2008年06月30日

備中国から美作国へ

 平成13年8月16日から8月23日にかけて、備前国の本おやゆびサイン寺、餘慶寺の三重塔について確認したいことがあったことと、美作国の塔のある寺を再訪するため、マイカーで旅に出ました。途中はとばし、旅の4日目となる8月19日、私は高梁市の中心部にいました。そこは古い町並みが残っている所ですが、猛暑で散策には不向きでありましたので、小堀遠州作で国名勝に指定されている頼久寺の庭園の見物と、車で廻れる寺を幾つかめぐっただけで、高梁市を後にしました。
 国道180号線を北上し、吹屋(ふきや)ふるさと村方面の案内標識にしたがって左折し、かぐら街道と呼ばれている道を辿りました。暫くは変哲のない長閑な田舎道ですが、突如として雰囲気が一変する村里に入りました。そこが、国指定の重要伝統的建造物群保存地区である、ベンガラの村、吹屋の入口でした。
 この村で最初に訪れたのは、横溝正史原作である、あの忌まわしい映画「八つ墓村」のロケが行われたという広兼邸です。次いで、昔は黄道鉱や硫鉄鋼を産出したという笹畝坑道を訪れ、この日の宿として予約してあった「ラフォーレ吹屋」へ向かいました。そして、車を置いて吹屋の町並みを散策しましたが、皆様方にも、訪れをお奨めしたい所です。
 翌8月20日、吹屋の町並みからはちょっと外れた所にある西江邸に立ち寄った後、私は井倉洞へ向かいました。吹屋街道と道路地図にある県道33号線(新見川上線)などを辿って行きますと、やがて国道180号線に出ますが、その直ぐ近くに井倉洞はあります。その井倉洞で、思わぬものに出くわしましたが、それは駐車場から井倉洞へ至る道の途中にあった小さな五重塔です。単なる観光用のモニュメントではなく、何やら祀られていましたが、私の塔のリストからは外しました。
 井倉洞を見物した後、私は、高梁川に沿う国道180号線を北へ向かいました。暫く行きますと、JR伯備線の石蟹(いしが)という駅が右手に現れますが、ここら辺りから、運転に注意しながら、ちらちらと右手に視線を向けていました。といいますのは、中西亨先生の「日本塔総鑑」に、次のように記されていたからです。

 小塔では新見市正田にある恵重寺五重小塔が、伯備線の車窓からも見えるのでご存じの方が多い。一辺九十一センチの小さいもので、高さは四・五メートル位、昭和二十七年の建立という。

 井倉洞の近くにあった五重小塔も、同年の建立です。

☆       ☆       ☆

 月並みながら月日の経つのは早いもので、今日で6月も終わりで、今年も半年が過ぎようとしています。お中元シーズンも、後半戦といったところでしょうか。お中元に、山形県の涼やかな特産品、メロン、ブルーベリー、さくらんぼなどは如何でしょうか。であれば、こちらで、 ↓ どうぞ。


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2008年06月29日

秦廃寺跡の塔心礎について

 五重塔、三重塔をめぐる現在の岡山県の旅も、昔の備中国を終えて美作国へとなりますが、何ヵ所か立ち寄って行きます。ただ、今日は塔跡(塔心礎)の話ですので、興味のない方は、お読みとばして下さい。
 それは、高梁市にある秦(はた)廃寺跡ですが、この廃寺跡について「岡山県の歴史散歩」には、JR伯備線豪渓(ごうけい)駅で下車とあったうえ、次のように記されています。

 豪渓駅の前を流れる高梁川にかかる豪渓秦橋を渡り、山寄りの道を20分ほど南に歩くと秦廃寺跡(県史跡)がある。塔の心礎が当時の位置に残っている。飛鳥時代に創建された寺院といわれ、岡山県内最古のものである。

 一方、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、「秦廃寺(秦原寺)」とあったうえ、次のように記されています。

 総社市秦。高梁川が総社の北で西に屈曲している辺りに川に囲まれた半島のような土地があるが、この一帯は『和妙類衆抄』の津高郡津高郷に当り、宝亀年間漢部古比麻呂以下の渡来人の居住したところで、そういう渡来人氏族がこの寺を建て秦原寺と称したのであろう。村落の中央に残る心礎は一辺一・八メートルくらい、高さ四五センチの角の取れた四角の石の上部に、一辺一二五センチ、高さ四・五〜三・九センチの方形の造り出しがあり、その中央に直径四八センチ、深さ三二センチの深い孔がある。(中略)孔の深さが三〇センチ以上もあるというのは余り例がなく、備後寺町廃寺、播磨西条廃寺、因幡寺内廃寺などが大体同じで、心礎としては古い様式である。瓦も飛鳥後期ないし白鳳初期の百済様式の素弁おやゆびサイン華文の鐙瓦が出土し、岡山県で最も古い寺跡である。金堂の東南に塔が一基あるという平群寺様式であったといわれるが明らかでない。

 今日は、この辺で止めておきます。

☆       ☆       ☆

 私事ですが、5月21比が誕生日で、67歳になってしまいました。白髪の量も年々増えていっていますし、薄くもなっています。私は自然に任せておりますが、特に女性の方などは、気になさっている方もおられるでしょう。そんな方に、カンタンソマールを、ご紹介します。こちらから、 ↓ どうぞ。


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2008年06月28日

朱色も鮮やかな宝福寺三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる備中国の最後の塔である宝福寺の三重塔について、「岡山県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 ……三重塔については、執権北条時頼によって寄進されたという寺伝もあったが、1967(昭和42)年から1969年にかけて解体修理されたとき、1376(永和2)年を示す墨書が発見されて、建立年代も確定した。県下で二番目に古い。

 三重塔の初重の一辺は3.61m、高さは18.46mあります。東面して建てられていますので、塔の撮影という点からは、午前中に限られます。先にも書きましたが、私は、この寺を三度訪れておりますが、三度目の訪れは、平成12年6月25日のことですから、丸8年も前のことになるわけです。この寺は、吉備の観光の中心部から離れているためか、観光バスのルートにも入っておらず、したがって、三度とも観光客の姿も殆どなく、禅寺に特有の閑寂とした雰囲気の中で、三重塔の拝観、そして寺の風情を味わうことができました。特に、三度目に訪れたときの、新緑に囲まれた朱色の三重塔の姿は、素晴らしいものでした。
 三重塔の姿は、こちらの写真を、↓ ご覧ください。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/33okayama/houfuku3/houfuku3.html

☆       ☆       ☆

 さて、今日は土曜日ですので、こちらを、 ↓ どうぞ。

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2008年06月27日

宝福寺の歴史について

 五重塔、三重塔をめぐる備中国での、塔のある最後の寺である宝福寺へは、門前の駐車場に車を駐めて、数段の石段を登ることになります。最初の訪れは早朝であったことは昨日書きましたが、その時の状況にしたがい、以下、記していくこととします。
 石段を登りますと山門があり、それをくぐった先に仏殿、更に背後の高台に三重塔といった具合に、中心伽藍が東西に一直線に並んで建てられています。右手には方丈がありますが、かつては、この辺りに本堂があったようです。その本堂の柱に縛りつけられた雪舟が、涙で鼠の絵を描き、その鼠が縄を喰いちぎってくれたという説話は、ご存知の方も多いことでしょう。
 どこからともなく朝の読経の声も聞こえてきて、早暁の寺の独特な空気が感じられました。諸堂を薄靄の中に沈めていた太陽が、朱色も鮮やかな三重塔を、その先端から徐々に輝かせながら昇ってきました。周囲の樹木に遮られて、まだそこまでは明け切っていない薄靄の中から、日課としている人たちでありましょう、一人また一人と現れては、仏殿などに手を合わせては、再び薄靄の中に消えて行きました。
 宝福寺の歴史について、「岡山県の歴史散歩」には次のように記されています。

 ……もと天台宗の寺であったが、13世紀なかば、円爾弁円(えんにべんねん)が備中に布教したとき、住職の鈍菴(どんあん)は弁円の禅風に帰し、弁円の門下である玉渓慧椿(えちん)を招いて臨済宗の寺にしたという。宝福寺は鎌倉時代末から南北朝期、山陽地方に臨済宗を布教する拠点にもなっていたのである。
 戦国時代、備中兵乱で三重塔(国重文)を除いて焼失したが、江戸時代になり七堂伽藍は復興された。(ルビは括弧で表記)

☆       ☆       ☆

 北京オリンピックも近づいてきましたが、お仕事などで、テレビでの生中継を見ることが出来ない方も多いことでしょう。そんな時は、インターネットが役立ちますが、そのインターネットを、もっともっと楽しむために、ニフティへの接続を検討されては如何でしょう。であれば、こちらで、 ↓ どうぞ。


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2008年06月26日

備中国で最後に訪れる塔のある寺

 五重塔、三重塔をめぐる旅で、塔のある寺を訪れますのは、最後となります。
 その寺は宝福寺(ほうふくじ)ですが、私は、この寺を三度訪れています。最初と二度目は、「史跡の町総社市北郊、秋葉山中腹に立つ」、国民宿舎「雪舟荘」に宿を求めましたが、今でもあるのかどうか確認は怠っております。
 この寺へ行く場合、岡山市の中心部を起点とする国道180号線を進み、総社市へ向かうことになります。そして、総社市の中心部を抜けますと、道路は片側2車線の広い道となります。そうなった辺りで、タイミングをみて右車線に入っておく方が良いでしょう。高梁川の堤防脇の道を少し行き、橋を渡ろうとする辺りから、目指す宝福寺への案内標識が現れる筈です。その案内に従って右折し、その後は標識の導くままに車を進めれば良いでしょう。そして、小さな集落を抜け、曲がりくねった舗装路の山道を上って行きますと、ちょっとした駐車スペースがあります。ここは宝福寺の裏手に当たりますが、参詣者用の駐車場になっているようです。
 登ってきた道は駐車場を右に見た所でU字形に左にカーブしますが、駐車場の手前の右に入る細い道を下って行きますと、既に三重塔の姿も見える宝福寺の横手に出て、そのまま進みますとJR伯備線にぶつかります。そこで左折しますと、宝福寺の正面に至ります。
 一方、先ほどの駐車場の所で細い道に入らずに道なりに登って行きますと、何ほどもなく国民宿舎に至ります。また、高梁川の堤防に至る手前、井尻野という信号を右折し、伯備線のガードをくぐった先で直ぐ右折して線路沿いに行きましても宝福寺の門前に至ります。
 そういう地の利もありまして、最初と二度目の時は、朝食前の早い時刻に宝福寺を訪れました。朝靄が煙る、ひんやりとした空気を肌に感じつつ仰ぎ見る塔や伽藍のたたずまいは、何とも言えぬ素晴らしい光景でありました。
 宝福寺の由緒や三重塔のことについては、明日以降にします。

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2008年06月25日

またまた寄り道をしまして

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記としましては、またまた、ということになりますが、二箇所ほど立ち寄ることとします。
 その一番目は栢寺(かやでら)廃寺跡ですが、「岡山県の歴史散歩」には、「JR吉備線服部駅下車15分」(ルビ省略)とあった上、次のように記されています。

 服部駅から南へ1.5qほどの所に現在は無住となった賀陽(かや)山門満寺(もんまんじ)があり、この境内一帯が栢寺廃寺跡(賀夜廃寺跡、県史跡)である。地積図には栢寺とあり、古代吉備の豪族である賀陽氏の氏寺とも推察できる古代寺院である。1977(昭和52)年から翌年にかけて発掘調査が行われた。現在石の塔の台座に転用されている塔心礎は、もとの位置より少し移動しているようだが、かつては一辺12.9mの基壇の中央にあった。(中略)出土する瓦から白鳳時代初期には建立されていたようである。(ルビは括弧で表記)

 上の引用文中に「賀陽氏の氏寺とも推察できる」とありますが、故金達寿先生は、その著「日本の中の朝鮮文化」(吉備・安芸)」の中で、「加夜(賀陽)氏族の氏寺であったことはいうまでもない」と記された上、次のように記されています。

 さて、いよいよ、加夜寺跡の門満寺からは北へ約二キロのところにある鬼ノ城であるが、これが古代朝鮮式山城であることがわかったのは比較的さいきんのことであった。これまでに知られていた朝鮮式山城としては、北部九州・福岡県の「伊都国」だったところにある怡土(いと)城や雷山城、それからこれも同じ福岡県である女山(ぞやま)城や大野城跡などが有名なものだった……。(ルビは括弧で表記)

 二番目の立ち寄り先が、上の引用文中にある「鬼ノ城」ですが、それについては、数日前に森浩一先生が記されているところを見ました。そこからは、吉備路を眼下に見下ろすことができ、私は、その恩恵に与っていませんが、天候次第では瀬戸内海も見えるといいます。

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 これからは、ビールが美味しい季節になりますね。ご自分で呑むにせよ、お世話になった方への贈り物にせよ、地ビールなどは、如何ですか?よろしければ、こちらで、 ↓ どうぞ。



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2008年06月24日

そんな五重塔にも、こんなことがありました

 五重塔の解体修理が行われるということを知って、急遽、備前国分寺を訪れることとしたことにつきましては、先に書きました。その解体修理は予定どおり開始されたようですが、思わぬ自然災害に遭遇したのです。自然災害といえば、岩手・宮城内陸地震の被害地の皆様方には、心から、お見舞い申し上げます。
 五重塔の被害につきましては、塔に関する我が師であります、故吉田実氏から連絡があり心配していたのですが、そんな矢先、書店で小山和著「古道紀行・吉備路」を眼にし、ちょっと立ち読みした上で、頁数・装丁などからすれば割高感がありましたものの。迷わず購入しました。その中に、「遠くからも見えた五重塔は、吉備路のシンボルだった。過去形で言うのは、平成三年、山陽道を一なめにした台風で大破したのである。四年一月、私は塔のない吉備路の淋しさを痛感した」とあり、ここまで読みました私は、やっぱり、と、驚きと無念さを感じたのです。しかし読み進めて、ほっとしたのです。「幸い、修理工事中で上三層は既に解体され、二層が傷ついただけであった。解体修理はそのまま進んでいる。五年秋には、元の姿を現すという。ひと安心である」と、あったからです。まさに「ひと安心」でありましたが、それは必ずしも正しい記述ではありませんでした。平成6年2月14日の日本経済新聞の朝刊では、次のように報道されました。

 吉備路のシンボル、備中国分寺五重塔が、創建当時の姿によみがえった。建立以来初の全解体修理を終え、二十日には完工式と落慶法要が開かれる。(中略)……当初は三層以上を解体する半解体修理の予定であったが、九一年に襲来した台風で塔の真ん中を最上層まで貫く心柱が折れたため、三億五千五百万円をかけて全解体修理となった。

 「心柱が折れた」ということは、塔にとっては大変なことです。相輪そして、それを支える心柱こそ塔の本体ですので。ともかく、国の文化財の指定を解かれるほどの被害は、なかったということです。

☆       ☆       ☆

 6月も、残すところ1週間となりましたね。お中元の手配は、お済みですか。まだであれば、食卓へ直接、お届けする、食卓通販などは、如何でしょう。であれば、こちらを、↓ どうぞ。

キムチ
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2008年06月23日

いよいよ、備中国で訪れる塔へ

 備中国で三番目に訪れる塔は、備中国分寺五重塔です。昨日、見たリーフレットには、五重塔の歴史などについて、次のように記されています。

 天平期の諸国国分寺の建立にあたっては、国ごとに経本一部を安置した七重塔を造ることが要点とされていた。創建当初の塔は、国分寺の諸建造物の中でもとりわけ重要なものであった。しかし、平安時代以降国分寺が衰えるとともに焼滅したと考えられ、他国に造られた国分寺も創建時の塔をのこすところは一例もない。
 五重塔再建については、国分寺の住職であった證旭(しょうきょく)和尚の並々ならぬ尽力によって、文政四年(1821)に着工され、工事の中断もあったと思われるが、天保六年(1835)に入仏式が行われたとする古文書もあり、約14年かかって塔の大部分の建築が完了したようである。(中略)
 この塔は、屋根ののびがなく、横の幅と比べて高さの方が著しく高いため不安定な感じがするが、これは江戸時代後期五重塔の代表的な建築方式であり、また、岡山県下19基のうち唯一の五重塔として重要な建築物である。(ルビを括弧で表記)

 そんな五重塔については、こちらの ↓ 写真を、ご覧下さい。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/33okayama/bittyukokubu5/bittyukokubu5.html

 今日は、ここまでとします。




























































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2008年06月22日

寄り道しましたが、いよいよ塔のある寺へ

 寄り道をしましたが、本来の目的であります塔のある寺、備中国分寺へ向かいます。
 惣爪塔跡を後にした私は、県道270号線まで戻り、西へ向かいました。案内板がなければ、どれが古墳なのか判らない造山古墳の森を右手に見て暫く行きますと、備中国分寺への標識が出てきます。そこで右折しますと近いのですが、車も通れる道幅はありますものの、その道は自転車専用路です。車でであった私は、そこから少し先まで行き、それと判る道で右折して車を進めました。僅か行きますと、また寺への案内標識がありましたので、そこで右折して車を駆しらせますと、やがて寺の参拝者や観光客のための広い駐車場に至ります。
 話は変わりますが、当時、ある日のこと、たまたま見ていたテレビの映像に、吉備路の風物詩となっています備中国分寺の五重塔が映し出されていました。そして、音声は来年(平成二年)に五重塔の解体修理が行われることになり、修理が終了するのは4〜5年先になるであろうと告げていました。それを見た私は、一目だけでも解体修理前の五重塔を見ておきたく、急遽、岡山県の塔めぐりの旅の計画を樹てたのです。
 まず、お寺で購入しました大型のリーフレットに眼を通すこととしますが、やや引用が長くなりますけれど、いわゆる縁起書の類に見られがちな誇張などない正当な文章と思われますので、その殆どを引用させていただきます。

 昭和46年に岡山県教育委員会が発掘調査を実施し、創建時の国分寺の寺域や主要伽藍の一部が明らかにされた。それによると、寺域は、およそ東西が160m、南北180mの規模であり、中心線南端には、南大門、そして南大門から北へ32mのところに中門があることが判明した。(中略)しかし、主要な伽藍である金堂、講堂、塔などは、現存する国分寺の庫裏、書院、本堂などがもとの伽藍の上に重複しているため全容は不明である。予想としては、中門の正面奥に講堂、前面の西に金堂、向きあう東に塔となる法起寺式の可能性が高い。(中略(ルビ省略)

 続けてリーフレットには、「備中国分寺の再建」として、次のように記されています。

 廃寺同然であった国分寺は、江戸時代中期の享保2年(1717)になって備中清水山惣持院住職であった増鉄和尚が当時の領主蒔田(まいた)氏などの援助を得て、旧国分寺境内に6か年を要して大部分の伽藍を整備し、ほぼ今日のような姿になったようである。ただし、五重塔はこれより約100年おくれて建立された。
 現在の国分寺の伽藍は、本堂、客殿、庫裏、裏書院の各建物が接続して建てられたおり、それらとは別に独立して五重塔、大師堂、経蔵、鐘楼、山門が建ち、寺域を示す練塀が周囲三方を囲んでいる。(ルビは括弧で表記)

 長くなりますので、五重塔については、明日、書くこととします。

☆       ☆       ☆

 さて、夏に向かい、スタミナをつけるとすれば、やはり「うなぎ」ではないでしょうか。こちらを、↓ ご覧ください。


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2008年06月21日

備中国で訪れる三番目の塔のある寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる備中国の旅も、三番目の塔のある寺へということになるのですが、その寺へ行く途中、何ヵ所か立ち寄っていくこととします。
 起点は岡山市の中心部となりますが、国道180号線を西へ行きますと、一宮という地名の所に至ります。鉄道で言いますとJR吉備線の備前一宮駅の辺りですから、備前国へ戻った恰好になります。もっとも、次の駅名は備中高松ですので、この二つの駅の中間地点が、昔の備前国と備中国との境になるわけです。
 更に車を進めますと、吉備津彦神社前という信号に至りますが、そこで左折し吉備線の踏切を越えますと、吉備津彦神社に行き着きます。しかし、建物など、古いものは残っていません。そこから西へ向かいますと、吉備線の吉備津駅の東南に吉備津神社があります。
 国の重要文化財となっている北随身門をくぐって神社の境内に入りますと、拝殿と本殿(いずれも国宝)があり、それぞれ見応えのある建物です。長い回廊を下って行きますと御釜殿(国重文)がありますが、上田秋成の「雨月物語」の「吉備津の釜」にも記されています「鳴釜の神事」が行われる所です。
 吉備津神社を後にして国道を更に進みますと、加茂という信号がありますが、ここで左に岐かれる今は県道270号(清音真金線)となっています旧山陽道は、目指す寺へのメインルートです。しかし私は、その一つ手前の板倉という信号で左折して、惣爪(そうづめ)地区の公民館を目指しました。公民館のある方へ左折して南に行きますと、農地の中に国指定史跡となっています惣爪塔跡があります。興味のない方にとっては、丸い穴が彫られた単なる石としか見えないでしょうが、塔心礎に興味を持ち始めていた私には、実に美しく見えました。
 惣爪塔跡を後にした私は、楯築(たてつき)遺跡へ向かいました。塔とは関係ない遺跡ですが、後に訪れます「鬼の城」とも関係がありますので、訪れた次第です。
 森浩一先生の「古代古墳出現への力」(中公文庫「日本の古代」第五巻「前方後円墳の世紀」所収)には、「山陽新幹線で岡山をすぎ、新倉敷へ向かう途中、線路は岡山県きっての弥生後期の上東(じょうとう)遺跡を横切る。平地にある大集落である。この平地のすぐ北方に王墓山(おうぼさん)丘陵がある」とあったうえで、「王墓山丘陵の北端に、楯築神社のある山塊がある。神社といっても立派な社殿があるわけではなく、大石が環状に立てられている。土地の伝説では、吉備津彦命(きびつひこのみこと)が温羅(うら)という鬼と戦ったとき、この石を盾にしたという。それと温羅がたてこもったのが、吉備の巨大古墳、造山(つくりやま)古墳や作山(つくりやま)古墳などのある総社(そうじゃ)古墳群を見下ろす鬼(き)ノ城(じょう)であるともいう」(ルビは括弧で表記)とあります。そこには、一風変わった光景がありました。
 さて、今日は、ここまでとします。

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 さて、今日は土曜日ですので、定番メニューの、こちらを、 ↓ どうぞ。

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2008年06月20日

いよいよ備中国で二番目の塔です

 五重塔、三重塔を巡る旅も佳境に入りつつあります。
 まず、遍照院の縁起ですが、お寺で頂いたリーフレットには、次のように記されています。

当院は神遊山神宮寺遍照院と称し、花山天皇の御叡願により寛和元年(西暦九八五年)智空僧正の開創せられた寺であって、延久元年(西暦一〇六九年)後三条天皇の勅願所に列っせられたと伝えられている。(中略)
……往古は三十一ヶ寺の末寺を有する当地方に於ける唯一の中本寺であった。天正年間には毛利家により寺領二千石を与えられ伽藍完備し、寺運も興隆したが、其の後時勢の推移により寺門も次第に衰微するに至る。後に徳川時代には領主池田家より寺領五十石を与えられ法脈を保つ。末寺も江戸末期には二十三ヶ寺となり、昭和初年には十八ヶ寺を有したが現在は御室派別格本山に列する。
創立以後、数度の火災や水害の為什宝物書類が流出し、為に正確な古記録を残さぬことは残念であるが、広大な境内とその堂塔伽藍の配置を見るにつけても格式高い遍照院の昔の面影をよく偲ぶことができる。

 三重塔についてリーフレットを見ますと、「開山智空上人が寛和元年(西暦九八五年)に創立し後応永二十三年(西暦一四一六年)に智海僧正が再建したものである」とあります。そして、「大正十四年四月二十四日に国宝に指定されその後制度の改正に伴い昭和二十五年八月二十九日に改めて国の重要文化財に指定された」ともあります。
 中西亨先生は、その著「続・塔の旅」で、「三重塔としては普通の大きさだが、形のよい塔で私の好きな塔の一つである」と記しておられますが、拝観料を払う必要もなく、散歩の途中で、こんな ↓ 素晴らしい塔を拝することが出来る西阿知の人たちを羨ましく思いました。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/33okayama/henjyou3/henjyou3.html

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 さて今日は、メタボにお悩みの貴方に、スッキリスリム茶★シモン茶を、ご紹介しましょう。こちらを、↓ どうぞ。



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2008年06月19日

備中国で二番目に訪れる塔のある寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる備中国の旅も、二番目となる塔のある遍照院(へんしょういん)へ、ということになります。
 五流尊滝院を再々訪した平成11年1月16日、同院を後にし、遍照院へ向かう途中、「平家物語」の源平藤戸合戦の古戦場として知られる藤戸寺(ふじとじ)に立ち寄りました。というのは、この寺には、寛文元年(1243)造立という石造五重塔婆(県文化)があるからで、私の塔への興味は、このように拡大しつつあったのです。
 その後、国道2号線(岡山バイパス)へ出て左折、水島臨海鉄道の高架下をくぐった先の中島南という信号で右折して、県道188郷線を北へ向かいました。1キロほど行きますと、信号が中島となっている国道427号線との交差点に出ます。この交差点の先で道は二つに岐かれていますが、左手の道へ入ります。この辺りから、西阿知(にしあち)方面への案内標識が出てくる筈です。その標識に従い西阿知方面へ向かいますと、1キロ足らずで、JR山陽本線の踏切に至ります。踏切を越えて200mほど行きますと、熊野神社に突き当たりますが、この辺りから、目指す遍照院への案内標識が出てくる筈です。ただ、踏切を越えた先は道も細く標識も小さいので、要注意です。
 遍照院は二度訪れていますが、平成12年6月23日の訪れの時は、車ではなく、岡山駅の近くに宿を求めた上で、電車と脚で訪れました。岡山駅から山陽本線で四つ目の西阿知駅まで行き、駅前から真っ直ぐ延びる道を進み、一つ目の信号のある交差点を越えた先の細い道を右折します。細い道ではありますが、この道は鴨方(かもがた)往来(県道60号線・倉敷笹岡線)と呼ばれていて、古い街道の面影も僅かながら残す道で、のんびりと歩き15分ほど行きますと、左手に熊野神社への参道があります。参道に面して三重塔が建っていますが、その参道に面している方(西)が、三重塔の正面になっています。
 今日は、ここまでとします。

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2008年06月18日

いよいよ備中国での最初の塔へ

 五流尊滝院の三重塔については、中西亨先生の「日本塔総鑑」に眼を通すこととします。

 瀬戸内海の霊場として知られている児島半島には南に由伽大権現(おやゆびサイン台寺)があり、北にはここ熊野大権現が祀られた。(中略)今熊野神社境内にそびえている三重塔は、文政三年(一八二〇)大願寺の湛海和尚によって再建されたもので、大願寺は上記の熊野権現の別当寺であった。(中略)
 この塔は各層とも軒が高く、特に初層が高いので五重塔のような感じがする。もとはかなりいたんでいたが今は一応修理されて美しくなった。

 この塔の高さは21.5mで、三重塔として高い方ではありません。しかしながら、中西先生も記されているとおり、私は、この塔を見た瞬間、五重塔に見まちがうほど高く感じました。基壇がかなり高いのと、周囲に高い建物がありませんので、実際の高さより高く見えたのでしょう。「岡山県の歴史散歩」に、「明治の神仏分離令によって、熊野神社と五流尊滝院に分離された」とありましたが、その結果、現在この三重塔は、五流尊滝院の管理下にあるようです。初重の扉上に注連縄が張られるなど、神仏混淆時代の名残を色濃く残して、広い境内にすっきりと建っていました。
 三重塔については、こちらの、 ↓ 写真を、ご覧下さい。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/33okayama/goryu3/goryu3.html

 三重塔の素晴らしさもさることながら、熊野神社の本殿も見応えがあります。そして、神社の境内にただ一つ建つ寺院建築物であります三重塔が、全く奇異に感じられず、調和が保たれています。

☆       ☆       ☆

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2008年06月17日

五流尊滝院の由緒について

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記も、ここ数日は何とか順調に書き続けています。
 今日は、五流尊滝院の由緒について、書くこととします。「岡山県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 昔は熊野神社と五流尊滝院を一緒にして新熊野権現とよんでおり、全国に数多くの信者や領地をもっていた。その縁起は、奈良時代に始まるという。その頃、役小角が日本で初めて修験道を開いたが、神変不可思議の法をもって、民衆を惑わすという科で伊豆の国に流された。その後、彼の弟子たちが、紀州熊野の十二社権現の御神体を守護して瀬戸内海に逃れ、各地を流れ歩いたのち、南海ざくろ浜(倉敷市児島下の町)に上陸、761(天平宝宇5)年、現在地に社殿を建立したのが、その起源だという。なかでも建徳院・伝法院・大法院・尊滝院・報恩院の五流修験者たちがこれを祀って、その勢力を伸長した。(中略)
 ……明治の神仏分離令によって、熊野神社と五流尊滝院に分離され、五流尊滝院は、修験道を禁じられ、天台宗寺門派聖護院末となったが、第二次大戦後には修験道を再興、日本修験道の本庁となった。(ルビ省略)

 続いて、柳田國男の「毛坊主考」に眼を通しますと、次のような記述があります。毛坊主というのは、剃髪しないで僧と同じ役割を担っていた人たちを指しています。

 ……『備陽紀』巻四に録する備前児島郡郷内村大字林の熊野権現の縁起によれば、役小角の直弟たる義学・義玄・義真・寿玄・芳玄の五人をもって山臥五流の根本とする。

 さて、長くなりましたので、三重塔については、明日以降に書くこととします。

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2008年06月16日

備中国で最初に訪れる塔

 五重塔、三重塔をめぐる備中国の旅で、最初に訪れる塔は、五流尊滝院(ごりゅうそんりゅういん)の三重塔です。私は、この寺を三度訪れていますが、最初は平成元年8月12日で、二度目は平成7年5月11日、そして再々訪したのは平成11年1月16日でした。以下、最初の訪れの時の道筋を辿ることとします。
 曹源寺を辞した私は、いったん国道2号線に出て南下し、国道30号線へ入って南下を続けました。ここで、ちょっと「古墳の時代」(和田萃著)という書に眼を通しますと、次のように記されています。

 古代の海岸線を復元すると、当時の児島と児島湾が浮かび上がる。古代の吉備の児島は、文字どおり、瀬戸内海に浮かぶ島であった。吉井川、旭川、高梁川のはこぶ大量の土砂が、しだいに児島湾に堆積して、近世のはじめごろには陸つづきとなり、児島半島となった。(ルビ省略)

 その後も干拓が進められたようですが、国道30号線は、その干拓地帯の真っただ中といった所を通っており、埃っぽい無味乾燥な光景が車窓を流れていきました。私は、途中から右へ折れて、四国街道と呼ばれている県道21号線(岡山児島線)へ出て左折し、更に南下しました。彦崎という所に至り、JR宇野線を跨ぎますと、やがて五流尊滝院への案内標識が電柱などに見られるようになります。それにしたがって左折して、細い道を登って行きますと、左手に熊野神社の鳥居が見えてきますが、目指す三重塔へ直行するとすれば、この鳥居の脇の道を通り、参道を進むことになります。寺の中心部は、もう少し先まで行った所にありますが、そちらには、これといって見るべきものもなく、目指す三重塔は、こちらの熊野神社の境内(ではないかもしれませんが、そうとしか思われない所)に建っています。
 寺の由緒や三重塔のことなどは、明日以降に書くこととします。

☆       ☆       ☆

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2008年06月15日

いよいよ備中国へとなります(プロローグ)

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、いよいよ備中国へとなります。現在の行政区画で言いますと、倉敷市、総社市に所在する塔ということになります。総社市は、古代には吉備王国(と言って良いのかどうか素人の私には解りませが)のあった所であり、古墳の研究者には欠かせない所ですが、古代寺院跡も遺り、私にとっても興味ある所です。
 最初に訪れる塔は、倉敷市の五流尊滝院の三重塔ですが、この院を二度目に訪れた時は、その前夜の宿を、「特異な山肌を見せる王子ガ岳を背にした海辺の宿」である国民宿舎「王子が岳」に求めました。宿舎に行く前に王子ガ岳からの眺望を楽しもうと、山道を登り始めたのですが、次第に何とも表現し難い不気味な光景が展がってきました。それは山火事の跡で、後に聞いたところでは、宿舎も、もう少しで災難に遭うところであったとのことでした。死後の世界は、こんな所ではなかろうかと想われる光景に接し、眺望を楽しむどころではなく、途中から車を戻してしまいました。山火事の恐ろしさというものを、体験したのでした。
 その翌日(平成7年5月16日)、私はおやゆびサイン台寺へ向かいました。生憎の雨降りでしたが、この寺には多宝塔(県文化)があるので、立ち寄ったのです。雨のせいもあったのではないかと思いますが、なかなか雰囲気のある寺で、この方面へ行かれたならば、参詣をお奨めしたい寺です。

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2008年06月14日

いよいよ備前国の最後の塔へ

 五重塔、三重塔をめぐる備前国の旅も、今日で終わりです。成就寺の三重塔については、中西亨先生の「日本塔総鑑」を見ることとします。

 ……三重塔は現在本堂に向って右に立ち、遠くからでもその美しい姿をのぞむことができる。もとの塔は明和三年(一七六六)に焼失、文化五年(一八〇八)に再建されたものである。塔は地元建部町の指定文化財になっているが、その標識に明和二年とあるのはどういうわけだろうか。(中略)
 相輪が小さくどの部分をみても江戸後期のものだが、過剰装飾のないさっぱりしたいい塔で、遠くからみた伽藍の全景は特にすばらしいものである。

 三重塔については、やはり写真を、ご覧ください。背後から撮ったものですが、こちらを ↓ どうぞ。

http://m-mmm.hp.infoseek.co.jp/2001toba/zyozyuji3.jpg

 成就寺を私が三度訪れたことは、先に書きましたが、三度目に訪れたのは、平成12年7月30日でした。あることをお聞きしたくて、拙著「塔に魅せられて(中部日本篇)」をお送りした上、お寺に手紙を出しましたところ、ご住職から丁重なご返事をいただきました。三度目の訪れの時は、予めお寺にご連絡すべきところでしたが、ご迷惑をかけてはと思い、予告なしの訪問でした。しかし、檀家の人たちと想われる方々が境内を掃除しておられ、ご住職もおられました。お忙しそうでありましたので、お礼にもならぬお礼の気持として、拙著「関東篇」・「東日本篇」をお渡ししただけで寺を辞しましたが、檀家の人たちのために用意してあったのでありましょう、パンと飲み物を頂戴したのでした。

☆       ☆       ☆

 さて今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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2008年06月13日

成就寺の由緒など

 成就寺の三重塔が見えてきましたら車のスピードを落として注意していれば、寺への細い進入路は判る筈です。その道を進みますと、小さな仁王門が建っていますが、それを迂回するようにして道は続いており、寺の左手に駐車できる空地があります。そこに車を駐め、参道を登って行きますと数段の石段があり、それを登りますと、正面に本堂、その右手に三重塔が建っています。志時計して求めたリーフレットに記されているのを、とばし読みしていくこととします。
 「日蓮宗藤田山成就寺は……奈良時代の天平勝宝年間(七二九―七四九年)報恩大師摩詞上人によって創建された。報恩大師は養老二年(七一八)現在の岡山市芳賀に生まれ、十五才で出家し芳賀坊と称した。備前備中の山で山岳修行にはげみ、特に法華経寺(今の日応寺)に入り修行を重ねた」。そして、天平勝宝四年(七五二)に孝謙天皇の病いを平癒したということは前にも書きましたが、「孝謙天皇は芳賀坊の法力に感謝し『報恩大師』という名を授け『摩詞上人』という号を賜った。更にその恩賞を尋ねられ、報恩大師は『我が生国に四十八ヶ寺の精舎を建立せん事を奉請す』と、即座に勅許があり、其の建立に着手しやがて成就完遂した。而して藤田山成就寺は、其の四十八ヶ寺の一にして最期に大願成就したる道場を以て成就寺と称す」ことになったといいます。そして「当初は天台宗の寺院として山上伽藍を整え、山岳佛教の先鞭を着け、五重宝塔が聳え」ていたといいます。今は三重塔ですが、創建の頃は、五重塔であったことが、これによって解ります。しかし、「不幸にして明和三年(一七六六年)成就寺は、仁王門を残して堂舎のことごとくを焼失してしまった。現存する建物はすべてこの時以降に再建されたもの」であるとのことです。そんなわけで、三重塔の他には特に見るべき建物などはありませんが、私にとっては、それで十分で、長閑な山里の塔のある風景として、最初の訪れの時から、印象深い寺でした。
 三重塔については、明日(?)書くこととします。

☆       ☆       ☆

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2008年06月12日

備前国での最後の塔のある寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる備前国の旅も、いよいよ最後となります。千光寺を後にした私は、県道27号線を北へ向かいました。5キロほど行きますと、町苅田という信号がありますが、その一つ先の信号の辺りが、今は赤磐市となっていますが、かつての赤磐郡赤坂町の中心部になります。その信号で左折して、県道53号線となった道を西へ車を駆しらせました。7キロほど行きますと、旭川に架かる金川大橋を渡りますが、渉った先が、今は岡山市に吸収されていますが、かつての御津郡御津町(みつちょう)の中心部になり、県道は国道53号線に突き当たります。そこで右折して、旭川に沿う国道を北上しますと、今では岡山市建部町となっていますが、かつての御津郡建部町(たけべちょう)の中心部の少し手前に大田という信号があります。そこで左折しますと、直ぐ旭川に架かる大宮橋を渡りますが、この道は国道484号線です。国道はJR津山線の踏切を越えると右に折れていきますが、目指す三重塔のある成就寺(じょうじゅじ)へは、やや細くなっている道を直進します。暫く行きますと、右手に三重塔の姿が見えてきます。
 以上、最初に成就寺を訪れた時(平成元年8月13日)の道筋について書いてきましたが、今では状況が変わっていることでしょう。成就寺を訪れる時は、岡山市の中心部に宿を求め、国道53号線で向かうのが無難かもしれません。私は、その後、成就寺を二度訪れていますが、どちらの場合も、岡山駅近くに宿を求めた上でのことでした。
 寺の由緒や三重塔については、明日以降に書くこととします。

☆       ☆       ☆

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2008年06月11日

千光寺の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記としては、本来の目的であります三重塔の拝観となります。三重塔の建っている所には、昭和54年10月に製作された朽ちた説明板が立てられて、というよりも、塔の傍らに置かれてありましたが、それには次のように記されていました。

 ……この三重塔は、以前県の重要文化財に指定されていたもので、江戸中期の明和二年(西暦一七六五)二月に建立されている。方三間三層本瓦葺で、一層と二層が二重しげ垂木、三層は扇垂木となっており、中心柱は二層から出て頂上に鉄製の相輪が立っている。江戸中期の塔であるが、軒の出が深く各層の調和が良く保たれている。棟梁は、邑久郡の名工尾形庄介である。

 引用文中に、「以前県の重要文化財に指定されていた」、とありますが、とすれば指定を解かれたことになります。何故そうなったのか、中西亨先生の「日本塔総鑑」などにも、そのことに関する記載はなく、お寺に照会することも怠っていますので、未だに不明です。三重塔については、こちら ↓ の写真を、ご覧ください。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/33okayama/senkou3/senkou3.html

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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