今日は、外国からの三人の男性のお客さまを、ご紹介します。
まず、「この世の楽園・日本」(「新人物往来社刊「英国特派員の明治紀行」)に眼を通すこととしますが、この本は、「欧米では一九一〇年スコット大佐の第二次南極探検隊に加わり記録写真を撮った写真家として知られている」というハーバード・G・ポンティングの著作です。彼は、「一九〇一〜二年(明治三四〜五)頃から何度か来日し、日本中を旅して日本の芸術や風俗、自然に親しみ、正確に日本を理解している数少ない知日家」(同書の澤本徳美による「本書について」)です。この本の一節には、「宮島!その名前からして耳に優しく快く響く。それは女王にふさわしい名前だ。確かに宮島は、世界中で最も美しい水域の一つ、瀬戸内海に君臨する島の女王と言ってよいだろう」と記されています。
次いで、後にリーズデイル卿となったミットフォードですが、「明治維新を挟んだ一八六六年から六九年まで、日本が一番揺れ動いたこの重要な時期に、英国公使館員として、パークス公使やアーネスト・サトウと共に活躍」(「リーズディル卿回想録」――講談社学術文庫「英国外交官の見た幕末日本」、長岡祥三訳――の「訳者あとがき」)した人物です。彼は、「ガーター勲章使節団日本訪問記」(講談社学術文庫「ミットフォード日本日記」、長岡祥三訳)を著していますが、「ガーター勲章使節団とは、英国国王エドワード七世から明治天皇へガーター勲章を捧呈するため、(中略)一九〇六年二月に派遣された使節団のこと」(訳者の「訳者あとがき」)で、ミットフォードは、その首席随員でもありました。
そのミットフォードは、右の日記の中で、次のように記しています。
私の知る限りにおいては、他の土地では類のない、ある不思議な宗教上の習慣が、いまだにここでは守られている。この聖地では、生まれることも死ぬことも許されない。(中略)もし、赤子が予定より早く生まれると、哀れな母親はすぐに船で本土へ運ばれ、そこで三十日間、不浄の身として過ごすのである。もし、突然誰かが死ぬと、遺骸はどこか他の土地に葬らねばならない。そして会葬者は五十日間、身の汚れを清めなければならず、その間は島へ帰れないのだ。さらに第三の掟として、犬を飼うことは許されず、すべて放逐しなければならない。このような方法で、暴れ者の素戔鳴尊の娘である三人の神々しい姫を祀るこの神聖な神社は、穢れなく清浄に保たれているのである。(ルビ省略)
最後に登場して貰うのは、大森貝塚の発見者として、中学校(今では小学校でしょうか)の教科書にも記されていると思いますが、E・S・モースです。彼は、その著「日本その日その日 三」(東洋文庫)の中で、次のように記しています。
宮島は非常に神聖な場所とされているので、その落つきと平穏さとは、筆舌につくされぬ程である。この島にあっては、動物を殺すことが許されなかった。数年前までは、人間とてもここで死ぬことが出来なかったそうである。以前は、人が死期に近づくと、可哀想にも小舟にのせられて、墓地のある本土へと連れて行かれた。若し、山を登っている人が偶然、血を流す程の怪我をしたとすると、血のこぼた場所の地面は、かきとって、海中に投げ込まねばならなかった。
同様のことを、昨日ご登場いただいたシドモアも書いています。このようなことが現在でも守られているとは思えないのですが、「歴史の町なみ」(中国・四国・九州・沖縄篇)によれば、「宮島は古くから聖域とされ、島民には生活上の様々な禁忌が課せられてきた。島内に墓をつくらせないのもそのひとつである」といいます。
それはともかく、改めて記すまでもないことながら、「社殿を中心とする厳島神社と、前面の海および背後の弥山原始林(天然記念物)を含む森林の区域431・2ヘクタール」(宮島町観光課他発行のパンフレット)が、平成8年に原爆ドームと共に世界遺産に登録されましたが、厳島神社・弥山原始林などが世界遺産に登録されたのは、昨日、今日と見たように、日本を訪れた何人かの人の書が世に出ており、それによって知られていたことによるところが大きいのではないかとするのは、考え過ぎでしょうか。
長くなりましたので、今日は、この辺で止めます。
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