2008年04月30日

備前国の塔めぐりも五つ目の塔へ

 五重塔、三重塔などをめぐる旅日記も、またまた1週間のブランクができてしまいました。漸く備前国で五つ目の塔のある寺へとなりますが、それは西大寺(さいだいじ)です。
 餘慶寺を後にし県道28号線まで戻って右折、吉井川に架かる新永安橋を渡って直ぐ、戻るような恰好で鋭角に曲がる細い道へ右折して進みますと、吉井川の堤防に突き当たります。道は左へ折れますが、道なりに僅か行きますと、西大寺の横手に出ます。
 まず、この寺の由緒などについて、「岡山県の歴史散歩」に眼を通しますと、次のように記されています。

 ……創建は「金陵山古本縁起」(県文化)によると、周防国玖珂庄司の妻皆足が、751(天平勝宝3)年この地に小堂を建てて千手観音を安置したことに始まり、その後安人差し指サイン上人が伽藍を建てたものという。中世には、観音院をはじめ多くの塔頭があったが、現在は観音院のみが残っている。
 「金陵山」の扁額を掲げた重層の仁王門は、元文年間(1736〜41)、江戸中期の建立という。その右手に、大日如来像を安置する高さ6丈8尺(約22m)の三重塔(県文化)がある。1678(延宝6)年典翁上人のときのもの。その南隣に竜宮城の門を思わせる石門がある。これは1819(文政2)年正翁上人のとき、竜宮になぞらえてつくったもので、楼上に「竜鐘楼」の扁額がかかげられている。この石門の外側は吉井川に続き、そこには垢離取場があった。噴水の石造観音像をなかにした浄水だまりで、会陽(県民俗)のとき、裸体の群れはここで身体を清めて宝木の争奪戦に参加した。(ルビ省略)

 さて、仁王門をくぐって境内に入りますと、上にもありますとおり、まず三重塔が眼に入り、その向こうに本堂があります。境内は砂地で殆ど樹木がなく殺風景であり、堂塔は鳩の糞にまみれ薄汚いというのが第一印象でした。ところで西大寺といえば、何といっても会陽(えよう)で有名ですが、上記の書には、次のように記されています。

 広い境内の中央に、本瓦葺の大屋根のそびえているのが本堂である。本尊の千手観音像を安置するこの本堂は、1863(文久3)年西大寺の大工岡弥右衛門幸家が建てたもので、正面12間・側面14間・高さ11間という宏壮なもの。会陽のときは本堂の前面に間口8間・奥行5間の大床をつくり、数千の裸体の群れがおしあい、御福窓から住職が投下する陰陽の宝木を奪いあう。大屋根の重みに加えて、この荒れ狂う群集の重みを支えて今日に至った建築技術のすばらしさに驚嘆のほかはない。(ルビ省略)

 今日は、ここまでとして、三重塔については明日(?)にします。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月24日

備前国としては四基目の塔へ向かいます

 五重塔、三重塔をめぐる備前国の旅も四基目の塔へということになります。時は平成13年8月18日のことになりますが、牛窓町を後にした私は、餘慶寺(よけいじ)へ向かいました。県道28号線(岡山牛窓線)を道なりに岡山方面へ暫く駆しり、西大寺浜の交差点で右折して更に車を進め、信号のある交差点を右折しますと、餘慶寺への案内標識がありますので、それに従って山道(門前まで舗装されています)を登ります。登り詰めた所が餘慶寺の境内で、特段の駐車場はありませんが、広い境内の端に車を駐めることはできます。私が、この寺を最初に訪れたのは平成元年8月11日でしたが、平成11年7月4日に再訪しており、この度は再々訪ということになります。といいますのも、ちょっと気になっていたことがあったからです。それは、この寺にある三重塔の建立年のことでしたが、そのことは、三度目の訪れの際にも解決せず、帰宅してより寺に照会し、色々な資料をお送りいただき、漸く解決するに至ったのです。その資料の中に、「当山の三重塔は本年三月十二日に県の重要文化財に指定されました。それを機会として、パンフレットを作成いたしました」というパンフレットも同封されていましたが、以下は、それに眼を通すこととします。

 餘慶寺は天平勝宝元年(749)に日待山日輪寺として開山されました。その後、9世紀から12世紀頃には本覚寺と呼ばれていましたが、そのころには三重塔を含む七堂伽藍が整っていました。(ルビ省略)

 しかし、12世紀末の源平の争乱によって一山塔頭は消失したといいます。その後、寺院の復興は時代の進展と共に進んだようですが、塔の再建までは至らなかったとのことです。しかし、江戸末期になって、本格的な木造三重塔再興の気運が起こったとのことですが、資財が乏しく息詰まったともあります。しかし、6年がかりで寄進を募り、文化12年になって、漸く三重塔が再建されたといいます。
 その三重塔については、やはり写真を見ていただいた方が早いでしょう。こちらを ↓ どうぞ。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp:80/2002toba/yokeiji12.jpg

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 さて今日も、旅の宿シリーズとして、ジェイヤドをご紹介します。こちらを ↓ をどうぞ。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 23:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月23日

朝鮮通信使のことは明日にでもと書きながら

早いもので、1週間以上過ぎてしまいました。
 
 さて、五重塔、三重塔をめぐる旅日記としては脇道に逸れる感がありますが、朝鮮通信使について、ちょっと見ることとします。 申維翰(シンユハン)著「海遊録」の訳注者であられる姜在彦(カンジエン)先生は、同書の「解説」で、「二百六十余年にわたる江戸期の日本は、朝鮮との間に善隣関係がつづいた特筆すべき時期である」が、「日本史では、長崎をつうじて清国やオランダと貿易したことについては多く語られているが、徳川幕府が正式に修好した国が朝鮮であることは、あまり知らされていないようだ」と記されています。
 そして、司馬[]太郎(日本)、陳舜臣(ちんしゅんしん・中国)そして故金達寿先生(朝鮮)の鼎談を収録した「歴史の三差路にて」の編集ノートには、次のように記されています。

 一六〇五年、徳川家康と朝鮮王とのあいだに和約が成立し、二代将軍・秀忠の一六〇七年を第一回目として、十一代・家斉(いえなり)のとき(一八一一年)まで、十二回を数えた。一行の人数は三百人から五百人で、当時、日本の知識人、とくに儒者は朝鮮を尊敬していたので、その道中に使節をさかんに訪問して、知識吸収につとめた。幕府も威信を高めることになるため、多大の犠牲を払って手あつく一行を接待した。
 しかし、江戸時代中期以降になると、幕府財政が窮乏して、しだいに接待方法も簡素となり、十九世紀に入ると、内政・外交の急迫から、一八一一年の通信使は対馬で接待することになり、そしてこれが最後となった。(ルビは括弧で表記)

 以上で朝鮮通信使というものの概略を知ることが出来ますが、申維翰は、牛窓の印象を、次のように記しています。

 日が西に傾く頃、牛窓に泊す。遙かなる山は湾を控え、景観が爽濶である。竹を挿して魚梁(やな)となし、遠近には網船や釣艇が散在する。湾上の人家は、数千戸はあろう。
 使館の供帳は、韜浦の如くに盛んである。傍らに一塔あり。上に銅柱をたて、半空に高く突き出ている。名は本おやゆびサイン寺という。
 
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 さて今日は土曜日ではありませんが、今度の土曜日は書けそうにもありませんので、こちらを ↓ どうぞ。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月14日

朝鮮通信使の接待所ともなった寺に建つ三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる岡山(備前)の旅も、三つ目の塔のあるおやゆびサインへと向かいます。国道2号線を伊部東の信号まで戻った私は、そこで右折し国道250号線に入り、備前ICまで行き、岡山ブルーラインで邑久(おく)ICまで車を進めました。そこで自動車専用道を降り、牛窓(うしまど)方面へ7キロほど行きますと丁字路になりますが、その左右に延びる道は牛窓往来で、左折して進みますと、旧邑久郡牛窓町、現在の瀬戸内市牛窓町の中心部に至ります。そして、牛窓港の辺りまで行きますと、左手の小高い所に、目指す本おやゆびサイン寺の三重塔の先端部分が眼に入ってきます。港から古い町並みの細い道に入りますと、すぐ左手に本おやゆびサイン寺への細い参道が口を開いています。この寺の三重塔について、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、次のように記されています。

 東備前の要港牛窓は古くから港町としてさかえ、又風景のよいので知られている。その港の後の小丘上にそびえているのがこの本おやゆびサイン寺の三重塔である。本おやゆびサイン寺(ほんれんじ)は京都妙顕寺の妙実の法華堂の建立にはじまり、永享中日暁上人が住持し、その帰依者石原道高の力によってできた今の本堂(重文)が明応中に完成している。番神堂三棟も同じ頃のものであろう。他の三重塔や祖師堂はもっとおくれて江戸時代のもので、塔は寺伝では元禄三年(一六九〇)建立となっている。

 短い参道を進んで石段を登りますと、中門(国重文)があり、それをくぐりますと本堂、番神堂(国重文)、そして三重塔・祖師堂(いずれも県文化)が建ち並んでいます。三重塔については、例によって、こちら ↓ の写真で見ていただきましょう。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/33okayama/honren3/honren3.html

 さて、本おやゆびサイン寺について、、小山和著「古道紀行・吉備路」には、「江戸時代、前後十二回来朝した朝鮮通信使の、初期の接待所にあてられた寺」とありますが、朝鮮通信使については、明日にでも少し詳しく見ることとします。

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 さて、今日も旅の宿シリーズとして、「まいやど」を、ご紹介しましょう。こちらで ↓ どうぞ。



posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月13日

福生寺三重塔を訪れたならば是非ここへも

 福生寺三重塔を後にした以上、次の五重塔や三重塔のある所へ向かわねばならないのですが、ここまで来られたならば、是非とも、と申し上げたい熊山遺跡に立ち寄りたいと思います。
 故金達寿先生は、その著「日本の中の朝鮮文化(六)―吉備、安芸」の中で、次のように記されています。

 ……私はその熊山に登るにさきだって、李進熙からある雑誌の挿入写真を見せられていた。ある雑誌というのは南朝鮮の韓国美術史学会が(中略)だしている『考古美術』だったが、写真はそれにのっている「安東塔」とよばれる新羅の「方壇式石塔」というものだった。(中略)
 ……なおも進むと、いきなり目の前にちょっとした平地が開けた。と同時に、一見異様な石積み遺構が目をとらえた。(中略)
 基壇のうえに三段の大きな石積みとなっているこの遺構は、いったい何であったのか、私たちはその周囲をまわりながら、とみこうみしたが、だれもみなほとんど口を利かなかった。(中略)
 奈良時代に築造された宗教的なそれであったことはほぼまちがいないとされているが、「仏教の戒壇」、「墳墓の塔」などいろいろな説があるだけで、いまだにそれが何であったかははっきりとわかっていない。

 私が実際に眼にした熊山遺跡は、まさに上記の書に掲載されている写真に、そっくりでした。
 一方、石田茂作編「塔・塔婆・スツーパ」には、口絵として「熊山戒壇」(ルビ省略)が掲載されていますが、「奈良市頭塔(づとう)・大阪府大野寺土塔と同様の印度南方仏教系の段塔であると思われる」(ルビは括弧で表記)とあります。
 ちょっと専門的になりますので、この辺りで止めますが、福生寺を訪ねられた時は、是非ここも訪れられることを、お奨めしたいと思います。

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 さて今日は、旅の宿シリーズとしまして、近畿日本ツーリストの「ステイプラス」を、ご紹介します。こちらを ↓ どうぞ。

ステイプラス

 
posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月12日

2週間なんて、あっという間に過ぎるのを改めて知りました

 野暮用に追われて、五重塔、三重塔をめぐる旅日記も、2週間のご無沙汰となってしまいました。どこまで書いたか自分でも忘れ、改めて自分のブログページを開くような有様です。
 さて、三重塔への道ですが、途中までは階段状になっているものの、その先は急な自然石の露出する山道で、ハイヒールなどでは、とても無理な道です。そして三重塔は、山の鼻のような所に建っていて、塔の建つ場所から3、4mほどの空地をおいて、その先は麓に向かって、簡単には上り下りなど出来そうもない勾配のきつい斜面となっています。
 三重塔のことについては、くだくだ書きますよりは写真を見ていただいた方が良いと思いますが、この写真の提供者の同好の士は、どのような位置から撮られたのか、私は、こんな状態で三重塔をカメラに収めることは出来ませんでした。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/33okayama/otaki3/otaki3.html

posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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