2008年09月30日

菖蒲廃寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記、番外篇その11

 寺内廃寺を後にした私たちは、先ほど左折した鹿野町の中心部まで戻り左折し、少し行った先で右折、更に少し行った先で左折し、道路地図に石仏の道という表示の見える県道304号線に入りました。塔に魅せられる以前、石仏に魅せられた時もあった私は、どんな道なのか楽しみにしていたのですが、何の標識もなく通過してしまいました。やがて道は県道191号線となりますが、少し行くと湖山池近くの松原という所に至りました。そこで右折し、湖山池を視野の左に入れつつ、再び県道21号線となった道を進みました。すなわち、鹿野町から県道21号線を進んだ方が近道だったのですが、「石仏の道」とあるのに惹かれて遠回りをしたわけです。
 ところで、「鳥取県の歴史散歩」を見ますと、JR山陰本線の「湖山駅から南へ約一五分歩くと湖山池の湖畔に天神山と宇山がある」(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)とあり、更に「宇山にある仙林寺という地名は定額寺(平安時代の官寺)になっていた浦上山仙林寺の故地で、991(正暦2)年に創建され、典雅な三重塔は16世紀初めまで建っていた」とあります。
 でありましたので、上の書に「湖山池周辺の史跡」とある地図に「仙林寺跡」とあるのを頼りに、その辺りではスピードを落として、それらしい所や標識がないか探したのですが、判らぬまま通過してしまいました。
 県道21号線を更に行きますと、やがて国体道路という信号に至りますが、そこで右折して国道53号線を南下しました。
 そして私たちは、「Y文書」に「古海の信号をすぎて、はじめての農道を左に入って150mほど走ると右の田の中に見える」とあります菖蒲(しょうぶ)廃寺に至りました。そして、車を農道に置いて、田の畦道を辿って菖蒲廃寺へ向かいました。
 鳥取市教育委員会によって立てられた「菖蒲廃寺塔心礎石」の説明板には、次のように記されていました。

 菖蒲廃寺跡の遺構は確認されていないが、蓮華文軒丸瓦、軒平瓦等の瓦類や、須恵器、土師器、黒色土器等の土器類がこの周辺で見つかっており、古代寺院のあったことがうかがえる。創建年代は、遺物等から七世紀後半とみられる。
 この礎石は、その寺院の仏塔の建物の中心柱を立てた台の石で、中央の孔の中には仏舎利を納めたものである。
 この孔に溜まった雨水で疣を洗うとたちまちに落ちると信じられていることから、俗称「イボ水さん」と呼ばれている。(ルビ省略)

 心礎には、穴から水が流れ出るように溝が刻まれていますので、斜めになった所に水が溜まっているだけで、穴の様子は見ることができましたが、舎利孔までは確認できませんでした。

☆       ☆       ☆

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2008年09月29日

寺内廃寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記、番外篇その10

 三仏寺を後にした私たちは、次の目的地の寺内(てらうち)廃寺のある鹿野(しかの)町へ向かいました。鹿野町は、私たちが訪れた頃は気高郡鹿野町でありましたが、現在は鳥取市に合併されています。
 三仏寺まで辿って来た県道21号線(鳥取鹿野倉吉線)を更に東に、そして北へと辿りますと鹿野町に至ります。私たちは町の中心部で左折して、県道32号線を北(浜村温泉方面)へ向かいました。「Y文書」には、「浜村温泉の所より真っ直ぐ南下すると鹿野町へ行ける。宮内バス停先を右折、突き当たりが寺内の集落。突き当たって左の所に塔心礎があり、2体の石仏がお守りしている」とあります。しかし、このときは、ご本人が助手席に座っておられるので、私は左耳に入ってくるY氏の声を聞き漏らさないようにして、ハンドルを握っていればよかったのです。
 その寺内廃寺について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には次のように記されています。

 山陰線浜村の駅から三キロほど南下したところ、寺内という村落の農家の庭に見事な心礎がある。大きさは一・六メートル×一・三メートル×七〇センチで、中くらいの石であるが、穴の直径が五四〜五三センチであるのに対し、深さが二五センチもあり、備中秦廃寺、備後寺町廃寺同様心礎として古い様式である。本薬師寺式の複弁おやゆびサイン華文鐙瓦及び藤原宮式扁行唐草文の字瓦が出土しており、創建年代は白鳳期であろう。

 まさに、「見事な心礎」でありましたが、この心礎の穴にも満々と水が溜まっていて、穴の中の様子などは判りませんでした。

☆       ☆       ☆

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2008年09月28日

大原廃寺塔跡から三仏寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記、その9

 大御堂廃寺を後にした私たちは、国道179号線に出て南下し、天神川に架かる大原橋を渡ったすぐ先で右折し、県道27号線を南下しました。旅に出る前にいただいていたY氏の旅のメモ(以下「矢作文書」)に「はじめての左へ入る道を行くと大原の集落に入る。突き当たりの近くに入口がある。集落より遊歩道を七分ほど上がると、突き当たりのようなみかん畑の中にあった」とありますが、今は、当のY氏が助手席に座っておられ、そのナビゲートに従って、大原(おおはら)廃寺塔跡へ向かったのです。
 その大原廃寺塔跡について、「鳥取県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 倉吉駅から県道(鳥取―鹿野―倉吉線)を南に4q、大原入口バス停で降りると、東に1qほどの丘陵上の畑のなかに大原廃寺塔跡(国史跡)がある。直径3m・厚さ30pほどの塔心礎の中央に径65p・深さ11pの柱穴があいている。7世紀後半、白鳳時代の塔の心礎で、付近から布目平瓦や複おやゆびサイン弁の川原寺式軒丸瓦が出土している。1991(平成3)年に発掘調査の結果、塔の基壇の規模は基壇石列の一部からみて、東西10・4m、南北8・4mと推定されている。塔と東西17mの金堂をもつ法起寺式伽藍配置の古代寺院が南を正面にして建っていた。(ルビ省略)

 この日は生憎の雨天で、心礎の柱穴には満々と水が溜まっていて、穴の中の状態などは判らりませんでした。
 大原廃寺塔跡を後にした私たちは、三仏寺へ向かいました。この方面に来たときは、是非とも訪れたいと思っていた所でありましたが、生憎の天候で、とても投入堂(国宝)までは行ける状況ではなく、私たちは、入山料は支払ったものの、塔頭の一つと思われる寺院の庭のシャクナゲの美しさを鑑賞したのみで早々に三仏寺を辞しました。

☆       ☆       ☆

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2008年09月27日

大御堂廃寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記、番外篇その8

 翌日、倉吉駅に近いホテルに宿にY氏をお迎えに行き、それからは良きナビゲーターがついての旅となりました。
 まず目指しましたのは、大御堂(おおみどう)廃寺です。「鳥取県の歴史散歩」には、廃寺の所在地について倉吉市駄教寺町(だきょうじちょう)とあり、公共交通機関での便につき「JR山陰本線倉吉駅バス西倉吉行昭和町下車一〇分」とあったうえ、次のように記されています。

 倉吉旧市街の東、下田中(しもたなか)の上灘(うわなだ)小学校の玄関前に2個の礎石がおかれている。これが大御堂(駄経寺)廃寺の礎石である。その一つは長径約2・4m、中央に径86p、深さ13pの一重の円孔がある。もう一つの礎石は長径1・3m、中央には径80pの柱座がつくりだしてある。一重円孔の礎石は層塔の心礎で、円座のある礎石は四天柱礎である。これらの礎石は駄経寺廃寺跡から運搬されたものである。廃寺跡は江戸時代、少し高くなっていて大御堂とよばれ、「昔は大伽藍(がらん)があり、今でも大きさ3尺ほどの礎石などがあり、少し掘ってみると古仏・甍(いらか)・仏具など数多く出る」と伝えられていた。(中略)
 1952(昭和27)年の調査で塔心礎・柱礎・瓦などを掘り出したが、伽藍配置や寺域などの詳細は不明のまま工場敷地となり、礎石は移転された。しかし、出土品から創建は7世紀末から8世紀初めの白鳳時代、寺域は一辺2町、条里遺構の地割に沿って建立され、南を正面としていたことが判明した。鬼瓦や川原寺式の軒丸瓦は非常に優秀である。
心礎の柱穴径は伯耆最大、寺の建物は奈良前期から後期に至るまで存在していたことなどがわかっている。塔心礎には焼けた心柱があり、塔は火災によって倒壊していた。1983(昭和58)年、駄経寺廃寺の南に隣接する松ヶ坪(まつがつぼ)遺跡から「久米寺(くめでら)」と墨書された須恵器が出土した。駄経寺廃寺は「久米寺」とよばれた可能性が高く、伯耆最大の規模と美観とを誇っていたのである。(ルビは括弧で表記)


 心礎の穴には石が詰まっており、おまけに水が溜まっていて、穴の中の様子が、はっきりみることができませんでした。なお、この大御堂廃寺は、平成12年に国の史跡に指定されました。

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 さて、今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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2008年09月26日

伯耆国分寺跡へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記、番外篇その7

 石塚廃寺を後にした私は、その北にある県道237号へ出て北東へ向かいました。ここでも旅のメモを見てみますと、「左国分寺の案内標識に従い左折して」とありますが、そこから辿った道筋については確かな記憶がありません。そこから先は迷ったという記憶はありませんので、しっかりと標識が出ていて、すみやかに伯耆国分寺跡に辿り着いたようです。
 その伯耆国分寺跡について、「鳥取県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 ここが本格的に発掘調査されたのは、1969(昭和44)年からのことで、主要伽藍の究明と寺域調査が行われた。この結果、南を正面とし、方約1町半(約180m)の国分寺の寺域と、その西寄り北半分に一直線に並ぶ金堂・講堂跡の基壇が確認された。
 塔跡は寺域内の南東隅にあり、塔は方約14mの基壇をもち切石の羽目石(はめいし)が築かれている。柱間は3間の五重塔らしい。塔跡の北西側から塔の屋根につるされていた風鐸(ふうたく)が炭化した木材や焼土とともに出土し、この塔が火災をうけ北西方向に倒れたことを物語っていた。(中略)塔の基壇に使用してあった安山岩の羽目石には、後世に怪しく異国的な仏像が刻まれ、伯耆国分寺の石仏(県保文)として国分寺盛衰の謎を語りかけている。これら五体の石仏は近くの社(やしろ)小学校に保存されている。(ルビは括弧で表記。以下、同書からの引用文について同じ)

 塔跡は整備されており、心礎も遺っていますが、半分が欠き取られたのかどうか、コンクリートで補修されているようでした。
 伯耆国分寺跡を後にした私は、近くの社小学校を訪れました。そこにあった石仏は、まさに「怪しく異国的な」もので、伯耆国分寺跡を訪れた場合には、是非ともここへの立寄りをお奨めしたいと思います。
 さて、塔跡を探すのに手間どるのではないかと思い、この日のスケジュールには余裕を持たせてありましたが、思ったより簡単に辿り着け、まだ陽は高かったので、もし時間に余裕があれば、と準備していた所へ向かいました。
 県道151号線に出て右折、国道313号線に出て左折、小鴨川に架かる小鴨橋を渡って右折、川沿いの道を南下しました。そして、広瀬という集落にある広瀬層塔と呼ばれているもの、そして、一石彫成(いっせきちょうせい)五輪塔(市指定有形文化財)と呼ばれているものなどの石造遺物のある広瀬廃寺跡、永昌寺十三重塔(県指定保護文化財)・永昌寺石造宝塔(市指定有形文化財)などの石造美術の数々を鑑賞しました。石造美術に興味がある方で、この辺りまで来られる機会があったならば、立寄りをお奨めしたいところです。
 この日の宿は、上の書に、「赤茶色に施釉(せゆう)された耐寒性の強い石州瓦の桟瓦(さんがわら)がふかれている」とあります町家や土
蔵が建ち並ぶ、倉吉市打吹(うつぶき)玉川伝統的建造物群保存地区に指定されている町並みの近くに求めてありましたが、夕食の時刻まで、その町並みの散策を楽しみ、古い造り酒屋で地酒も仕入れました。
 ところで、この時の旅の計画が整った時、その計画書を、ふとしたことで知遇を得ました同好のY氏にお送りしたところ、「よろしければ、倉吉市からの道筋を、ご一緒したい」といった旨のお手紙をいただきました。私に異存などあろうはずもなく、翌日に、氏が宿泊されているホテルへで落ち合うことを約したのでした。

☆       ☆       ☆

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2008年09月25日

石塚廃寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記、番外篇その6

 藤井谷廃寺跡を後にした私は、県道45号線まで戻って左折し東へ向かい、国道313号線に入り石塚(いしづか)廃寺を目指しました。ここで旅のメモに眼を通しますと、「明現寺500mとある標識を左折、突き当たりに寺、車が1台やっと入れる細い道へ右折、やがて広い道に出るが右方向に竹藪、その向こう側が墓地、墓地の一番手前に塔跡、奥に車が駐められる空地あり」、とあります。明現寺500mとある標識を左折しましたのは、お寺まで行って廃寺の所在地を尋ねようと思ったからでありましたが、偶然お寺の門前で廃寺を識っている人に出会いました。後に詳しい地図を見ますと、国道313号線は小鴨川に架かる大鴨橋を渡った先で二つに岐かれますが、左手の道を行かねばなりません。こちらがバイパスのようですがが、今では、こちらがメイン道路になっているかもしれません。
 この廃寺について、「鳥取県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 ……国道313号線にある石塚入口バス停から西へしばらく進んで石塚の集落を抜けると、天神野に上る道の右側に墓地がある。ここが8世紀の奈良時代に創建された石塚廃寺(県史跡)である。史跡に指定されているのは直径70p・深さ13pほどの一重円孔をもつ東伯耆に共通する様式の塔心礎だけで、草に埋もれ木に覆われ、木の葉と心礎は一体となっている。未調査のため寺の建物の配置などは不明だが、珍しい丸型おやゆびサイン弁模様の軒丸瓦を使っていた。(ルビ省略)

 上に「木の葉と心礎は一体となっている」とありますが、それはどういうことなのでしょうか。ともかく、この眼で確かめてみるしかありません。新緑の頃であったにも拘わらず、水が溜まった心礎の孔や周囲には枯葉が散っていました。しかし、それを「木の葉と心礎は一体となっている」と表現するのはどうでしょうか。現地に鳥取県教育委員会により立てられた説明板には、次のように記されていました。

 小鴨川の河岸段丘上に位置する古代寺院の塔跡である。時期は出土した瓦から奈良時代の後半(八世紀前半)と推定されている。
 塔跡にのこる直径二〜二・六メートルほどの石は心柱をのせる礎石であり、径約〇・七メートルの円孔をもっている。
 また、ここから北方約二十五メートル付近が金堂跡と推定されており、礎石と思われるものが残っている。
 これらのことから、伽藍配置は四天王寺式といって、講堂・金堂・塔・門が南北に並ぶ形が考えられている。(ルビ省略)

 何ごとにも文句をつけるようですがが、「南北に並ぶ」四天王寺式伽藍配置という場合は、門・塔、金堂、講堂の順番に記すのが普通でしょう。それとも南北を逆にした配置であったのでしょうか。それはさて措き、廃寺跡の周辺は素晴らしい環境で、ピンク色の蓮華の絨毯が敷かれていました。

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2008年09月24日

大山寺から藤井谷廃寺跡へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記、番外篇その5

 花見潟墓地を後にした私は、県道30号線で、大山寺(だいせんじ)を目指しました。この日の宿は、その宿坊の一つ、山楽荘に求めてありました。山楽荘に旅の荷物を運び込んだ私は、さっそく大山寺へ向かったのですが、その寺のたたずまいもさることながら、何よりも印象に残ったのは、残雪を冠った大山と、石楠花などの花々、そして宿坊に戻って味わった大山の湧き水で醸成されたお酒でした。大山寺の界隈を歩き廻っているとき、川に阻まれた行き止まりの道に迷い込み、無理して石伝いに河原を渡ろうとして、危うく川に落ちそうになったことなどもありましたが。
 翌日、山楽荘を出発した私は、計画外のことでありましたが、「本宮(ほんぐう)の泉」へ向かいました。大山道路こと県道24号線を米子市の方へ戻る恰好でありましたので、この日の最初の目的地へ向かうには、かなり遠回りということになりました。この泉は県道から少し右に入った本宮という集落の中にありますが、案内標識があるので迷うことはないでしょう。そして、遠回りをした甲斐があり、美味しい湧水を味わうことができました。
 大山寺の門前まで道を引き返した私は、県道158号線に入り桝水高原まで行き、右折して県道45号線で鏡ヶ成を目指しました。そこからは、県道114号線へ入って山を下り蒜山高原へ向かう計画でありましたが、そのまま進んでしまい蒜山高原の景色を眺めるのは諦めました。その後に辿ったコースは旅のメモに拠れば、「地蔵峠を越えた先で県道297号線に、そして県道34号線に突き当たって右折、少し行って県道50号線を右折」となっています。要所々々で車を駐めながら記したメモでありますので誤りはないはずですが、この部分を書きつつ道路地図を見ますと、結果的には最短で行ける距離の倍近く駆しり、ようやく関金(せきがね)町の中心部に着いたことになります。
 その関金町も、今では倉吉市に合併されていますが、「鳥取県の歴史散歩」には、「関金町役場の北方、大鳥居の鳥飼家住宅(県保文)は、江戸初期を下らぬ民家で、この地方の古い家構えをとどめている。大鳥居から西へ約1qの松河原の北の丘陵上の藤井谷には、8世紀後半に造営された藤井谷廃寺跡があり塔心礎が残っている」(ルビ省略)とあります。私は、道路地図に松河原とあるのを頼りに、まず、そこを目指しました。
 関金町の中心部で県道45号線に入り西に向かう恰好になりますが、少し行きますと「ここは松河原です」という案内板があります。そこで右折した道は「せきがねふるさと農道」と名付けられており、大山池まで3qとの標識もありました。突き当たった所で右折、クランク状に左へ入る細い道を行きますと、道は直角に左へ曲がりますが、その左角に藤井谷(ふじいだに)廃寺跡(市指定史跡)がありました。このように書きますと、迷わずに辿り着いたかのようですが、運良く藤井寺廃寺跡を知っている人に出会えて、道を教えていただいたのです。
 その藤井谷廃寺について現地に関金町教育委員会により立てられた説明板には、次のように記されていました(明らかに誤記と思われる一字を訂正)。

 現在、塔の基壇中央の礎石と推定される心礎一基(直径四十三センチの円孔)と布目瓦土師質土器・須恵器が確認されている。
 瓦は、おやゆびサイン華文七葉(周縁に鋸歯文)と、八葉の軒丸瓦と扁行唐草文、均正唐草文、鋸歯文三種の軒平瓦が出土している。(教育委員会保管)
 この寺院の主要建物等の配置は未確認ではあるが、奈良時代に存在した寺院と推定される。

 よく読みますと、この説明文には、おかしな点があります。「塔の基壇中央の礎石と推定される心礎」というのがそれですが、「心礎」というかぎり、「塔の基壇中央の礎石と推定される」というのは変です。それはともかく、立派な心礎でした。

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2008年09月23日

斎尾廃寺跡、赤碕塔の見学

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記、番外篇その4

 上淀(寺内)廃寺を後にした私は、再び国道9号線に出て、斎尾(さいのお)廃寺跡(国指定、特別史跡)を目指して東へ車を進めました。名和町、中山町、赤碕町を経て、東伯町域に入り、と記しましたが、それは当時の道路地図に拠ってのことであり、この辺りも町の合併があり、今はこれらの町はなく、斎尾廃寺の所在地は、「鳥取県の歴史散歩」、そして次に見るとおり岩井隆次著「日本の木造塔跡」にも東伯町槻下(つきのした)とありますが、現在は琴浦町となっています。それはともかく、JR山陰本線の八橋(やばせ)駅を過ぎ、斎尾廃寺へは右、との標識のある信号で右折し、一つ目の十字路を左折して少し行きますと、左手の畑の中に説明板が立っており、その先には白い標柱も立てられていました。
 この廃寺跡を訪れるには、旅のコースの都合で、淀江町から片道およそ1時間の道を往復しなければならず、日程を樹てる時に割愛しようかどうか迷いました。しかしながら、「鳥取県の歴史散歩」に掲載されている写真を見ますと、いかにも古代寺院があった所に相応しい光景でありましたので、思い切って加えたのです。
 この廃寺跡について、「日本の木造塔跡」には、次のように記されています。

 鳥取県の中央、海岸近くの東伯町槻下にある斎尾廃寺は考古学上有名な遺跡である。それは近年発掘調査が行なわれ、金堂跡、塔跡、講堂跡がそっくり出て来た上、瓦や塑像、磚仏などの出土品が多く、ことに磚仏は三尊仏であり、瓦も紀寺式複弁おやゆびサイン華文鐙瓦が出て各界から注目されたからである。しかし寺の規模は中程度で、例えば塔跡は一辺一二・四メートルの土壇の上に、四天柱礎三個、側柱礎七個が並んでおり(心礎は抜かれてなくなっている)、塔の一辺は六・一メートルと並の大きさである。(中略)創建年代は白鳳末期ないし奈良時代初期と考えられている。

 先に、この廃寺跡を訪れるかどうか迷ったと記しましたが、右に、「心礎は抜かれてなくなっている」とあることも、その理由の一つでありました。しかし、心礎は見られませんでしたが、行った価値はありました。なお、「鳥取県の歴史散歩」に眼を戻しますと、基壇の大きさや塔の一辺の長さなどの数値に若干の違いがありますが、「柱間三間四面の三重塔が建っていた」とあります。
 さて、この日の宿を大山寺門前の宿坊、山楽荘に求めていた私は、まず、国道9号線を、現在は斎尾廃寺の所在地と同じく琴浦町となっています、かつての赤碕町の中心部まで戻りました。それは、赤碕(あかさき)塔というものを見たかったからですが、右の書には、「赤碕は伯耆往来に沿った宿場町および港町として発展」したとあります。そして、同書には、続けて次のように記されています。

 赤碕駅から海岸のほうへ約10分歩くと、化粧川の左岸花見潟とよばれる海岸に墓地がある。ここには、東西に並ぶ2基の中世石塔がある。西側のものが石造美術品として価値の高い、いわゆる赤碕塔(県保文)である。高さ約3・3m、11尺塔としてつくられている。基壇と基礎は1石からなり、塔身は宝塔、笠は宝篋印塔型、いわば宝塔の屋根(笠)を宝篋印塔の笠にかえたものだが、全体によく調和しており、宝塔の変形したものであるが、赤碕塔として様式上独自の地位を占めている。この形式の宝塔は東伯耆から因幡西部にかけてつくられているが、なかでも赤碕のものは完形をとどめ大型でもあるため、その代表的なものとみなされ赤碕塔とよばれた。(ルビ省略)

 花見潟墓地と呼ばれるこの墓地は、国道九号線のすぐ脇にありますので、この辺りを通られたときには、立ち寄らられることをお奨めしたいと思います。赤褐色の大きな灯籠が立ち並び、現地の案内板によれば、墓は2万余基あるとのことで、日本海の波が押し寄せる海岸にある墓地風景は、何とも表現し難いものでありました。

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2008年09月22日

上淀(寺内)廃寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記、番外篇その3

 坂中廃寺を後にした私は、当時の西伯郡淀江町福岡、現在の米子市淀江町福岡にある上淀(寺内)廃寺へ向かいました。再び大寺廃寺の方へ戻り、日野川に架かる伯耆橋を渡った先で左折し、まずは山陰道の米子東インターを目指しました。そして僅かな距離ではありましたが、目的地まで迷わずに行けそうなので、山陰道に入り淀江大山インターまで車を軀しらせました。「鳥取県の歴史散歩」には、淀江町福岡字向山にある岩屋古墳について「JR山陰本線淀江駅下車25分」とあったうえ、次のように記されています。

 淀江駅の北の踏切を渡り、東に約1qほど行き右に折れて500mほど行くと右手前方に二つ並んだ丘が見える。西の丘が瓶山、東の丘が向山とよばれている。向山の丘陵上の北端に岩屋古墳(国史跡)がある。(中略)
 ……古墳からの特色ある出土品としては大陸文化の特色をもつ金銅製透彫冠の破片や環頭太刀・銅鈴・三輪玉などがある。これら出土品の大部分は近くの淀江町歴史民俗資料館でみることができる。(ルビ省略。以下、この書からの引用文について同じ。)

 続いて同書には、「淀江町歴史民俗資料館の北に隣接する小道を東に5分ほど行くと、右手に天神垣神社がある」とあります。そして、この天神垣神社の創立年代は未詳とのことですが、寺内村(同書に拠れば現在の福岡村の旧名)の宮田という所にあった天神社が、1585(天正13)年に戦火を受けたので、当時この辺りを「統治していた吉川元長が現社地に天神社を移転して社殿を造営した」ものといいます。なお、「寺内村は1851(嘉永4)年に上淀村と改称し、次いで1877(明治10)年北に隣接する北尾村と合併して福岡村となった」ともあります。
 同書には更に続けて、上淀(寺内)廃寺について、次のように記されています。

 天神垣神社から東へ5分ほど行くと、山麓の台地上にいわゆる上淀(寺内)廃寺がある。寺堂内の壁に描かれた壁画片や、金堂の東側に南北に並んだ三つの安山岩の塔柱心礎、金堂や塔跡の瓦積の基壇、柱礎石などが発掘調査によって出土している。金堂の規模は南北12・4m、東西14・8m。塔の基壇は一辺約10mあり、金堂と塔の基壇間は6・6mの狭いものである。三塔のうち中央の塔心柱礎には舎利納入孔があるが、この納入孔は長方形という珍しい形である。(中略)
 ……多くの古代寺院の内部は色彩豊かな浄土図や天女図などによって飾られていたが、地方の廃寺跡から壁画の菩薩・神将・遠山・樹木・天女衣などが出土したのは日本で最初である。

 手元にある「鳥取県の歴史散歩」は1994年3月25日発行のものですが、1993年1月10日発行の文芸春秋編「古代日本史最前線」に収められている「“奇跡の壁画”が語るもの」(読売新聞記者の林文夫記)には、次のように記されています。

 上淀廃寺の伽藍配置は、西に金堂、東に塔を配し、南辺をそろえた「法起寺(奈良県斑鳩町)式」か、この変形の「夏見廃寺(三重県名張市)式」と今のところ考えられている。同じ様式の寺院は鳥取県の伯耆、因幡の国では、岩美町の岩井廃寺、郡家町の土師百井廃寺、倉吉市の大御堂廃寺、岸本町の大寺廃寺などがあげられる。(ルビ省略)

 上の書は、今では「最前線」とは言えなくなってしまった、ということです。現地の説明板には、「当時の地方寺院としては、それほど大きくありませんが、金堂の東側に南北に3塔が並ぶ、独特の伽藍配置が確認されました」とありました。
 平成4(1992)年11月26日の日本経済新聞朝刊では、次のように報じられました。

 ……これまでの発掘調査で確認された一金堂、二塔以外に、さらに二塔の延長線上に三つめの塔の心礎が(柱の礎石)が見つかった。三つの塔が同時期に並び立っていたかどうかは不明だが、二―三塔が一列に並ぶ伽藍(がらん)配置は当時、国内外でも例がない。(中略)
 また新たに見つかった心礎は、二塔の北側の延長線上にあり、三塔がほぼ等間隔で南北に並ぶ格好になっていた。ただ、この遺構は、塔の中心の柱の礎石部分だけで、建物の土台部分の基壇を築いた形跡はなかった。

 そして、同新聞の平成7(1995)年11月25日の朝刊では、「三基の塔が南北に配置された特異な伽藍(がらん)配置で知られる上淀廃寺跡(鳥取県淀江町)」などを、文化財保護審議会が国の史跡に指定するよう答申したことを報じ、翌平成8年、これを受けて上淀廃寺跡は、国史跡に指定されました。それから既に10年以上も経過していますので、その後の発掘調査によって、大きな、または新たな発見があったかもしれません。私が実際に見学したものが、三塔のうちのどの塔心礎であったのか判りませんが、ともかく生憎の天候で傘をさしての見学となり、心礎の孔にも水が溜まりきっていて、舎利孔の存在は、かろうじて陰影の感じで判るだけでした。
 なお、「鳥取県の歴史散歩」には、先に見たとおり「上淀(寺内)廃寺」とありますが、それについて同書には、「上淀廃寺というよび方は定着した感があるが、廃寺の呼称は江戸時代の『字名』を論拠とするのが、廃寺の由緒と寺域などをカバーする意味があり一般的である。そこで『寺内廃寺』の呼称を提唱しておく」とあります。
 その後、天神垣神社の南の山腹にあるという「前方後円墳石馬谷古墳の、前方部の西20mの所にあった石馬大明神に祀られていた」(同上)もので、もとは天神垣神社の境内にあった石馬が、今は更に移されて展示されている淀江町民俗資料館、そして先に記した岩屋古墳などを見学しました。

☆       ☆       ☆

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2008年09月21日

坂中廃寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記、番外篇その2

 大寺廃寺を後にした私は、国道181号線をちょっと戻り、大殿の信号で左折し、すぐ近くの坂長(さかちょう)という集落にある坂中(さかなか)廃寺へ向かいました。「鳥取県の歴史散歩」に、「岸本駅から西へ約2q、台地上に坂長(旧坂中)集落がある。公民館の横に『紀成森長者之塔』と刻まれた石碑が立ち、前には坂中廃寺の出枘(すいへい)式の塔心礎が中央から二つに割れて残っている」(ルビは括弧で表記)とありますので、手持ちの道路地図で見当をつけ、右にある公民館を目指しました。
 現地には、岸本町教育委員会によって立てられた説明板があり、それには次のように記されていました。

 平安時代初期と思われる寺跡にある塔の心礎で、直径1、65mの火成炭で出来ており中央に径36p、高さ10pの凸部があり、またその中央に径15p、深さ7pの円孔がある珍しい型をしています。
 現在は元の位置から移動したものと考えられ、またほぼ中央から二つに割れているのは惜しいが、本町の歴史を解明するうえで貴重な資料です。

 上の引用文中に「火成炭」とありますが、「火成岩」の誤植と思われます。
 ところで、この後に訪れた所を続けて書きますと長くなりますので、今日は、この辺りで止めておきます。

☆       ☆       ☆

 今は、鳥取県を旅していますので、場違いな感じではありますが、伊勢志摩を旅したつもりで、美し国市場など覗いてみては如何でしょう。もちろん真珠もありますし、海の幸にも溢れているようです。こちらを ↓ どうぞ。

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2008年09月20日

大寺廃寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記、番外篇その1

 改めて時を確認しますと、平成13年4月末から5月初めにかけての旅のときですが、4月30日、米子駅前のホテルを後にした私は、国道181号線(出雲街道)で、当時の西伯郡岸本町、現在の伯耆町の大寺という集落にある大寺(おおでら)廃寺を目指しまいた。
 まず、「鳥取県の歴史散歩」を見ますと、大寺廃寺へ公共交通機関で訪れる場合について、JR伯備線の岸本駅下車10分または米子駅からバス日野方面行大寺下車1分とあったうえ、「岸本駅から西へ歩いて約10分、日野川にかかる国道181号線の大寺橋を渡ると大寺である。国道の右側に標示板があり、その先に民家に囲まれている小さな空き地がある。ここが大寺廃寺の伽藍中枢部、塔のあった所である」とあります。そして、発掘調査で判った大寺廃寺の「回廊の南西隅には現在福樹寺(臨済宗)があり、その境内に1918年に塔跡近くで発見された石製の鴟尾が保存され、羽根を刻んだこの鴟尾を屋根に飾った壮大な古代寺院をしのばせている」(ルビ省略)ともあります。そこで私は、駐車の問題も考え、まず福樹寺を目指しました。
 米子駅から6、7キロほど南東へ行きますと、大殿という信号に至りますが、その一つ先の大寺という信号の10メートルぐらい先の右手に福樹寺の駐車場があります。そこに車を駐めさせていただいた私は、鴟尾の見学は後回しにして、塔跡へ向かいました。塔跡は、国道の反対側を、2、3メートルほど行った所にあります。その塔跡などについて上の書には、次のように記されています。

 ……1918(大正7)年、この近くから古代寺院の堂棟を飾る石製の鴟尾(国重文)と布目瓦が出土し、次いで3種の軒丸瓦、民家の床下から塔心礎などが発見され、ここに古代寺院が建てられていたことは古くからわかっていて、1965(昭和40)年、国道181号線の拡張に伴い事前調査が行われた。
 調査によると、この寺院は7世紀後半から8世紀初めの白鳳時代に創建されたもので、東を正面とし、むかって右に塔、左に瓦積み基壇をもつ金堂、中門正面奥に講堂があり、ここから回廊が左右にのびて塔と金堂をとり囲んでいる橘寺式とでもいえる珍しい伽藍配置であることがわかった。(中略)
 塔跡は一辺11・81mの基壇をもち、中央には3重の円孔をもつ塔心礎があった。(中略)
 なお大寺は、室町時代初め足利直義の発願で全国の国々に1寺ずつ建立された安国寺の旧跡、伯耆安国寺跡とも伝えられている。
 大寺廃寺の伽藍中枢部は国道181号線の敷地となり、わずかに塔跡のみが岸本町有地として保存され、その塔跡の南西隅を国道がかすめて通っていることになる。(ルビ省略)

 福樹寺へ戻った私は、鴟尾を見学しました。岸本町教育委員会により境内に立てられていた案内板には、「創建当初の金堂(本堂)の大棟の両端に飾られたものの一つである(中略)昭和十年には重要美術品に認定され、ついで昭和三十四年には重要文化財に指定された」とありましたが、なかなか立派なものでした。

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 さて、今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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2008年09月19日

五重塔、三重塔をめぐる旅日記の番外篇

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、中国地方としては最後となる鳥取県なのですが、残念ながら鳥取県には新旧を問わず塔がありません。1都2府47県のうち、塔がないのは、ここ鳥取県と沖縄県だけです。しかし、沖縄県の那覇市にある福州園には、全く新しいものながら中国風の塔が建てられているようですが、そうでなくても経済的余裕のない現在、わざわざ訪れるほどのものではなさそうですので、私の塔めぐりの目的からは除外してあります。
 一方、鳥取県は、古代において仏教文化の盛えた土地であるようで、古代寺院の塔跡が多数あり、しかも、塔の心礎が数多く遺っています。その意味では、古代の鳥取県、伯耆・因幡の国の人々は、「塔に魅せられて」いたと想われます。そこで、それらの塔跡、塔心礎について、五重塔、三重塔をめぐる旅日記の番外篇として、明日以降に辿ることとしますが、興味のない方にとっては単なる跡であり礎石ですので、斜め読みしていただきたいと思います。そして今日は、その予告をすることに止めたいと思います。

☆       ☆       ☆

 今日は、欲しいものなら何でも見つかりそうなショッピングフィードを、ご紹介します。個人としてだけでなく、飲食店などの経営者の方も、参考になりそうですよ。こちらを ↓ どうぞ。

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2008年09月18日

出雲国を去るにあたって

 五重塔、三重塔をめぐる出雲国の旅は昨日で終わったのですが、出雲国を去るにあたって、清水寺の次に訪れた所や、その他、出雲国で訪れた所について、ちょっとだけ触れたいと思います。
 清水寺を辞した私は、雲樹寺(うんじゅじ・臨済宗)へ向かいました。「島根県の歴史散歩」に、「清水寺から回れば徒歩でおよそ20分ほど」とありますが、車であれば、あっという間に着いてしまいます。
 この雲樹寺について、中西亨先生の「続・塔の旅」には、「重文の大門と朝鮮鐘で名高い寺だが、ここに五重塔があったようで、その址と伝えられる所へ寄ってみたが、今は址もさだかでない」とあります。そんなわけで私は、珍しい構造の大門(四脚門)や、朝鮮鐘(いずれも国重文)などを拝観し、庭園を鑑賞して雲樹寺を後にしました。
 この時の旅では、国道9号線から国道178号線(但馬漁火ライン)を経て城崎温泉まで行き、温泉宿に泊まり、翌日は西国三十三観音霊場第二十八番札所の成相寺へ向かったのすが、そこはもう京都府になりますので、京都府の塔めぐりの旅日記として書くこととします。
 時を確認しますと平成13年4月29日のことになりますが、米子市内の国道431号線を進み境水道大橋を渡り、加賀の潜戸(国天然・国名勝)を見物するため加賀港へ向かいました。米子市は鳥取県でありますが、境水道大橋を渡ると島根県になります。加賀の潜戸について「島根県の歴史散歩」には、「加賀湾の東の潜戸鼻の先端にある海食洞窟と洞門」とあります。加賀港で潜戸観光遊覧船(グラスボード)に乗り込んだのですが、客は若者三人と私だけでありました。新潜戸、旧潜戸の見物所要時間約五〇分、私は、その景観をスリル満点の思いで楽しみました。
 加賀港に戻った私は、県道37号線を西へ向かい、佐太(さだ)神社を訪れた後、右の書に、「出雲国はもとより、山陰でも屈指の天台宗の古刹」とある鰐淵寺(がくえんじ・天台宗)を目指しました。途中、参詣者に溢れた一畑(いちばた)薬師(臨済宗、一畑薬師教団)にも立ち寄りました。
 鰐淵寺は、かなりの文化財を有する寺であるが、多くの寺宝類は、ふだんは公開されていない。しかし、「探訪・神社寺院史話総覧」(秋田書店刊「歴史と旅」の臨時増刊号)の鰐淵寺の項(作家の鷲見貞雄記)によれば、「吊鐘楼の東に三重塔跡」があるとのことですが、実際に訪れたときは、そんなことは忘れてしまっていました。

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2008年09月17日

三層まで昇れる珍しい三重塔

 ここ清水寺の三重塔は、五重塔、三重塔をめぐる旅の中でも、唯一の珍しい塔ですので、や専門的にもなり、長い引用となりますが、中西亨先生の「続・塔の旅」に眼を通すこととします。

 ……この寺では古く「宝塔」があったと伝えるが、この宝塔が塔の美称なのか我々のいう宝塔だったのかよくわからないが、永禄の兵火で失われたとなっている。江戸期にもずっと塔がなかったので宝暦の頃建立の話がでたが実らず、文化年中に入って又建立の話がでて、文政九年(一八二六)ようやく着工、以後なんと三十三年もかかって安政六年(一八五九)ようやく竣工した。この時には着工の時の発願者惠教僧正も棟梁富谷寛太もすでに歿く、担当者は次の真浄、棟梁は寛太からその子由助を経て孫の唯市の代になっていた。この二代・三代にもわたる苦心談はこの地方では有名になっていて、今もこの工事にまつわる逸話が多く語り伝えられている。棟札が残っているのでそれをみると、表は中央梵字の下に「奉再建三重寶塔一基」とあって、その下に「導師大寶坊教好」とあり、その両側に十一名の僧侶の名(その一番はじめに真浄の名あり)を連ねる。その下の段に発起本願・大願主が列び、最後に「大工棟梁」として「九重村富谷唯市隆久」の名がある。(中略)かくて出来上った時の供養は、棟札中央に書かれた教好を大うま師に盛大に行なわれ、前代未聞の人の波が全山を埋めたと伝えている。所でこの塔が変っているのは、これまでの塔は見るもので、中に入り上層まで登るものでなかったが、この塔ははじめて人々を最上層まで登らせることにし、現在でも有料ながら誰でも三層まで登ることができる。塔の外観は特に変った所もないが、中央間中備えの蟇股は中の彫刻がはみだしそうなにぎやかなものが用いられているが、脇間はみの束、又支輪部が竜の彫刻になっている。内部をみると三重塔にしては珍しく中央に心柱が通り、それを囲んで四天柱があり、その間を須弥壇にしている。その上に対角線状の障壁があって各面に仏像一軀を安置、本堂側のみ三尊となってい る。内部は一切彩色はない。
 二、三層の外観では中央間の蟇股がなく、中備えは中央に間斗束をおいているだけ。二層以上の内部に登ってみると、かなり窮屈な三つ折れの階段を登りきると、両層とも正面が花頭窓型の厨子内に、二層目は小多宝塔、三層目は大日如来坐像を安置しているが、こういった施設はこれより古い塔には全くなかったものである。なお各層にはギボシ勾欄がついた縁があって外の景色が眺められが、そのギボシは二、三層は木造、初層は金属製だが、そこには銘文は全く刻まれていなかった。屋根は本瓦葺で相輪は型の通り。この塔、最近の改修でよく整備されている。

 この三重塔は、写真撮影という面からは非常に苦労し、私も美しい姿の三重塔の写真を撮ることができませんでした。遠景写真ですが、こちらの写真は ↓ 雰囲気を味わっていただけるのではないでしょうか。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2005toba/i_seisui11.jpg

 上の引用文にもありますとおり、この塔は、休館日以外は何時でも三層まで昇れます。いま、「休館日以外は」と記しましたが、ちょっと可笑しい感じがするものの、それは塔の内部拝観料と引き替えに受け取った登閣券に拠ったのであり、それには、登閣時間は午前9時から午後5時まで、12月28日から1月5日までは「休館」と記されています。
 三重塔の外観、内部そして塔からの眺めを楽しんだ私は、時間的余裕は十分みていましたので、宝蔵(宝物館)での仏像の鑑賞に、その時間を充てました。

☆       ☆       ☆

 今日は、これまでとは、ちょっと違ったものを、ご紹介します。来春卒業の学生さんの中には、既に内定を受けている方もおられるでしょうが、自分は、一つの会社に縛られるよりは、派遣社員として働きたいという方もおられるでしょう。そんな方は、こちらで ↓ お探しになっては如何でしょう。

派遣 求人
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2008年09月16日

いよいよ出雲国の塔のある寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、幾つか寄り道をしましたが、いよいよ塔のある寺へ辿り着きました。
 それは安来市にある清水寺ですが、この寺を最初に訪れた正確な年月は忘れてしまいましたが、確か昭和52年か53年の5月でありました。そして、2度目の訪れは平成13年の4月の末でありましたが、この時は時間に余裕がなく、三重塔を下から見上げ、写真を撮る場合の光線の具合を確かめるために立ち寄っただけでした。しかし、そのときは、磁石を持参するのを忘れてしまったので、茶店の店主らしい人に尋ねたのですが、午前中が良いのではないかと思うが……、と自信なさげでありました。
 そして、この度(平成16年5月2日から3日にかけて)は、2度、いや4度とは来ることもあるまいと思い、清水寺境内にある一つの旅館に宿を求めて、ゆっくりと時間をかけて拝観することとしていました。塔の建つ方位が、いまひとつ判然としていませんでしたので、陽のあるうちに宿に着き、光線の具合によっては翌日に、と考えてのことでありました。しかし、先取りして記すならば、この時も方位を確かめるのを失念してしまいました。
 最初の時も2度目の時も、門前の駐車場に車を置き、長い石段の参道を登りましたが、この度は寺の裏側にある駐車場まで車で行きました。そこから宿までの道は思ったより急な下り坂で、明日のことが思いやられましたが、結果的には、参道を登り降りするよりは楽でありました。
 宿に荷物を置いた私は、さっそく三重塔へ向かったのですが、写真撮影には光線の具合が不都合でありました。正確な塔の建つ方位は不明ながら、午前がよいということになります。なお、宿の宣伝をするわけではありませんが、私が泊まった紅葉館という旅館の一階の客室(私が訪れた時は食堂として使われていました)からは、三重塔を望むことができます。
 瑞光山清水寺(天台宗)の歴史等について、「島根県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 この寺の歴史は古く、縁起によれば587(用明天皇3)年尊隆上人によって開かれたという。もとより伝説の域を出ないが、『出雲国風土記』によると、すでに奈良時代、舎人郷(安来市野方)に五重塔をもつ教昊寺や、山国郷(安来市吉田)に三重塔をもつ新造院があったのだから、8世紀には寺基ができていたかもしれない。9世紀にはすでに天台の系列に入り、三仏寺・大山寺(ともに鳥取県)・鰐淵寺とともに、山陰道屈指の天台密教の霊場となった。そして盛時には四十余坊をもつ大伽藍だったと伝えられるが、戦国時代、尼子・毛利合戦の兵火で焼失、江戸時代に入って復興されたが、旧観に及ぶべくもなかった。それでも地形を利用した伽藍配置の美しさ、豊富な文化財・石像美術、そして昔から観音霊場として厚い信仰を集めてきたことなど、いろいろな面で注目すべき大寺院である。(ルビ省略)

 上に「山国郷(安来市吉田)に三重塔をもつ新造院」とありますが、それについて「出雲国風土記」には、「新たに造れる院一所。山国の郷の中にあり。郡家の東南廿一里百七歩なり。三層の塔を建立つ」(ルビ省略)とあります。この新造院について、吉野裕訳「風土記」でも「安来市上吉田付近」とあり、ほぼ合致していますが、現在のところ、具体的な比定地はないようです。
 さて、次は三重塔の説明なのですが、長くなりましたので、それは明日のこととします。

☆       ☆       ☆

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2008年09月15日

出雲国の塔へ行く前に寄り道(その3)

 八雲立つ風土記の丘を後にした私は、出雲国で唯一、塔を有する寺を訪れるべく、安来市へ向かいました。しかし、その前に、もう一ヵ所、寄り道をしますが、目指したのは教昊寺(きょうこうじ)跡です。「島根県の歴史散歩」には、「野方町の安来平野を見下ろす低丘陵上に位置する野方廃寺が教昊寺跡とされている。塔の心礎に用いられた三重孔式礎石が、現在神蔵神社の小祠の台石として残っている」とあり、所在地は「安来市野方町
真ヶ崎247」と記されています。
 手持ちの道路地図と上の書に掲載されている地図を照らし合わせつつ神蔵神社へ向かったのですが、何度も尋ね直しながら、ようやく辿り着きました。行ってみても、どうやら心礎は見られそうもないので、何度も諦めかけたのですが、最後は執念のようなものでした。目標となるのは県道102号線(白鳥ロード)沿いにある「野方ふれあいセンター」ですが、そこら辺りまで行っても、知っている人に出会うことがなかったら、行き着かなかったでしょう。
 ところで、その教昊寺について、「出雲国風土記」には、「教昊寺。山国の郷の中にあり。郡家の正東廿五里一百廿歩なり。五層の塔を建立つ」とあります。五重塔の心礎は、先に見たとおりであり、言うまでもなく、孔の状態などは確認することはできませんでした。
 今日は、いつもに比べますと短いのですが、この先を続けますと長くなりますので、ここら辺りで止めておきます。

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2008年09月14日

出雲国の塔へ行く前に寄り道(その2)

 五重塔、三重塔をめぐる出雲国の旅としては、二番目の寄り道となる「八雲立つ風土記の丘」へとなります。
 
 大寺薬師を辞した私は、再び国道431号線で宍道湖の北岸を駆しって、松江市に入りました。しかし松江市は、さすが県庁所在地だけあって広く、市街地に入って散々道に迷った挙げ句、国道432号線に入って、その後は標識に従って八雲立つ風土記の丘資料館に向かいました。そして、そこは素通りして、更に標識に従って風土記の丘の一画にある神魂(かもす)神社に辿り着きました。「島根県の歴史散歩」には、神魂神社の「本殿は、1583(天正11)年、炎上の直後に建てられたものと考えられ、大社造建築としては最古のもの」とありますがが、出雲大社に比べれば小ぶりながら、見応えのあるものでした。
 神魂神社を後に、私は出雲国分寺跡(国史跡)へ向かいましたが、風土記の丘の地域内にあり、標識も完備しているので、道に迷うことはありませ。八雲立つ風土記の丘資料館まで戻り、再び国道432号線に出て左折、目と鼻の先の所で右折して、小さな標識に従って左折して進みますと、突き当たりに真名井神社があります。そこで右折して少し行きますと、出雲国分寺跡に至ります。出雲国分寺跡について上の書には、「1955(昭和30)・1957年と1970・1972年の発掘調査で、金堂・講堂・僧坊・中門・回廊・南門・塔などの跡が確認され、復元整備されている」とありますが、塔の心礎などは遺っていません。しかし私は、同書に「国分寺から南へまっすぐ通っている道が、天平古道(国史跡・附古道)といわれる当時の道の跡である」という道に、言うまでもなく当時のものとは異なるでしょうが、感銘を受けました。
 次いで私が目指したのは四王寺(しわじ)跡ですが、道を戻り、右手に真名井神社を見る三叉路で、山代郷正倉跡への標識に従い直進、暫く行きますと右手にあります。私が行った時は小さな標識しかなかったので、今でもそうであれば見落とさないよう注意が必要です。小学館刊、新編日本古典文学全集五、植垣節也校注・訳の「風土記」(以下、各国の風土記について触れる場合、特記しない限り同じ。かつ割注部分は省略し、ルビについては必要最小限に止め括弧で表記)に収録されています「出雲風土記」の「意宇(おう)の郡」の条に、「新たに造れる院一所。山代の郷の中にあり。郡家の西北二里なり。教堂を建立(た)つ。飯石の郡の少領出雲の臣弟山(おとやま)が造れるなり」とありますが、後に立ち寄りました「ガイダンス山代の郷」で入手した島根県教育庁が作成したものと思われます「『八雲立つ風土記の丘』エリアマップ」には、「山代郷南新造院跡(四王寺跡)」(ルビ省略、以下同じ)とあり、右の現代語訳を記したうえで、「今の四王寺跡がこれにあたり、一部が発掘調査されている」とあります。しかし、吉野裕訳「風土記」(東洋文庫)の「注」には、「新造の院」について「新しく造った寺で、まだ法規にかなう寺院としての寺号をもっていないもののこと」とあり、巻末に掲載されている「風土記地名対照表」には、「松江市山代町(茶臼山西南麓)か。後の国分寺址」とあります。なお、右の「マップ」には、「四王寺の名称は、平安時代に時の政府が新羅から国を守るため、四天王像を置いたことによりついた名」ともあります。
 四王寺跡を後にした私は、来見(くるみ)廃寺を目指しました。これまで辿ってきた道を更に西へ少し行きますと大庭十字路があり、そこで右折した道は国道432号線で、その右手前角が、山代郷正倉跡です。国道を進み山代二子塚の道標の所で右折し、「ガイダンス山代の郷」の駐車場に車を入れました。そこで、来美廃寺への道を尋ね、この辺りは道も狭く、そこまでの距離もたいしたこともなさそうでしたので、歩いて訪れることとしました。そこまでの道順については省略しますが、この辺りの散策には、この「ガイダンス山代の郷」を利用することをお奨めします。
 ところで、「出雲国風土記」には、山代の郷にある新造院が二つ記されていますが、二つ目のものについては、「新たに造れる院一所。山代の郷の中にあり。郡家の西北四里二百歩なり。厳堂を建立つ。日置の君目烈(まれ)が造れるなり」とあります。そして「マップ」には、「山代郷北新造院跡(来美廃寺)」として、右の現代語訳を記しています。しかしながら、これら新造院の跡では何も見るべきものがありませんでした。

☆       ☆       ☆

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2008年09月13日

出雲国の塔へ行く前に寄り道(その1)

 タイトルに、(その1)としましたように、五重塔、三重塔をめぐる旅としては、出雲国の塔へ行く前に、何ヵ所か寄り道をして行きます。
 まず時を確認しておくこととしますが、平成16年5月2日のことでになります。出雲市の中心部、JR山陰本線の出雲市駅から遠くない宿を出発した私は、まず出雲大社へ向かいました。
 以前、兵庫県の養父市(旧八鹿町)にある名草神社の三重塔は、出雲大社から移されたものであると書きました。拙著「近畿・岡山篇」を、当時の八鹿町の教育委員会にお送りしたところ、折り返し、重要文化財名草神社三重塔修理工事完成十周年記念として、1997年に八鹿町教育委員会が編集発行した「名草神社三重塔と出雲大社」(兵庫県八鹿町ふるさとシリーズI)という立派な本をお送りいただきました。それには、「寛文造替前の出雲大社」の絵図が掲載されています。それによりますと、三重塔は拝殿に向かって左手前の境内の隅に建てられていたようであります。といっても今は、その痕跡すら留めていません。私は、出雲大社には遠い昔に訪れ、3年前の4月29日にも訪れましたので、右のことを確認しただけで参拝も早々に日御碕へ向かいました。
 そして、日御碕灯台に息を切らし切らし昇った後、ウミネコの繁殖地(国天然)の経島を見物した私は、大寺薬師へ向かいました。大寺薬師へは、出雲大社まで戻り、国道431号線を東へ進めば、迷うことなく辿り着けます。
 出雲市東林木(ひがしはやしぎ)町416にあります大寺薬師について、「島根県の歴史散歩」には次のように記されています。

 名前は大寺だが、これは通称で万福寺(浄土宗)というのが正式である。ここには行基作と寺伝に伝える九体の仏像がある。寺は無住で、コンクリート造の収蔵庫の鍵は付近の民家で預かっているので、あらかじめ所在を鳶巣公民館(0853―21―0174)に問い合わせておくとよい。

 それで、旅の計画を樹てるに際し公民館に問い合わせ、大寺に到着した私は、説明板に記されていた連絡先の番号に電話しました。すると、
すぐ参りますので少々お待ちください、ということでありましたが、待つほどもなく自転車に乗った人が現れ名刺を渡されました。その方は、さっそく堂の扉を開けてくださり、私がカメラを手にしているのを眼にして、ご自由にお撮りください、と言ってくださいました。
 拝観の際にいただいた「大寺の仏像」という、出雲市作成の二つ折りのパンフレットには、次のように記されています(ルビ省略)。

 「大寺」は推古天皇2年(594)智春上人によって創建されたと伝えられています。伝承では、天平13年(741)僧行基が諸国巡歴の途中、「大寺」に留まって薬師如来を初め多くの仏像を刻み、金堂(7間×12間)、阿弥陀堂、釈迦堂、観音堂、七重大塔等を建て、諸仏を安置し護国の道場としたと言われています。
 その後、国司、守護、地頭などの地方有力者が代わるごとに「大寺」はその寺領を失い、ほとんど廃滅の状態になりましたが、永禄7年(1564)極楽寺(平田市)心誉上人が「大寺」を譲り受け、浄土宗に改めて寺を再興しました。

 同パンフレットには、「往時の『大寺』は、現在の万福寺より300メートル奥の通称「広瀬」にあったといわれ」ているようですが、「慶安3年大洪水による山崩れのため寺堂、仏像の多くが破壊、埋没」してしまったので、「残存の仏像を集め、現在の万福寺境内に3間半4面の薬師堂が再建」されたとあります。「島根県の歴史散歩」には、「本尊の木造薬師如来坐像、両脇侍として日光・月光菩薩、観世音菩薩立像2体、四天王立像の計9体(いずれも国重文)は、中国地方でも数少ない雄大な木造彫刻群像」とありますが、決して誇張ではなく、まさにそのとおりと言って良い見事な仏像群でありました。

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 1週間が過ぎるのは、あっと言う間ですね。もう今日は土曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 18:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月12日

出雲国へ行く前に、もう一ヵ所寄り道を

 五重塔、三重塔をめぐる旅としては、またまた寄り道となります。
 その寄り道先の天王平廃寺ですが、「島根県の歴史散歩」には何も記されておらず、手元にあった資料は岩井隆次著「日本の木造塔跡」のみで、それには次のように記されています。

 昭和四四年、大田市羽根で国道九号線の工事中に三段孔式心礎のある塔跡が発掘された。乱石積み基壇の一辺一二メートルで、四方に階段があったらしく高さ五六〜四六センチ。その上に心礎が発見されたが、長径二メートル、短径一・二五メートル、高さ九五センチ。穴の直径九三センチ、底径九〇センチ、深さ六〜五センチ、(中略)。穴の中央に方形の蓋受孔と舎利孔があり、(中略)、和泉禅寂寺型の三段孔心礎であった。この様式のものはいずれも一流の寺院にしか見られないが、石見の辺境にありながら白鳳の昔にこれだけの塔のある寺の建てられたのはよほど経済力を持った大豪族がこの辺にいたのであろう。出土瓦のうちに白鳳様式の単弁八葉、間弁もあり周縁鋸歯文の鐙瓦が発見され、心礎の様式を併せ考えると、創建年代は白鳳期であろう。ただ(中略)、創建時の塔ではない可能性もあるという。伽藍配置は西に建物跡があったので法起寺式であろうか。

 この文章だけでは具体的な所在地は判らず、「羽根」という地名だけが頼りでありました。手持ちの道路地図には「羽根」という地名は見当たらず、「波根」という地名があるので、「日本の木造塔跡」の誤植ということもあるかもしれないと考え、ともかくも波根まで行ってみることとしました。そして全く手がかりがないまま、見当で脇道に入り、たまたまあった波根派出所に行ってみますと、もう仕事を終えて署に引き上げるという警察官がいました。これまでの経験上、塔跡のことなど尋ねても、知らない人が殆どといったことの方が多かったので、期待はしていなかったのですが、幸いにもその警察官は知っていて、署への帰り道であり、判りにくい所だからと、パトカーで先導までしてくれたのです。こんなことはもちろん初めてで、思いもよらぬことでありました。
 国道9号線を少し戻るような恰好になりましたが、暫く行った先でパトカーはハザードランプを点灯させて停車しました。車から出てきた警察官は、道路脇の空地に車を駐めるようにと、その場所を指し示しました。道路の脇は、土が盛られたような状態になっていましたが、警察官は、その上に塔跡があると指で示した後、今後も安全運転で、と言って去って行きました。この警察官と出会わなかったら、行き着かぬままであったに違いありません。
 そして、ここでも下府廃寺塔跡での奮闘と同様のことを繰り返したのですが、塔跡の脇に「岩盤浴 いやしの湯」という施設があり、バケツのようなものがありましたので、少しは捗りました。この施設が一つの目標物になりますが、近くに「農業大学校前」というバス停があり、西から来た場合、左手に島根県立農業大学校の看板、右手に大田市波根工業団地があり、「はね和牛肉直売センター入口」の大きな看板があります。後にインターネットで「農業大学校」を検索すると、JR山陰本線の波根駅から徒歩約15五分、大田市駅から約6qとありました。そして、注意していれば国道からも見えるはずです。大田市教育委員会によって立てられた「天王平廃寺塔心礎石一基」の説明板には、次のように記されていました。先に見た「日本の木造塔跡」の記述と重複する部分もありますが、次に写しておくこととします。なお、心礎は、大田市の文化財に指定されています。

 この礎石は昭和四四年五月、国道九号線バイパス建設工事中に発見された寺院跡の塔に使用されていた中心柱の礎石である。
 寺院跡は現在の道路敷に塔跡があり、西側に一棟の建物が検出された。玄武岩系統の自然石を加工して作った心礎には中央に方形の舎利孔を設け、鉄製の落し蓋をしていたことが判明している。
 この寺跡は、奈良時代前期に建築されたもので、心礎の大きさや、方形の舎利孔の特異性などから石見東部の古代史を考えるうえで重要な意味をもっている。

 天王平廃寺塔跡を後にした私は、この日の宿を求めてあった出雲市へ向かったのですが、大田市と言えば、石見銀山遺跡が有名です。また、銀山が華やかなりし頃の町並みが残っており、長野県の馬籠宿に次いで二番目に国の伝統的建造物群保存地区に指定されたという大森町もあります。石見銀山遺跡は、当時は未だ世界遺産に登録れていませんでしたが、そのこととは別にしても立ち寄りたい所でありました。しかし、既に計画段階から、そのことは無理であることが判っていましたし、天王平廃寺塔跡を後にする頃には、夕闇が迫っていました。

☆       ☆       ☆

 髪が黒々ふさふさですと、10歳は若く見られますよね。女性も美しい髪の毛ですと、美しさが増しますよね。私は、67歳になり、白髪頭いや前頭部は禿頭ですから、もう諦めていますが、若い方こそ、髪のお手入れが必要ではないでしょうか。夏の日差しで、髪も痛んでいるかもしれません。髪のお手入れに、デルメッドのヘアエッセンスなど、如何でしょう。こちらを ↓ ご覧ください。



posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 14:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月11日

幻の五重塔へ

 益田墓地公園を後にした私は。国道9号線に戻り、浜田市を目指しました。その浜田市では、下府(しもこう)町にある下府廃寺塔跡を訪れたのですが、それについて「島根県の歴史散歩」には、「JR山陰本線下府駅下車二〇分」とありますので、取り敢えず下府駅まで行った私は、近くにあった店で道を尋ねました。すると店長とおぼしき方が親切にも、そこから塔跡までの略図を書いてくださいました。
 下府駅からちょっと戻り左折して、下府川に沿った道を南に進みますと、やがてJR山陰本線のガードをくぐります。道は東へ曲がっていますが、下府川に架かる橋を二つ右手に見た先で左折、突き当たりを更に左折して行き、半場という集落を抜けますと、左手に下府廃寺塔跡があり、「史蹟下府廃寺塔阯」と彫られた石柱が立てられています。ただ、後にインターネットで検索した地図を見ますと下府駅へと右折することなく国道9号線を進み、一つ目の信号で右折し、山陰本線を越え、クランク状に右に折れる道に入れば、その後は道なりに進めばよいようなので、この方が判りやすいかもしれません。
 この塔跡について、現地に立てられていた「下府廃寺跡」という説明板には、次のように記されていました(ルビは省略)。

 この地に古代寺院跡があったことは古くから知られ、国鉄広浜線(現在は市道下府上府線)建設の際、下府廃寺塔跡として国の史跡に指定された。その後、平成元年から平成4年に浜田市教育委員会により発掘調査が実施され、塔を東、金堂を西に配した「法起寺式」の寺院であったことが判明した。出土した瓦や土器から県内では最も古い白鳳時代末〜奈良時代初め(7世紀末〜8世紀初め頃)に創建され、平安時代前半(10世紀)まで存続したものと考えられる。
 現在見られる礎石は、塔の中心柱を支える塔心礎で、柱をはめ込むための円形の窪みや舎利を納める円形の穴が確認できる。また、この塔心礎の周辺は周囲に比べて一段高くなっており、塔の基壇の痕跡を残している。
 塔は発掘調査の結果、7・2m(24尺)四方、基壇は13・2m(44尺)と推定され、その構造などから五重塔であったと考えられる。

 というわけで、ここに五重塔が建てられていたわけで、私は幻の五重塔を訪ねたことになります。そして説明板には、「この塔から西側約6mには金堂跡が発見され」たが、「講堂や中門、回廊などの施設は確認されていない」とあり、更に、次のように記されていました。

 出土した軒丸瓦の文様には、創建時のものと考えられるこの寺独自のものや、修理で使用された石見国分寺跡や旭町重富廃寺、大田市天王平廃寺出土瓦に似たもの、さらに近畿地方の瓦文様に近いものなどが認められ、寺院を建立した豪族の活動範囲をうかがうことができる。

 ところで、この時の旅の、これまでの行程では雨に降られたことはなかったのですが、「穴の直径八二センチ、深さ五センチ、その中央に直径二〇センチ、深さ一〇センチの舎利孔」(「日本の木造塔跡」)という心礎の柱穴には、雨水がいっぱい溜まっていました。これといった道具もないまま、私は手で、その水を掻い出し、舎利孔が見える状態までにしましたが、40分ほどかかったでしょうか。その大奮闘を他人が見たら、何という馬鹿なことを、と思ったことでしょう。
 そんなわけで時間の余裕もなくなり、下府廃寺塔跡の次に石見国分寺跡を訪れる計画でありましたが、「島根県の歴史散歩」には、「基壇状の高まりが塔跡と推定されている」とあり、塔の心礎などはないようでしたので、そこは省略し、説明板にある天王平廃寺のある大田市へ向かいました。

☆       ☆       ☆

 ところで、私は、このブログも、ただただ文章を書き、アフィリエイトの真似事のようなことで、文章の末尾にバナーを貼るのが精一杯です。周りに幾つかテキスト宣伝やバナーが貼付されていますが、どうして貼付されるのかさえ解らない状態であり、私のあずかり知らないものです。そんなわけですから、私には不必要なのですが、いろいろなことをやってみたいと考えておられる方もいるでしょう。その場合、レンタルサーバーのロリポップは如何でしょう。興味を持たれた方は、こちらを ↓ どうぞ。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 14:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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