2008年07月31日

異例な立ち寄りとなりますが……

 五重塔、三重塔をめぐる旅としましては、これまでありました以上の異例の立ち寄りとなります。
 平成16年4月27日、向上寺を後にした私は、今は尾道市瀬戸田町となっています旧豊田郡瀬戸田町の中心部へ向かい、島の西海岸沿いの道を行き、生口島南インターで再び西瀬戸自動車顔1に乗り、更に西へ向かいました。多々羅大橋を渡りますと大三島で、ここはもう愛媛県となりますが、そこには大山ボート(船)(おおやまずみ)神社があります。多くは記しませんが、この神社の国宝館で見た「大山ボート(船)神社古図」(時代不明)には、入口の鳥居の左に三重塔が、その先の右手に多宝塔、更に右手奥にも多宝塔が描かれていました。ただ、「大正十有五年」とある境内図には、塔の姿は見られませんでした。
 大山ボート(船)神社を後にした私は道を戻って、大三島ICで再び西瀬戸自動車道に乗り生口島南ICで降り、道路地図に御寺(みてら)とある所へ向かいました。というのも、そこには光明坊(真言宗)という寺があって、この寺には、国の重文に指定されている石造十三重塔があるからです。この寺について、「広島県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 光明坊(真言宗)は泉涌寺派の古刹で、詳しくは仙容宝おやゆびサイン寺光明三昧院と称する。寺伝によると後白河院の皇女如念が松虫・鈴虫という 2人の侍女を連れてこの寺に寓居したことから、光明三昧院の勅額を賜り、さらに御願寺となった。法然も如念の師として逗留したことがあり、現存のビャクシン(県天然)は、その際に法然が植えたものという。(中略)寺堂の西にある4基の五輪塔はこの4人にまつわるものとされている。(ルビ省略)

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 唐突ですが、人それぞれ体質というものがありますよね。私は、太らない体質なのか、高校生の頃から余り体重の変化がなく、最近は老化現象なのでしょうか、身長も縮み、それに比例して体重も減っています。しかし、皆様方の中には、何とかしてダイエットしたいと考えておられる方もおられるでしょう。上に書きましたような次第で、私は試しておりませんが、プレミアムデリダイエットなどは、どうなのでしょうか。ちょっと試してみようか、という方は、こちらで、 ↓ どうぞ。

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2008年07月30日

お寺版テーマパークといった所ですが……

 耕三寺は、昨日の旅日記を読まれれば、お解り頂けるような所ではありますが、塔をめぐる旅日記ですので、ここにある五重塔について、例え僅かでも書かねばなりません。そこで、旅日記としては、またまた無精して手抜きするような格好ですが、中西亨先生の「続・塔の旅」を見ることとします。

 ……この塔は大和室生寺の塔を原型としているが、外観装飾は全く独自の華麗なもので、室生寺塔のことは連想しない。(中略)
 さてこの塔は逆おやゆびサイン弁勾欄をめぐらした基壇上に立ち、初層中央間は板唐戸、脇間は白かべだが、その太い円柱に金色の十二天を刻んでいるのは面白い試みである。(中略)すべて極彩色が施され、華麗さ日本一の塔といえるかもしれない。
 二層以上も型の通りで、華麗そのもの、屋根は銅板葺で、相輪は室生寺塔と同じく宝瓶をもちいた形式を採用している。

 まさに、そのとおりではありますが、私は何としても好きになれそうもありません。そんな気持ちで見るせいか、塗装の剥げかけた塔は姥桜の印象でありました。
 私は、そんな印象しかない塔ですが、こちらの写真を、 ↓ ご覧いただき、評価は、ご自分の眼で行って下さい。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/34hiroshima/kousan5/kousan5.html

 ここには多宝塔もあるとは知っていましたが、ノルマを果たすような思いで、五重塔の全容の写真を撮り、ざっと辺りを巡っただけで、早々に耕三寺を辞しました。

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 最近は焼酎党が増えているといいますが、焼酎は、やっぱり九州ですかね。それなら、こちらを、 ↓ どうぞ。


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2008年07月29日

好きになれない塔ですが

 備後国で五番目に訪れる塔は、耕三寺(こうさんじ)の五重塔ですが、耕三寺は平山郁夫美術館の裏手にあります。この五重塔について、仏文学者である岡谷公二の「国宝日和――瀬戸内海の旅――」(新潮社刊「とんぼの本」、「国宝」所収)には、次のように記されています。

 生口島は周囲二十八キロ、人口約六千、瀬戸内海では大きい方の島だ。(中略)ここは、西の日光と言われる耕三寺で知られている。耕三寺は、この島の出身で、大阪に出て成功した鉄工業者金本耕三氏が、母の菩提を弔うため、昭和十一年から三十余年かけて、独力で建てた個人の寺である。(中略)
 孝養門と呼ばれる日光の陽明門そっくりの門をくぐると、そこには七堂伽藍ならぬ二十余の堂塔が林立して、目をうばう。平等院の鳳凰堂も、銀閣も、紫宸殿の御門も、室生寺の五重塔も、なんでも揃っている。すべて極彩色、金ぴか。豪華絢爛と驚く人も、成金趣味といって反吐を吐く人もいるだろう。実際、母親の大きな木像が安置されていたり、「お母様の隠居所」などという立札が立っていたりして、鼻白むことも多い。因みに隠居所の方は、風呂桶は大理石、縁側の廊下は紫檀張り、天井は格天井で、格間には金箔で派手な模様が描かれている、といった風だ。母親はさぞ落着かなかったことであろう。しかし悪趣味もここまでくると、一寸凄みがあり、この寺はたしかに一見に値いする。(中略)
 ……観光客は、耕三寺目当ての人たちが圧倒的で、寺はいわば島のドル箱である。金本耕三氏は、やはりこの島出身の著名な画家平山郁夫氏とともに島の名誉町民だ。(ルビ省略)

 私は、この五重塔は、遠い遠い遙か昔の学生時代に訪れています。しかし、当然ながら全く覚えておらず、平成12年の6月24日に何十年ぶりかで訪れました。その時は、いずれ改めて訪れる時の下見のつもりで訪れたのでしたが、その時の写真もそこそこに撮れていましたので、この度(平成16年)の塔めぐりの旅の計画からは外してありました。なにしろ耕三寺とはいえ、そこは「耕三寺博物館」となっているのす。そして、徳永隆平著「塔のある寺」(東京堂出版刊)には、私の思いを代弁して貰った格好になりますが、次のように記されています。

 この小さな島の小さな町に、バカでかい寺が、しかも昭和一一年の起工で、全く新しく現出し、島民をあッと驚かせたものである。浄土真宗―潮声山耕三寺というのがそれ。この項全巻を通じ、いや、全国五万八〇〇〇余ヶ寺の登録寺院で、昭和年間創建の寺―は、この耕三寺をおいて他にはあるまいと思われる。新規開業―というだけではなく、大いに変わった寺ではある。耕三寺夜話の序文で、吉井勇が、観光か、信仰か、いずれともあれ瀬戸田町の『西の日光』と称せられる耕三寺は、瀬戸内海中異彩のある偉観であると同時に、御母堂の死によって一念発起、仏道に帰依した耕三師の孝心が、その一大法城として表現せられたと思うと……中略……観光か、信仰か、いずれともあれこの一書は……と、前後二ヵ所の短い文章の中で、観光か信仰か、いずれともあれ……と云っているところに、この耕三寺の性格をよく表現しているようである。

 長くなりましたので、今日は、この辺で止めておきます。

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 またまた弱音を吐くようですが、正座は若い時から苦手ではありましたものの、最近は階段が辛くなりました。 そんな場合、キャッツクローが良いようです。正直なところ、私も、これから試してみようというところですが、こちらを、 ↓  ご覧ください。


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2008年07月28日

生口島に、もう一つ塔のある所へ行く前に

 生口島には、もう一つ塔、それも五重塔のある寺(?)がありますが、そこへ行く前に、ちょっと立ち寄りたい所があります。そこは、この島に来たならば、是非とも訪れることをお奨めしたい所です。そう、もうお解りですよね、平山郁夫美術館です。

 私が生まれたのは、瀬戸内海のちょうど真ん中あたりに位置する生口島という島です。広島県の三原と四国の今治との中間で、島の多い瀬戸内海でもとりわけ島々の密集しているところにあります。それらの島の中では比較的大きな生口島には、高さ五百メートル近い山があり、その昔は狼煙を上げたり火を焚いたりして、船の航行を導き、また通信連絡の中継点としても枢要の地で、長く天皇直轄の島だったそうです。また、すぐ東隣にある因島は、村上水軍の根拠地として知られ、西隣には河野水軍の大三島があります。いずれも海上交通の要衝であったわけです。(中略)
 山に登ると、光る海のなかに、たくさんの島々が連なり、それはもう美しい景色です。とりわけ、実家の裏山の向上寺山には子供のころ毎日のように登りました。向上寺には、三重の塔があり、その下に立ってよく海を眺めたものです。(ルビ省略)

 上は、平山郁夫先生の「悠久の流れの中に」からの引用ですが、先生は、その著「シルクロード巡礼 玄奘三蔵 祈りの旅」の中で、「どこの土地でも、私は空に聳え立つ塔の風景が、とても好きだ。スックと千年も立ち続け、人びとを見守ってきた塔は、美の化身であるといえる」とも記しておられます。
 平成12(2000)年の5月、私は平山郁夫先生を団長とする「日中文化観光交流使節団2000」に参加しました。といっても、常に平山団長と行動を共にしたわけではなく、幾つかのツアーがそれぞれの観光を楽しんだ末、記念式典が行われる日に、北京の人民大会堂に集うというもので、その集合体を団と称し、その長に平山先生が就かれたのです。そして、式典が終了して会場から出てこられた平山先生に偶然お逢いでき、その偶然に大喜びの同行のご婦人方と先生との集合写真を撮ってあげただけのことで、お話などを伺ったわけではありません。それだけのことではありましたが、それ以前から先生のファンであった私は、そのお人柄の一端に触れた思いで、更にファンの度合いを高めた次第です。
 最初に向上寺を訪れた時、私は平山郁夫美術館を訪れました。なんという偶然でありましょうか、美術館では、「中国訪問二五周年記念平山郁夫―中国を描く―」という特別展が開かれていたのです。そこで、奇しくも1964年制作という「求法高僧東帰図」をはじめとする傑作の数々を見ることができたのでした。

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 ところで、歳はとりたくない、といいますか、毎日が日曜日の年金生活になりましたからでしょうか、一昨日は土曜日でありましたが、定番メニューを忘れてしまいました。イレギュラーですが、今日は、こちらを、 ↓ どうぞ。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 00:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月27日

こんな所に国宝の塔があるのです

 五重塔、三重塔をめぐる備後国の旅も、二つ目の国宝の塔を拝観することになります。その向上寺三重塔について、中西亨先生の「続・塔の旅」には、三重塔は、「永享四年(一四三二)この島の地頭生口氏一族を旦那として建立せられた」とあり、更に「年代の明らかな唐様の塔として室町期では数少ない国宝三重塔となっている」と記されたうえ、続けて次のように記されています。

 塔は山の中腹の狭い空地に立ち全景の写真はむずかしい。今は柵をめぐらす。塔はおおむね唐様をもちい基壇上にたち、縁・勾欄をめぐらさない。中央間桟唐戸、脇間には花頭窓をもちいるが、その形は室町初期のまことに美しい曲線を形づくり、その形態だけで室町初期の建立であることがわかる。(中略)
 二、三層では初層とだいぶちがって、それぞれ逆おやゆびサイン弁勾欄をめぐらし、中央間が花頭窓、脇間は連子格子となっている。(中略)
 屋根は本瓦葺、相輪は完備、特にその水煙が美しい。九輪の各輪に宝鐸を付している。

 三重塔は向上寺山の頂上といってもよい所に建っていますので、島々が浮かぶ瀬戸内らしい眺望を満喫できます。しかし、上にもありますように、塔の全容をカメラに収めるのは難しく、ワイドが必要です。なお、塔は南西に向かって建てられていますが、塔の全容をカメラに収めるには限られた場所からということになりますので、その点からしますと、午前中がよさそうです。ただ、塔の右手に小道があり、そこを登って行きますと、塔を見下ろすような恰好になりますが、瀬戸内の光景を背後にした塔の上層を間近に見ることができます。ともあれ、写真をご覧いただきましょう。こちらを、 ↓ どうぞ。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2002toba/kojyouji15.jpg

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 アカシアは初夏に、白い蝶の形の花をつけますが、もう終わったでしょうか。そのアカシアの、どの部分が使用されているのでしょう。今日は、健康食品、アカポリアを、ご紹介します。こちらで、 ↓ どうぞ。

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2008年07月26日

備後国の五番目の塔のある寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記も、いよいよ備後国で五番目の塔のある寺へ、ということになります。
 平成3年12月9日の朝日新聞朝刊は、「本州四国連絡橋の尾道―今治ルート(西瀬戸自動車道)の広島県・因島と生口(いくち)島を結ぶ生口橋(全長七百九十b)が八日、開通した」と報じ、平成11年5月1日の朝日新聞朝刊は、「三ルート目の本州四国連絡橋『瀬戸内しまなみ海道』(西瀬戸自動車道)が一日午後に開通し、広島県尾道市と愛媛県今治市間が直結する」と報じました。
 天寧寺を再訪した平成16年4月26日の翌日、私は、尾道大橋、因島大橋そして生口橋と渡って、しまなみ海道こと西瀬戸自動車道で生口島へ向かいました。生口島北インターで一般道路(県道81号線)に出て西へ向かって暫く行きますと、左手の角に平山郁夫美術館がある信号に至ります。その信号を右折して進みますと、程なく向上寺(こうじょうじ)への案内看板が眼に入ってきますので、それに従って車を進めました。向上寺へは途中から左折することになりますが、舗装されているとはいえ道は細く、かつ蓋のない側溝がありますので、大きめな車だと苦労するであろうことは、下調べの結果で判っていました。いま下調べと書きましたが、それは、岡山出張の機会を利用して、これまで訪れた西国寺、天寧寺、そして次に訪れる耕三寺と合わせて訪れたのでした。それは平成12年6月24日のことですが、その時はレンタカーでスプリンターでありましたので何とか向上寺の門前まで行きましたが、それでも冷や汗とまではいきませんが、不安が伴う道でした。この度は、マイカーのチェイサーでありましたので、私はその細い道への入口に車を駐めて、そこから徒歩で寺へ向かいました。生憎の天候で風雨が強く、塔拝観には最悪に近い状態でありました。
 ちょっと長くなりますが、この寺のことについて見ることとします。「広島県の歴史散歩」には、次のように記されています。  

 平安末期の生口島は、京都の長講堂領であり、その荘官は源平合戦には平家方として、承久の変にも京都方について戦っている。小早川氏がこの島に勢力をのばすのは南北朝期のことである。小早川氏は沼田川河口の本郷付近を根拠地として周辺地域を支配していたが、しだいに外港としての瀬戸田を重視するようになってきた。
 1397(応永4)年、小早川春平は愚中周及を招き、仏通寺を仏通寺川沿いの深山幽谷(現三原市高坂町)に建立した。周及の清新な禅風を慕う修行僧は各国から集まり、寺はあふれるほどであったので、1403(応永10)年生口島に向上庵をつくり、ここにも収容することとした。その後、小早川氏一族の生口氏の所領寄進もあり、仏通寺の末寺向上寺として独立するようになったのである。(ルビ省略)

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 さて今日は、これまでも何度かご紹介しましたし、ちょっと重たいサイトではありますが、またまた、オイシックスの無農薬野菜のお試しセットを、ご紹介します。こちらで、 ↓ どうぞ。




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2008年07月25日

五重塔だった頃の天寧寺の塔を見た人の記録も残る

 初めて天寧寺を訪れた時は、岡山出張の折りで、休暇を取って岡山滞在を1日延ばし、レンタカーでの訪れでしたが、私は国道2号線沿いの天寧寺入口近くの駐車場に車を入れ、寺の石柱の立つ所から、山陽本線のガードをくぐって天寧寺の境内へ入りました。しかし、塔は現在の天寧寺の境内にはなく、右手に塔への小さい標識が出ている所から、細い坂道を登った先にあります。途中で道が岐かれる所がありますが、右手に行くと天寧寺の北門となります。北門とはいえ、それらしい門があるわけではありません。道の分岐点からは、塔の相輪の先端を視野に入れて登って行けばよいでしょう。三重塔については、あれこれ書くより、写真をご覧いただいた方が良いと思いますが、写真をご提供していただいているお二方も、ご苦労されたようです。上の私の旅日記に相応しい写真として、こちらを、 ↓ ご覧いただきましょう。写真をクリックすると、拡大されます。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2007to_0//tenneiji64.jpg

 ところで、五重塔から三重塔になる前の塔を見たと想われる人の記録が残っています。それは、宋希m著「老松堂日本行録」(村井章介校注、岩波文庫)ですが、その解説の冒頭には、次のように記されています。

 一四一九年(日本応永二十六年・朝鮮世宗元年・明永楽十七年)、朝鮮は倭寇の根拠地をたたく目的で対馬を攻撃した。これを日本では応永外寇、朝鮮では己亥東征と呼んでいる。これに対して室町幕府は、朝鮮の真意を探らせるため、大蔵経求請に託して、無涯亮倪(むがいりょうげい)・平方吉久を使者として朝鮮に送った。あくる一四二〇年、朝鮮は要求通り大蔵経を与えるとともに、文臣宋希m(ソンギヒョン)を日本回礼使として無涯らの帰国に同行させた。希mは、閏正月十五日ソウルを出発し、四月二十一日京都に到着、六月十六日将軍足利義持に謁見した後、同二十七日京都をたち、十月二十五日ソウルに帰着した。この間九か月余りの見聞や行動を、彼は五言・七言の漢詩と散文の序という形式で記録した。復命後、これらをまとめて一書としたものが、本書『老松堂日本行録』である。(ルビは括弧で表記)

 その中で、宋希mは、次のように記しています。

 傑閣なり天寧寺 江に臨みて塔は幾層なる 門前に喧価の客 堂上に定禅の僧 竹影は階(きざはし)を侵して碧く 松声は座に入りて清し 別に花木に塢(と)を尋ぬれば 奇絶なること転た驚くに堪えん(ルビは括弧で表記)

☆       ☆       ☆

 この夏休みには、海外旅行を予定している方もいらっしゃることでしょう。どこの国へ行くにせよ、英語さえ話せれば大丈夫ですよね。即席あるいは付け焼き刃的かもしれませんが、英会話の習得には、こちら ↓ など、如何でしょう。





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2008年07月24日

五重塔から三重塔へ変わった塔

 備後国で三番目に訪れる塔は、天寧寺(てんねいじ)の三重塔です。私が天寧寺を最初に訪れたのは平成11年6月24日でしたが、その時に、三重塔は、やや南に寄っているものの、ほぼ東面して建てられており、正面から塔を撮影するには午前中でなければ具合が悪いことを確かめてありました。そのことは旅のメモに記録してあったのですが、すっかり忘れており、再訪の折りも午後となってしまいました。そして、正面には空地がなく、中西亨先生の「続・塔の旅」にも、「土地狭少で写真を撮るのも一苦労である」とあるとおりで、塔の全容をカメラに収めるためには、塔の背後の坂道を登り、塔を見下ろす恰好になりますが、それしか方法がないことも判っていました。それでもなお、ワイドなレンズが必要であることを書き添えておきます。
 天寧寺について、「広島県の歴史散歩」には次のように記されています。

 天寧寺(曹洞宗)はバス停長江口から北へ5分の千光寺山の山腹にある大寺である。1367(貞治6)年足利義詮(よしあきら)が建て普明国師を開山とした。のち本堂などは雷火で焼失し、塔婆のみが残った。現存する三重の塔婆(国重文)は本堂より一段と高い場所にある。1388(嘉慶2)年の造立であるが、1692(元禄5)年五重塔の上二重を撤去し三重塔婆に改修した(中略)。そのために不自然さがある。和様を基調としながらも唐様が濃厚にとり入れられている。規模雄大な塔婆である。(ルビは括弧で表記)

 上の引用文中にありますとおり、天寧寺の三重塔は、五重塔が姿を変えたものです。中西亨先生も、「続・塔の旅」の中で、「元来五重塔であったのを三重にしたので、非常に平たいバランスの悪い塔になってしまい」と記しておられます。そして、同書には、そのために国の重要文化財に指定されるのも遅れたのであろう、ともあります。

☆       ☆       ☆


 私が心配するまでもなく、殆どの方は既に手配済みでしょうが、狭間をぬってという方は、こちらは、 ↓ 
如何でしょうか。これもまた、旅の新しいスタイルではないでしょうか。


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2008年07月23日

天寧寺へ行く前に浄土寺へ

 現存する木造の塔を大別しますと、極く特殊なものを除き、五重塔、三重塔、多宝塔の三種で、五重塔、三重塔は多層塔と呼ばれますが、多宝塔は二重の塔で、ちょっと違います。私は、多宝塔が嫌いというわけではありませんが、多層塔は数も多く、それまで含めてということになると、とても無理ですので、拙著「塔に魅せられて」では、五重塔、三重塔に限定しました。ただ、多層塔めぐりの旅の道筋にある場合、できるだけ多宝塔も訪れ、石造の塔も訪ね、更に塔跡なども訪ねておりますことは、これまでの旅日記で、お解りいただいていることでしょう。そして、これまでは端折ったこともありますが、拙著「塔に魅せられて(西日本篇)」の原稿ベースとなりましたこれからは、丁寧になぞっていくこととしたいと思います。
 そこで今日は、実際の旅のコースとは前後しますが、西国寺より先に訪れた浄土寺について書くこととします。ところで、尾道の観光コースの一つに「古寺めぐりコース」がありますが、それは、JTB発行「新日本ガイド(山陽―瀬戸内海)」に拠りますと、尾道駅を起点として、持光寺〜光明寺〜天寧寺〜福善寺〜西国寺〜西郷寺〜浄土寺〜海竜寺と辿る、巡延長2・8q、所要約3時間のコースのようです。千光寺ロープウェイで山麓駅まで降った私は、上のコースにある幾つかの寺を拾い歩いたのですが、この時は浄土寺は省略しました。
 浄土寺を訪れたのは、西国寺を最初に訪れた平成12年6月24日のことです。浄土寺について、「広島県の歴史散歩」には次のように帰されています。

 本堂(国宝)は1327(嘉暦2)年に尾道の商人とみられる沙弥道おやゆびサイン・比丘尼道性が発願し、大工藤原友国・同国貞が建築したもので、桁行五間・梁間五間の規模、前面二間通りを外陣とし、後ろを内陣とする。和様を基調とするが桟唐戸・花肘木などを用いた折衷様である。多宝塔(国宝)は1329(元徳元)年の再建で全体のバランスがとれ、華麗な装飾に富んだ三間塔婆である。(ルビ省略)

 このほか、1345(康永4)年の再建という阿弥陀堂(国重文)、室町初期を下らないであろうという山門(国重文)、豊臣秀吉が桃山城内に建てた茶室燕庵を移したものと伝えるという露滴庵(国重文)などがあります。これだけを見ても、見応えのある堂塔の立ち並ぶ大寺であることが、お解りいただけましょう。
 ところで、些細なことでありますが、右の引用文中に気になる記述があります。それは、多宝塔について「三間塔婆」と記されていることです。同じく塔とはいえ、層塔と多宝塔では、その起源が全く異なり、多宝塔については「塔婆」とは言わないのではないかということです。毎日新聞社刊、文化庁監修の「重要文化財」でも、三重塔や五重塔については「○間塔婆」としていますが、多宝塔には「塔婆」という字句は使用していません。
 それはさて措き、美しい多宝塔ですので、こちらの写真を、 ↓ ご覧ください。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/34hiroshima/jyoudo2/jyoudo2.html

☆       ☆       ☆

 私は毎日が日曜日の年金生活ですが、3連休に、お出かけになった方も多いことでしょう。3連休とはいえ、近場にお出かけの方はともかくとして、ちょっと遠めまで出かけられた方で、特に車で、という方の場合は、正味2日ではなかったでしょうか。人それぞれですが、旅に出た場合の一つの悩みは、お土産ではありませんか?そんな場合、世界のお土産通販サイトを、ご利用になっては如何でしょう。需要のある方は、こちらで、 ↓ どうぞ。


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2008年07月22日

ようやく西国寺の三重塔へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記としては、ようやく、といった感じですが、西国寺の三重塔に辿り着きます。
 その三重塔は、持仏堂、大師堂のある所から64段の切石の石段を登ると小林和作画伯の墓があり、そこから更に35段の石段を登り切った所に建っています。塔は、やや南にずれていますが、ほぼ西面して建てられていますので、写真撮影という点からは午後がよいということは最初の訪れの時に確かめてありましたので、再訪の折りは、西国寺に到着するのが午後になるよう計画したのでした。三重塔については、こちらの写真を、 ↓ ご覧いただいた方が、手っ取り早いでしょう。

 http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/34hiroshima/saigoku3/saigoku3.html

 上の写真の説明にもありますとおり、三重塔は、もちろん国の重要文化財に指定されていますが、塗り替えた際の塗料や塗装のやり方が悪かったのでありましょうか、私が訪れた時は、脇間の白壁に赤いシミがあり、基壇もピンク色に染まっていました。なお、「日本塔総鑑」には、塔の初重の一辺は4・56m、高さは22・29mとあります。
 西国寺を辞した私は、この日の宿としてありました全国城の博物館という尾道城のすぐそばにある民宿へ向かいました。そして、車を民宿に預けて、満開の躑躅に覆われた千光寺公園を抜け、「文学のこみち」を辿り千光寺山を下りました。「文学のこみち」は尾道の有名な観光コースの一つで、「広島県の歴史散歩」には、「尾道を愛した多くの文人が残した歌や詩文などを文学碑として、千光寺山中腹の遊歩道のかたわらの岩に刻み、整備したものである」と記されています。志賀直哉(暗夜行路)や林芙美子(放浪記)などの碑を一見しつつ「文学のこみち」を一周した私は、千光寺ロープウェイで山麓駅まで降りました。降るにつれ右の車窓から天寧寺の三重塔が見えてきますが、この三重塔については、当然のことながら、後に訪ねることになります。

☆       ☆       ☆

 私は古い人間ですので、スパゲッティーという言葉が馴染みですが、最近は、パスタって言うですね。貴方は、めんたいパスタは、お好きですか?お好きなら、こちらで、 ↓ どうぞ。バナーをクリックしても、直ぐにはフィットしないかもしれませんが、サイト内を散策するのも楽しいかもしれません。



 
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2008年07月21日

西国寺の歴史など

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記とはいいましても、塔についてだけ書くわけにもいきませんので、今日は西国寺の歴史などについて見ることととします。中西亨先生の「日本塔総鑑」には、次のように記されています。

 西国寺(さいこくじ)は尾道の北部にある名刹で、天平年中行基菩薩の開基といわれ真言宗を奉ずる。治暦二年(一〇六六)炎上、永保二年(一〇八二)白河天皇の勅願により中興の祖慶鑁が再興し勅願寺となった。後また火災にあって鎌倉末から室町期にかけて再興したのが今の伽藍で、三重塔は永享元年(一四二九)宥尊僧正の勧進により足利義教将軍等の援助をうけて建立されたもので、その時の記録が「西国寺塔婆勧進帳」(県文)で「永享元年三月日……」と記されている。塔は復古的な建築で、和様の堂々たる大型の塔である。

 ちょっと長くなりますが、もう少し続けます。
 私は、かつて中西先生も会長職を務められた「史迹美術同攷会」の会員ですが、同会の会誌「史迹と美術」の668号に眼を通すこととします。同会の第785回例会は「尾道と芸予諸島」を訪ねるものでありましたが、その当番幹事の坂本晴信氏は、その報告書の中で、次のように記しておられます。上に引用した部分と重複する部分もありますが、次に引用させていただきます。

 西国寺は聖武天皇の天平年中行基によって創建されたと伝えるが、『新修尾道市史』では「どこの寺でもその寺挌に箔をつけるために聖徳太子や行基菩薩の名を借りてくるのが常識であるが、その箔をそのまま受けとることには賛成しかねる」とし、さらに同寺文書によって、「中興の祖とされる慶鑁が延久年間(一〇六九―一〇七三)に創建したことは間違いないだろう」としている。以後百年間の院政時代は、仏教への崇敬厚い白河上皇らの支持を受け官寺として発展したが、鎌倉時代には武家の圧力が加わり、十四世紀末に焼失した。当時備後国守護であった山名氏は室町初期頃には中国八ヶ国(但馬、因幡、伯耆、播磨、備前、備後、美作、石見)の太守で対外貿易も行っていたようで、尾道浦を自領の港として大いに活用したらしく、内海航路のみでなく、当時盛行した対明貿易の拠点とするべく、また大国の威信を示すためにも人心の収攬を計るべく一族を挙げて西国寺の再興に当たったのであろう。

 さて、今日は、この辺りで止めますが、明日は三重塔を拝観いたします。

☆       ☆       ☆

 さて今日は、女性の方向けの商品のご紹介となります。男の私には、余り気にならないことではあるのですが、女性特有の悩みの解消というのも、重要なことなのですね。とにかく、何か悩みを持っておられる女性の方は、こちらを、 ↓ ご覧ください。


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2008年07月20日

ようやく尾道の塔のある寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅としては、ようやく、といったところですが、尾道へとなります。その尾道について、JTB発行の「町並み細見(西日本)」には、次のように記されています。

 尾道は、南に尾道水道、北には千光寺山、西国寺山、浄土寺山にはさまれた東西に細長い町。
 瀬戸内海に面した平坦な地域は、埋め立て地も多く、江戸時代の名残りの波止場や職人町などの跡につくられた商店街が広がっている。数多くの名刹や旧跡、瓦屋根の美しい住宅地は、山陽本線の際から急峻な坂道に沿って、山の中腹までびっしり建ち並んでいる。
 そして、狭い山あいを抜けて旧出雲街道が北に延びていた。

 尾道で訪れる塔のある最初の寺は西国寺ですが、私は、この寺を二度訪れています。最初の訪れは平成12年6月24日で、再訪したのは平成16年4月27日でした。「広島県の歴史散歩」には、西国寺を公共交通機関で訪れる場合について、「JR山陽本線尾道駅バス福山・松永方面長江口(ながえぐち)下車10分」(ルビは括弧で表記)としたうえ、次のように記されています。

 長江口バス停で降り、山陽本線のガードをくぐり北へ10分歩くと、行基開基と伝える古刹西国寺(真言宗)の仁王門(県重文)に達する。正面には「摩尼山」の扁額がかかり、両わきに仁王像が安置されている。楼門形式で桃山時代の造立である。つりさげられた仁王の大草履が印象的である。一直線の階段を上りきると金堂(国重文)である。鎌倉末期の再建といわれ、桁行五間・梁間五間の和様を基調とした建物である。

 以上、観光案内のようになってしまいましたが、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めることとします。

☆       ☆       ☆

 ビールの美味い季節ですが、貴方は、ビールのつまみとしては何がお好きですか。私は枝豆が良いのですが、同じ好みの方には、枝豆の王様といわれる「だだちゃ豆」などは如何でしょう。それならば、こちらで、 ↓ どうぞ。





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2008年07月19日

尾道市へ行く前に府中市へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、二番目の塔を擁する寺がある尾道市に辿り着かぬまま、福山市と尾道市に接して北にある府中市の中心部へ向かいます。まず目指したのはJR福塩線の府中駅ですが、最終的には「広島県の歴史散歩」に、「府中駅の北方へ15分ほど行き、第2中学の角を西へ進み、北川船具製造に沿って北へ曲がると紫雲山金龍寺(浄土宗)がある。ここは伝吉田寺跡である」とある所でした。同書では「よしだじ」とルビが付されていますが、お寺の方では「きちでんじ」と呼んでおられ、何の根拠もありませんものの、私は、お寺さんの方が正しいのではないかと思います。この廃寺について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」では「町廃寺(吉田寺)」としていますが、「白鳳末期ないし奈良時代初期の創建と考えられる」とあります。しかし、眼にした心礎とされているものは小さなもので、果たして本当に心礎なのかと、眉に唾をつける思いで眺めたものでした。

☆       ☆       ☆

 さて、今日は土曜日ですので定番のアンケートサイトのご紹介となります。無料会員登録は、こちらで、 ↓ どうぞ。私も、かなり前に無料会員登録をしましたが、確か興味のあるジャンルを登録する画面があったと思います。その場合は、ちょっとでも興味があるジャンルにはチェックを入れることを、お奨めします。アンケートでは、少数派の意見も貴重ですから。そうしておけば、送られてくるアンケート数も多くなり、それに真面目に回答してさえいれば、自然とPが溜まっていきますので。

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2008年07月18日

まだ福山市域をウロウロと

 備後安国寺を後にした私は、沼名前神社へ向かいました。私は能というものに面白みを感じないのですが、この神社の能舞台は、国の重要文化財に指定されています。
 ところで、「昭和の名工」といわれる西岡常一棟梁が、明王院の五重塔の修復を手がけたということは既に書きましたが、「古寺再興」には、次のように記されています。

 明王院の仕事が終了すると、今度は文化庁の依頼で、やはり広島県にある沼名前(ぬまなくま)神社の能舞台の模型を制作することになった。日本は昭和三十九年に東京オリンピックが開催されることに決定。奇跡的な高度成長をとげてきた日本経済は、オリンピック景気でさらに日本中が沸いていた。模型はオリンピックに賛助出品するためのものだった。この能舞台は、秀吉が戦陣で楽しむために組み立て式につくったもので、国宝に指定されている。制作した十分の一の模型は現在、東京国立博物館に所蔵されている。(ルビは括弧で表記)

 右に「国宝に指定されている」とあるのは誤りですが、それはさて措き、そうであれば、広島県立歴史博物館としては、明王院五重塔の模型の写真の説明において、制作者である西岡棟梁について少しは触れてもよかったのではないでしょうか。
 ところで、先に見た「朝鮮通信使の旅日記」にもありますとおり、鞆の浦は保命酒でも知られていますが、古い町並みを散策し駐車場へと戻る手前に、その醸造元の入江豊三郎本店がありました。私は、この地を訪れる前に保命酒のことを識ってはいましたものの、必ず買い求めようとは思っていなかったのですが、数年前より高血圧の投与を受けていましたので、血行不良などに効くという保命酒三合瓶ほどのもの一本と、保命飴を買い求めました。
 さて、そんな鞆の浦を後にした私は、土地の人たちに「阿伏兎(あぶと)の觀音さん」と呼ばれて親しまれているという海潮山磐台寺(ばんだいじ・臨済宗)へ向かいました。というのは、ジーボルト著「江戸参府紀行」に、次のような一節が見られたからからです。

 今朝はやく備後領の阿伏兎岬(Abuto) [福山市の南方約一〇キロ]を通過した。岬の上には観音を祭った磐台寺があり、カイチョウ山の麓の岩の上に建っている。燈台に似た寺の塔が遠くから見える。寺と阿伏兎の村はその近くの湾内にあり、樹木のはえていない花崗岩の山に取り囲まれている。船乗りや旅行者はここで仏前に供え物をそなえ仏の加護を願うのが常で、供え物は普通一二の小銭(一つを一月分として一年分に当たる)で、信者はそれを小さな板切れに結んで経文を唱えながら海中に投げる。このおびただしい供え物〔小銭〕を僧侶が雇っている漁師が拾い上げるのである。

 しかし、中西亨先生の「日本塔総鑑」にも磐台寺に塔があるとは記されていませんので、実際に塔を眼にすることができることを期待したわけではありませんが、ともかく立ち寄ってみたのす。言うまでもなく、現実の塔も塔跡もありませんでした。

☆       ☆       ☆

 さて今日は、1ヶ月ほど前にもご紹介しました、越前のホルモン屋のオープン2周年記念の企画商品であり、新発売のホルモン折箱セットを、ご紹介します。こちらを、 ↓ ご覧ください。


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2008年07月17日

鞆の浦を経由して尾道へ

 明王院の五重塔、本堂の内部拝観をした日まで戻りますが、明王院を辞した私は、芦田川の土手上の道を南東に向けて車を駆しらせて、水呑(みのみ)大橋という面白い名の橋の西詰で右折し県道72号線に入って、途中からグリーンラインという愛称のある県道251号線で南下しました。そして、古いドライブガイドに「鞆の浦スカイライン」とある道に入り、鞆の浦を目指しました。
 ところで、江戸時代の朝鮮通信使のことについては、岡山県の本おやゆびサイン寺を訪れた時に少し触れましたが、辛基秀(シン・ギス)著「朝鮮通信使の旅日記」には、次のように記されています。

 「対潮楼」の名で知られる広島県福山市の福禅寺は、福山市の南一二キロの古い町並みの港町にある。鞆の浦の絶景の地に建つ福禅寺は山号を海岸山という。朝鮮通信使一行から「日東第一形勝」と高く評価されたことでよく知られる。
備後灘に迫り出した沼隈半島の東南端に位置する美しい港・鞆の浦は、大坂へ上る船、九州へ下る船も満潮に乗って入港し、干潮に乗って港から出る潮待ちの良港である。(中略)
 朝鮮通信使の宿館は、福山藩主・水野勝種が、元禄三年(一六九〇)に建立した対潮楼である。海を見下ろす断崖の上にあり、東側に仙酔島、弁天島、遠く四国の連山を眺望できる絶景の地で、パノラマのように景色が楽しめる。三十年ほど前に埋め立てられ、海岸沿いの道路ができたが、山腹を切り拓いたような福禅寺の東側に建てられた客殿は、全国でも珍しい通信使のための迎賓館である。
 福禅寺は第二次の元和度(一六一七)から朝鮮通信使の正使ら三使の常宿となっていた。(中略)
 朝鮮からの観光客も、対潮楼が韓・日双方の朝鮮通信使の生きた文化博物館だと感嘆して満足している。鞆の浦の伝統産業である保命酒の徳利にも通信使の漢詩が焼き付けられているのを見て、鞆の町が生きた歴史博物館との印象を強くするようだ。(ルビ省略)

 鞆の浦に着いた私は、駐車場に車を駐め、対潮楼(県史跡)から、右にあるような景色を楽しみました。
 対潮楼を後にした私は、備後安国寺へ向かいました。この寺の釈紳士服堂や木造阿弥陀如来および両脇侍立像(いずれも鎌倉の作で国重文指定)は見応えのあるものでありましたし、枯山水の本堂庭園(県史跡)も、たまたま牡丹(芍薬か)の盛りであったこともあり美しいものでありました。
 長くなりますので、今日は、この辺で止めることとします。

☆       ☆       ☆

 私の夢は、日本の塔巡りを終えたら、塔のルーツを、インド・中国・韓国と辿りたいのですが、それはまさに、夢のまた夢でしょう。そんなことで、私の視野から外れていたのですが、夏休みには海外へ、と計画されている方もおられることでしょう。そんな方は、JTBの、こんな  ↓ サイトを参考にされては如何でしょうか。


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2008年07月16日

備後国の二つ目の塔のある寺は尾道市にあるのですが、

 五重塔、三重塔をめぐる備後国の旅で、二つ目の塔のある寺は尾道市にあるのですが、ここでまた寄り道をします。しかも、旅のコースとしましては、逆戻りとなります。国道2号線を福山駅の少し先まで戻った府中分かれという信号で左折し、国道313号線で北へ向かい神辺町を目指しました。といっても、当時の神辺町は、今では福山市に吸収されています。国道は横尾駅の辺りからJR福塩線に沿うようになりますが、やがて同線は左へ離れて行きます。暫く進みますと、国道は神辺駅と総社駅を結ぶ第3セクター運営の井原鉄道井原線の高架の下をくぐります。そして国道は右にカーブしていますが、少し行くと国分寺前という信号があって、右折すれば井原線の御陵駅で、左折して300mほど行きますと備後国分寺跡に至ります。その国分寺跡について、「広島県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 神辺の町並を過ぎて国道313号線を井原方面へしばらく進むと、左手の山すそにこんもりとした松林が見える。ここが741(天平13)年聖武天皇により諸国に国分寺が建立されたときの備後国分寺跡である。(中略)参道の入口に自然石に刻まれた「國分寺」の標石が立っている。参道の両側には樹齢300年を超える老松が立ち並び、その奥まった所に1694(元禄7)年の再建と伝えられる現在の国分寺(真言宗)がある。
 創建当時の国分寺域は現在の場所よりも南にあったようで、1972(昭和47)年以降の4次にわたる発掘調査により講堂・金堂などの遺構と軒丸瓦・軒平瓦・須恵器・土師器などの遺物が出土しており、ほぼ法起寺式の伽藍配置と推定されている。(ルビ省略、以下、同書からの引用について同じ)

 上には、「講堂・金堂などの遺構」とありますが、併せて南門跡、塔跡なども確認されたようであります。しかし、礎石などは遺っていないようでありました。
 ところで、右の書には、右に引用した文章に続けて、次のように記されています。

 国分寺から西へ600mほど行くと、山すそに江戸初期に灌漑用池としてつくられた小山池があるが、この付近からときおり発見される古瓦類のなかにはおやゆびサイン華文軒丸瓦や唐草文軒平瓦などがまじり、国分寺に隣接して建てられた国分尼寺ではないかといわれている。

 現在の国分寺から県道を更に西へ進むと、右にある小山池の南岸に至りますが、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、「小山池廃寺」という小見出しで、次のように記されています。

 ……小山池北岸に古代寺院跡があることは古瓦などの出土により古くから知られていたが、昭和五一年発掘調査が行なわれ、塔跡と二つの建物跡が発見された。塔跡は地下五〇〜六〇センチのところに心礎、四天柱礎、側柱礎が発見されたが、同じ高さにあり、四天柱礎、側柱礎の一部に火中の跡がある由で地下式ではない。

 この塔跡が国分尼寺跡であるかどうかは別とし、目と鼻の先ともいってよいような至近距離の所に、壮大な伽藍が建ち並んでいたことになり想像を絶します。上の引用文から推しますに、小山池廃寺の塔心礎は、どうも埋め戻されたようですので、眼にすることは最初から期待していなかったのですが、ともかくも小山池の北岸まで行ってみました。しかし、うろうろと辺りを探し歩いてみましたが、標識すら見当たりませんでした。
 
☆       ☆       ☆

 さて、続けてきました旅の宿探しシリーズも出揃った感じでありますので、今日は、金印の健康食品
を、ご紹介します。こちらで、 ↓ どうぞ。




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2008年07月15日

国宝の五重塔と本堂の内部拝観

 片山弘雄氏は、まず最初に五重塔へご案内くださり、氏の手によって正面の扉が開かれ、内部に導かれました。柱などの彩色の剥落が現在も進んでいるとのことでありましたが、確かにそのように見受けられましたものの、創建当時の極彩色の様子が偲ばれる思いで、息をのみながらの拝観でした。
 五重塔の内部について、「明王院」には次のように記されています。

 初重内部須弥壇上には中央に本尊の木造大日如来坐像、脇侍として向かって右側に木造不動明王坐像、左側に木造愛染明王坐像が安置されている。
初重内部には全面に美しい彩色がある。四天柱に三十六尊像、側回りの板壁八枚には真言八祖 行状 図、柱には竜・雲・宝珠、長押の飛天、蟻壁の花鳥などが描かれ、さながら浄土の世界に踏み込んだようである。(ルビ省略)

 ところで、仏像などの拝観は許されても、その写真撮影は許されないのが殆どですが、ご自由に、と許可いただいたのは嬉しいことでした。
 五重塔の外観については、こちらの写真を、 ↓ ご覧下さい。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/34hiroshima/myouou5/myouou5.html

 写真の右手にある建物が、本堂です。

 次いで、本堂の内部を拝観させていただきました。外観は、屋根の反り具合など美しいものではありますが、あまり変哲がないように見えますものの、内部の装飾は、国宝に指定されるに相応しい見事なものでした。
 五重塔、本堂を、片山氏の説明を受けながら、ゆったりと鑑賞させていただいた私は、片山氏に礼を述べ、満足感に浸って明王院を辞しました。

☆       ☆       ☆

 さて、旅の計画で重要な要素としての宿探しシリーズの第5弾としまして、ジェイヤドは如何でしょう。それならば、こちらで、 ↓ どうぞ。


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2008年07月14日

明王院の由緒などについて

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記でありながら、今日は、明王院の由緒などについて省くわけにもいきませんので、塔そのものについては、明日に、ということにせざるを得ません。
 さて、庫裡を訪いますと、片山弘雄氏が出てこられました。持参していった拙著「近畿・岡山篇」をお渡ししますと、返礼として、広島県立博物館が平成3年度の秋の企画展として開催した「明王院――その歴史と文化――」の図録(広島県立歴史博物館友の会発行、以下「明王院」とします)をいただきました。ご住職(片山宥雄氏)は、この展示会の指導・助言者で、片山弘雄氏は協力者です。
 まず、「明王院」に眼を通すこととしたいと思いますが、冒頭に「明王院の歴史」として、次のように記されています。 

 ……明王院は中道山円光寺と号する真言宗大覚寺派の古刹で、江戸時代初期まで西光山理智院常福寺と呼ばれていた。
 寺伝によれば、明王院の前身常福寺は大同二年(八〇七)弘法大師(空海)の開基と伝えられるが詳らかではない。開創以後五百年間の消息についても明らかではないが、昭和三十七〜三十九年(一九六二〜四)に行われた本堂の解体修理で発見された内陣大虹梁蟇股の墨書銘から、鎌倉時代末期の元応三年(一三二一)に紀貞経・沙門頼秀により和様と禅宗様・大仏様を合わせたいわゆる折衷様建築の本堂が再建されたことがわかった。その後室町時代前期(南北朝時代)の貞和四年(一三四八)には、民衆が兜率天上詣の願望を遂げ、釈迦の入滅後五十六億七千万年を経て龍華(菩提樹の一つ)の咲くときこの世に出現して民衆を教化するといわれる弥勒菩薩と縁を結ぶために、沙門頼秀が一文勧進の小資を募って五重塔を建立したことが伏鉢の陰刻銘から知られる(陰刻銘には、後刻とされる「再修」・「覚忍」の文字があることから、覚忍の代に修理されたことがわかる)。(中略)
 ……元和五年(一六一九)水野勝成が福山藩主として入封してからはその庇護を受けている。(中略)『中道山由縁不忘記』によれば、詳しい年代は不明であるが二代勝俊の時世に、五重塔初重の来迎壁に描かれた兜率天曼茶羅図の彩色が剥落するのを防ぐため厨子を作って納め、塔内の来迎壁は新たに模写されたと伝えられている。ちなみに当初の来迎壁は現在東京国立博物館 の所有となっており、後者の来迎壁は護摩堂に納められている。(ルビ省略)

 長くなりましたので、今日は、この辺で止めることとします。

☆       ☆       ☆

 さて、シリーズとしてご紹介しています、旅の宿探しの第4弾として、まいやどは如何でしょうか?それならば、こちらで、 ↓ どうぞ。

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2008年07月13日

いよいよ備後国で最初に訪れる塔のある寺へ

 ということになりますが、その塔のある明王院(みょうおういん)を私が初めて訪れたのは何時でありましたか、それは余りにも遠い過去のことで、年月日すら記憶にありません。なにしろ、カラーフィルムが高額な上に、所定の袋に入れて現像所に送らねばならない、といった頃です。したがって、古いアルバムを見ますと、色調の悪いカラー写真も数葉ありますが、殆どがモノクロです。
 この寺を二度目に訪れたのは昭和60年の9月23日ですが、上記のような次第ですので、この時が初めてのようなものでした。24日から25日にかけて福岡に出張を命ぜられたのですが、福岡ともなれば航空機を利用するのが一般的でしょう。しかし、人気者であった九ちゃんこと坂本九を含め、500人もの犠牲者を出した日航機墜落事故から、まだ1ヶ月半しか経っていなかった時でありましたので、何となく空の旅が気味悪く、新幹線を利用することとしたのです。そんなわけで24日に出発したのでは間に合わず前日に家を出たのですが、なにしろ長時間の旅です、気分転換も含めて途中下車して塔の拝観を、と考えたのです。とはいえ余り時間はなく、尾道などはゆっくり訪れたいと思っていましたので、新幹線の停車駅からタクシーを利用すれば、丁度いい寄り道になる明王院を選んだのでした。しかし生憎の天候で、福山駅に着いた時は今にも雨が落ちてきそうでしたが、明王院に着いた頃には、案の定、降り出しました。雨具の用意はありましたが、五重塔などの拝観という面ではともかく、写真撮影の面では具合が悪い空模様でした。毒々しくさえ見えるので嫌う人も多いようですが、真っ赤な曼珠沙華が咲き競う季節で、その川底に草戸千軒の遺跡が埋まる芦田川の川辺に咲く花は、華麗と言うほかない艶やかさであったことが、記憶に鮮明に残っています。
 その後、平成11年3月7日に、この時もまた岡山出張の機会を利用して再々訪していますので、この時(平成16年4月26日)の訪れは4度目ということになります。その旅の計画を樹てるに当たり、この寺を訪ねるのも、これが最後になるやもしれないと思いましたので、手持ちの幾つかの資料を改めて通覧しました。3度目の訪れ以前に買い求めていながら眼を通さずにいました1993年5月20日発行の新潮社刊「国宝」を見ますと、「『日本のボンベイ』が門前町」という見出しで明王院が紹介されており、末尾に「本堂、五重塔とも拝観には電話予約が必要。〇八四九ー五一ー一七三二」とありました。上に書きましたとおり、この本が発行された後にもこの寺を訪れており、外観だけであれば、拝観料も必要なく自由に拝観することができましたので、内部の拝観のことと思い、であれば願ったり叶ったりでありましたので、さっそく電話して内部拝観をお願いしました。しかし、最近は内部の塗装の剥落などがひどいので、内部拝観はお断りしているとのことでありましたが、私が塔をめぐり、その紀行文を自費出版していることを説明し、何とか拝観させていただけないかとお願いしますと、それでは、ということで許可していただけました。お寺さんは朝が早く、4月26日の午前8時にとのお約束をいただき、前日の夕方に福山入りしたのです。そして五重塔は東面して建てられており、塔の撮影は午前中が良いことは平成11年に訪れた時に確かめてありましたので、その点でも幸いでした。
 翌朝、ホテルを出発した私は、草戸大橋で芦田川を渡り、右折して明王院へ向かいました。間もなく左手に五重塔の先端が見えてきます。寺への案内標識にしたがって左に折れて進みますと、寺の門前(駐車場あり)に導かれます。数十段の石段を登り四足門をくぐり、更に県指定文化財である山門をくぐりますと、正面に本堂(国宝)、右手に書院と庫裡(いずれも県文)、そして左手に五重塔(国宝)が建っています。さっそく庫裡を訪ね来訪を告げました。
 今日は、ここまでとします。

☆       ☆       ☆

 昨日は定番メニューで休みましたが、夏休みの旅行計画で、一つのポイントとなります宿探しは、こちら ↓ 近畿ツーリストのステイプラスは如何でしょうか。

オススメ温泉地
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2008年07月12日

もう一ヵ所、寄り道をした上で備後国で訪れる最初の塔へ、

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記であるにも拘わらず、またまた寄り道ということになります。
 時は変わって平成16年4月の末のことですが、福山市の中心部から国道2号線を西へ向かいました。目指したのは、岩井隆次著「日本の木造塔跡」に「和光寺」という小見出しで、「福山市の西部、津之郷町津之郷に田辺寺(でんべんじ)という真言宗の寺がある。ここは奈良時代に和光寺という寺のあったところ」(ルビは括弧で表記)とある所でした。同書には、和光寺が廃滅した後、戦国時代に毛利元就の武将の田辺光吉という人が寺を再興したことから、田辺寺と呼ばれ今日に至っているとあります。しかし、手持ちの道路地図には、津之郷という地名は見えるのですが、田辺寺は見当たらず、「広島県の歴史散歩」にも記載がありません。そこで104で、お寺の電話番号を尋ねてみますと、上の書には「でんぺんじ」とありますが、「でんぺいじ」としてのお届けはあるといいます。それに相違ないと思い電話をしましたところ、和光寺の塔心礎が本堂の横に置かれているということでした。上記の書での記述について話をしますと、この辺の人は、「でんぺいじ」と呼んでいるとのことでありました。ついで道を尋ねたのですが、土地の人の感覚で説明されたので要領を得ません。何とかなるだろうと、高を括っての訪れでしたが、文字どおり何とかなりました。
 芦田川に架かる神島橋を渡り少し行きますと、瀬田町の信号に至りますが、その一つ先の津之郷橋東詰の信号を右折します。と、書きましたが、私は、そこを通り過ぎてしまい、道を尋ねてUターンして左折しましたので、その信号が右折可能かどうか不明です。右折した道を進み、山陽本線の踏切を越え、山陽新幹線の高架をくぐり少し行きますと丁字路になります。そこを左折し、一つ目の筋を右折して少し行った辺りで道を聞く方が無難ではありますが、そのまま僅か行きますと、右津之郷小学校とある看板がありますので、左手の小さな橋を渡りますと、すぐ先に、目指す田辺寺があります。
 さて、上の書に眼を戻しますと、次のように記されています。
  
 昔の和光寺の心礎が本堂の横に据えてあるが、勿論原位置ではあるまい。一・〇六メートル×八七センチ、中央に直径三八センチ、深さ二〇センチの深い孔があり、幅、深さともに三・九センチの放射排水溝が二本相対してついている。
 寺の創建年代は奈良時代で、戦国の世に田辺氏が再興したところを見ると、その頃まで寺の記憶は人々の間に残っていたものであろう。あいは田辺氏の兵火で焼失したのかもしれない。

 その心礎は、なかなか見事な心礎でありました。

☆       ☆       ☆

 さて、今日は土曜日ですので、こちらを、↓ どうぞ。

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