分の所にある売布(めふ)神社へ参拝して、目的地まで辿っても、さほどの距離ではないでしょう。もっとも私は、そのように辿ったことはありませんが、中山寺や売布神社は訪れております。「中山寺参詣曼荼羅図」には三重塔が描かれていますが、今では痕跡すら遺っておりません。
 さて、目的地には三重塔がありますが、殆どの書では「長谷川邸三重塔」として紹介されています。しかし今では、このように呼ぶのは相応しくないでしょう。平成5年5月1日付の宝塚市の広報「たからづか」を見ますと、次のように記されています。

 市は、市民の皆さんに日本の伝統文化に親しんでもらうため、売布三丁目にある重要な文化遺産、故橋本関雪氏の旧別邸「冬花(瓜)庵」を五月十五日(土)から十八日(火)まで公開します。
 橋本関雪氏は、京都画壇の中心的存在であった画家。「冬花庵」は広さ約九千平方bで、庭園内には、同氏が収集した鎌倉時代から江戸時代の石塔や灯ろう、道標などの石造美術品約百三十点のほか、伊賀上野の浄瑠璃寺にあったとされる三重塔、すべて栗の木で造られている「栗御殿」などの貴重な文化財が保存されています。

 この邸は、橋本画伯の死後、某不動産会社の関係者であった長谷川という人の所有となりましたが、私が最初に訪れた平成3年3月30日の時点では、個人ではなく不動産会社の所有となっていました。したがって拙著では、冬花庵(とうかんあん)の三重塔として紹介しました。
 さて、「たからづか」には、この三重塔は、「伊賀上野の浄瑠璃寺にあったとされる」とありますが、その浄瑠璃寺から、三重県の塔めぐりの旅で訪れた開化寺に移され、更に橋本画伯に買い取られ、この地に移された事情については、我が師、中西亨先生が明らかにされたところであります。
 ところで、この冬花庵も大震災の被害を受けましたが、幸い三重塔は無事だったようです。今はどうなっているか判りませんが、大震災の直後に宝塚市に照会したときの話では、石造物などは倒壊し、公開の目処は立っていないとのことでした。

☆       ☆       ☆

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2008年01月14日

西宮市から尼崎市へ戻り伊丹市へ

 また揚げ足取りのようになりますものの、「五重塔はなぜ倒れないか」の中に、「五重塔と現代建築」と題する対談が収録されていますが、その中で上田篤教授は、「兵庫県には五重塔は一つもない」と発言しています。後に訪れる円満寺、長楽寺の五重塔は鉄筋コンクリート造ですので措くとしても、善うま会の五重塔は木造で、しかも激震地に近い所にあるにも拘わらず、どういうことなのでしょうか。この本の信憑性が問われますが、以前にご紹介した中西亨先生と並んで、塔に関する我が師、故吉田実氏は、私も会員となっています史迹美術同攷会の会誌「史迹と美術」で、善うま会の五重塔について、次のように記されているのです。すなわち、「この度の阪神大震災では激震に襲われたが、塔本体には損傷はなかった。ただ激しく振り動かされて相輪頂で、水煙から上が心柱から抜けて落下した」、と。
 それはさて措き、次の目的地は宝塚市となりますが、その前に何ヵ所か寄り道することとします。
 まず最初は猪名寺(いなでら)廃寺跡ですが、それは尼崎市内にありますので道を戻ることになります。夙川の駅からですと、大阪の方へ戻り、塚口駅で阪急伊丹線に乗り換え、稲野(いなの)駅で下車ということになりますが、私は車での訪れでしたので、これは道路地図を見てのことです。稲野駅からは東へ1キロ余りの所ですが、最も近い鉄道の駅はJR福知山線の猪名寺駅です。道を尋ねる場合は、猪名寺廃寺と言っても知っている人は少ないでしょう。現在の寺名を法薗寺(ほうおんじ)という寺がありますが、そこが猪名寺廃寺跡ですので、この寺の名を言って尋ねるとよいでしょう。それでも、知らない人がいるかもしれませんが。この廃寺は、法隆寺式伽藍配置の大寺であったようですが、今では三重塔であったと推定されている塔心礎が、法薗寺の本堂の北側に遺されているだけです。
 次は杜若寺(とじゃくじ)で、この寺には三重塔があります。しかしながら、私は訪れましたものの、皆様にはお奨めできない小さく簡略なものですので、総て省略します。
 次は伊丹市にある伊丹廃寺跡(国史跡)ですが、ここには五重塔が建てられていたといいます。しかし、心礎などは遺っていません。ただ、昭和33年春に偶然に発見されたという塔の相輪の残欠、すなわち、水煙(すいえん)、九輪(くりん)、風鐸(ふうたく)、瓦など(いずれも県文化)が、伊丹市立博物館に展示されています。

☆       ☆       ☆

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2008年01月13日

湯川博士が居を構えられたこともある住宅地に建てられた五重塔

 平成14年にノーベル化学賞を受賞された田中耕一氏は、飾らない人柄が受けてスター並みの人気を博しましたが、日本初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士は、自伝「旅人」の中で次のように記されています。

 苦楽園といっても、今はその名を知っている人は少ないであろう。大正のある時期には、一時、阪神間の高台にある別荘地、避暑地として、繁盛したことがあった。私どもが移り住んだころには、もうさびれていた。その代り、昔日の隆盛をしのばせる、廃墟の趣きがあった。
 阪急電車の夙川で乗りかえ、支線の苦楽園口で降りる。当時のバスで十五分ぐらい――松林とたんぼの中を走ってゆくと、途中から坂道になる。六甲連山の東端に近い丘の中腹に、ちらほらと家が見える。それが苦楽園である。(ルビ省略)

 湯川博士が居を構えられた所とは離れていると想われますが、そこは西宮市となる夙川(しゅくがわ)駅から苦楽園行きのバスに乗り、苦楽園五番町というバス停で下車しますと、バス停の傍らに目的の場所であります善導会(ぜんどうかい)への案内板が出ていますので、歩き出す方向さえ間違えなければ、迷うことなく辿り着けるでしょう。
 善導会といいますのは、いわゆる新興宗教の一派ですが、その本部があるこの地に、木造の五重塔が建てられたのです。言うまでもなく周辺は閑静な住宅地ですが、その中の道を辿って最初に色彩も鮮やかな五重塔を眼にして感じたことは、美しい(実際には美しい姿の塔ですが)ということよりも、これが現れた時の周辺の住民の方々の驚きは、いかばかりであったか、ということでした。この地が選ばれたことには、いろいろな事情があったようですが、長くなりますので省略いたします。
 さて、建物としての五重塔は昭和63年10月に完成、平成2年2月に内部の荘厳が完成、同年11月5日に主尊も安置されて、同月11日に開眼法要が行われたといいます。更に、平成4年には、各重四隅の軒先の風鐸も取り付けられ、塔の外容が全て完成したといいます。

☆       ☆       ☆

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2008年01月12日

昨日の続きで、まだ尼崎の寺町にて

 昨日のブログは、「その点については、付け加えたいこともあるのですが……」ということで終わりました。その点というのは、本興寺の三重塔は、あの大震災でも、さほどの被害を受けなかったということに関連したものです。
 上田篤編「五重塔はなぜ倒れないか」の序(編者記)には、大震災に関連して、「兵庫県には三重塔がぜんぶで一五あり、うち江戸期以前に建立されたものは五つあるが、ほとんど損傷していない。かわりにコンクリートの三重塔があって、これにはヒビがはいったと報告されている」とあります。上田篤という人は、この書で初めて知ったのですが、この書の執筆者紹介には、京大教授などを経て、当時は京都精華大学教授とあります。この書を読んだ時、そんな偉い人でも、こんな誤記をするのかと唖然としたものです。もっとも他人のことは言えず、一昨日のブログで、「江戸期以前の塔が18基あり」と書きましたのは誤りで、12基です。誤りに大小はないでしょうし、自分で書いたことには責任を持たねばならないことは、偉い人でも、そうでない人でも同じでしょう。そのことを十分に認識しました上で、「兵庫県は三重塔は一五あり」とあるのはともかく、「うち江戸期以前に建立されたものは五つある」とあるのは、単なる誤記、誤植では済まされないのではないでしょうか。こんなことを書きながら恥ずかしいことですが、昨日のブログで書きましたことに、付け加えておかねばならないことがあります。それは、本興寺の方丈の客殿は使途不能なまでの被害を受け、文化庁の補助を受けて解体修理をしなければならない程であったということです。
 さて、昨日もちょっと触れましたが、本興寺を訪れたときは、是非とも「寺町」の散策をお奨めしたいと思います。尼崎駅前は雑然としているのですが、ちょっと離れた「寺町」に行きますと、石畳、煉瓦塀などが続いており、全く違った風情を味わうことができます。五重塔、三重塔をめぐる旅日記であるこのブログに関連して書きますと、この「寺町」の長遠寺(じょうおんじ)には、これまた大震災の被害を受けていましたが、本堂と共に国重文に指定されている多宝塔があります。

☆       ☆       ☆

 今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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