2008年02月29日

正直なところ外観的にはお奨めしにくい三重塔

 高源寺の三重塔について、「ひょうごの塔」には次のように記されています。

 この塔は他の塔にくらべてきわめて大きい。しかし高さはそれに伴わないので全体にずんぐりした感じになり、塔に欲しいスマートさに欠ける。案内板に「一名多宝塔、輪蔵という建て方、釈迦一代の説法五〇四八巻の経文を納む」と書かれているように、塔の広い内部は八角の輪蔵になっている。(中略)
 ……四隅は丸い柱だが、他は角柱というのも変わっている。(中略)水煙の上下におやゆびサイン弁のついているのも変わっている。(中略)ずんぐりしているうえに質素な造りでもあり、よけいに軽快さが欠けてみえる。三階建ての経蔵に相輪をつけ加えたという感じである。

 まさにそのとおりの塔で、「兵庫県の歴史散歩(下)」には多宝塔とあります。それは写真をご覧いただいた方が早いでしょうから、こちらを ↓ ご覧ください。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/28hyougo/kougen3/kougen3.html

 ところで、拙著「塔に魅せられて」(近畿・岡山篇)では、誤ったことを書いてしまいました。それは、この三重塔が県文に指定されていると書いたことですが、それは同好の方が書かれていることを鵜呑み(と書いては、その方に失礼になるかもしれませんが)にした結果です。掲載させていただいた写真の説明には、そのような記載がありませんので改めて調べてみましたが、同好の方の思い違いであったようです。しかし、理由はどうであれ、自分が書いたものには自分で責任を取らなければなりません。といっても、今となっては責任の取りようがないのですが。
 さて、五重塔、三重塔をめぐる旅は但馬国へ向かうことになりますが、私は丹波国で塔跡を訪れています。ただ詳しいことは省き、それがJR福知山線で柏原駅から4駅ほど北へ行った市島(いちじま)駅から遠くない所にある白鳳時代の三ツ塚(みつづか)廃寺跡(国史跡)の塔跡(地下式の塔心礎が遺っています)であることだけ書くに止めます。

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2008年02月28日

丹波の山奥の幽玄な趣の古刹に建つ三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、ようやく二つ目の塔へ、ということになります。
 柏原八幡神社への登り口の所から西(向かって左)へ行きますと国道176号線に出ますが、そこで右折し500mほど先の柏原北という信号で左折して車を進めますと、僅か行った所に国道175号線との交差点の稲継という信号に至ります。国道を突っ切った先の道は県道7号線(青垣柏原線)ですが、道なりに車を進めますと、やがて旧氷上郡青垣町、現在の丹波市青垣(あおがき)町の小倉という信号に至ります。そこで道を左に採り、国道429号線を西へ向かいますと、程なく現在の丹波市青垣町桧倉(ひのくら)にあります高源寺に行き着きます。この寺について、山川出版社刊「兵庫県の歴史」には、「県下の禅苑で逸することのできないのは、丹波氷上郡青垣町にある瑞巌山(ずいがんざん)高源寺(こうげんじ)である」(ルビは括弧で表記)とあり、開創は14世紀の半ば頃とあります。そんな古刹ではありますが、前田重夫氏の「ひょうごの塔」には、「しかし建物の古いものは残っておらず、今の伽藍は三重塔を含めて(中略)天明年間(一七八一〜八八)に建立されたものである」とあり、続けて次のように記されています。

 江戸中期のものとはいえ、本堂、三重塔、庫裡、方丈、山門、総門、鐘堂などの古い建物が建ち並んでいるさまは壮観である。樹木はうっそうと繁り、大きな石を使った石垣や石段には苔が美しい色を見せる。中国から持ち帰ったというカエデが境内に多く植えられ、紅葉の名所にもなっている。広い境内は幾段かに分かれていて、門をくぐりカエデのトンネルを通り、何回も石段を上って本堂に達する。三重塔は本堂の右手にあり、同じ高さの地なのだが途中に溝川が流れており、橋を渡った所に建てられている。

 この寺は、平成13年5月4日に再訪していますが、楓の新緑で、眼の中まで緑色になってしまうのではないかと思われるほどでした。
 三重塔のことについては、明日のこととしますが、塔はさて措き、緩やかな自然石の石段を登り、本堂へと進む参道だけでも、訪れる価値のある寺でしょう。

☆       ☆       ☆

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2008年02月27日

長い滞在となった柏原八幡神社(その4)

 ようやく三重塔(県文)へということになるのですが、塔の外観については、いろいろ書きますより、写真で見ていただいた方がよいでしょう。こちらを ↓ どうぞ。

http://m-mmm.hp.infoseek.co.jp/2001toba/kaibara1.jpg

 この三重塔の内部を拝観させていただき、二層まで昇らせていただきました。宮司さんのお話では、塔に昇ることについて誰でも許可しているわけではなく、許可する場合でも通常は二層までということでした。というのも、二層までは階段が二つ常設されているのですが、三層へは必要に応じて梯子を架け昇るということでした。宮司さんは梯子をご用意して下さっていましたが、臆病な私は辞退しました。しかし、三重塔は一段と高い所に建っていますので、二層からの光景も素晴らしいものでした。
 ところで、余り書きたくないことではありますが、これと似た類のことは、五重塔、三重塔をめぐる旅で何回か出会っていますので、敢えて書くこととします。
 宮司さんは初重の扉を開けたままにしてありましたので、たまたま来合わせた観光客が、断りもなく塔内に入ってきました。それはまさに僥倖であり、そのこと自体に文句を言うつもりはありません。しかしながら、「土足厳禁」と書いてないまでも、建物内に入る場合は靴などは脱ぐのが当然のことでしょうが、その人たちは土足で入ってきたのです。鷹揚な感じの宮司さんも、さすがにそれは咎めましたが、一旦は靴を脱ぎましたものの、少し経ちますと、また靴を履いていたのです。宮司さんは、私が訪れるからというわけではなく、日頃から塔内を掃除なさっておられるようで、塔内は塵一つないといってもよい状態に掃き清められていたのです。いかに板張りの床であったとはいえ、また、塔がどのような建物であるか識らなかったとしても、決して許される行為ではありません。にも拘わらず、注意まで受けているにも拘わらず靴を履き直した連中を見て、私は思わず怒鳴りつけてしまいました。怒鳴られた方も嫌であったでしょうが、怒鳴った方は堪らない気持でした。
 それはさて措き、塔内を十二分に拝観させていただいた私は、宮司さんに別れを告げ、ようやく次の目的地へ向かったのでした。

☆       ☆       ☆

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2008年02月26日

もう一日、予備知識を(その3)

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記としては、これまでも横道に逸れることは多かったのですが、一箇所に数日もかかるのは初めてです。しかし、これから塔めぐりの旅を続けるについても重要なことですので、もう一日、予備知識の習得に費やしたいと思います。
 宮司さんのお話の中に、平成5年の塔の組物の復原修理工事の際の苦労話がありましたが、特に塗装について苦心されたようで、塗料の見本まで出してこられて説明していただきました。塔に関する本を見る度に気にかかっていたことですが、朱塗りとあったり、丹塗りとあったりします。しかし、朱と丹は違うのではないかと思い広辞苑なども見たのですが、納得するような答は得られませんでした。そのことが、宮司さんのお話で明確になったのです。宮司さんは塗装の材料として朱を用いたかったということですが、朱は許可にならず、「べんがら」を使用したとのことです。朱は水銀、丹は鉛、「べんがら」は鉄さび、ということで、毒性の強い朱は許可にならなかったということです。朱塗りの塔と書くのは、実際に朱が塗られているのであればともかく、色彩を表すことだとすれば、誤解を招かないよう、朱色の塔と書くべきかもしれません。「べんがら」を使用した美しい町並みを後に訪れますが、正確なところは解りませんものの、鉄さびは無害と言ってよいのでしょう。
 さて、いよいよ三重塔をご案内いただくことになりましたが、ゆっくり拝観するためにも、それは明日のこととします。

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2008年02月25日

塔を拝観する前に予備知識を(その2)

 五重塔、三重塔をめぐる旅に出る前に「報告書」に眼を通しますと、次のように記されています。

 八幡神社の創祀は飛鳥時代にさかのぼると伝えるが、平安時代に奇瑞によって石清水八幡宮の御分身を勧請し、柏原別宮として広く信仰されている。天正7年(1579)兵火に遭い、同13年に社殿が再興された。現存する本殿及び拝殿は度々の改造を受けているがこの時の建立で、重要文化財に指定されている。
 三重塔は本殿及び拝殿後方の一段高い敷地に南面して建ち、文化10年(1813)から同13年頃にかけて建立された。心柱には「従文化葵酉霜月至同十二乙亥正月」と記し、併せて1200人をこえる結縁者名を記しているが、その建立の経過は社蔵日記によって詳しく判明する。それによると文化9年、塔再建の願書を京都奉行所に提出、同10年3月7日に京都東西町奉行所の与力・同心・中井主水棟梁の手代塀内政右衛門らの検分を受け、同8月大工らと京都の塔を視察、真如堂の塔が当山にふさわしいとして寸法などを取り、11月には九輪を鋳造、同19日以降12年正月にかけ心柱に多数の法名を連記し、同11年に材木を近在の山で伐り出し、聖地・地搗きを行い、同12年正月釿始め、心柱を立て、同年12月から翌13年にかけて、桧皮を葺いたことが知られ、そのころに完成したものと思われる。

 さて、社務所を訪ねますと、宮司さんは、取り敢えずお上がり下さいと、気さくに出迎えて下さいました。それから、いろいろとお話を伺ったのですが、そのことは明日にします。

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 さて、これから数日は、広告主さまからのアンコールに応えて、ご紹介していくこととします。ホワイトデーも近づいてきましたが、お返しはぐるなび食市場でお探しになっては如何でしょう。こちらから ↓ どうぞ。


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2008年02月24日

丹波国で最初に訪れる塔(その1)

 柏原町に入り、JR福知山線の柏原駅のホームが左手に見える所まで来ますと、今はどのような標識になっていますでしょうか、私が訪れました当時は、柏原町役場への標識がありましたので、そこで道を右に採りました。約300mほど行きますと、右手に柏原町役場(現在は丹波市役所柏原支所)があります。目指す柏原(かいばら)八幡神社は道の正面に見えます小高い山の上にありますが、その山の左手前に、今もありますかどうか、狭い駐車場があります。
 ところで、余り一般的でない五重塔、三重塔をめぐる旅日記としては、ここに、こんな塔があります、ということをご紹介すれば十分なのかもしれませんが、柏原八幡神社の三重塔に関しては、いろいろ書きたいことがありますので数回に分けて書くことし、今日は(その1)としました。
 さて、旅の計画を樹てるに当たり、「ひょうごの塔」に眼を通しますと、「柏原八幡宮は、宮司にお願いすると塔の中に入って拝むことができ」とありましたので、それまでに出版した拙著をご送付したうえ、そのことをお願いしたところ、ご快諾いただくと共に、先に神戸市の太山寺のところで見ました兵庫県教育委員会による「昭和六三年度指定 兵庫県文化財調査報告書」(以後「報告書」)の写をお送りいただきました。実際に訪れましたのは平成12年8月17日のことですが、その事情については長くなりますので省きますものの、ちょっとした行き違いで、宮司さんにお目にかかることができず、したがって、三重塔の内部の拝観もできませんでした。
 そんなわけで、二度と過ちを繰り返さないよう配慮し、平成13年5月4日に再訪しました。その時のことは、明日のこととします。なお、柏原支所の近くには、木の根橋というものがありますが、樹齢およそ600年といわれる大ケヤキの根が、奥村(おくむら)に川にまたがり、橋の欄干のような形になっています。この大ケヤキは、県の天然記念物に指定されています。

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2008年02月23日

ようやく丹波国へ〜プロローグ〜

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、大幅に横道に逸れたうえ、ようやく丹波国へとなります。現実にも、同じ兵庫県内とはいえ、次に訪れます但馬国も含め、これまで訪れた地域に比し山奥といった思いが先に立ち、なかなか訪れる機会もありませんでした。ようやく機会を得ましたのは、平成12年8月のことでした。
 前日の宿を求めた多可町を出発した私は、小野尻峠越えの道で旧氷上(ひかみ)郡山南町(さんなんちょう)、現在の丹波市山南町を目指しました。播磨国であります多可町と、丹波国となります旧山南町の境が小野尻峠です。峠を下り国道175号線を突っ切り、旧山南町の中心部へ向かい柏原方面という道路標識に従って車を進めますと、やがて国道176号線に出ます。そこで左折して暫く行きますと、旧氷上郡柏原町、現在の丹波市柏原町に至ります。
 ところで、「兵庫県の歴史」に眼を通しますと、それまで山陽道のことを記した後、「厄介なのは山陰道であって」として、延喜式にある但馬国の駅馬の地名が幾つか記されています。その中に、現在も地名として残っています八鹿町、村岡町の名が見られます。そして同書を読み進めますと、「丹波もなかなか厄介であって、小野駅(多紀郡篠山町小野)と佐治駅(氷上郡青垣町佐治はよいとして、長柄・是角(ほしずみ)駅については諸説がまちまちである」とあり、「氷上郡柏原町の石生(いそう)あてておく」(ルビは括弧で表記)とあります。
 ここまで来れば丹波国で最初に訪れる最初の塔は、すぐ、そこです。

☆       ☆       ☆

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2008年02月22日

明日は丹波国へ向かいますが……

 現存する五重塔、三重塔をめぐる旅日記のようだから見ているのに、何で関係ない所を、何時までも、うろうろ、しているのか、と思っていらっしゃる方もおられることでしょう。昨日書きましたとおり、私自身、思いも及ばなかったことに気づいて、もう1日だけ播磨国に留まらざるを得なくなりました。
 平成12年の塔めぐりの旅のときですが、時間的には、かつての中町(なかちょう)、現在の多可町(たかちょう)の中心部に宿を求めるしかありませんでした。しかも、私は全くゴルフはやりません(やる余裕がなかったという方が正鵠を得ているかもしれません、<失笑>)が、その日の宿はゴルフ場のクラブハウスでした。と書きましたことにも若干の嘘が混じっていまして、現在の多可町役場の北に量興寺(りょうこうじ)という寺があり、「兵庫県の歴史散歩(下)」に次のように記されているからでした。
 
 ……本堂わきには塔の心礎が残っている。1980〜82(昭和55〜57)年に寺域の発掘調査が行われ、四天王寺式に近い伽藍配置をもった大寺院であったことが確認された。建立年代も出土した瓦などから、寺伝のとおり推古天皇(在位593〜628)の時代に建立され始め、完成したのが文武天皇(在位697〜707)の頃ではないかと推定されている。(ルビ省略)

 かなり大きな心礎でしたが、柱穴には水が溜まって苔に覆われていましたので、穴の状態などは確認できませんでした。

☆       ☆       ☆

今日は、アンケートサイトのinfoQ(インフォーキュー)をご紹介します。こちら ↓ のバナーをクリックしてモニター登録を。クリックしますと、「保護されていない項目を表示しますか」と聞いてきますが、「はい」をクリックしても問題はありません。私は半年以上もログインしています。もしご心配であれば「いいえ」をクリックして下さい。二度聞いてくるかもしれませんが、二度とも同じように処理して下さい。

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2008年02月21日

今日は、加東市内を、うろうろ

 すっかり横道に逸れていますが、五重塔、三重塔をめぐる播磨国の旅も今日で終わりです。と、書きたいのですが……。
 浄土寺を辞し、小野バイパスまで戻り北へ向かいますと、かつての社(やしろちょう)、現在の加東(かとう)市の中心部に至ります。中国自動車道の滝野社インターの2キロほど手前で右折し、国道372号線を北東へ進みますと、西国三十三観音霊場の清水寺への標識が出てくると想いますので、それに従って道を右に採ります。瀬戸内寂聴の「寂聴巡礼」には、「西国三十三所には清水寺が二つある。十六番の京都清水寺と、二十五番の播磨の清水寺である。それに坂東の三十二番の清水寺を加えて、日本三清水寺といわれている」とあります。ところで、ここで私は重大な誤りに、今日、このブログを書くに当たって気づいたのです。拙著で上の「寂聴巡礼」の一節を引用した後、「京都の清水寺、坂東の清水寺には三重塔があるものの」と書いているのです。何を勘違いしたのか、今になっては解らないのですが、おそらく坂東三十三所観音霊場の第11番の安楽寺(埼玉県吉見町)を清水寺と思い込んだのでしょう。同霊場は総て詣でておりますが、第32番の清水寺には三重塔はありません。拙著「塔に魅せられて(近畿・岡山篇)」をご購入いただいた方の中には、いい加減な本だなと思われた方もおられると想います。今の今まで気づかなかったことですが、何と釈明してよいやら、それこそ穴があったら入りたい気持です。
 そんなことで、今日は書く気力がなくなってしまいました。しかし、けじめは付けなければなりませんので、清水寺を辞した後、朝光寺(ちょうこうじ、ここには県文の多宝塔があります)を訪れ、その後、そこから近い現在は加東市となっています旧東条町(とうじょうちょう)の椅鹿谷(はじかだに)廃寺(原位置かどうか、美しい姿の塔心礎があります)を訪れたことだけを書いておきます。
 そんなわけで、冒頭に書きましたとおり、播磨国については今日で終わりということにしたかったのですが、明日も同国に脚を止めます。

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 今日は、アンケートサイトではありますが、ちょっと変わったサイトとして、ものさし君をご紹介します。こちらを ↓ どうぞ。


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2008年02月20日

仏教芸術に興味をお持ちの方なら必見の寺

 何度も書きますように、このブログは現存する五重塔、三重塔をめぐる旅日記です。しかし、塔、ましてや塔跡などには特段の興味をお持ちでなくても、寺の雰囲気や仏教建築全般そして仏像に興味をお持ちの方は少なくないでしょう。そのような方にとって必見の寺として、浄土寺(じょうどじ)をご紹介したいと思います。車で訪れる場合は、昨日書きましたとおり小野市役所で情報を得られればよいと思いますが、一般交通機関で、という方もおられると想います。「兵庫県の歴史散歩(下)」には、神戸電鉄の小野駅から神姫バス浄谷(きよたに)・トクセン経由鹿野行きで浄土寺下車、徒歩2分とあります。
 そして同書には、浄土寺について次のように記されています。

 今の小野市の大部分は、古くは鹿野原(かのはら)と呼ばれる未開の原野だったが、平安末期12世紀の中頃、東大寺の荘園となり、大部庄(おおべのしょう)といわれた。しかし、一時収公されたりして、開発が進まないまま放置されていたのを、1192(建久3)年、東大寺の勧進聖(かんじんひじり)である重源(ちょうげん)が後白河院より申し請け、弟子の如阿弥陀仏(にょあみだぶつ)と観阿弥陀仏(かんあみだぶつ)を派遣し、荘園の経営にあたらせた。その経営の拠点が東大寺の播磨別所(はりまべっしょ)と呼ばれた浄土寺である。ここに浄土堂・薬師堂の2堂を建立し、浄土堂に阿弥陀三尊像を、薬師堂(本堂)には、庄内で荒廃していた広渡寺(ごうどじ)をはじめとする9ヵ寺の破仏を納めたという。(ルビは括弧で表記)

 上に「広渡寺」という寺名が出ていますが、それについて同書では、昨日訪れた広渡廃寺のことと考えられるとあります。まさに、それに違いないでしょう。
 それはさて措き、浄土堂(国宝)は素晴らしい建物であり、本尊の木造阿弥陀三尊立像(国宝)も、その巨大さに圧倒されますが、それだけ見応えがあります。この辺りには一般的な観光スポットがありませんので、訪れる機会は自ら求めなければ得られないでしょうが、車の場合は勿論、電車・バスでの訪れであっても、神戸の中心部から日帰りの行程と思いますので、神戸を訪れられた時に、ちょっと趣向を変えて訪れてみては如何でしょう。
 さて、私は小野市内にある新部(しんべ)廃寺の塔心礎のある所を訪れており、見事な心礎でありましたが、心礎は現在、個人宅の前庭にありますので、ご紹介は差し控えることとします。

☆       ☆       ☆

 もう2月も残すところ10日足らずですが、あっという間に4月を迎えることになるでしょう。4月に小学校に入学するお子さまやお孫さまがいらっしゃる方もいらっしゃるのではないでしょうか。ランドセルは、別にここに限るわけではありませんが、東急グループの会社に勤務していた者として、東急百貨店をご紹介します。こちらを ↓ どうぞ。

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2008年02月19日

実際に辿った道筋とは別のコースで小野市へ

 現存する五重塔、三重塔をめぐる旅日記としては大幅に横道に逸れることになりますが、私としては、播磨国で訪れた所として書いておきたいので、ご批判を覚悟の上で、ということにします。しかし、お読みいただいている方に少しでもお役に立つように、私が実際に辿った道筋や順序とは別に、今にして思えば余裕をみて、このように辿ればよかったというコースを設定することとします。
 起点は山陽自動車道の三木小野インターとなりますので、これまで訪れた所からの便で言いますと、石峯寺を訪れた後、県道38号線を西へ向かい、三木東インターから山陽自動車道に入り西へ向かえば、次のインターが三木小野インターです。ここで降りて国道175号線(小野バイパス)を北へ少し行きますと天神町という信号がありますので、そこで左折し、まず小野市役所へ行くとよいでしょう。そこで道を尋ねられるなり、小野市の観光パンフレットなどを求められれば、無駄な時間を費やすことなく、これからご紹介する所に行けるでしょう。
 まず最初に訪れますのは、市役所から1.5キロほど北にあります広渡(ごうど)廃寺跡ですが、今そこは広渡廃寺跡歴史公園として整備され、国の史跡ともなっています。その公園のパンフレットには、次のように記されています。

 加古川左岸段丘上に所在する古代寺院跡です。七世紀末頃に建立されましたが、平安時代末には途絶えてしまいました。伝承によれば、本尊は、浄土寺薬師堂の本尊として移されたとのことです。
 建物は失われていますが、その基礎となる基壇が残っており、建物の配置がわかります。金堂の前に東西両塔、後ろに講堂を置くことから、奈良の薬師寺と同じ薬師寺式伽藍とよばれるものです。(ルビ省略)

 塔の心礎は西塔のものだけが遺っており、市指定文化財となっています。なお、公園内には、金網に囲まれてはいますが、建物の部材はセラミック製の復元模型が飾られています。
 小野市では、他にもご紹介したい所がありますが、それは明日のこととします。

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2008年02月18日

昨日、書き切れなかった所へ

 今日は、昨日と同じ作用町で訪れていながら、書き切れなかった所を訪れます。
 それは長尾(ながお)廃寺跡ですが、そこは平成12年にも訪れているのですが、その頃からカメラの調子が変になり、同じフィルムにも拘わらず処々撮れていない部分がありました。現存する五重塔、三重塔を訪ねることが主たる目的である旅日記としては、謂わば塔跡は付録のようなものですので、改めて訪れる必要はありませんでした。しかし、翌平成13年の塔めぐりの旅は、高速道路を駆しり続け、一気に鳥取県の米子まで行かねばなりませんでしたので、途中の息抜きのつもりで再訪したのでした。
 作用インターで高速道路から一般道へ出て右へ行き、一つ目の信号を右折、国道377号線を西へ向かい、作用小学校南の信号を右折、作用高校を左に見ながら進み、高校の塀の切れ目の所で左へ折れますと、細い道の先に高校の畜産科の牛舎があります。長尾廃寺跡は、その牛舎の入口から右へ、畦道のように細い道を僅か行った所にあります。その細い道の入口に制作者不明の説明板があり、それには次のように記されていました。

 長尾廃寺の塔心礎は、白鳳時代に建てられた宝光山鶏旭寺のものといい、中世の動乱によって全焼したと伝えられている。(中略)昭和六三年(一九八八)の発掘調査によって、心礎を中心として、塔基壇や寺域がほぼ確認され、法隆寺式伽藍配置を持つ寺院であることが分かった。建物のものとされる礎石が、作用高等学校玄関前に保存されている。(ルビ省略)

 塔心礎がある所には、「史蹟長尾廃寺塔阯 兵庫縣」と刻まれた立派な石柱も立てられていました。
 次いで私は礎石を見るため作用高校を訪れましたが、礎石の傍らに小さな石柱が立てられており、それには「塔の石 昭和三三年果樹園より出土(三個) 白鳳時代(七世紀後半)」とありました。

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2008年02月17日

今日は、作用町を、うろうろ

 現存する五重塔、三重塔をめぐる旅にも拘わらず、昨日と同じく相も変わらず横道に逸れ、今日は作用町を、うろうろ、します。
 かつての揖保郡新宮町、現在は、たつの市新宮町となった所の中心部に近い「道の駅しんぐう」で一休みした私は、国道179号線(出雲街道)を北西へ向かい、作用(さよう)町を目指しました。
 司馬[]太郎の「街道をゆく(因幡・伯耆のみち)」には、次のような一節があります。

 ……播州三日月をすぎ、作用をすぎ、上月をすぎた。播州も、このあたりの地名は典雅でいい。(中略)
 私事になるが、私は播州人が都市に出てきて三世になる。三世ともなると、先祖がすごした山河をみても感動はうすいが、それでも、三日月とか作用、上月といった播州特有の地名に接すると、わずかながら感情に酒精分がまじる。(ルビ省略)

 私も同じように辿って、作用町を目指しました。出雲街道は、JR姫新線に沿っていますが、やがて三日月(みかづき)駅に至ります。そこから少し行きますと、高蔵寺への案内標識が出てきます。しかし、この寺には見るべきものは何もなく、私は、いずれ訪れます京都府宇治市の三室戸寺の三重塔の実家ということで訪れたのです。
 高蔵寺を辞した私は作用町へ向かったのですが、迷うはずもない国道を駆しっていながら、どういうわけか道を採り違えて、先に上月(こうづき)に至ってしまいました。かつては佐用郡上月町であった所も、現在は作用町域になっていますが、その早瀬という集落に早瀬(はやせ)廃寺跡があり、そこへの立ち寄りも、この時の旅の計画に入っていました。しかし、そこの塔心礎の表面は一面の苔に覆われており、石の表情も見分け難い状態でした。
 流れからしますと道を戻るような恰好になりましたが、私は作用町の中心部へ向かいました。岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、早瀬廃寺について、「この寺は満願寺と称したとの伝承があり」とありますが、それとの関係は不明ではありますものの、作用町のシンボルとなっています大イチョウのある所が満願寺跡といわれているという情報を得ましたので、その塔心礎があるという常徳寺に立ち寄りました。しかし、現地には説明板もなく、手元にある書物にも見当たらず、実見した礎石が塔心礎なのかどうか定かではありませんが、私は塔の心礎ではないかと思いました。しかし、早瀬廃寺跡の塔心礎は、やはり早瀬集落にあったものではないでしょうか。とすると、こちらは、という謎が残りますが……。その後の情報から判断しますと、同じ満願寺と称したとはいえ、「日本の木造塔跡」にあるそれと、常徳寺に塔心礎を遺す満願寺とは、別の寺のようですが、決定的な情報には未だ接していません。
 さて、次に目指しました所は、同じ作用町内ですので、続けて書きたいのですが、長くなりましたので、明日のこととします。

☆       ☆       ☆

 昨日に引き続いて今日は、アンケートサイトをご紹介します。アンケートに答えて、ポイントをゲットして、一定のポイントが溜まりますとキャッシュバックを受けられます。マクロミルは、それほど大変ではなく、キャシュバックも、そこそこ受けられ、私も大いに参加しています。こちらから ↓ モニター登録を。

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2008年02月16日

今日は、たつの市内を、うろうろ

 現存する五重塔をめぐる旅にも拘わらず、相変わらず横道を、うろうろ、していますが、今日は、たつの市内です。
 斑鳩寺を三度訪れたことは昨日書きましたが、その三度目の平成13年8月17日のことになります。岩井隆次著「日本の木造塔跡」に金剛山廃寺とある所を訪れましたが、曰くありげな荒れ寺で、目的の塔心礎は見ることができませんでした。
 次いで私は室津(むろつ)を訪れましたが、私が訪れた頃は揖保(いぼ)郡御津(みづ)町でした。以前にも眼を通したことがありますジーボルト著「江戸参府紀行」(平凡社東洋文庫)には、「室明神社」(室津神社)を訪れた時のことが、次のように記されています。

 ……神社の西方の同じような台地にある三重塔のところにでかけた。木造のこの塔は建築術上の真の名作である。つい最近建てられたもので、僧侶はわれわれに上手に描いたその立面図も見せてくれた。われわれはそのコピーを作ろうとし、われわれの思いどおりになった。(中略)この立派な塔の構造を詳しく述べることは、ここではわれわれの本題からあまりそれることになるであろう。ただわれわれは、こういう塔は神道ではなく、仏教とくに真言宗に特有なもので、仏陀礼拝とともに、日本に伝えられたものである、とだけ言っておきたい。

 上の引用文中に、「とくに真言宗に特有なもの」とありますが、申し上げるまでもなく正しくありません。
 さて、ここで平成12年の塔めぐりの旅に戻りますが、平成の大合併により「竜野市」から「たつの市」となった市の中心部に近い国民宿舎「赤とんぼ荘」に宿を求めてあった私は、翌8月16日、宿を出て龍野公園の駐車場に車を入れ、聚遠亭(しゅうえんてい)、武家屋敷、龍野城、うすくち醤油資料館などを歩いて廻りました。既にお気づきの方もいらっしゃると思いますが、ここ龍野は城下町の名残をとどめる町、醤油の町、そして三木露風の童謡「赤とんぼ」で知られ、小京都と呼ばれる地の一つなのです。その後、現在では「たつの市」となっている所にある「中垣内廃寺」や「香山廃寺」を訪れましたが、ご紹介するほどのものではありませんので、省略します。

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2008年02月15日

本道に戻ったにも拘わらず、再び横道にそれ、うろうろ

 本道に戻ったにも拘わらず、また横道に逸れ、うろうろ、しかも姫路市内に戻ってということになりますが、これには、いろいろ事情もありますものの、些末なことですので省略します。
 さて、斑鳩寺へは、私は三度訪れておりますが、二度目の訪れの平成12年8月15日、斑鳩寺を辞した私は、下太田廃寺へ向かいました。「兵庫県の歴史散歩(下)」には、瓢塚(ひさごづか」について、JR山陽本線網干(あぼし)駅下車15分とあったうえ、次のように記されています。

 あぼし駅の北側のバス道を東へ約500mの所に勝原小学校があり、その北東方の山裾を通る県道沿いに瓢塚(国史跡)がある。(中略)
 瓢塚から北へ約500mの田のなかに薬師堂がある。ここは白鳳時代の寺跡で下太田(しもおおだ)廃寺と呼ぶ。付近一帯から古瓦が出土し、心礎を中心に16個の礎石を並べた塔跡(県史跡)の土壇があり、付近に造り出しをもつ礎石が多く集められている。(ルビは括弧で表記)

 そして、現地に姫路市教育委員会などによって立てられた説明板があり、それには次のように記されていました。

 当地は古代の寺院跡である。塔跡(県指定史跡)以外の遺構は不明だが、心礎の形式や出土古瓦の文様から、寺は白鳳時代(七世紀末)の創立とみられる。字名や多数の礎石・土壇についての伝承などから、1町(109m)四方の境内に大門・五重塔・金堂・講堂などの伽藍を配置した大寺院であったと推定されている。(ルビ省略)

 引用だらけになってしまいましたが、今日は、この辺で終わりとします。

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2008年02月14日

ようやく横道から本道へ戻って太子町へ

 数日間、横道に逸れて、うろうろしましたが、現存する五重塔、三重塔をめぐる旅の本道に戻ります。そして、播磨国の最後の塔として目指したのは、姫路市の西隣の太子(たいし)町の斑鳩寺ですが、「兵庫県の歴史散歩(下)」では、この寺の漢字での小見出しのルビとして、普通の状態で上に「いかるがでら」とあり、下に「はんきゅうじ」とあります。
 この寺の由緒や三重塔について、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、次のように記されています。

 西播磨鵤の地に法隆寺の別院と称されている斑鳩寺(いかるがじ)がある。聖徳太子が勝鬘経を講ぜられた時賜わった播磨の水田三百六十町歩を法隆寺に施入され、鵤の庄の基にされたが、ここの管理と仏教の宣布のため設けられたのが斑鳩寺である。その後中世には大いに栄えたが、天文十年(一五四一)の戦乱により堂宇ことごとく焼失、その後赤松広英公により再建されたが、その時の建物としてこの三重塔がただ一基残っている。塔はその露盤と瓦の銘により永禄五年(一五六二)の建立であることがわかる。

 さて、これまで斑鳩寺の訓みが三つ出てきましたが、それにつきましては、お寺で確かめましたところ、「いかるがでら」と明確な答えがありました。また、上には、三重塔の建立年について「露盤と瓦の銘により永禄五年」とありますが、前田重夫氏の「ひょうごの塔」では永禄八年(一五六五」とあり、文化庁監修の「重要文化財」でも永禄八年としていますので、師に異を唱えるようですが、私は文化庁に敬意を表することとしました。
 なお、申し上げるまでもなく三重塔は国の重要文化財に指定されていますが、いろいろ書きますよりは写真を掲載した方が早いので、また同好の方の写真を、お藉りすることとします。こちらを ↓ どうぞ。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/28hyougo/ikaruga3/ikaruga3.html

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 今日のブログの内容とはマッチしていませんが、広告主様のリクエストに応えて、タワーレコードをご紹介します。私は何枚かレコードを持っているのですが、プレーヤーがなく、改めて購入する、というのも、ちょっと躊躇ってしまいます。




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2008年02月13日

今日もまた、一昨日、昨日に続いて、姫路市内を、うろうろ

 姫路文学館を後にした私は、辻井(つじい)廃寺へ向かいましたが、廃寺そのものが、どのようなものであったのか判らず、また、その廃寺にあったという塔の心礎も田の中にあって、私が訪れた時は稲穂が実り始めており、見ることはできませんでした。
 次いで私は、西国三十三観音霊場の第27番札所の書写山(しょしゃざん)円教寺(えんぎょうじ)へ向かいましたが、この寺は寺号よりも山号で知られている寺です。この寺には見るべき建造物が幾つかあり、かつては五重塔もあったようで、江戸時代の「書写山境内図」には五重塔が描かれています。その塔跡が目的でしたが、気づかないまま下山してしまいました。
 ついで私は西脇(にしわき)廃寺へ向かいましたが、第一の目標とするのは、JR姫新線の太市(おおいち)駅です。駅に突き当たったら右に折れ、すぐ先の踏切を越えた所で右折、火の見櫓を右に見て進みますと、用水路の先に朽ちた土塀に囲まれた家があります。このように書いてきましたが、これは全て私が訪れた当時の様子で、今は、どうなっていますことやら、おそらく変わっていることでしょう。その家の裏側の田の片隅に目指す西脇廃寺の塔心礎が置かれています。かつては田の中央にあった(ということは田の一帯が廃寺跡かもしれません)ようですが、農耕に支障があるということで、今の所に移されたといいます。私が訪れた時は、心礎は雑草に覆われていましたので、一頻り雑草とりに専念しましたのも思い出と言えば思い出です。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月12日

今日も昨日に続いて、姫路市内を、うろうろ

 この日(平成13年8月16日)の宿を姫路駅の近くに求めてあった私は、そこへ行く途中にある播磨国分寺跡(国史跡)と、そこから近い下市之郷廃寺跡を訪れました。播磨国分寺跡には、かつては七重塔が建てられていたといい、その塔跡など、幾つかの礎石が遺っています。国分寺跡としては、立派に復元された有数の遺跡と言えるでしょう。ついで下市之郷廃寺跡を訪れたのですが、その時の道筋などを書いた拙著を読み返してみますと、私は嘘を書いてしまったようです。しかし、それを正そうにも、今となっては術がありません。そこには心礎が遺されていますが、おそらく原位置ではなく、昔を偲ぶような環境ではありませんでした。
 翌日、宿を出発した私は、船場本徳寺(せんばほんとくじ)へ向かいました。「日本の木造塔跡」に「北平野廃寺」として紹介されている廃寺の塔心礎が、この寺の手水鉢として遺されているということで訪れたのですが、今はどうなっているか判りませんものの、当時、構えは大寺でありながら荒れ放題といった状態で、人は誰もいず、勝手に中に入れるような有様でした。そんなわけで、拙著でも塔心礎のある場所を記載するのに苦労しましたが、今となっては、何とも説明のしようもありません。塔心礎の傍らには興味深い石造物もありましたが、そんなわけですので、総て省略いたします。
 ついで私は、白鷺城(ここへは以前に訪れていますので、この時は省略しました)の西、船場川に架かる市之橋を渡った先にある姫路文学館へ向かいました。その館内の展示物に興味もありましたが、私の目的は館内の一番奥にある望景亭の庭にあるという塔の心礎にありました。この塔心礎は、元は播磨国分寺跡の南にある見野という所にあったものといわれ、その地名から見野廃寺塔心礎と呼ばれているようですが、となると、あの辺りには、かつて3基の塔が並び立っていたことになり、さぞ壮観な眺めであったことでしょう。
 現存する五重塔、三重塔をめぐる旅日記としては、横道に逸れること甚だしきものになってしまいますが、今は姫路市となっている辺りが、かつて、どのような所であったかを識っていただきたく、明日もまた、姫路市内を、うろうろします。

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2008年02月11日

昨日に続いて、今日は姫路市内を、うろうろ

 時は一乗寺を再訪した翌年の平成13年の8月16日のことになりますが、私は溝口(みぞぐち)廃寺跡(県史跡)を訪れました。この廃寺跡について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、次のように記されています。

 姫路市の北方、播但線の溝口駅の近くに聖徳太子大塔跡と伝えられている大きい寺の遺跡がある。その一廓の西南部に巨大な心礎があり、その周囲に礎石が一〇個、その手前(北東)にもう一つ小さい心礎と、枘穴のある礎石が一個ある。

 続いて同書には、その大小の心礎について詳述した後、その大きさの相違から、「東西両塔心礎と見るのは均衡が取れず無理で、ほかの寺の心礎を持ち込んだものであろう」とあります。
 突然のようですが、今日は、これまでとします。と言いますのは、この溝口廃寺跡の所在地は、今では姫路市内となっていますが、私が訪れた頃は、神埼郡香寺(こうでら)町溝口字聖徳山であり、私が訪れた頃のこととしては、ここで一応の区切りとしたいと思うからです。
 昨日に続いて、現存する五重塔、三重塔をめぐる旅日記としては逸脱の連続となりますが、明日もまた、私としましては塔めぐりの旅の一環と思っています所を、ご案内したい考えでおります。

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2008年02月10日

塔キチとして、加西市を、うろうろ

 現存する五重塔、三重塔をめぐることが主たる目的の旅としては横道に逸れるようですが、暫くは横道を歩くことになるでしょう。
 多田廃寺跡を後にした私は五百羅漢の石仏で有名な北条石仏へ向かいましたが、ここを訪れるのは二度目で、最初の訪れは平成元年8月11日でした。いずれも、一乗寺を訪れたついでの訪れでしたが、石仏に惹かれていた時もありました。ただ、詳しくは書きませんが、北条石仏はそれなりに興味深いものではありましたものの、私の期待に反するものでした。そして、その二度の訪れの時に、近くにある酒見寺(さかみでら、書によっては、さがみでら、さがみじ、ともあります)を訪れています。この寺には、国重文指定の多宝塔がありますが、この塔は寛文2年(1662)の建立といいます。
 酒見寺を辞した私は、吸谷(すいだに)廃寺へ向かいました。この廃寺は、一乗寺、北条石仏、酒見寺の所在地と同じ加西(かさい)市内にありますので、未だに加西市内を、うろうろしていることになります。吸谷廃寺は、北条石仏の西の加西市吸谷町にあったようですが、その廃寺の心礎などの礎石は、現在は同地にある慈眼寺という寺の庭池の石組に利用されています。廃寺は白鳳建立の寺と思われるとのことですが、現地には説明板もなく、心礎らしいものはありましたものの定かではありませんでした。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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