2008年08月30日

五重塔は、どのようにして護られてきたのでしょう

 永久氏(今では「故」付さねばなりませんが)の奥様とご息女をお待ちする間に、故永久氏のご著書にも眼を通しておきたいと思います。
 氏とは、先に記しましたように微かなご交誼をいただいましたが、その中で、拙著「中部日本篇」をお送りしたことに対する返礼として、氏から、平成11年9月28日付のお手紙と共にお送りいただいたご著書「一木一草の記」(第一版、平成5年刊)には、「国宝瑠璃光寺五重塔五五〇年に寄せて」の中で、「塔はどのようにして護られてきたか」について記しておられます。昨日見た部分と重複する部分は除き、次のように記されています。

 万治四年(一六六一)塔創建から二一五年経った時、塔は大変傷んで柱は朽ち、雨漏りがする様になっていた。これを見た長州藩二代藩主毛利綱広公は自ら大檀那となり、浄財を集めて大修理をされた。
 その後、幕末になるまで七回修理並びに屋根の葺き替えが成されているが、これは毛利氏の管理のもとに成されてきたのである。
 ところが、安政の政変以来毛利氏は王政復古のため天下の雄藩として風雲急を告げ、塔の修理など二の次になった様である。安政六年(一八九五)頃寺が塔の腐朽を虞れ再三に渡って修理の申し入れをしたのであるが、なかなか取り上げて貰えないので、とうとう借金を申し入れたところ、銀六貫五〇〇目を無利子、二〇年償還で借りることが出来、ようやく修理することができた。
 明治維新になって藩政は奉還され、寺も自主自営となり塔の管理は自らしなければならなくなった。
 明治十五年又々塔の腐朽の兆を生じ、時の県会議員平川要氏が発起人となり大募金活動を展開したのであるが、功ならずして他界、その後寺の総代がこれを引き継いで募金活動を再開し、時の内務省・県・旧藩主毛利家等々の援助によって九百五十八円の寄付が集まり修理をする事が出来た。(中略)
 近世に至り塔は文化財保護法により国宝に指定され、行政の管理下によって保護される事になって、大正四年の解体修理も国が行ない、最近では昭和五十六年屋根の桧皮の葺き替えが成され、約三千万円掛かったのであるが、その内九十五パーセントは国・県・市の補助によってなされている。

 そうしているうちに、16時20分頃でありましたろうか、中年の女性が近づいてこられ、「山際さんでいらっしゃいますか」と声をかけてくださった。五重塔にカメラを向け続け、何枚もシャッターを切っている私の姿を見て、そうと思われたのではないかと思いますが、それが故永久氏のご息女で、その後ろには奥様の姿もありました。当然のことながら、私は、改めてお悔やみを申し上げました。
 ところで、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めることとします。

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 さて今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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2008年08月29日

日本三名塔の一つといわれる塔

 お二人をお待ちする間に、五重塔について見ておくこととしますが、「山口県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 この五重塔は、1399(応永6)年、応永の乱で3代将軍足利義満と戦って堺で敗死した25代大内義弘の菩提を弔うために、弟の26代盛見(もりはる)が建立したものである。完成は1442(嘉吉2)年であるから、盛見はすでに北九州の戦陣に倒れ、これを継いだ27代持世(もちよ)も、1441(嘉吉元)年、6代将軍足利義教(よしのり)が播磨守護赤松満佑(あかまつみつすけ)に暗殺された嘉吉(かきつ)の乱に巻き込まれて死に、大内氏の当主は28代教弘(のりひろ)になっていた。
 着工から完成まで三十数年、大内氏3代にわたる期間を要した五重塔は、長い間の風雪に耐え、1992(平成4)年に550周年を迎えた。五重塔の高さは31・2m、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の重なりが背景の山々緑とよく調和し、静かな雰囲気をただよわせている。四季折々に美しい姿を見せる瑠璃光寺五重塔は、法隆寺五重塔(奈良県生駒郡斑鳩町)および醍醐寺五重塔(京都市伏見区)とともに日本三名塔と称えられている。この地には大内義弘によって建立された香積寺(こうしゃくじ)があったが、毛利氏時代に入って萩に移築された。このとき五重塔も移されようとしたが、山口町民の嘆願によってようやく現在地に残されたという経緯がある。現在、瑠璃光寺資料館に1616(元和2)年に町奉行に提出した町民の嘆願書が保存されている。こうして香積寺の故地には五重塔だけが残されたが、1690(元禄3)年仁保(にほ)から陶(すえ)氏の菩提寺である瑠璃光寺(曹洞宗)が移され、以後、五重塔は瑠璃光寺五重塔として住民に親しまれるようになったのである。(ルビは括弧で表記すると共に一部を省略した)

 さて、長い引用になりましたし、この先を続けますと収拾がつかなくなりそうですので、五重塔の写真を先にご覧いただきこととして、今日は、この辺りで止めにします。こちらを ↓ どうぞ。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/35yamaguti/rurikou5/rurikou5.html

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 8月も数日を残すばかりになりましたが、9月は敬老の日のある月ですね。私は、父親は戦争で、母親は病気で失い、母親の23回忌を最近に迎えましたが、まだまだ、お元気な親御さんがおられる方もいらっしゃることでしょう。そんな方は、敬老の日に親御さんに蟹三昧などをプレゼントされては如何でしょう。こちらで ↓ ご覧ください。



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2008年08月28日

思わぬハプニングが待っていた塔へ

 平成16年の山陽・山陰の塔をめぐる旅の計画段階で、「元教職にあり、今は引退し、瑠璃光寺檀徒責任総代に任じて寺の維持経営に参画し、資料館を開設して、寺の護持の一助に努力されています」(平成2年10月22日付、吉田氏からの手紙)という永久鉄哉氏に連絡を取って、瑠璃光寺五重塔の内部拝観という無理なお願いをしたところ快諾を得て、氏に初めてお目にかかれることになっていました。上に「資料館」とありますのは「瑠璃光寺資料館」のことですが、最初に瑠璃光寺を訪れた時に館内を見物していますので、もしかしたら、その時、永久氏にお目にかかっていたのかもしれませんが定かではありません。
 さて、月日を確認しておきますと4月29日のことですが、私は雲谷庵から瑠璃光寺へ向かいました。しかし、個人的には、五重塔の拝観の前に記しておかねばならないことがあります。
 私は、前日(28日)に、よろしくお願いします、と申し上げるべく電話をかけました。ところが、電話口に出られたのはご本人ではなく、奥様でありました。そして、永久氏が、この年の2月23日に、 交通事故で亡くなられたという衝撃的なお話を受けたのです。そのときの私の驚きようは、ご想像いただけるでしょう。塔めぐりの旅を続け、拙い紀行文を本にして発行してきた過程で、色々ご教導いただいた方の中には、既に述べた吉田実氏や國見辰雄氏ばかりでなく、何人かの方との永久の別れを経験しています。しかし、そういってはなんですが、大体の方は、ご高齢であったので、あるいは、という予感のようなものがないわけではありませんでした。しかし、永久氏の場合は、不慮の事故死です。今日まさにお目にかかろうとしていた方が、2ヶ月ほど前に亡くなられていたと聞いた時の驚きは、例えようのないものでありました。しかしながら、奥様は、当初の予定どおりの時刻に瑠璃光寺でお待ちしております、ご計画された先を訪れられたうえで、と言って下さったのです。正直なところ、五重塔の内部を拝観する機会を失ったことに小さな落胆を覚えていたたのですが、お悔やみを申し上げると、かねて永久氏が、奥様に私のことを話しておられたようで、改めてお寺さんに話をして、五重塔の内部の拝観ができるように取り計らって下さるとい言われます。こんなときに、ご迷惑をおかけしてはと思いましたが、二度となさそうな機会でありましたので、ご厚意に甘えることとして、午後4時半に五重塔の前でお会いすることとしました。ご息女も一緒に来られるとのことで、もちろん初めてお目にかかるので、お互いの顔が判らず行き違いになっては、と、ご息女の携帯電話番号まで教えていただきました。
 私は、約束の時刻に遅れることを危惧して早めに瑠璃光寺へ向かいましたので、駐車場に車を入れ五重塔の前に立ったのは4時頃でありました。約束の時間には間がありましたので、立つ位置を変えて、何枚か写真を撮ったのですが、塔は南西に向かって建てられていますので、まあまあの写真が撮れました。すなわち、写真撮影という点からは、基本的には午後がよいと思われますものの、季節にも拠るでしょうが、前面の池を入れて撮る場合は、午前中の方が良いかもしれません。
 ちょっと長くなりましたので、続きは明日にします。

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2008年08月27日

塔を訪れる前に、また寄り道ですが

 昨日は、メールの受発信ソフトに原因不明のエラーが発生し、落ち着かぬまま、ブログの方は休んでしまいました。

 またまた寄り道ですが、山口市の第一の観光名所である塔のある寺へ行く前に、もう一つの観光名所である常栄寺(じょうえいじ)を訪れることとします。常栄寺は雪舟庭(国史跡)で知られていますが、この寺を訪れたのは2度目で、最初の訪れは遙か昔のことになります。「山口県の歴史散歩」には、「この地にはもと29代大内政弘の母を葬った妙喜寺(みょうきじ)があり、庭園は政弘が雪舟に命じて築かせたものと伝えられている」(ルビは括弧で表記)とあり、境内には、政弘の母公の妙喜寺殿の墓という宝篋印塔もあります。後に訪れる寺との関係もありますので、もう少し同書に眼を通しますと、次のように記されています。

 常栄寺は1564(永禄7)年に毛利人差し指サイン元の菩提寺として安芸国吉田に創建され、翌年、正親町天皇より「常栄寺広利禅寺」の宸筆勅額を賜った名刹である。1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏が防長2ヵ国に削封されて山口に移ってきたとき、多くの寺院も安芸国から防長の地に移されたのである。
 常栄寺は山口市水の上にある大内盛見創建の国清寺跡に移され、幕末までその地にあった。1863(文久3)年、毛利敬親が藩庁を萩から山口に移したとき、毛利輝元が安芸国吉田に創建した毛利元就の菩提寺の洞春寺が、萩から山口の常栄寺の地に移転したため、常栄寺は現在地に移されたのである。(ルビ省略)

 上の記述を丁寧に見ますと、この寺の庭は雪舟が築庭したものではないことになります。何故ならば、同書には、「雪舟は1420(応永27)年備中国に生まれ」とあり、また「雪舟が没した時と場所についてはさだかでないが、1506(永正3)年87歳で雲谷庵で没したという説が有力である」とあるからです。その雪舟の生年が正しく、常栄寺の創建時(西暦1564年)以降まで生存していて築庭したとすれば、少なくとも150歳以上ということになり、とうてい信じられませんのでる。それはさて措き、庭そのものは美しいもので、最初の訪れのときは雪景色で、2度目は初夏と異なった季節でありましたが、どちらも風情のある光景でありました。
 常栄寺を辞した私は、雪舟の没した地という説が有力であるという雲谷庵跡(県史跡)を訪れました。「有力」というのは他にも説があるということでありましょうが、塔めぐり旅日記とは直接の関係がありませんので触れません。雲谷庵は常栄寺の近くにありますが、判りにくい場所にあり、迷った末に、ようやく辿り着きました。手元の地図に拠りますと、国道9号線の七尾山トンネルを東から西へ抜けてすぐの信号を右折すればよいようですが、果たして右折できるかどうか、また私自身、そこで右折したかどうか、記憶が定かでありません。もっとも、バスを利用した場合は判りやすいようで、上の書には、「市営バス野田下車5分」とあり、「野田バス停から北へ500mほど」ともあります。といっても、正直なところ、わざわざ訪ねるほどの所ではありません。同書に、「七尾(ななお)山麓の高台にあり、はるかに五重塔が望まれる」(ルビは括弧で表記)とありましたので行ってみたのですが、まさに、「はるかに」、五重塔の先端が見える程度でありました。

☆       ☆       ☆

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2008年08月25日

山口県で二番目の塔のある県都、山口市へ

 昨日は男子マラソンや閉会式に気を奪われて、お休みしてしまいました。

 五重塔、三重塔をめぐる山口県の旅も、二番目の塔のある県都、山口市へとなりますが、まず山口という町について見ておくこととします。「山口県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 古代にまず発展したのは山陽路の交通の要衝にあたる南部であった。(中略)
 中世に入り、源頼朝の家臣平子重経が仁保庄の地頭となってから北部が開け始めたが、周辺はまだ純然たる農村であり、鎌倉時代の史料によると、宮野庄の在家31という記述がみられる。山口が中世都市として発展するのは、大内氏による城下町建設に始まる。周防・長守・石見の守護となった24代大内弘世は、1360(正平15)年頃、本拠を大内から山口に移し、京都を模倣して町づくりに着手した。(ルビ省略)

 では、その大内氏とは、どのようなものであったのでしょうか。「海東諸国紀」(岩波文庫)という書に眼を通すこととしますが、この書について、同書の訳注者(田中健夫)の「はしがき」には、次のように記されています。

 『海東諸国記(ヘドンチェグッキ)』は、朝鮮王朝最高の知識人が日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・通交の実情等を克明に記述した総合的研究書である。一四七一(朝鮮成宗(ソンジョン)二、日本文明三)年に朝鮮議政府領議政申叔舟(シンスクチュ)が王命を奉じて撰進した書物で、海東諸国(日本と琉球)の国情と、その朝鮮との通交の沿革を記し、さらに使人接待の規定を収めている。(ルビは括弧で表記)

 そして右の書は、申叔舟が「一四四三(世宗二十五、嘉吉三)年通信使(中略)とともに書状官として日本京都に使し」(訳注者による「解説」)た時の記録といいいますが、その中で、「大内殿」として、次のように記されています(割注略)。

 多々良(たたら)氏。世(よよ)州の大内県山口に居し、周防・長門・豊前・筑前四州の地を管す。兵最も強し。日本人称す。百済王温祚の後、日本に入り、初め周防州の多々良浦に泊す。因りて以て氏と為す、と。今に至るまで八百餘年、持世(もちよ)に至るまで二十三代なり。世(よよ)大内殿と号す。(中略)係(けい)百済(ひゃくさい)に出(い)ずるを以て、最も我れに親し。(ルビは括弧で表記)

 そして、韓国の作家、金聲翰(キムソンハン)の「日本の旅」(中公文庫「日韓 ソウルの友情」所収)の中の「山口のこと」には、次のように記されています。

 山口は百済の琳聖太子とその子孫の大内氏ゆかりの地である。民族博物館を訪ねて館長の内田伸先生から詳しいご説明を頂いた。先生は大内時代が専攻で、山口市史にも同時代を担当執筆しておられた。(中略)
 先生のお指図に基づいて瑠璃光寺の五重の塔、龍福寺、築山館のあとなど、大内氏にまつわる遺跡をまわって東南郊外の大内町に行った。市に編入される前には大内村、大内氏発祥の地である。(中略)
 記録によると、太子は百済の第二十六代聖明王(韓国の記録では聖王)の第三王子で、西暦六一一年多々良浜に上陸した。この年は推古天皇の十九年に当たるから聖徳太子の摂政時代である。(中略)
 父の聖明王はこの時より五十七年前の五五四年に亡くなっているから、太子は当時少なくとも五十七歳、だいたい六十前後の老人であったろう。老太子に率いられたこの集団は二年後に多々良浜より大内村に移って定着し、その子孫は地名に因んで始めは多々良氏、ついで大内氏を名乗るに至った。
 十六代盛房から周防権介を世襲するようになって以来このあたりの有力な豪族として登場し、二十四代弘世に至っては三か国の守護に任ぜられ、その領国は下関まで及んだ。弘世は今の山口の都市を建設して一三六〇年ごろここに移り、これより大内氏は山口を中心に西国に勢いをのばしていった。
 弘世の子義弘に至っては北九州まで手に入れ、大いに海外貿易に乗り出し高麗とも交流が始まった。彼は高麗史に大内殿義弘として現われ、倭寇の討伐にも積極的に協力した。李朝に入っても協力関係は変わらず、一五五一年、大内氏が陶晴賢に滅ぼされるまで約百五十年間交流が続いている。(中略)
 大内氏は朝鮮と日本を結ぶ蝶番のような役割を歴史に果たしている。人間の歴史は概して愚行の連続にきまっているが、韓日両国の関係のみから考えれば大内氏の行跡は、暗闇にさす一条の光といって差し支えないだろう。(ルビ省略)

 端折るわけにもいかず、思わず長くなってしまいましたので、今日は、この辺りで止めます。

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 一昨々日は、ガソリンの高騰に対処するということで、コスモ・ザ・カードをご紹介しましたが、引き続いて今日は、「出光カード」をご紹介します。こちらを ↓ どうぞ。



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2008年08月23日

五重塔になる筈だった春風楼

 春風楼について、「山口県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 天満宮境内の春風楼は通称通夜堂とよばれる。江戸時代後期、宮市の疲弊がはなはだしく、(中略)その救済策として天満宮の例祭に分徳芝居や軽業芝居などを許可したり、公米銀を融資したりしたが効果が十分でなかった。そこで五重塔を建てれば人も集まり町も栄えるだろうとの考えから、1822(文政5)年に着工した。しかし資金不足のため工事の途中から2層の楼閣様式に急遽設計変更してようやく明治に入って完成した。床下の木組みは塔の1層めの軒下の組み物を使ったもので、もし五重塔が完成していれば、日本一、二の豪壮な塔となっていたであろう。(ルビ省略)

 上にあるとおり、五重塔として完成していたならば、素晴らしい塔になっていたものと思われます。床下とは言いながら、余裕をもって立って歩きながら鑑賞することができました。
 この他、防府天満宮には、木造の三重小塔があります。この小塔については、同好の大先輩から情報をいただいきましたが、吉田実氏に照会したところ、「10年程前、鉄筋コンクリート造参集殿を完成したときの記念に奉賛会が寄進したもので、台座に色々とこの小塔の名称や奉納趣旨が書いて」あるとのことであした。そして、「約2mの石の台座の上に約2・5m位の木造三重塔が据えてあります。やヽ略式のところがあり、本式の塔構造にはなっていませんので、私の対象には含めてありません」ともありました。私も行って見ましたが、まさにそのとおりのもので、いわば飾り物とでも言うべきものでした。

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 さて、今日は土曜日ですので、一昨日と同じ「gooリサーチモニター」のご案内になってしまいますが、こちらを、 ↓ どうぞ。

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2008年08月22日

山口県で二番目に訪れる塔へ行く前に(その2)

 五重塔、三重塔をめぐる旅としては、またまた寄り道ですが、国分寺を後にした私は、次いで防府天幡宮(祭神菅原道真)へ向かいました。神社発行のリーフレットにも記されていることながら、「山口県の歴史散歩」に拠れば、延喜4年(904)の創建とされる防府天満宮は、「太宰府(915年)・北野(947年)の天満宮より古く、日本最初の天満宮ということになる」とのことです。なお、リーフレットには、この三社は「日本三天神と称せられております」とあります。
 この防府天満宮には、国の重要文化財に指定されています「『承安2(1172)年』の銘のある金銅宝塔」(「山口県の歴史散歩」)がありますが、塔めぐりの旅の計画段階で、防府天満宮に拙著「近畿・岡山篇」をお送りしたうえ、この宝塔の拝観および撮影の許可を願い出たところ、ご快諾いただき、「近づきましてからご連絡頂けれ対応いたしますので是非ご来宮下さい」ともありました。私は、旅に出る前日、神社へ電話で、到着予定などについてご連絡し、当日、ご指定の場所に行きますと、さっそく宝物殿にご案内いただきました。同封していただいた資料(出展不明ながら、防府天満宮再建奉賛會によるものと推察されます)には、この金銅宝塔について、総高43・9p、基壇高5・9p、基壇の幅16・5p、 塔身12・8p、塔身の最大値11・5p、相輪高19・6pなどとあったうえ、次のように記されています。

 基壇・塔身・屋蓋・相輪の各部からなり、塔身と相輪は鋳製であるが、屋蓋は木製でその上に銅板を葺いている。基壇は二重で木心を入れ、その上を銅板張りとし、四隅に脚を付けている。塔身は瓶形で、正面に観音開きの扉を付ける。扉板の内側には右に不動明王立像、左に毘沙門天立像を線刻している。内部には半球形緑瑠璃の珠玉を安置している。扉板と珠玉は後補である。相輪と屋蓋の四方に風鐸各三個を付けた四条の鎖を張り、さらに軒先きの四隅にそれぞれ風鐸を垂している。軒先きの風鐸一個を除きすべて後補である。

 そして、「塔身の後面に、造塔の意趣を記した、次の銘文が陰刻されている」として、漢文の銘文を掲げたうえ、次のように記されています。

 これによれば、この宝塔は承安二年<一一七二>に、当時の周防国国衙に目代として派遣されていた藤原季助が願主となり、後白河法皇の長寿と後生をはじめとして、願主兼ねて奉行衆の子孫繁昌、国土の豊饒、諸民の楽を与にせんことを祈請せんがため、当国守護の防府天満宮の御前に安置するというのである。

 十分その素晴らしさを観賞した私は、多忙の中、ご案内いただいた方に礼を述べ宝物殿を後にして、この神社を訪れた二番目の目的である春風楼へ向かったのですが、長くなりましたので、それは明日のこととします。

☆       ☆       ☆

 年金生活になって、塔めぐりの旅もなかなか出来ず、車も昨年に手放しましたので、直接には響かないのですが、ガソリンの高騰は大変ですね。車を常時使用される方は既に所有されているかもしれませんが、
コスモ・ザ・カード・オーパスは如何でしょうか。お持ちでない方は、こちらから、 ↓ どうぞ。



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2008年08月21日

山口県で二番目に訪れる塔へ行く前に(その1)

 昨日は、何となく落ち着かない一日で、お休みしてしまいました。

 さて、五重塔、三重塔をめぐる旅日記としては、二日にわたっての寄り道になります。
 地蔵院を辞した私は、次の目的地へ向かうべく、国道2号線に出て岩国インターを目指しました。そして、山陽自動車道に乗って、一気に徳山西インターまで車を進め、再び国道2号線へ出て、まず、防府市牟礼に所在する阿弥陀寺を目指しました。この寺には、「『建久8年』の銘があり、日本最古の鉄塔として工芸・文献史上貴重なものである」という「水晶五輪塔をともなう鉄宝塔(ともに国宝)」(以上、括弧内「山口県の歴史散歩」)があります。しかし、それは普段は拝観できず、これといって見るべき建物などもありませんでしたので、境内を一回りしただけで、次の目的地の毛利邸へ向かいました。そこへの道筋にある毛利邸に立ち寄ることとしていた。そして「山口県の歴史散歩」に、「毛利邸から東へ200m、立馬場には重源ゆかりの大仏堂がある」と記されている所へも立ち寄りました。しかし、わざわざ訪ねるほどのものではありませんでした。
 さて、平成6年に国の名勝に指定された毛利邸は、「大内氏ゆかりの多々良の地に、旧藩主邸として1892(明治25)年に井上馨が選地着工し、1916(大正5)年に完工した」(「山口県の歴史散歩」)もので、そう古い庭ではありませんが、なかなか見応えがありました。
 毛利邸を辞した私は、その西にある周防国分寺跡を訪れました。現在も国分寺(真言宗)があり、「山口県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 周防国分寺の創建の年代はわからないが、756(天平勝宝8)年以前ではある。(中略)国分寺は建立当時には10坊、享保・寛延年間(1716〜51)には6坊だったが、現在は金堂と仁王門・聖天堂・庫裏が白壁の築地に囲まれた旧境内(国史跡)の地に残っている。このように伽藍が現存するのは全国的にも珍しい。

 寺発行のリーフレットに拠れば、金堂(国重文)は、「往古のものは応永二十四年焼失したので応永二十八年大内盛見が再建した。現存の仏殿は安永八年(一七七九)毛利重就の建立したものである」といいいます。また、現在の仁王門(県文)は、「慶長元年(一五九六)毛利輝元が建立し、ついで明和四年(一七六七)毛利重就が修築した」(後半の引用文中、括弧内の西暦年は筆者の注)ものといいいます。しかし、私が訪れたときは、金堂の修理中で、終わりかけていたとはいえ内部の拝観はできなかったのですが、堂内の諸仏は別の場所に移されていて、拝観することができました。リーフレットには「塔跡」として、「金堂の東南方に位し、昭和二十八年十月発掘された」とありますが、金堂の修理のため囲いが施されていて、これまた眼にすることはできませんでした。心礎が遺り、見える状態であったとすれば残念なのですが、実際はどうなのでしょうか。

☆       ☆       ☆

 さて、今日は木曜日ですが、先週の土曜日は曜日感覚がなく、定番のバナーでないものを貼ってしまいましたので、イレギュラーながら、こちらを、 ↓ どうぞ。

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2008年08月19日

残念ながら、余りお奨めできない塔ですが

 五重塔、三重塔をめぐる山口県の旅の最初の塔ですが、残念ながら、一の滝寺の三重塔は、余りお奨めできないものです。
 三重塔を拝観する前に、この寺の歴史について見ることとしますが、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第二巻、三重塔)には次のように記されています。

 錦帯橋の下を流れる錦川の北、岩国山の山麓に真言宗醍醐寺派鳥越山一の滝寺がある。(中略)
 一の滝寺に着くと高野山金剛流一の滝支部の扁額がある。住職の富島藤徳師によると本来修験道の道場で、そのために伽藍も山腹の急峻な位置に巧みに配置されている。
 大正10年(1921)に岩国町錦見に初代富島真海師が錦見教会を開設し、昭和6年(1931)にいまの地に移る。同8年真海師の没後はその子徳総師が主宰し、同46年に不動堂を建立して一の滝寺と改称したというからまだ歴史は浅い。

 昨日見ました吉田実氏のお手紙や、上の文章によっても判りますように、三重塔は狭い谷間の道を進んだ最も奥の左手の崖の上に建てられています。その崖の岩には、石仏も見られました。
 上の故國見氏の書によりますと、三重塔は、「木造で総高約10メートル、昭和54年に竣工し、60年7月21日に落慶法要が営まれている」とのことです。
 吉田氏のお手紙に眼を戻しますと、「地方の大工が一生懸命勉強して建てた木造三重塔」とありますが、経験豊かな宮大工によるものではありませんので、形もいま一つといった感じでありました。そして、正面の扉や脇間にはガラスが嵌められていますので、近くに寄って見ると、正直なところ安っぽく見えます。
 そんな三重塔ですが、写真をご覧いただきましょう。こちらを、 ↓ どうぞ。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/35yamaguti/ititaki3/ititaki3.html

 なお、写真の説明書きに「一滝寺」とありますが、「一の滝寺」とするのが正しいようです。

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 暦の上では秋は、もうすぐそこですね。しかし、残暑は、まだまだ続きそうです。こんな暑い日は、そうめんが美味しいですよね。そこで今日は、「そうめんおじさんのそうめん工房」をご紹介します。こちらを、↓ どうぞ。

そうめん
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2008年08月18日

山口県で最初に訪れる塔へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅の山口県で最初に訪れる塔は、一の滝寺の三重塔ですが、その最小の情報は、何度も書くようでとなが、今は故人となられた吉田実氏からの平成2年10月3日付のお手紙でありました。このお手紙、吉田氏から届いた第2便でありましたが、それには、この寺の所在地について「山口県岩国市室ノ木三丁目」とありました。それ以来、吉田氏からは数十便のお手紙をいただきましたたが、振り返ってみれますと、それから20年余の歳月が過ぎていることになります。ということは、その頃の私は、もう少しで50歳にならんとする時であり、働き盛りとも言うべき年齢であったわけです。言い古された言葉ながら、歳月の経つのは迅いもので、ついこの前のような気がします。振り返ってみますと、よくもここまで、やってきたと、女子マラソンの有森裕子さんではありませんが、自分を誉めてやりたい気持です。
 ところで、吉田氏からの第4便となります同年同月の22日付のお手紙は、それ以降にいただいたものも同様でありますが詳細なもので、それには、三重塔は「昭和54年3月竣工」とあったうえ、次のように記されていました。

 仏塔建築の経験のある宮大工の施工になるものではなく、地方の大工が一生懸命勉強して建てた木造三重塔で、支割等斉々としたところは無く、白久長泉寺三重塔同等の塔ですが、云はヾ、地方色が豊かで味があります。
 同じ大工さんは、その後、直ぐ近くの地蔵院に昭和58年4月完成の多宝塔を建造していますが、技法に進歩の痕が見られます。
 一の瀧寺は、小渓流の奥にあり、本堂は道の行止り、谷を挟んで西に三重塔、東に地蔵堂がある。午前中に地蔵堂から谷向いの三重塔に対すると順光の写真が撮影出来る。先に地蔵院へ詣り、道を聞いた方がよい。地蔵院→一の瀧寺徒歩6〜7分。(明らかに誤記と思われる一字を訂正させていただいた)

 そして、「JR岩国駅前発、室の木経由錦帯橋行乗車(市バスとJRバスと2便あるが市バスの方が多い)」、とあり、更に「新幹線新岩国駅は不可」とも記されており、室の木バス停、一の滝バス停、桜地蔵バス停から一の滝寺への道筋を描いた絵図まで添えられていた。更に、私が車で塔めぐりをしていることへのご配慮でありましょう、一の滝バス停の道は、「狭く軽しか通れない」とも記されていました。
 そのご教導に従う恰好で、最初に地蔵院を訪れ、こちらの拝観は後のこととして、車をその境内に駐めさせていただき、まず一の滝寺へ歩を進めました。時を確認しておきますが、平成16年4月29日のことです。
 来た道を岩国駅の方へ戻りますと室ノ木町という信号がありますが、左手の医療会病院の先で左の細い道へ入り、一つ目の筋で左折して、吉田氏のお手紙に「軽しか通れない」とある道を少し行きますと、河畔に一の滝灯籠があります。渓流に沿って川上に向かって道を辿りますと、やがて朱塗りの橋があり、その橋を渡れば、既に一の滝寺の境内で、本堂があります。吉田氏の手紙にありましたとおり、地蔵院から歩いて、6〜7分ほどです。
 長くなりましたので、寺へたどり着いたところで、今日は止めることとします。

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 昨日は暑さもゆるみましたが、まだまだ残暑は続くようです。スタミナ維持が肝要ですが、それなら、こちらを、 ↓ どうぞ。 


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2008年08月17日

五重塔、三重塔をめぐる旅も山口県へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、山口県へとなります。
 ところで、広辞苑(第三版)の「山陽地方」の項を見ますと、「中国地方の南部、脊梁山脈南側の区域。岡山・広島県および山口県瀬戸内海側を含む。(兵庫県瀬戸内海側の西部を含める場合もある)」とあります。すなわち、山口県の日本海側は含まれないことになります。このことは本書の目的からすれば、さほど重要なことではありませんが、山口県の瀬戸内海側と日本海側とは、どの辺りで線が引けるのでしょうか。
 現代の山口県は、幕末には長州藩として、薩摩藩(鹿児島県)と共に現代日本国家の礎を築く大きな役割を担った県であることは、日本人であれば知らぬ人はいないでしょう。山口県が歴史上においてクローズアップされるのは大内氏の時代からですが、大内氏については後に見るとして、ここでは、毛利氏の時代について、「山口県の歴史散歩」に記されているところを、大内氏の末期から明治維新まで、少し長くなりますが見ることとします。

 大内氏最後の当主となった義隆が、1543(天文12)年尼子晴久を出雲の富田月山城に攻めて失敗して以後、もっぱら文化的生活を愛好して公家化すると、戦国時代の下克上の風潮を背景に意見のあわなかった武断派の重臣周防守護代陶晴賢は、ついに1551年8月27日、居城若山城を発して山口を急襲した。翌二八日義隆は山口の法泉寺に逃れ、次いで長門に走ったが、9月1日深川の大寧寺で(長門市)で自殺した。(中略)
 ……戦国武将毛利元就は大内義隆に属し、義隆の死後一時陶晴賢に服したが、1555(弘治元)年10月厳島の戦いで晴賢を討ち、その勢いで防長に進出し、(中略)防長2州を支配下に収めた。(中略)1566(永禄9)年には山陰の尼子氏を滅ぼしたが、その対戦中に長男の隆元が病死したため孫の輝元が毛利氏を継いだ。(中略)
 1582(天正10)年、輝元は備中高松城の戦いを機に豊臣秀吉と和して安芸・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・備後の8ヵ国121万石の大名となり、五大老のひとりとして秀吉の信任をうけた。しかし1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで西軍の総大将の立場にあったため、戦後徳川家康によって領地を没収され、改めて輝元の長男秀就に周防・長門の2ヵ国、36万9000石が与えられた。1608(慶長13)年6月萩城が完成し、ここに萩が防長2州の藩政の中心となり、明治維新策源の地となった。(中略)
 1653(嘉永6)年のペリー来航と、日米和親条約と日米修好通商条約の締結は、朝廷をないがしろにするという幕府への非難となり尊皇攘夷運動を激化させた。なかでも吉田松陰は国家の前途を憂い、ペリー来航に際し伊豆の下田からアメリカへ密航を企てたが果たせず、萩に送還されて幽囚の生活を送った。その間松下村塾を開いて若い門人たちに愛国の熱情を吹き込んだ。安政の大獄で松蔭が刑死すると、高杉晋作・久坂玄瑞をはじめとする長州藩尊皇攘夷派は、藩をあげて奉勅攘夷に転換させ、1863(文久3)年5月関門海峡で外国船を砲撃した。藩政府が初めて萩から山口へ移ったのも、高杉晋作の奇兵隊がつくられたのもこの頃である。(ルビ省略)

 そして、明治維新を迎えるわけですが、右の書には、「1871年7月廃藩置県が行われ、山口県の地域には山口・岩国・豊浦・清末の4県が誕生し、同年11月の統廃合によって現在の山口県が成立した」とあります。
 ところで、山口県は廃藩置県前の国名で言いますと周防国と長門国ですが、塔は周防国、言い換えると、冒頭に記しました「山陽地方」にしかありません。

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 今日は、ちょっと変わったところで、エステを、ご紹介します。まずは、こちらから、 ↓ 1000円の体験コースなど、如何でしょう。

エステ体験なら
posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 13:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月16日

五重塔から多宝塔へ

 千畳閣からの五重塔の眺めを満喫した私は、厳島神社に参拝し、大願寺へ向かいました。そして、大願寺の本堂から少し登った所にある多宝塔を拝観しました。宮島を訪れたのは三度目でありますことは前に記しましたが、多宝塔の拝観は、この時が初めてでした。
 再び「続・塔の旅」に眼を戻しますと、多宝塔について次のように記されています。

 五重塔に対し西の丘上に多宝塔が立つ。この塔、明治以前は多宝院に所属していたが、神仏分離以後一時加藤清正を祀り宝山神社と称していた。(中略)塔は室町期の普通の多宝塔で、塔自体に銘文はないが、これも五重塔と同じ『芸藩通志』に「大永三年」(一五二三)とあり、この年代の作と信じられ、明治三十四年旧国宝となった。

 現在は、言うまでもなく、国の重文となっています。
 多宝塔を後にした私は、大聖院まで行って道を戻り、自然散策道へ入って、平松公園から紅葉谷公園へと辿りました。紅葉谷公園の奥に弥山へ昇るロープウェイの駅、紅葉谷駅がありますが、正直なところ、その料金(1800円)を知って躊躇しました。しかし、私より若い人たちが迷わず切符を買っているのを見て決心しました。ロープウェイは2区間に分かれており、途中の榧谷駅までは頻発していますが、そこから終点の獅子岩駅までは15分間隔で、しかも終電車が早く、弥山山頂まで行きたかったのですが、終電車にはとうてい間に合いそうもありませんでしたので、それは諦めて下山しました。しかし、獅子岩駅付近からの眺望は素晴らしく、高い運賃を支払っただけの価値はありました。
 そして、宿へ戻る途中で「塔の岡」へ行き、そこから素晴らしいアングルの五重塔を拝した後、宿へ戻ったのでした。

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2008年08月15日

五重塔から多宝塔へ

 千畳閣からの五重塔の眺めを満喫した私は、厳島神社に参拝し、宿の方へ戻る恰好で、大願寺へ向かいました。しかし「総鑑」で見た三尊は拝することなく、少し登った所にある多宝塔を拝観しました。宮島を訪れたのは三度目であることは先に記しましたが、多宝塔の拝観は初めてでありました。
 再び、中西亨先生の「続・塔の旅」に戻すに戻りますと、多宝塔について次のように記されています。

 五重塔に対し西の丘上に多宝塔が立つ。この塔、明治以前は多宝院に所属していたが、神仏分離以後一時加藤清正を祀り宝山神社と称していた。(中略)塔は室町期の普通の多宝塔で、塔自体に銘文はないが、これも五重塔と同じ『芸藩通志』に「大永三年」(一五二三)とあり、この年代の作と信じられ、明治三十四年旧国宝となった。

 現在は、言うまでもなく、国の重文となっています。
 多宝塔を後にした私は、大聖院まで行って道を戻り、自然散策道へ入って、平松公園から紅葉谷公園へと辿りました。紅葉谷公園の奥に弥山へ昇るロープウェイの駅、紅葉谷駅があります。しかし、そこからの料金(1800円)を知って躊躇したのですが、私より若い人たちが迷わず切符を買っているのを見て決心した。ロープウェイは二区間に分かれており、途中の榧谷駅までは頻発していますが、そこから先、終点の獅子岩駅までは十五分間隔で、しかも終電車が早いのです。弥山山頂まで行きたかったのですが、終電車にはとうてい間に合いそうもありませんでしたので、それは諦めて下山しました。しかし、獅子岩駅からの眺望は素晴らしく、高い運賃を支払っただけの価値はありました。

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2008年08月14日

五重塔の建つ場所の場所の由来

 ちょっと怠惰になっていますでしょうか、昨日も書き忘れてしまいました。そんなわけで、何日か前に見たということになります中西亨先生の「続・塔の旅」にもありましたとおり、五重塔は「塔の岡」(現地説明板での表記)と呼ばれている所に建っています。
 何年前のことでしょう、NHKの大河ドラマで「毛利元就」が放映されましたが、厳島合戦の場面を記憶されている方も多いのではないでしょうか。後に訪れる瑠璃光寺で記すこととの関連もあり、その厳島合戦について、 杉山博著「戦国大名」に記されているところを、斜め読みします(ルビ省略)。
 享禄5年(1532)のころ、「中国地方は尼子氏と大内氏によって、東と西に大きく二分される形勢にあった。……こうした両強激突の形勢下に毛利氏をついだ元就には、領内・国内の問題とは別の、高度な外向的手腕が要求された。……天文六年(一五三七)には、大切な長男の少輔太郎(隆元、十五歳)を大内義隆に人質としてさし出した。これは大内氏への服属、すなわち尼子氏への敵対を意味する元就の重大な決断であった。天文十年(一五四一)秋、尼子氏はこの毛利氏をつぶすため、石見路を越えて三万の主力軍を投じて来た」。しかし「尼子軍は、元就の兵三千の総攻撃にあって惨敗し、……雪に埋もれた中国山地を潰走し去った。……勝ちに乗じて尼子氏を深追いした大内氏もまた、出雲に引きよせられて大敗を喫し、かろうじて本国周防へ撤退してゆくことになる。東西両強の勢力は、こうして安芸から後退した。……元就がこうして一気に上げ潮に乗りはじめているころ、山口の大内義隆のまわりには、重臣陶晴賢謀反のうわさ」が流れました。そこで、晴賢は、天文20年(1551)、山口の大内館を襲撃、天文22年(1553)、「大内(周防)・毛利(安芸)の決戦に突入する」。その後のことは、宮脇俊三著「室町戦国史紀行」を見ることとしますが、この紀行の執筆に当たって宮脇俊三が目指したのは、宮島桟橋に近い宮尾城跡でありました。

 宮尾城は元就が陶軍を厳島におびき寄せるべく築いた囮城だという。陶晴賢は大軍を厳島に上陸させ、宮尾城の背後の塔ガ岡を本陣にした。
 弘治元年(一五五五)九月三〇日の深夜、元就は一〇〇艘の船を徴発して厳島に渡り、背後から塔ガ岡を急襲した。陶軍は混乱し、夜が明けるまえに戦いは終った。(ルビ省略) 

 このように、厳島合戦では五重塔の建つ塔が岡が戦いの場となったにも拘わらず、焼失も、破壊もされずに残ったというのは、奇跡に近いのではないでしょうか。

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2008年08月12日

身元調査も済ませた五重塔へ

 昨日は、特段のことがあったわけではありませんが、お休みしてしまいました。

 中西亨先生の「続・塔の旅」には、昨日ご紹介した文章に続け、「厳島神社の五重塔は、文化庁の目録によると、室町時代の応永十四年(一四〇七)の建築とされ、『芸藩通志』によるとなっている。現在の塔自体で銘文が見られるのは、露盤に刻まれたもので」、それによれば、「塔は天文二年(一五三三)の建立ということになる」と記され、更に「天文の年号は露盤だけでなく、天井板にも(中略)、更に初層の十六本の柱に天文の時の造営に柱を寄進した人の名前が刻まれている」とあります。そして更に続けて、次のように記されています。

 さてこれら初層の柱がすべて天文のものとなると、塔が応永の建立というのはまことに奇妙なことになるが、内部北側中央出入口の落書に
   永正五年  三月五日
とあるようだし(永正五年は一五〇八年で、天文二年より二十五年前)、応永十四年(一四〇七)にできた塔が「殆ど倒壊に及ぶ……」と誌される程いたんできたので解体され、天文年中に再興されたのであろうか。そんなわけで応永十四年の建立とされながら、今も新国宝に指定されず、日本最古の重文五重塔ということになっている。

 五重塔については、やはり写真をご覧いただきましょう。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2006to//itukusima5_67.jpg

 ところで、五重塔は、北西に向けて建てられていますので、最初、塔の左側面の階段下から写真を撮ったのですが、それだと塔の先端の屋根などは見えず、アングルとしては良くありません。ところが、塔を拝観した後に千畳閣(国重文)へ行ったところ、すぐ眼の前に五重塔が建っていますので、やはり五層目の屋根の部分は見えませんが、そこから拝する塔の姿は素晴らしく、良い写真が撮れました。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月10日

ようやく自ら宮島へ渡ります

 申し上げるまでもなく、宮島は文字どおり島ですから、船で渡らなければなりませんが、時を確認しますと、宮島の訪れは三度目となる平成16年4月28日のことです。この時は、フェリーで宮島へ渡ったのですが、島に近づくにつれ、朱色の大鳥居(国重文)や高台に建つ五重塔が見えてきます。宮島に着いた私は、まず、日本交通公社出版事業部刊「全国 国民宿舎」に、「厳島神社の奧にモミやカエデの原生林に囲まれて立つ」とある国民宿舎「宮島ロッジ」へ向かいました。この時は、「みやじま杜の宿」と名称が変わっていた国民宿舎は、新装なって間もないようで、素晴らしい宿でありました。チェックインを済ませた私は、車を宿舎の駐車場に置いて、陽が落ちる前に主だった所を見て廻るべく宿を出ましたが、そこここで、愛らしい瞳の鹿が迎えてくれました。
 余りに有名な神社でありますので詳しく見る必要はないでしょうが、塔の身元調査といったつもりで、厳島神社の由来などについて少し触れることとします。中西亨先生の「続・塔の旅」には、次のように記されています(明らかに誤植と思われる一字を訂正)。

 さてこの厳島にはじめてお社が創建されたのは推古天皇の元年(五九三)と伝えるが、歴史上に記録がでてくるのは平安初期のようで、平安末期に平清盛がこのお社を崇敬するようになって、厳島は飛躍的な大発展をとげることになる。現在のお社は改修が多いが、古い部分はこの時に溯り得るようで、様式的にはこの清盛造営時の姿を今に伝えている。現在の社殿は厳島の東北部の入江に北西に向って鎮座するのが御本社で、御祭神は宗像三神。それと直角方向に西南に向って鎮座するほぼ同様式の客社(まろうどしゃ)とがあるが、この方に古い様式を残している。これらは海上に立ち満潮時には水面に浮ぶ景観を示す。これらの社の中心部は全くの神社建築であるが、もとはこの厳島の地は神仏混合の大霊場で、現在も寺院として独立した大願寺、光明寺など数寺を残している。
 現在このお社に残る二基の古塔ももちろん仏教系の遺構で、まず東方、塔が丘とよばれる丘上に秀麗な姿をみせる五重塔からたずねよう。

 その五重塔の拝観は、明日にします。

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2008年08月09日

外国からの男性のお客さまの宮島の印象

 昨日ご紹介した外国からの二人の女性のお客さまは、鳥居は印象に残ったようですが、五重塔は印象に残らなかったようです。
 今日は、外国からの三人の男性のお客さまを、ご紹介します。
 まず、「この世の楽園・日本」(「新人物往来社刊「英国特派員の明治紀行」)に眼を通すこととしますが、この本は、「欧米では一九一〇年スコット大佐の第二次南極探検隊に加わり記録写真を撮った写真家として知られている」というハーバード・G・ポンティングの著作です。彼は、「一九〇一〜二年(明治三四〜五)頃から何度か来日し、日本中を旅して日本の芸術や風俗、自然に親しみ、正確に日本を理解している数少ない知日家」(同書の澤本徳美による「本書について」)です。この本の一節には、「宮島!その名前からして耳に優しく快く響く。それは女王にふさわしい名前だ。確かに宮島は、世界中で最も美しい水域の一つ、瀬戸内海に君臨する島の女王と言ってよいだろう」と記されています。
 次いで、後にリーズデイル卿となったミットフォードですが、「明治維新を挟んだ一八六六年から六九年まで、日本が一番揺れ動いたこの重要な時期に、英国公使館員として、パークス公使やアーネスト・サトウと共に活躍」(「リーズディル卿回想録」――講談社学術文庫「英国外交官の見た幕末日本」、長岡祥三訳――の「訳者あとがき」)した人物です。彼は、「ガーター勲章使節団日本訪問記」(講談社学術文庫「ミットフォード日本日記」、長岡祥三訳)を著していますが、「ガーター勲章使節団とは、英国国王エドワード七世から明治天皇へガーター勲章を捧呈するため、(中略)一九〇六年二月に派遣された使節団のこと」(訳者の「訳者あとがき」)で、ミットフォードは、その首席随員でもありました。
 そのミットフォードは、右の日記の中で、次のように記しています。

 私の知る限りにおいては、他の土地では類のない、ある不思議な宗教上の習慣が、いまだにここでは守られている。この聖地では、生まれることも死ぬことも許されない。(中略)もし、赤子が予定より早く生まれると、哀れな母親はすぐに船で本土へ運ばれ、そこで三十日間、不浄の身として過ごすのである。もし、突然誰かが死ぬと、遺骸はどこか他の土地に葬らねばならない。そして会葬者は五十日間、身の汚れを清めなければならず、その間は島へ帰れないのだ。さらに第三の掟として、犬を飼うことは許されず、すべて放逐しなければならない。このような方法で、暴れ者の素戔鳴尊の娘である三人の神々しい姫を祀るこの神聖な神社は、穢れなく清浄に保たれているのである。(ルビ省略)

 最後に登場して貰うのは、大森貝塚の発見者として、中学校(今では小学校でしょうか)の教科書にも記されていると思いますが、E・S・モースです。彼は、その著「日本その日その日 三」(東洋文庫)の中で、次のように記しています。

 宮島は非常に神聖な場所とされているので、その落つきと平穏さとは、筆舌につくされぬ程である。この島にあっては、動物を殺すことが許されなかった。数年前までは、人間とてもここで死ぬことが出来なかったそうである。以前は、人が死期に近づくと、可哀想にも小舟にのせられて、墓地のある本土へと連れて行かれた。若し、山を登っている人が偶然、血を流す程の怪我をしたとすると、血のこぼた場所の地面は、かきとって、海中に投げ込まねばならなかった。

 同様のことを、昨日ご登場いただいたシドモアも書いています。このようなことが現在でも守られているとは思えないのですが、「歴史の町なみ」(中国・四国・九州・沖縄篇)によれば、「宮島は古くから聖域とされ、島民には生活上の様々な禁忌が課せられてきた。島内に墓をつくらせないのもそのひとつである」といいます。
 それはともかく、改めて記すまでもないことながら、「社殿を中心とする厳島神社と、前面の海および背後の弥山原始林(天然記念物)を含む森林の区域431・2ヘクタール」(宮島町観光課他発行のパンフレット)が、平成8年に原爆ドームと共に世界遺産に登録されましたが、厳島神社・弥山原始林などが世界遺産に登録されたのは、昨日、今日と見たように、日本を訪れた何人かの人の書が世に出ており、それによって知られていたことによるところが大きいのではないかとするのは、考え過ぎでしょうか。
 長くなりましたので、今日は、この辺で止めます。

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 今日は土曜日ですので、こちらを、 ↓ どうぞ。

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2008年08月08日

備後国での最後の塔です

 それは、宮島の厳島神社の五重塔ですが、まず、その宮島を訪れた外国からのお客さまが、どんな印象を持たれたのであろうか、ということについて、ご紹介したいと思います。
 今日は、お二人のご婦人をご紹介しますが、まずは、「一九〇一年、すなわち明治三十四年から七年間、島津忠義公爵の子息五人と起居を共にして、その養育に当たった」(訳者の「あとがき」)という、英国人ミス・エセル・ハワードの「日本の想い出」(講談社学術文庫「明治日本見聞録」、島津久大訳)には、次のように記されています。

 ……宮島は景色そのものが非常に美しかった。それはまさに地上の楽園といわれるのにふさわしかった。島に近づくと、鳥居すなわち神道の門が見えてくるが、それは海の中に建っていて、その影を海に映しているありさまは、お伽の国へ通ずる迷路の入り口のようだった。(ルビ省略)

 次いで、「首都ワシントンのポトマック河畔に日米友好の桜を植えることに尽力したことで知られ、米国立地理学協会の初の女性理事でもある紀行作家エリザ・ルーアマー・シドモア女史」(ルビ省略)の「明治の人力車ツアー」(講談社学術文庫「シドモア日本紀行」、外崎克久訳)の中の一節ですが、この本は、女史が「初めて日本を訪問した明治一七年(一八八四)秋から始まり、初版(明治二四年刊)を改訂して、明治三五年(一九〇二)春までの約二〇年間にわたる写真・挿絵入りの記録」(訳者の「はじめに」)です。

 ……宮島は、日本三景、つまり日本で最も美しい三大景観の一つです。宮島は、奈良以上に魅惑的かつ牧歌的なところとして、ほかのどこよりも多様な景観美、画趣たっぷりの築造物、歴史的伝統的面白みを観光客に提供します。(ルビ省略)

 右の書に記されていることで面白いのは、鳥居を「骸骨門」と言っていることです。
 男性のお客さまのご紹介は、明日にします。

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 サマーバカンスは楽しいものですが、一方、特に女性の皆様がたには、大変なご苦労もあるようですね。一日、間が空きましたが、今日も女性向けの商品の、ご紹介になります。男の私には解らないのですが、ナティアをご承知の方も多いことでしょう。ネットを通じてのご購入は、こちらから ↓ どうぞ。




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2008年08月07日

遠回りながら訪れた目的は二つ

 萬願寺の五重塔、多宝塔の拝観を終えた私は、再び国道487号線を北上し、四つ道路という交差点で右折し、国道185号線を東へ向かいました。戻る恰好でありますが、更に私は大幅に戻って、国道375号線で北東へ向かい、東広島市、というよりも、その中心部である西条町を目指したのです。
 西条町で最初に訪れたのは、安芸国分寺跡でありますが、「広島県の歴史散歩」には次のように記されています。

 西条駅を降りて10分ほど北東に行くと松林に囲まれた国分寺(真言宗)という小さな寺がある。このあたりがかつての安芸国分寺跡(国史跡)である。瓦葺の仁王門から境内に入ると、庫裏の前後には礎石と推定される十数個の大きな石が散在しており、寺の付近からは布目のついた古瓦がたくさん出ている。(中略)
 寺の境内から西へ70mの所に、石囲いをした10m四方の土壇があり、大きな礎石が規則正しく並んでいる。中央には、表面に直径40pほどの円い穴のある長円形の石が1個、さらに、それを囲んで4個の石がある。その外側には12個の石が正方形を形づくっている。(中略)これら礎石の様式や規模、出土した瓦の文様などから考察して、国分寺が創建された天平時代(8世紀)当時の七重塔跡(国史跡)と推定されている。

 その点について、保存修景計画研究会、西川幸二編「歴史の町なみ」(中国・四国・九州・沖縄編)に眼を通しますと、次のように記されています。

 西条の歴史は古く、聖武天皇の勅願により国ごとに国分寺、国分尼寺の建設が行われることになり、安芸国では、西条駅北一キロメートルの吉土実に国分寺が建設された。宝亀の初期(七七〇年頃)、七重塔、金堂、僧坊等壮大な伽藍が建立され、金堂には丈六釈紳士服如来像が安置され、人びとの眼を驚かせたという。

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 ところで、タイトルには、西条を訪れた目的は二つとあるが、二つ目が書いてないではないか、と思われた方もおられるかと思います。それについては、こちらを、 ↓ ご覧ください。




 そうなんです、西条は酒蔵の町並みとしても知られているのです。私は、自分好みの賀茂鶴・酔心を、地元で求めることが、二つ目の目的だったのです。
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2008年08月06日

私のようなものでもなければ訪れるまでもない塔

 昨日の続きとなりますが、後に書きますとおり、萬願寺には五重塔のほか、多宝塔もあります。五重塔めぐりから始められ、三重塔、多宝塔へと拡げていかれた故國見辰雄氏は、その著「塔をゆく」(第3巻、多宝塔)の中で、次のように記されています。なお、明らかに脱字と思われます一字を補充させていただきました。

 真言宗単立三登山観音院萬願寺の開創は慶長元年(1596)開基は水野重政と伝えられるが、その後、次第に衰弱して廃寺となる。文化年間(1804〜18)には宮ノ原観音堂があったと国郡誌に記されているが、それがかつての萬願寺の旧跡と推定される。(中略)
 いまの萬願寺は恐らく明治のころに再興され、とくに昭和45年(1970)ころからだんだんと伽藍新築が進められ、すでに本堂、講堂、経蔵、鐘楼、山門、多宝塔、五重塔が完成した。

 しかし、五重塔はコンクリート造でありますので、軒下の組物も形だけが似せて造らているだけであり、塔の姿も決して美しいとは言えず、私のように全国の層塔は全て、ということでもない限り、わざわざ訪れるに値いしない塔かもしれません。一方、多宝塔は姿の良いものでありました。
 その二つの塔の写真は、こちらを、 ↓ どうぞ。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/34hiroshima/mangan5/mangan5.html

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/34hiroshima/mangan2/mangan5.html

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 10:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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