平成15年の四国行のときは、竹林寺を辞した後、第32番札所の八葉山禅師峰寺(ぜんじぶじ、真言宗豊山派)へ廻りました。途中で道を尋ねますと、道を教えてくれた中年の女性が、今からでも間に合いますから、急いで行かれるといいですよと言われます。私を「お四国さん」と思ってのことであったことは、想像に難くありません。しかし、この寺には、国重文の金剛力士像はありますが、それも収蔵庫に収められていて拝観することはできず、そのほか見るべきものがないことは予め承知していました。そんなわけで、写真に撮るべきものは何もなく、私のアルバムには、この寺と第55番の南光坊、第61番の香園寺、第65番の三角寺そして第79番の高照院の5カ寺については、訪れた証拠となる写真がありません。なお、寺の呼び方については、先に見た「四国八十八所遍路」に拠りました。
この日(平成十五年四月二十八日)は、「太平洋を望む月の名所桂浜の高台に松林に囲まれて」建つ、国民宿舎「桂浜荘」に一夜の宿を求めました。平成7年の時にも利用しましたが、同時にチェックインした関西の人と思われる客が、「すげーなー、へたなホテルより、よっぽどましや」と感嘆の声をあげていました。しかし、この国民宿舎の素晴らしさは、自身で行ってみなければ解らないでしょう。平成15年の四国行のときも、その素晴らしさを再び味わいたく、ここに決めたのです。余裕がある場合はともかく、スケジュールぎっしりの私のような者でも、ちょっと早起きすれば、宿舎から数分で桂浜に降りることができ、坂本龍馬の銅像なども見物できます。
この銅像について、司馬[]太郎は、「よくできた非常にいい銅像で、しかも昭和初期に学生が中心になって一銭とか十銭という募金でつくった銅像ですから、いやらしさはない」(文春文庫「歴史と風土」所収の「竜馬雑話」)と記しています。
ここで、ちょっと寄り道に更に寄り道を加えます。それは坂本龍馬のことで、土佐人にとっては、龍馬は郷土の偉大な歴史的英雄であり、土佐そして桂浜に来た以上、彼について触れないわけにはいかないと思うからです。
まず、司馬[]太郎の「幡桃賞」(中公文庫「風塵抄二」所収)に眼を通すこととしますが、山片



明治維新を招来させたひとびとのなかで、坂本龍馬だけが卓越した先見性と開明性をもっていた。(中略)私事だが、私は『産経新聞』に昭和三十七年(一九六二)から四年間『竜馬がゆく』を連載した。
当時、不遜にも龍馬の右の本質に気づいたのは自分だけかもしれないとおもっていた。
ところが連載中、たまたま故大岡昇平氏が、丸善で買った右のジャンセン教授の坂本龍馬についての著作を送ってきてくださった。読んで、教授のほうが私より一日の長があることを知った。
そのジャンセン教授は、その著「坂本龍馬と明治維新」の中で、次のように記しています。
坂本が国民的な英雄となっていく過程は、近代日本の国家主義の発展を照らしだす好個の一例である。それは一夜にして成ったものではない。国の進路を切り開いた指導者たちが、そのめざした目標について真に民衆の理解を得られるようになるまでには、国家建設の難事業に時日をかけて成功することが必要だったのである。彼らのほめたたえられる日がきたとき、坂本には、その栄光をになうべき理想的な条件がそなわっていた。波乱重畳のその生涯、陽気で自信にみちた挙措や手紙などは、国民が心中に求めていた維新の志士の映像と、まさにぴったりだった。そのするどい機智、実行力、地位や権威への無関心、金銭問題での鷹揚さ、危機にのぞんで動ぜぬ沈着さなどを物語る数々の逸話は、同じく彼の智勇兼備の英傑たる役柄に似つかわしかった。
上の「坂本龍馬と明治維新」は、平尾道雄・浜田亀吉の共訳でありますが、平尾道雄について、司馬[]太郎は、中央文庫「歴史の世界から」に収められている「平尾道雄史学の普遍性」の中で、「橋詰延寿氏が『天が土佐へ平尾先生を与えて下さったもの』と語っておられるが、同感のおもいがする」と記し、更に「平尾道雄という、近代以後もっとも大きな地方史家」とも記しています。そして、司馬[]太郎自身は龍馬について、「この国のかたち(五)」で、「日本史上、竜馬ほど素晴らしい青春送った人はいないのではないでしょうか」と記しています。
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今日は、寒い一日でしたね。こんな日は暖かい鍋が美味しいですが、鍋には野菜が重要ですよね。でも、野菜の摂り方にも、色々ありますよね。そして、もう、クリスマスという声が聞こえてくるのですね。もっとも、明日は11月ですものね。そんな時期になりましたが、今日は、「WABISABIYORI」をご紹介します。こちらで ↓ どうぞ。