2008年03月23日

何と命名してよいのか難しい三重塔

<また間が空いてしまいました>

 五重塔、三重塔をめぐる備前の旅の二つ目の塔は、大滝山(おおたきやま)の三重塔ですが、ちょっと面倒なことがあります。と言いますのは、文化庁監修の「重要文化財」、小学館発行の「探訪日本の古寺」、現地に備前市教育委員会により立てられていた説明板には「大滝山三重塔」とあり、塔に関する我が師、中西亨先生の「塔の旅」では「福生寺(大滝山)三重塔」とあり、また同先生の「日本塔総鑑」では「福生寺」の下に括弧書きで「大滝山 福寿院外二か院」とあり、更に「岡山県の歴史散歩」では「大滝山福生寺(真言宗)」と寺の名を記し、その寺の三重塔としているからです。拙著「塔に魅せられて」(近畿・岡山篇)では「大滝山三重塔」としましたが、ここでもそうすることとします。ちなみに、現地の説明板には、次のように記されていました。

 元禄十四年(一七〇一)に書かれた縁起書には「鑑真和尚が大滝山を修業の道場とし、報恩大師が備前四八か寺を整備するにあたり、その一つに加えられ、後年真言宗に属した。その後、万寿元年(一〇二四)に全焼したが、観応年間(一三五〇〜一三五二)に足利尊氏の発願により再興され、一時は、三三寺坊を数えた。」とある。(ルビは省略)

 要は、山号か寺号のどちらを採るかの違いとも言えますが、これ以上の詮索は止めましょう。
 さて、伊部の町並みを後にして少し行きますと、大内という地名が眼に入ってきますが、同時に福生寺への標識も見えてきます。標識に従って信号を右折、山陽新幹線の高架をくぐり、山手の方へ車を進めますと程なく地蔵堂に至ります。山道を更に登って行きますと道が二股に岐かれる左手に、現在の伽藍の中心部があります。目指す三重塔は、更に行き、江戸末期までは宝寿院や本命院があったという辺りに車を置いて、細い山道を少し登らなければなりませんが、三重塔については明日のこととします。

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 さて昨日の土曜日を休んでしまいましたので、こちらを ↓ どうぞ。

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2008年03月19日

国道の排気ガスの影響が心配される三重塔

 まず、この寺の略歴などについて、塔に関する我が師、中西亨先生の「日本塔総鑑」(以下「総鑑」)には、次のように記されています。

 真光寺(しんこうじ)は福生寺と同じ備前市に属する片上港にある真言宗の古刹で、やはりかの報恩大師の開かれた備前四十八か所の一つといわれ、現在室町時代の本堂以下数棟の古建築を残し、塔頭二院が残っている。この三重塔はもともとここのものではなく、邑久郡牛窓の蓮花頂寺の塔を慶長十五年(一六一〇)に移したもので、二層東面に「塔作事慶長十五年九月吉日……」の墨書があり、他にも「慶長」の文字が五か所程残されている。もっとも蓮花頂寺という寺は現存しないのでどこかよくわからない。建立年代は資料がないのでわからないが様式的にみて室町時代のものであろう。

 現地には備前市の教育委員会により説明板が立てられていましたが、それには蓮花頂寺(れんげちょうじ)からの移築時期について、棟札によるととして慶長18年(1613)とありました。細かな考証は別として、室町時代の建物であることに間違いなさそうで、国の重要文化財となっています。
 中西先生は「総鑑」の中で、「すぐ前に国道二号線と国鉄赤穂線が境内を横切って走っているので、また煙や排気ガスが心配である」と記されていますが、掲載されている写真の撮影年月日は昭和41年11月7日となっています。この頃は、赤穂線は石炭で走っていたのでしょう。今は煙の心配はありませんが、排気ガスが心配であることは、その時以上でしょう。
 三重塔については同好の士の写真を、お藉りします。こちらを ↓ どうぞ。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/33okayama/sinkou3/sinkou3.html

 真光寺を後にした私は、備前焼の町として知る人ぞ知る伊部(いんべ)に立ち寄ったうえ、五重塔、三重塔をめぐる備前の旅の二番目の塔のある所へ向かいました。

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 そろそろ春の旅行シーズンになりますね。今日は宿プラザ「株式会社日本旅行」をご紹介します。宿探しは、こちらから ↓ どうぞ。

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2008年03月18日

国道に分断された境内に建つ三重塔

<体調が悪く数日ブログを書く気力も出ませんでしたが、ようやく>

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、ようやく塔のある所ということになりますが、岸井良衞著「山陽道」には、次のような一節があります。

 片上村も坂道である。村へ入って直ぐに一里塚がある。坂倉へ九里、姫路から十二里。ここは、この辺での繁昌の村である。
 昔は入海潟であったことから、潟上(かたがみ)と書いていたのが、いつの時からか今の片上と書くようになった。(中略)
 右の山に真言宗の真光寺という大きな寺が見える。三重の塔もあり、末寺もいくつかあって、ここも繁昌のように見える。(ルビは括弧で表記)

 上の一節にあるように真光寺(しんこうじ)には今も三重塔が残っていますが、初めて訪れましたのは平成元年8月11日でした。旧閑谷学校を後にした私は、国道2号線に戻り西へ向かいましたが、途中から左手にJR赤穂線が寄り添ってきます。そして、西片上(にしかたかみ)駅を左に見た直ぐ先の右手に三重塔が見えてきます。最初の訪れの時は、交通量の多い一ケタ道路を信号もない所で右折するのが何となく危ぶまれ、たまたま左手にあった小さな空地に車を駐めました(境内には数台駐められる駐車場があります)。そして何気なく左の赤穂線側を見ますと立派な仁王門が見えましたが、後に国道2号線の建設によって真光寺の境内が分断されたことを識りました。
 寺の略歴や三重塔のことについては、明日書くこととします。

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 さて、今日は土曜日ではありませんが、先週の土曜日のブログを休んでしまいましたので、こちらを ↓ どうぞ。

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2008年03月12日

まず備前へプロローグ(その2)〜 まず備前へ〜プロローグ(その2)〜

 昨日もブログを休んでしまいました。別に身体の具合が悪かったわけではありませんので、よそ事ながらご心配なく。

 五重塔、三重塔をめぐる岡山県の旅は、まず、備前へということになります。しかし、旧備前国の塔めぐりは、車であればともかく、公共交通機関でということになりますとやっかいで、相当の日数を要するでしょう。塔だけを目的に巡る場合、車であれば二日もあれば廻れると思いますが、途中には一般的な観光地も数多くありますので、それをも含めて、ということになりますと、1週間ぐらいはかけたいところです。
 その一般的な観光地の一つと言えるでしょうが、風光明媚といった所ではありませんものの、これから辿る道筋にある所として、まず旧閑谷(しずたに)学校(国特別史跡)を訪れることとしますと共に、皆様にも、お奨めしたいと思います。
 国道2号線で兵庫県と岡山県の県境の船坂トンネルを抜けた岡山県側は備前市ですが、山陽自動車道をくぐった先にある標識に従い右折、県道261号線を進み、再び山陽自動車道をくぐった先にあります。塔めぐりの目的とは別ですので簡単に書きますが、総延長765m余あるといいます、かまぼこ型の石垣(国重文)に囲まれて、国宝の講堂を初めとして、国重文の建物など見応えのある建物が広い敷地に幾つか建ち並んでいて壮観です。

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2008年03月10日

岡山県の塔めぐり〜プロローグ(その1)〜

 一昨日、昨日は野暮用でブログが書けませんでした。

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、既刊の拙著「塔に魅せられて(近畿・岡山篇)」(第4巻)の最後となる岡山県へとなります。まず、この県の風土などについて見ておきたいと思いますが、山川出版社刊「岡山県の歴史散歩」には、「岡山県にとっては、中国山地は父親であり、瀬戸内海は母親である」とあったうえ、次のように記されています。

 県のほぼ中央を東西にのびる西高東低の吉備(きび)高原によって、岡山県は県北と県南に分けられる。いわば中国山地と瀬戸内海という両親の間にできた兄弟であり、昔は高梁(たかはし)川・旭(あさひ)川・吉井(よしい)川の高瀬舟で、今は伯備(はくび)線・津山(つやま)線や、整備された自動車道で南北が結ばれ、同じ県としての一体性を保ち続けてきた。(中略)
 ……弥生後期(三世紀)には、備中(びっちゅう)南部にある楯築(たてつき)遺跡に代表されるように、各地域に大首長に連合した首長群を生みだし、吉備地域を領域とする大きな勢力範囲を形成した。その領域は美作(みまさか)・備前(びぜん)・備中・備後(びんご)に及ぶ今日の岡山県と広島県東部を網羅した広い地域であった。(ルビは括弧で表記)

 そして、同じく山川出版社刊の「岡山県の歴史」に眼を転じますと、次のように記されています。

 吉備において分国が完成をみるのは、天武天皇十二(六八三)年十二月から同十四年十月にかけて、全国的に実施された国境の確定作業を待ってであろう。そして最終的に分国が実現するのは、持統天皇三年の浄御原令の施行後であったとみられる。(中略)
 美作国はそれから遅れること二十数年後の和銅六(七一三)年のことである。

 ところで、岡山県には、江戸期以前の層塔が十五基もある。これは、京都府の十四基、奈良県・兵庫県の十二基に勝る数である。しかも、そのおよそ半数の七基が、国の重要文化財に指定されている。

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2008年03月07日

兵庫県で訪れる最後の塔

 平成13年5月3日、名草神社を後にした私は、妙見山を下り八鹿町の中心部まで戻り、国道9号線へ出て西へ向かいました。13キロほど駆しりますと妙見山の南麓といった所に出ますが、今の状態は判りませんものの、当時は、これしか方法がありませんでした。そして、そこら辺りで国道は北へ向かいますが、やがて旧美方郡村岡町、現在の美方郡香美町村岡の中心部に至ります。更に車を進め村岡トンネルを抜け僅か行きますと、目指す但馬大仏こと長楽寺(ちょうらくじ)の案内看板が見えてくるはずです。はずです、と書きましたが、私は実際には逆の方向から辿ったからです。
 さて、村岡町・村岡町観光協会発行のパンフレット「ようこそ、村岡へ」を見ますと、「長楽寺―但馬大仏」という見出しのもとに、次のように記されています。

 70mという日本で二番目の高さを誇る平成の文化財の五重塔や大仏殿、大門、回廊などが、平成3年12月の落慶を目ざし、急ピッチで工事が進められています。大仏殿には、奈良の大仏の高さを上回る15・9mもある木造の釈迦如来像や薬師如来像などが納められます。

 言ってみれば、先に訪れた越大仏清大寺五重塔の姉妹篇のようなものです。清大寺の五重塔については先に書きましたが、こちらは、どうなっていますことやら。

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2008年03月06日

もう少しで室生寺五重塔と同じ被害を

 室生寺の五重塔が台風で大きな被害を受けたことを知っている人は、塔に興味がない方でも、そこそこおられるのではないでしょうか。昨日見ました「転入、転出、流転の塔」には、次のように記されています。

 ……昭和五十九年二月の豪雪で三重屋根に四b余積もった雪が二重背面屋根に落下して塔を大破した。取敢えず素屋根を組んで保護策を講じ、翌昭和六十年九月から半解体修理に着手して昭和六十二年七月工事を終了したが、今回の修理を機会に外部に光明丹塗を施し鮮やかな姿に復旧した。なお、平成三年九月二十八日颱風十九号で塔に並んで立っていた妙見の大杉(高さ四八b、樹齢一五〇〇年)が根元から折れて三重塔の屋根に当たり軒の一部を破損したので緊急修理を施してある。

 私が訪れた時には、その倒れた杉の大木が、塔の近くに横たえられていましたが、この大木が塔に向かって倒れてきたのであれば、「軒の一部を破損した」だけで済んだのは、不幸中の幸いと言うべきであろうと思ったと共に、室生寺の五重塔のことを思い出したりしたものでした。
 ところで、私のように塔に魅せられて神社を訪れた人の中には、三重塔だけを拝観して、それより少し登った所にある神社の本殿などは割愛した人もあるかもしれません。国指定の重要文化財である三重塔と異なり、こちらは県指定の重要文化財ですが、本殿に参拝、拝観することをお奨めしておきたいと思います。そして、本殿の前に建つ拝殿も、見応えのあるものでした。
 明日は、ちょっと用事ができて、ブログを書けないかもしれません。

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 私は、もう若くはないので略語は使いたくないのですが、最近はメタボでお悩みの方も増えていますよね。そんな方は、大豆気分の、こちらの商品 ↓ を、お試しになっては如何でしょう。


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2008年03月05日

出雲大社から移建された三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅としては、ようやく名草神社の三重塔を拝観するということになるわけですが、この三重塔について、塔に関する我が師、故吉田実氏が「神戸史談」に発表された「転入、転出、流転の塔」には、次のように記されています。

 ……戦国大名尼子経久(一四五八―一五四一)が出雲、伯耆、因幡、隠岐をあわせて山陰に雄飛したとき、仏教信仰に熱心であった経久は出雲大社と天台宗浮浪山鰐淵寺との習合をすすめ、永正五年(一五〇八)出雲大社仮殿式(高さ六丈六尺)造営に着手し、仏教様式を強く打出した社殿のほか、大日堂、三重塔、輪蔵を建立し、永正十六年(一五一九)四月御遷宮式を執り行った。(中略)降って寛文の大社造営に向けて、このときの宮司千家尊光と北島恒孝は、大社の神仏習合を廃し、神仏分離の実現を目指して松江藩々主松平出羽守直政に働きかけ、幕府寺社奉行を通じて四代将軍家綱より朝廷に奏請して許可を得、ついに仏色を排除して唯一神道に復帰することを果たした。この結果、出雲大社に三重塔は不要とされるに至った。
 大社造は高殿に造ることが切実な願望であったから、寛文造営では正殿式(高さ八丈)の本殿に造ることと、仏塔堂の破却を幕府が承認したので、この方針により寛文二年(一六六二)九月造替が開始された。しかしこの頃は斯様な高殿を造るに必要な柱材の入手が至難となって居り、全国を探した結果、大阪の材木商岡田半右衛門から但馬妙見山に大杉があることを聞き漸く用材の確保が出来た。妙見杉十二本の提供者日光院は杉の代金で二重塔(多宝塔のことか)を再興し度い計画であったが、出雲大社で三重塔が不要になったことを聞きその譲り受けを申し入れて大社の承認を得た。

 そんな三重塔の姿については、この ↓ 写真を見ていただくこととして、詳細については明日のこととします。なお、写真にマウスを当てると拡大、縮小されます。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp:80/2002toba/nakusa13.jpg

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2008年03月04日

ようやく但馬国で訪れる最初の塔へ

 五重塔、三重塔をめぐる但馬国の旅も、ようやく最初に訪れる塔へ向かいます。それは名草(なぐさ)神社の三重塔ですが、「兵庫県の歴史散歩(下)」には、名草神社の手前にある日光院(にっこういん)への交通の便について、「JR山陰本線八鹿駅全但バス石原行終点下車10分」とあったうえ、「八鹿の町並を過ぎ、小佐(おさ)川に沿って妙見山の麓石原までバスで行く。そこから急な坂道を上ると、左手に杉の古木に囲まれた日光院(真言宗)が見えてくる」(ルビは括弧で表記。次の引用文も同じ)とあります。更に、同書には次のように記されています。

 日光院からさらに8qほど上った妙見山の中腹に延喜式内社の名草神社がある。江戸時代までは、日光院と名草神社は神仏習合の妙見宮として一体のものであった。日光院は妙見宮の別当寺として栄え、多くの塔頭(たっちゅう)をもち、山陰一の規模をもった大霊場であった。また、関西・中国両地方の妙見社の総本家として、熊本の八代(やつしろ)妙見、福島の相馬妙見とともに日本三大妙見の一つに数えられていた。

 私は、この地を平成13年5月3日に再訪していますが、この時は、日光院の境内の石楠花が満開で、眼の保養をしました。
 さて、目指す名草神社は、公共的な交通機関で訪れる場合は、上にありますとおり8キロの山道を登らなければなりません。健脚の方であればともかく、そうでない方は、八鹿駅からタクシー利用ということにせざるを得ないでしょう。私は二度とも車での訪れでしたが、妙見蘇武林道を暫く駆しらなければなりません。そんなわけで、今日は神社でいただいたリーフレットに記されています神社の由来についてご紹介するに止め、三重塔のことについては明日のこととします。

 敏達天皇十四年の春四月、養父郡司高野直夫幡彦(たかのあたいふばたひこ)が紀伊国名草郡より来りて、郡民が悪い疫病や五穀(ごこく)の病虫に苦しむことを憐れみ、祖神である名草彦神をまつったものだと神社では伝えています。また今から一〇〇〇年前にかかれた延喜式(えんぎしき)に神社名があることから式内社(しきないしゃ)といいます。また戦前は県社でした。
 神道では天御中主神、真言宗では妙見菩薩(みょうけんぼさつ)、天台宗では尊星王大士、日蓮宗では北辰妙見菩薩といって、北極星や北斗七星を神仏として祀りました。これを北辰北斗(ほくしんほくと)といいます。このため星を神として祭る名草神社を妙見社とか妙見さんと呼びます。星が人の運命の長短を支配すると信じ、山名宗全を初めとする多くの武家が戦勝祈願をしました。江戸時代には村岡藩や出石藩の祈願所にもなりました。

☆       ☆       ☆

 ところで、名草神社は一般の観光客が訪れるような所でないためでしょう、私が行った時は近くに茶店などありませんでした。今でも、そうでしょう。半日ないし一日がかりとなるでしょうから、八鹿の町のコンビニで、おにぎりなど求めていった方が無難です、おにぎりの中味は、何が好きですか。辛子明太子など美味しいですよね。こちらで ↓ どうぞ。


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2008年03月03日

但馬国での第一の目的地へ向かう前に

 昨日は、時間がなくて、ブログを欠けませんでした。

 五重塔、三重塔をめぐる本来の旅として、但馬国で最初に訪れる所へ行く前に、宿を求めた出石町などのことについて、ちょっと触れることとします。
 出石町は、小京都と呼ばれるだけあって見所が沢山ありますが、ここでは、ただ一つ宗鏡寺(すきょうじ)について、ご紹介することととします。寺発行のリーフレットには、次のように記されています。

 開基は山名氏清公で明徳三年(一三九二年)頃に創立されております。山名氏は代々禅法に帰依し、宗鏡寺は数ヵ寺の塔頭寺院を有して、山陰唯一の伽藍を誇っていましたが、織田信長の第二回但馬征伐で羽柴秀吉のため山名家が亡び、寺もまた荒廃しました。元和二年(一六一六年)出石城主、小出吉英公により中興されました。中興開山は沢庵和尚であります。(ルビ省略)

 私がこの寺を採り挙げましたのは、沢庵和尚ゆかりの寺ということもありますが、別の理由があります。この寺では、いろいろな石造物を見ることができますが、その中の一つとして、庭の片隅に但馬国分尼寺の礎石といわれているものがあります。しかし、その礎石は何の建物のものか明確にはなっていないようです。この程度にしておきますが、出石町は神社仏閣などに興味がない人にとっても、訪れる価値があるでしょう。
 出石町を散策した後、私は但馬国分寺跡がある旧城崎郡日高町、現在の豊岡市日高(ひだか)町へ向かいました。まず、JR山陰本線の江原(えばら)駅の裏手にある町役場(現在は日高総合支所)を訪ね、国分寺跡の場所を教えて貰いました。しかし、今では新興住宅地と化した所に、何の建物のものか礎石が一つ、ポツンと擱かれているだけでした。

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 今日は、お雛まつりですね。そして、もうすぐホワイトデーになりますね。私は義理チョコも貰えませんでしたが、義理であれ何であれ、チョコレートを貰った男性の皆様、お返しの品物は決まりましたか。決まっていない方は、月の土地など如何でしょう。私はお返しの心配がありませんので、中味は余り知らないのですが、夢があって良いのではないでしょうか。こちらで ↓ どうぞ。

月の土地が買えるってホント?
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2008年03月01日

但馬国へ〜プロローグ〜

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、いよいよ但馬国へ、となります。
 平成12年8月17日、高源寺を後にした私は、国道427号線まで戻って北上したのですが、その道筋について、拙著「塔に魅せられて」(近畿・岡山篇)で誤った記述をしてしまいました。(こうやって書いていながら、拙著における誤りの多さに呆れています。)しかし、開き直るようですが、どこがどう、という点については煩わしくなりますので省略し、正しい道順について書いていきます。
 途中にある遠阪トンネルの中に丹波国と但馬国の境があり、トンネルを抜けますと現在の朝来(あさご)市山東(さんとう)町となり、そのまま車を進めますと国道9号線へと入ります。僅か行きますと、旧朝来郡和田山町、現在の朝来市の中心部である和田山町に至りますが、一桁の国道を駆しるのは味気ないと思いましたので、僅か行った所にある宮田という信号で右折し、円山(まるやま)川に架かる糸井橋を渡って左折し、川を挟んでJR山陰本線と並行する県道104号線を北へ進みました。そして、旧養父(やぶ)郡養父町、現在の養父市域に入った少し先で道を左に採り、再び円山川に架かる橋を渡り国道312号線に出て車を北へ進めました。僅か行きますと旧養父郡八鹿(ようか)町、現在の養父市の中心部に至ります。私の計画では、そのまま但馬国で最初に訪れる塔へ向かうこととしていましたが、生憎にも途中から降り出した雨が本降りとなってしまいましたので諦めて、この日の宿を求めていました、旧出石郡出石町、現在の豊岡市出石(いずし)町へ向かいました。その後のことは明日のこととします。

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 さて、今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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