五重塔、三重塔をめぐる旅日記、番外篇その3
坂中廃寺を後にした私は、当時の西伯郡淀江町福岡、現在の米子市淀江町福岡にある上淀(寺内)廃寺へ向かいました。再び大寺廃寺の方へ戻り、日野川に架かる伯耆橋を渡った先で左折し、まずは山陰道の米子東インターを目指しました。そして僅かな距離ではありましたが、目的地まで迷わずに行けそうなので、山陰道に入り淀江大山インターまで車を軀しらせました。「鳥取県の歴史散歩」には、淀江町福岡字向山にある岩屋古墳について「JR山陰本線淀江駅下車25分」とあったうえ、次のように記されています。
淀江駅の北の踏切を渡り、東に約1qほど行き右に折れて500mほど行くと右手前方に二つ並んだ丘が見える。西の丘が瓶山、東の丘が向山とよばれている。向山の丘陵上の北端に岩屋古墳(国史跡)がある。(中略) ……古墳からの特色ある出土品としては大陸文化の特色をもつ金銅製透彫冠の破片や環頭太刀・銅鈴・三輪玉などがある。これら出土品の大部分は近くの淀江町歴史民俗資料館でみることができる。(ルビ省略。以下、この書からの引用文について同じ。) 続いて同書には、「淀江町歴史民俗資料館の北に隣接する小道を東に5分ほど行くと、右手に天神垣神社がある」とあります。そして、この天神垣神社の創立年代は未詳とのことですが、寺内村(同書に拠れば現在の福岡村の旧名)の宮田という所にあった天神社が、1585(天正13)年に戦火を受けたので、当時この辺りを「統治していた吉川元長が現社地に天神社を移転して社殿を造営した」ものといいます。なお、「寺内村は1851(嘉永4)年に上淀村と改称し、次いで1877(明治10)年北に隣接する北尾村と合併して福岡村となった」ともあります。
同書には更に続けて、上淀(寺内)廃寺について、次のように記されています。
天神垣神社から東へ5分ほど行くと、山麓の台地上にいわゆる上淀(寺内)廃寺がある。寺堂内の壁に描かれた壁画片や、金堂の東側に南北に並んだ三つの安山岩の塔柱心礎、金堂や塔跡の瓦積の基壇、柱礎石などが発掘調査によって出土している。金堂の規模は南北12・4m、東西14・8m。塔の基壇は一辺約10mあり、金堂と塔の基壇間は6・6mの狭いものである。三塔のうち中央の塔心柱礎には舎利納入孔があるが、この納入孔は長方形という珍しい形である。(中略) ……多くの古代寺院の内部は色彩豊かな浄土図や天女図などによって飾られていたが、地方の廃寺跡から壁画の菩薩・神将・遠山・樹木・天女衣などが出土したのは日本で最初である。 手元にある「鳥取県の歴史散歩」は1994年3月25日発行のものですが、1993年1月10日発行の文芸春秋編「古代日本史最前線」に収められている「“奇跡の壁画”が語るもの」(読売新聞記者の林文夫記)には、次のように記されています。
上淀廃寺の伽藍配置は、西に金堂、東に塔を配し、南辺をそろえた「法起寺(奈良県斑鳩町)式」か、この変形の「夏見廃寺(三重県名張市)式」と今のところ考えられている。同じ様式の寺院は鳥取県の伯耆、因幡の国では、岩美町の岩井廃寺、郡家町の土師百井廃寺、倉吉市の大御堂廃寺、岸本町の大寺廃寺などがあげられる。(ルビ省略) 上の書は、今では「最前線」とは言えなくなってしまった、ということです。現地の説明板には、「当時の地方寺院としては、それほど大きくありませんが、金堂の東側に南北に3塔が並ぶ、独特の伽藍配置が確認されました」とありました。
平成4(1992)年11月26日の日本経済新聞朝刊では、次のように報じられました。
……これまでの発掘調査で確認された一金堂、二塔以外に、さらに二塔の延長線上に三つめの塔の心礎が(柱の礎石)が見つかった。三つの塔が同時期に並び立っていたかどうかは不明だが、二―三塔が一列に並ぶ伽藍(がらん)配置は当時、国内外でも例がない。(中略) また新たに見つかった心礎は、二塔の北側の延長線上にあり、三塔がほぼ等間隔で南北に並ぶ格好になっていた。ただ、この遺構は、塔の中心の柱の礎石部分だけで、建物の土台部分の基壇を築いた形跡はなかった。 そして、同新聞の平成7(1995)年11月25日の朝刊では、「三基の塔が南北に配置された特異な伽藍(がらん)配置で知られる上淀廃寺跡(鳥取県淀江町)」などを、文化財保護審議会が国の史跡に指定するよう答申したことを報じ、翌平成8年、これを受けて上淀廃寺跡は、国史跡に指定されました。それから既に10年以上も経過していますので、その後の発掘調査によって、大きな、または新たな発見があったかもしれません。私が実際に見学したものが、三塔のうちのどの塔心礎であったのか判りませんが、ともかく生憎の天候で傘をさしての見学となり、心礎の孔にも水が溜まりきっていて、舎利孔の存在は、かろうじて陰影の感じで判るだけでした。
なお、「鳥取県の歴史散歩」には、先に見たとおり「上淀(寺内)廃寺」とありますが、それについて同書には、「上淀廃寺というよび方は定着した感があるが、廃寺の呼称は江戸時代の『字名』を論拠とするのが、廃寺の由緒と寺域などをカバーする意味があり一般的である。そこで『寺内廃寺』の呼称を提唱しておく」とあります。
その後、天神垣神社の南の山腹にあるという「前方後円墳石馬谷古墳の、前方部の西20mの所にあった石馬大明神に祀られていた」(同上)もので、もとは天神垣神社の境内にあった石馬が、今は更に移されて展示されている淀江町民俗資料館、そして先に記した岩屋古墳などを見学しました。
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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 20:50|
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