氏とは、先に記しましたように微かなご交誼をいただいましたが、その中で、拙著「中部日本篇」をお送りしたことに対する返礼として、氏から、平成11年9月28日付のお手紙と共にお送りいただいたご著書「一木一草の記」(第一版、平成5年刊)には、「国宝瑠璃光寺五重塔五五〇年に寄せて」の中で、「塔はどのようにして護られてきたか」について記しておられます。昨日見た部分と重複する部分は除き、次のように記されています。
万治四年(一六六一)塔創建から二一五年経った時、塔は大変傷んで柱は朽ち、雨漏りがする様になっていた。これを見た長州藩二代藩主毛利綱広公は自ら大檀那となり、浄財を集めて大修理をされた。
その後、幕末になるまで七回修理並びに屋根の葺き替えが成されているが、これは毛利氏の管理のもとに成されてきたのである。
ところが、安政の政変以来毛利氏は王政復古のため天下の雄藩として風雲急を告げ、塔の修理など二の次になった様である。安政六年(一八九五)頃寺が塔の腐朽を虞れ再三に渡って修理の申し入れをしたのであるが、なかなか取り上げて貰えないので、とうとう借金を申し入れたところ、銀六貫五〇〇目を無利子、二〇年償還で借りることが出来、ようやく修理することができた。
明治維新になって藩政は奉還され、寺も自主自営となり塔の管理は自らしなければならなくなった。
明治十五年又々塔の腐朽の兆を生じ、時の県会議員平川要氏が発起人となり大募金活動を展開したのであるが、功ならずして他界、その後寺の総代がこれを引き継いで募金活動を再開し、時の内務省・県・旧藩主毛利家等々の援助によって九百五十八円の寄付が集まり修理をする事が出来た。(中略)
近世に至り塔は文化財保護法により国宝に指定され、行政の管理下によって保護される事になって、大正四年の解体修理も国が行ない、最近では昭和五十六年屋根の桧皮の葺き替えが成され、約三千万円掛かったのであるが、その内九十五パーセントは国・県・市の補助によってなされている。
そうしているうちに、16時20分頃でありましたろうか、中年の女性が近づいてこられ、「山際さんでいらっしゃいますか」と声をかけてくださった。五重塔にカメラを向け続け、何枚もシャッターを切っている私の姿を見て、そうと思われたのではないかと思いますが、それが故永久氏のご息女で、その後ろには奥様の姿もありました。当然のことながら、私は、改めてお悔やみを申し上げました。
ところで、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めることとします。
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