餘慶寺を後にし県道28号線まで戻って右折、吉井川に架かる新永安橋を渡って直ぐ、戻るような恰好で鋭角に曲がる細い道へ右折して進みますと、吉井川の堤防に突き当たります。道は左へ折れますが、道なりに僅か行きますと、西大寺の横手に出ます。
まず、この寺の由緒などについて、「岡山県の歴史散歩」に眼を通しますと、次のように記されています。
……創建は「金陵山古本縁起」(県文化)によると、周防国玖珂庄司の妻皆足が、751(天平勝宝3)年この地に小堂を建てて千手観音を安置したことに始まり、その後安

「金陵山」の扁額を掲げた重層の仁王門は、元文年間(1736〜41)、江戸中期の建立という。その右手に、大日如来像を安置する高さ6丈8尺(約22m)の三重塔(県文化)がある。1678(延宝6)年典翁上人のときのもの。その南隣に竜宮城の門を思わせる石門がある。これは1819(文政2)年正翁上人のとき、竜宮になぞらえてつくったもので、楼上に「竜鐘楼」の扁額がかかげられている。この石門の外側は吉井川に続き、そこには垢離取場があった。噴水の石造観音像をなかにした浄水だまりで、会陽(県民俗)のとき、裸体の群れはここで身体を清めて宝木の争奪戦に参加した。(ルビ省略)
さて、仁王門をくぐって境内に入りますと、上にもありますとおり、まず三重塔が眼に入り、その向こうに本堂があります。境内は砂地で殆ど樹木がなく殺風景であり、堂塔は鳩の糞にまみれ薄汚いというのが第一印象でした。ところで西大寺といえば、何といっても会陽(えよう)で有名ですが、上記の書には、次のように記されています。
広い境内の中央に、本瓦葺の大屋根のそびえているのが本堂である。本尊の千手観音像を安置するこの本堂は、1863(文久3)年西大寺の大工岡弥右衛門幸家が建てたもので、正面12間・側面14間・高さ11間という宏壮なもの。会陽のときは本堂の前面に間口8間・奥行5間の大床をつくり、数千の裸体の群れがおしあい、御福窓から住職が投下する陰陽の宝木を奪いあう。大屋根の重みに加えて、この荒れ狂う群集の重みを支えて今日に至った建築技術のすばらしさに驚嘆のほかはない。(ルビ省略)
今日は、ここまでとして、三重塔については明日(?)にします。
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