2008年10月31日

またまた寄り道ですが

 五重塔、三重塔をめぐる旅としては、今日もまた寄り道です。
 平成15年の四国行のときは、竹林寺を辞した後、第32番札所の八葉山禅師峰寺(ぜんじぶじ、真言宗豊山派)へ廻りました。途中で道を尋ねますと、道を教えてくれた中年の女性が、今からでも間に合いますから、急いで行かれるといいですよと言われます。私を「お四国さん」と思ってのことであったことは、想像に難くありません。しかし、この寺には、国重文の金剛力士像はありますが、それも収蔵庫に収められていて拝観することはできず、そのほか見るべきものがないことは予め承知していました。そんなわけで、写真に撮るべきものは何もなく、私のアルバムには、この寺と第55番の南光坊、第61番の香園寺、第65番の三角寺そして第79番の高照院の5カ寺については、訪れた証拠となる写真がありません。なお、寺の呼び方については、先に見た「四国八十八所遍路」に拠りました。
 この日(平成十五年四月二十八日)は、「太平洋を望む月の名所桂浜の高台に松林に囲まれて」建つ、国民宿舎「桂浜荘」に一夜の宿を求めました。平成7年の時にも利用しましたが、同時にチェックインした関西の人と思われる客が、「すげーなー、へたなホテルより、よっぽどましや」と感嘆の声をあげていました。しかし、この国民宿舎の素晴らしさは、自身で行ってみなければ解らないでしょう。平成15年の四国行のときも、その素晴らしさを再び味わいたく、ここに決めたのです。余裕がある場合はともかく、スケジュールぎっしりの私のような者でも、ちょっと早起きすれば、宿舎から数分で桂浜に降りることができ、坂本龍馬の銅像なども見物できます。
 この銅像について、司馬[]太郎は、「よくできた非常にいい銅像で、しかも昭和初期に学生が中心になって一銭とか十銭という募金でつくった銅像ですから、いやらしさはない」(文春文庫「歴史と風土」所収の「竜馬雑話」)と記しています。
 ここで、ちょっと寄り道に更に寄り道を加えます。それは坂本龍馬のことで、土佐人にとっては、龍馬は郷土の偉大な歴史的英雄であり、土佐そして桂浜に来た以上、彼について触れないわけにはいかないと思うからです。
 まず、司馬[]太郎の「幡桃賞」(中公文庫「風塵抄二」所収)に眼を通すこととしますが、山片!桃(!桃その人については、ここでは詳しく触れません)についての一節で、「大阪府は、山片!桃の名を冠した賞」を設けていて、「外国人にして、日本文化の研究と紹介にすぐれた業績を示した人に賞をもらっていただく」が、平成5年は「第十一回目で、受賞者はアメリカ合衆国のプリンストン大学名誉教授マリウス・B・ジャンセン博士である」(ルビ省略)と記したうえ、次のように記しています。

 明治維新を招来させたひとびとのなかで、坂本龍馬だけが卓越した先見性と開明性をもっていた。(中略)私事だが、私は『産経新聞』に昭和三十七年(一九六二)から四年間『竜馬がゆく』を連載した。
 当時、不遜にも龍馬の右の本質に気づいたのは自分だけかもしれないとおもっていた。
 ところが連載中、たまたま故大岡昇平氏が、丸善で買った右のジャンセン教授の坂本龍馬についての著作を送ってきてくださった。読んで、教授のほうが私より一日の長があることを知った。

 そのジャンセン教授は、その著「坂本龍馬と明治維新」の中で、次のように記しています。

 坂本が国民的な英雄となっていく過程は、近代日本の国家主義の発展を照らしだす好個の一例である。それは一夜にして成ったものではない。国の進路を切り開いた指導者たちが、そのめざした目標について真に民衆の理解を得られるようになるまでには、国家建設の難事業に時日をかけて成功することが必要だったのである。彼らのほめたたえられる日がきたとき、坂本には、その栄光をになうべき理想的な条件がそなわっていた。波乱重畳のその生涯、陽気で自信にみちた挙措や手紙などは、国民が心中に求めていた維新の志士の映像と、まさにぴったりだった。そのするどい機智、実行力、地位や権威への無関心、金銭問題での鷹揚さ、危機にのぞんで動ぜぬ沈着さなどを物語る数々の逸話は、同じく彼の智勇兼備の英傑たる役柄に似つかわしかった。

 上の「坂本龍馬と明治維新」は、平尾道雄・浜田亀吉の共訳でありますが、平尾道雄について、司馬[]太郎は、中央文庫「歴史の世界から」に収められている「平尾道雄史学の普遍性」の中で、「橋詰延寿氏が『天が土佐へ平尾先生を与えて下さったもの』と語っておられるが、同感のおもいがする」と記し、更に「平尾道雄という、近代以後もっとも大きな地方史家」とも記しています。そして、司馬[]太郎自身は龍馬について、「この国のかたち(五)」で、「日本史上、竜馬ほど素晴らしい青春送った人はいないのではないでしょうか」と記しています。

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 今日は、寒い一日でしたね。こんな日は暖かい鍋が美味しいですが、鍋には野菜が重要ですよね。でも、野菜の摂り方にも、色々ありますよね。そして、もう、クリスマスという声が聞こえてくるのですね。もっとも、明日は11月ですものね。そんな時期になりましたが、今日は、「WABISABIYORI」をご紹介します。こちらで ↓ どうぞ。

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2008年10月30日

竹林寺の五重塔

 竹林寺参拝者用の駐車場からは、本坊の脇を通って行くことになりますが、左手に宝物館を見た先に山門(仁王門)があります。山門をくぐり参道を進みますと、数段の石段を登った右手に本堂が、左手に大師堂がありますが、そこから更に10数段の石段を登った、境内では最も高い所に五重塔が聳え建っています。
 昨日見ました故吉田実氏の書に再び眼を通しますと、五重塔は、以前に訪れた広島県福山市の「明王院形を範に採った」とあります。そして同書に拠りますと、五重塔は、昭和55年4月7日に上棟し、同年12月に竣工しましたが、「昭和五八年本堂こけら屋根葺替工事、昭和六〇年西参道修覆他境内景観整備工事の完成を待って、昭和六一年一一月三日五重塔落慶法要を奉修された」といいいます。
 五重塔は、こちらの写真を ↓ ご覧ください。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/39kouchi/chikurin5/chikurin5.html

 五重塔もさることながら、客殿(県文)の庭(県名勝)は、「室町時代・文保二年に土佐に巡錫し、五台山西麓に草庵を結んだ禅の高僧・夢想国師により作庭され、その後江戸中期に一部分が嵯峨流庭園として改められた」といい、京都の庭に迷い込んだかのような思いにさせられました。また、宝物館では、国重文の本尊の文殊菩薩像は「五十年に一度の開帳」ということで、その年回りの人しか見ることができませんが、竹林寺に「古くから伝わる藤原から鎌倉時代にかけての仏像十七体はすべて国重要文化財指定)を奉安する。その数は県下の国重文指定の仏像数の四分の一に相当する」という仏像を拝観することができます。以上は鍵括弧内は寺発行のパンフレットからの引用ですが、そのパンフレットに、「当山が文化財の宝庫といわれる所以である」とありますのは、あながち自慢話ではなく、こちらでは奈良の寺を訪れたような思いにさせられました。

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 さて、突然かつ全くの私事です。現在は年金だけが収入の細々とした生活ですが、現役時代は東急グループの某会社に30年勤続しました。そんなわけで今日は、東急ストアを、ご紹介させていただきます。




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2008年10月29日

高知県での2番目の塔のある寺へ

 高知県で2番目の層塔のある寺は、四国八十八ヵ所第31番札所の五台山竹林寺です。この寺は、四国八十八ヵ所の中で、善通寺と並び立つ大寺ですが、街中にある善通寺が庶民的な雰囲気に溢れているのに対し、こちらは五台山の山中にありますので荘厳な雰囲気に包まれています。
 この寺の五重塔については、故吉田実氏が、平成6年9月28八日発行の「史迹と美術」第648号に、「昭和の木造五重塔(四)」として詳細な研究成果を発表されていますので、以下、それを拾い読みさせていただくこととします。なお、私は平成7年と平成15年の2回、この寺を訪れています。

 真言宗智山派を奉じる五台山金色院竹林寺は、神亀元年(七二四)聖武天皇勅願により行基菩薩開創の縁起を伝え、江戸期には土佐藩主祈願寺として隆盛を見たが、明治新政府の神仏分離令と寺領の上地、加えて廃仏毀釈の強行策に際会して寺運は急激に衰退し、伽藍は荒廃の一途を?ることになった。漸く明治の中期、(中略)復興も緒に着いて、以後(中略)寺観は次第に旧に復した。当山は颱風の通り路と呼ばれるコースの高台にあり、強風に見舞われるのは毎年のことであったが、特に昭和四五年八月には颱風一〇号の直撃を受けて諸堂に壊滅的被害を受けるという悲運があった。しかし(中略)再興事業の熱意が実り、昭和五九年に迎える宗祖弘法大師一一五〇年御遠忌記念事業として、昭和五二年最終目標の五重塔建立発願に到達出来たのである。

 五重塔の工事を引き受けたのは、香川県三豊郡詫間町の富士建設株式会社社であったとのこですが、続けて次のように記されています。

 ……富士建設株式会社は一般建築の他、社寺建築にも熟達した技術を有する大手建設業者であったが仏塔建築の経験はなく、社長真鍋利光氏は一度は塔を建てて見度いとの念願で全国仏塔を巡拝し研究を続けて居られたが、この間に、京都で岩上政雄工匠にめぐり会い、更に岩上氏が副棟梁をつとめる志度寺五重塔工事が始まってからは足繁く参観に訪れたと思われ、こうして岩上政雄工匠とのコンビに繋げられたのであろう。

 更に同書を読み進めますと、「竹林寺の古絵図には三重塔が描かれているが明治二〇年頃倒壊したと伝える丈けで、今はその跡地がどこなのか確定出来ない」とあります。同書にその写しが掲載されている古絵図には、確かに三重塔の姿が見えます。
 一方、平成元年3月11日発行の中西亨先生の「続・塔の旅」には、次のように記されています。

 ……この竹林寺にもと塔のあったことを誌した本はみたことがないが、寺僧の話によると明治二十年にそれまで伝えられた三重塔が倒壊したという。今新しい塔から山道を三十メートルほど登った所に三重塔址という所があり、石垣が積まれている。その一辺二・五メートル位の広さの土地だが礎石は残っていない。何か建物があった址のようだが、塔だとするとずいぶん小さな塔だったことになるが……。

 塔跡も、その近くまで行けば訪れている私ですが、2度の訪れの両度とも、時間の都合で、そこまでは行けませんでした。

 さて、これで終わりではないのですが、長くなりますので、続きは明日にします。

☆       ☆       ☆

 
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2008年10月28日

今日も、少しだけ寄り道します

 五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、今日も少しだけですが寄り道します。
 平成5年10月1日の日経新聞の夕刊には、「『三十番札所』善楽寺に統一」という記事が掲載されました。その内容については、この旅日記としては関係ないことですので触れませんが、それまで、安楽寺との間で、札所としての本家争いがあったようです。未だ決着がついていなかった平成4年9月16日発行の「高知県の歴史散歩」では、安楽寺については記されていますが、善楽寺については何ら記述がありません。どちらの寺に見方するわけではありませんし、どちらに見方するかの根拠などの知識の持ち合わせもありませんが、この採り挙げ方は客観性に欠けるのではないでしょうか。
 私は、平成7年の四国行のときは、妙色山安楽寺(真言宗豊山派)を先に訪れましたが、善楽寺はとばしました。しかしながら、上のようなこととは全く関係なく、この寺には新しいものながら多宝塔があるからでした。この多宝塔は、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第3巻、多宝塔)によれば、「躯体をコンクリートでつくられ(中略)、昭和49年(1974)の建立」といいます。
 そして平成15年には、百々山善楽寺(真言宗豊山派)を訪れました。その善楽寺には見るべきものはありませんでしたが、隣接してある土佐神社は、長宗我部元親が、元亀2年(1571)年に本殿・幣殿・拝殿(ともに国重文)を完成したといいます。そして、参道入口の楼門も国重文に指定されており、立派で雰囲気の良い神社でありました。

☆       ☆       ☆

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2008年10月27日

昨日は余談で、今日は寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅ながら、今日もまた寄り道です。
 平成15年に時を進めることになりますが、大日寺を後にした私は、取り敢えず土佐電鉄の御免駅を目指しました。「ごめん」とは読みますが、面白い名ですね。どんな地名由来があるのでしょうか、それはともかくとして、私がそこから目指しましたのは第19番札所の摩尼山国分寺(真言宗智山派)です。この寺は、平成7年にも訪れていますが、この寺には塔の心礎といわれる礎石が遺っているからです。
 その礎石は、庭園の庭石として縦に置かれていますので、塔の心礎らしく見えませんが、それについて「高知県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 ……書院の庭内には塔の心礎と伝えられる礎石がある。心礎柱座から掘られた排水溝をもつ凹枘凹座心礎と呼ばれるもので、阿波国分寺の心礎と共通した部分もある。国分寺はふつう七重の塔が原則であるが、土佐の場合この心礎から推して三重の塔が考えられる。

 しかし、「日本の木造塔跡」には、次のように記されています。

 ……大きさは一・二メートル×一・〇四メートル、高さ(厚み)七〇センチで、直径七〇センチ、深さ六センチの穴があり、その中央に直径二〇センチ、深さ六センチの舎利孔がある。岡本健児氏はこの孔は比江廃寺の舎利孔より大きいので枘穴であり、この心礎は土佐国分寺のものであろうと推定されており、『南国市史』でも同様、比江廃寺及び阿波国分寺心礎との比較から枘穴とされている。しかし孔が枘穴であるか舎利孔であるかは、近隣の心礎との比較だけでなく全国的視野で捉うべきものである。穴の中央の孔を舎利孔でなく枘穴と見る様式(幡多廃寺式)はいずれも穴が極めて浅く、中央の孔の径は穴の径の半分以下であって三〇センチ内外となっているが、この心礎の穴の深さは六センチもあり、中央の孔も舎利孔として標準的な規模であるからこれは明らかに枘穴でなく舎利孔である。したがってこの心礎は国分寺のものではなく比江廃寺と大体同じ頃の白鳳期の寺の心礎で、国分寺の造庭に当り持ち込まれたものであろう。これが土佐国分寺の心礎と伝えられていたとすると、(中略)当初の国分寺焼失後この心礎のあった寺が一時国分寺となっていたことはあり得ることである。 

 さて、国分寺の北東わずかな距離のところに、紀貫之邸跡と伝えられる所がありますが、そこから東へ400mほどの所に比江(ひえ)廃寺塔跡(国史跡)があります。その比江廃寺跡について、「高知県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 ……土佐最古の白鳳時代の寺院跡であり、その礎石は藩政期に近くを流れる国分川の改修に利用され、現在は塔の心礎だけが残っている。その心礎は最長3・24m、幅の最長は2・21mで心柱の径は81p、そのなかに径15p・深さ12pの円形の舎利(しゃり)を入れる孔がある。この心礎から比江廃寺跡の塔を推定すれば、この期の塔は心柱の約40倍とされているところから、32・4mの高さの塔が考えられ、現在の法隆寺の塔に近いものとなる。伽藍配置は古瓦の出土状況や塔の位置から法隆寺式伽藍配置が考えられ、出土の鐙瓦(あぶみがわら)にも法隆寺の複弁おやゆびサイン華文(ふくべんれんげもん)がみられ、軒瓦に忍冬唐草文(にんどうからくさもん)もある。
 寺の建立年代や名称などは明らかではないが、寺域内の字名に「アマシャカウチ」というのがあり、尼寺ヵ内のことではないかとし、土佐国分尼寺として代用された可能性も強い寺ではなかったかとする学者もいる。(ルビは括弧で表記)

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2008年10月26日

ここらで一休み

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、ここらで一休みといった恰好で、全く関係ないことを書きます。
 ところで、私は美空ひばりの大ファンですが、美空ひばりは、この辺りで大変な事故に遭遇しています。故國見辰雄氏は、この五重塔を平成7年に訪れられたようでありますが、医者であった氏は、その貯「塔をゆく」(第1巻、五重塔)で、次のように記されています。

 ……このあたり町村合併までは大杉村といった。町の中心から少し南の八坂神社の境内に日本一の巨木といわれる3千年の年輪を刻む大杉が60メートルの高さを誇っていて、これが旧村名の由来ともなっている。(中略)
 八坂神社の少し手前に平成5年5月に建てられた美空ひばりの歌碑がある。それにはつぎのようないわれがある。昭和22年(1947)4月28日、(中略)国道139号線の下りカーブで1台のバスが転落した。車掌は即死、乗客のうち井口静波、音丸のコンビと共同巡業中の美空和枝(当時9才)は左新幹線骨部を損傷し、すぐ近くの上村診療所の斉藤医師が治療して漸く意識が恢復し、のち、高知市の宮本病院に移り前後1か月半入院した。
 ところで、普通アルコホリックの死亡時平均年齢は52才といわれている。彼女ものちに国民的英雄となったが、肝硬変と大腿骨頭壊死というアルコール依存症の2大疾患に侵かされて、今から6年前に52才で亡くなった。

 この話は、前に見ました早坂暁著「遍路国往還記」にも詳しく記されていますが、その中で、「九死に一生を得た和枝は、事故現場の近くにある大杉に祈りたいことがあると言った」とあります。そして、「和枝はこの神木の大杉に向かって、『私も、あなたに負けないような日本一の歌手になりますから、どうか守って下さい』と祈った。間違いなく、加藤和枝は美空ひばりと名乗って日本一の歌手となったのだ」ともあります。

☆       ☆       ☆

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2008年10月25日

高知県での一番目の塔のある所へ

 平成15年の四国行のときですが、吉良川町を後にした私は、第28番札所の法界山大日寺(だいにちじ)へ向かいました。この寺には、国重文の本尊木造大日如来坐像や木像聖観音立像があるといいますが、拝観できるのかどうか、行ってみるまでは判りませんでした。「高知県の歴史散歩」には、「野市の町筋から北へ、龍河洞への道を2qほど行くと、右手の山の中腹に四国霊場第28番の大日寺(真言宗)がある。小型車なら門前の駐車場まで上ることができる」とありますが、平成7年のときは、普通車のマイカーであったからというわけではありませんものの、大日寺をとばして、そのすぐ先にある龍河洞を訪れました。同書には、「龍河洞(国史跡)は、山口県の秋芳洞、大分県の風連洞とともに日本の三大洞穴といわれる巨大な鍾乳洞で、総延長4qのコースは変化に富み、上から下がる鍾乳石と下からのびる石筍がさまざまな姿態で洞内を飾っている」(ルビ省略)とありますが、まさに秋芳洞と優劣を付け難い鍾乳洞でありました。ところで、大日寺ですが、平成15年の旅では訪れましたが、上に記した仏像を拝観することはできませんでした。
 さて、高知県に入ってからは、多宝塔1基は見ましたものの、四国八十八ヵ所札所や、古い町並み、そして鍾乳洞と、塔には関係のない所を巡ってきましたが、高知県の第1番目の層塔は、長岡郡大豊町の資産家の墓園ともいうべき堂ヶ峯園にあります。
 この墓園に建てられた五重塔に関する最初の情報は、故吉田実氏からの平成4年12月25日付のお手紙でありましたが、そのお手紙には、次のように記されていました。

 金花舎、三菱商事GR工法、海住山寺型五重塔が10月18日、高知県長岡郡大豊町(土讃線角茂谷駅)の山奥に完成しました。久里浜霊園、松戸、本土寺の姉妹塔ということになりますか。木造ではないので私の対象外ですが、瑠璃光寺版全国の五重塔の次の改訂版用に取材の都合もあり、明春参詣して来る心算です。但し、塔を建設したのは山口県宇部市に本拠を置く吉永企業グループの事業主吉永浩三氏で、故郷大豊町の町起こし事業にと造営したものです。大豊堂ヶ峯園といヽ老人向け福祉と研修施設に露天風呂付ということで、宗教法人では無さそうですが、詳しいことは明年参詣の上で又御報せします。(氏の勘違いと想われる地名について一ヵ所訂正しました)

 しかし、故吉田氏は、その頃ご多忙であったのでしょう、行かれたとのお報せはありませんでした。私も行く機会を得ぬまま月日が過ぎていきましたが、あの忌まわしい阪神・淡路大震災が発生し、その頃、明石市にお住まいであった氏は、それどころではなくなってしまわれたのであります。
 さて、時を確認しますと、平成7年5月1日のことになりますが、私は、国道32号線へ出て、今は三好市となっています旧池田町方面へ車を駆しらせました。 生憎なことに、風雨が激しい日でした。根曳峠を越え、角茂谷(かくもだに)駅も近くなったと想われる馬瀬という集落に入りますと、前方右手の小高い所に朱色も鮮やかな五重塔が見えました。
 国道の脇にあった店で道を尋ね、国道から右に折れ小さな橋を渡った先、そこが入口と想われる所に車を駐め、折から風雨が更に激しくなったなか、参道(?)を登りました。途中にゲートがありましたが、人影はなく、幸い施錠はされていませんでしたので、閂を外し扉を開け奥へ進みました。登り切った所に、小さなワゴン車が一台駐まっていて警備員がいました。拝観を拒否されるかと思いましたが、許されました。
 まず門のような建造物があり、そこには「吉永家累代之霊域」とありました。いわば一個人、一家族の霊域であり、故吉田氏のお手紙にあったような町興しのための施設とは思われませんでした。警備員の話によれば、五重塔には、吉永家累代の位牌が納められており、塔の左隣りの法隆寺の夢殿風の建物には、観音像だか阿弥陀像だかが安置されているとのことでありました。それらの建物は、いずれも金花舎が販売していたものです。今、私は「販売していた」と過去形で書きましたが、同社は、その後、経営に破綻をきたし、他の大手企業が引き受けましたが、その会社にあっても、うまくいかなかったようです。
 それはともかく、この他にも、法事でも行うときのためと想われます会館風の建物もあり、土地代は別として、建物だけでも10数億になるのではないかと想われました。また、3人3交代で24時間の常駐警備体制で警備しているとのことでしたが、その警備料だけでも相当な金額
になるでしょう。近くに民家はあるものの、気の利いた食堂はなく、また現場を離れるわけにはいかないので、警備員は弁当持参で車の中で食事を摂ったり仮眠したりするとのことでありましたが、世の中には、私など思いも及ばないことを考え、実行する人もいるものだというのが、その時の実感でした。
 ともあれ、私のように、層塔ならば総て、という物好きな人間でない限り、わざわざ訪れるまでもない塔です。

☆       ☆       ☆

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餃子

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2008年10月24日

高知県に入ったものの、まだ寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅なのか、四国八十八ヵ所をめぐる旅なのか解らないほどですが、お付き合いください。
 時を確認しますと、平成15年4月28日のことになりますが、国民宿舎「むろと」を出発した私は、室戸スカイラインを降りて、平成7年のときにはとばした第25番札所の宝珠山津照寺(しんしょうじ、真言宗豊山派)を訪れました。急な石段を息を弾ませての訪れでありましたが、見るべきものはありませんでした。
 津照寺を後にした私は、「高知県の歴史散歩」に、「ウミガメの産卵地で知られる元海岸から行当(ぎょうど)岬の山上へ2qほど上ると標高160mの景勝地に」(ルビは括弧で表記)ある、と記されています第26番札所の龍頭山金剛頂寺(こんごうちょうじ、真言宗豊山派)へ向かいました。この寺へは平成7年にも訪れていますが、再訪したのです。上の書に拠りますと、この寺には、県下最古という銅像観音菩薩立像(国重文)や木造阿弥陀如来坐像(国重文)、そして朝鮮鐘(国重文)などがあるようですが、私は2度の訪れの時も時間の余裕がないまま、その拝観は省略してしまいました。
 金剛頂寺を辞した私は、国道55線を北西に向かいましたが、行当岬の少し先で、私は思いがけなくも、素晴らしい町並み散策をすることができました。
 国道を駆しっていて、左手の海岸の方に眼をやりますと、なにやら看板が立てられていました。私は後続車を確認したうえでブレーキを踏み道路脇に車を駐め、その看板まで行ってみました。その看板は、室戸市教育委員会によって立てられたもので、「吉良川の町なみ」と大書されており、「室戸市吉良川町重要伝統的建造物群保存地区」ともありました。その看板に拠りますと、平成9年10月31日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたとのことであり、平成7年の旅の時は、まだ選定されていなかったのです。その古い町並みは、国道から一筋、山側に入った所にあります。この旅日記の目的からは逸れますので多くは書きませんが、町並みの中にある「町並み館」で貰った「土佐東方見聞録 散策マップ―白壁と水切り瓦の町―吉良川編」には、「吉良川の歴史」として、「吉良川の主要な産品には近世から木炭と薪があり、特に明治期から昭和初期にかけて、良質の木炭の集積の地として繁栄しました。吉良川の伝統的建造物群の多数がこの時期に建築されており、現在の吉良川町の町並みは近代の経済的繁栄を背景に形成されました」と記されています。
 そして、吉良川町の集落は下町地区と上町地区で構成されているといいますが、「下町地区には旧土佐街道の両側に切妻造りの町家が建ち並び、強い風雨から土佐漆喰の壁面を守る水切り瓦が美しい伝統的建築の町並み」が、「上町地区では、江戸時代中期頃の方形に近い農家型の地割りで、周囲にいしぐろを巡らせ、上町地区の景観を特徴あるもの」にしているとあります。「いしぐろ」とは、河原や海岸で採れる一抱えほどの石で、それを積み上げた石垣塀です。その他にもいろいろあり、なかなかユニークな町並みなので、この辺りまで来られたら、立ち寄られることを、お奨めしたい。
 その後、私はスケジュールどおり第27番札所の竹林山神峯寺(こうのみねじ真言宗豊山派)を訪れましたが、建物など見るべきものはありませんでした。しかし、シャクナゲの花などが見られ、雰囲気の良い寺でありました。
 私は更に車を北西に向けましたが、平成7年のときは、途中にある安芸市の中心部で北に道を採り、JTB刊「町並み細見・西日本」に「土居廓中と呼ばれる水田の中の武家屋敷は野趣あふれる土用竹の生垣をめぐらせている 野良時計がのんびりと、時を刻む」と紹介されています町並みを散策しました。同書には、「この町並みは戦国時代、地元の豪族・安芸氏の居城跡で、防備のために城や侍屋敷の周囲を土塁(土居)で囲み、土居廓中と呼ばれた」とあります。これまた、この旅日記の目的からは逸れますので多くは書きませんが、遍路の途次、疲れた体を癒すにはもってこいの所で、脚を延ばすことをお奨めしたい所です。特に野良時計は、印象に残る光景でありました。

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2008年10月23日

いよいよ土佐国、高知県に入ります

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、ようやく昔の土佐国、現在の高知県へ入ります。
 四国に入りました最初の日に、古事記の国生み神話を見ました。すなわち、四国は「身一つにして面四つあり」ということです。このことについて、森浩一先生は「古代史津々浦々」の中で、次のように記されています。

 これは重要な点で、現代人は、四国というのはこんな形だということを地図によって子供のときから知っているが、古代人はそれを知るわけがない。たとえば瀬戸内海をずっと船でいくような古代人でも、四国全体の形を知らない。太平洋側だけを通っている人でも、四国の形が身一つで面四つという地形上の認識は生まれない。
 このことから考えると、お遍路さんの道が陸路で四国を一周しているが、それは空海の遺徳をしのんで空海ゆかりの地を歩く、ということでその道ができたのではなく、『古事記』や『日本書紀』ができる前、つまり古墳時代頃にも、今日の遍路道のようなところを回る習慣とか経験があったと推定されている。(中略)
 ……宮中で大きな儀式をするときは、日本列島の四隅の土地の名を祈りのなかでいうことが、平安時代の『延喜式』に載っている。日本列島の四隅というのは、東は陸奥、北は佐渡、西は五島列島、南は土佐であり、平安時代の前期には土佐は日本の四隅の一つだったという認識があった。土佐というのは、このような土地なのである。(ルビ省略)

 ところで、四国八十八ヵ所の行程としてみますと、前にも見た「四国八十八所遍路」に拠れば、第23番札所の薬王寺から、第24番札所の室戸山最御崎寺(ほつみさきじ、真言宗豊山派)へは77キロとのことでありますが、歩き遍路の場合、南阿波サンラインを通らないかぎり、果てしなく続くかのような、そして車が行き交う国道55号線を、ただひたすら歩き続けなければなりません。もちろん1日では無理で、人によって異なるでしょうが、3〜5日の行程ではないでしょうか。私も、海に沿った防波堤が続く左手の道を、一人、あるいは二人、三人と連れだって黙々と歩くお遍路さんの姿を何回か見かけました。
 さて、車でありました私は、薬王寺から1時間ほどで室戸岬に着き、平成7年の旅では、空海が青年時代に修行したと伝えられます御厨人窟(みくろど)などを見学しました。そして、室戸スカイラインに入り、右手にある駐車場に車を入れ、横手から入る恰好で、最御崎寺の境内に入りました。といいますのも、バス停の所から石段を登るには、20分ほどかかるとのことでありましたので、楽な参詣路を選んだのです。この寺には多宝塔がありますが、中西亨先生の「続・塔の旅」には、「東
寺とよばれる二十四番最御崎寺と二十六番の西寺金剛頂寺には、明治まで共に多宝塔があったようだが、何しろ室戸岬という台風銀座の地にあったため潮風にいたみつけられ、共にその姿を消してしまっていた。近年そのうち最御崎寺の方に多宝塔が再興された」とあります。
 平成15年の旅のことに話を進めますが、最御崎寺の少し先、室戸スカイラインの道沿いにあります、「果てしなく広がる太平洋を望む亜熱帯の高台の宿」、国民宿舎「むろと」に宿を求めました。

☆       ☆       ☆

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2008年10月22日

今日も徳島県内をウロウロ

 五重塔、三重塔をめぐる旅でありながら、四国に入ってからは、四国八十八ヵ所めぐりもしたりして、とかく寄り道が多く、まだ徳島県内です。
 平成15年の旅では、太龍寺を後にした私は、ロープウェイで道の駅まで戻り、第22番札所へ向かったのですが、この旅日記では一時、平成7年の旅のことに時を戻すこととします。
 第19番札所の立江寺を辞した後、国道55号線で阿南市へ向かい、津峯スカイラインに入って、「阿波松島の橘湾越しに紀伊山地まで望む津峯山麓の宿」、国民宿舎「津峯(つのみね)荘」に、旅の3日目となる4月28日の宿を求めました。宿舎からの眺めは、上にあるとおりの素晴らしいものでありました。
 翌29日、スカイラインを下り、国道55線を少し戻る恰好になりましたが、市内の宝田(たからだ)町立善寺にある隆禅寺を訪れました。といいますのも、「徳島県の歴史散歩」に、「境内には直径35p・深さ14pの穴をもつ塔の心礎が残され、また出土した古瓦は(中略)白鳳(はくほう)時代古瓦の特徴をよくあらわしていて、この寺の創建年代は、白鳳時代後期と推定され」(ルビは括弧で表記。以下、同書からの引用文について同じ)、とあったからです。しかし、心礎はお堂の中にあって、眼にすることはできませんでした。
 さて、第22番札所の白水山平等寺(びょうどうじ、高野山真言宗)ですが、この寺には取り立てて見るべきものはありませんでしたので、ざっと境内を見て廻っただけで、国道55線に出て次の目的地へ向かいました。
 第23番札所の医王山薬王寺(やくおうじ、高野山真言宗)ですが、上の書には、「仁王門をくぐると31段の女厄坂(おんなやくざか)、42段の男厄坂があり、各段ごとに薬師本願経の一字一石経を埋めてあるので、賽銭(さいせん)を一つずつ供えて厄流しをする風習がある」とあり、私が訪れた時も1円玉を主とした賽銭が、石段に敷き詰めるようにして置かれていて、雨模様でありましたので、滑らないよう気をつけねなりませんでした。
 そして同書には、「本堂からさらに上に61段の男女厄坂を上りつめると瑜ボート(船)(ゆぎ)塔がある。瑜ボート(船)塔は、1965(昭和40)年に高野山開創1100年を記念して建立ざれたもので、真言宗の経典でもある瑜ボート(船)経の教理を表現したものである。その意義は、世の中のものはすべて二つの相対したものからできているが、それが一つになることによって初めて真の平和と幸福が得られるというものである」とあります。ちょっと変わった形態ですので、こちらの写真を ↓ ご覧ください。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2002toba/yakuo_y3.jpg

 平成15年の四国行のときは、薬王寺を後にした私は、国道55号線を一気に南下し、室戸岬まで車を進めましたが、平成7年のときは、南阿波サンラインを経由して国道55号線に出て、その日の宿を、「緑の小島が浮かぶ水床湾に突き出た金ガ崎台上に立つ」、国民宿舎「みとこ荘」に求めました。ここは穴喰(ししくい)という変わった名の温泉地であり、水床(みとこ)湾の風景と温泉を堪能したのでした。

☆       ☆       ☆

 さて、今日は国民宿舎を二つご紹介した恰好にもなりましたが、今でもありますかどうか。最近は、閉鎖された所も幾つかありますので。国民宿舎はどうも、と敬遠される方は、こちらの ↓ 「旅ツウ」などは、如何でしょうか。私は一人旅が多いのですが、一人旅特集などもあるようです。

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2008年10月21日

次は高知県へ向かうのですが

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、次は高知県へとなるのですが、例によって何ヵ所か寄り道をします。そして今日は、まだ徳島県での寄り道です。

 時を再確認しますと平成15年4月27日のことになりますが、鶴林寺を後にした私は鶴峠まで戻り、そこから下って県道19号線へ出ました。鶴峠から県道までの道は、私が最初に鶴林寺を訪れた前年の平成6年に開通したばかりでありました。この道がなかった頃であれば、いったん小松島市域まで戻り、那賀川沿いの道を30キロ近く遠回りしなければならなかったはずです。
 県道を下りますと15分ほどで道の駅「わしの里」に着きますが、駐車場へ車を入れ、第21番の舎心山太龍寺(たいりゅうじ、高野山真言宗)を訪れるべく、道の駅にある太龍寺ロープウェイの駅へ向かいました。平成7年の旅では、天候の具合が悪く高い料金(往復2400円)を払って昇っても仕方がなくカットした寺でありましたが、この度は、どうであれ昇らねば、四国八十八ヵ所を制覇したことになりません。幸いにも天候には恵まれ、眺望を楽しむことができました。
 このロープウェイは、平成4年に開通しました。運賃は高いが、60歳を過ぎていた私が太龍寺を訪れるには、なくてはならないものでありました。「徳島県の歴史散歩」に拠れば、「JR高徳線徳島駅バス川口行阿瀬比下車1時間30分」とあり、更に「阿瀬比バス停から約3・5q、6合目あたりまで車道が通じているが、そこからは徒歩で登山路を1・3qほど」登らねばならないのである。なお、平成5年3月4日付の日本経済新聞の「名所新景」と題したシリーズ記事で太龍寺ロープウェイが紹介されましたが、「JR徳島駅から桑野駅経由の徳島バス・丹生谷線で『鷲敷町東』下車。また桑野駅からはタクシーで十五分」とあります。
 この寺には本堂の右奥に多宝塔がありますが、中西亨先生の「総鑑」には、「ここは近年まで三重塔と多宝塔を持った唯一の寺であったが、破損の著しくなった三重塔を興願寺に譲ったため今は多宝塔のみを有する」とあります。
 その多宝塔について同書には、「江戸末の文久三年(一八六三)のもので大型の立派なものである」とあり、「三重塔とそろっていたらもっとすばらしいのにと残念な気がする」と記されています。
 ところで、高群逸枝が遍路の旅をした大正7年当時は、まだ、三重塔が建っていたのです。「お遍路」には、次のように記されています。

 平安朝期のいわゆる山林仏教の典型をなす道場であって、雲に聳ゆる堂塔伽藍の静かな華麗さ。
 現存の主なる堂塔は、仁王門、六角経堂、護摩堂、方丈、庫裡、鐘楼、三重塔、多宝塔、大師堂、中興堂、多聞堂、十王堂、金堂、鎮守堂、求聞持堂などで、それらが山また山の眺望をほしいままにする各位置に布置されている。

☆       ☆       ☆

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2008年10月20日

四国で最初に訪れる古塔

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅も、ようやく古塔のある寺へ、ということになります。
 平成15年4月27日、第19番札所の立江寺を辞した私は、県道28号線、22号線、そして勝浦川沿いの県道16号線を辿り、勝浦町役場に至る手前、道路地図に「生名(いくな)」という地名が見える辺りで、標識に従い左折して、朱鷺書房刊「四国八十八所遍路」(徳島・高知編)では、山号の訓みを「りょうじゅざん」としている霊鷲山鶴林寺(かくりんじ、高野山真言宗)とある第二十番札所への山道にとりつき、鶴峠を目指しました。「徳島県の歴史散歩」には、「JR高徳線徳島駅バス勝浦線生名下車1時間30分」とあったうえ、「バスを降りてすぐ南側に入る道が、四国霊場第20番札所鶴林寺(真言宗)の表参道である。麓の生名から標高550mの山頂までのこの道は、急傾斜の山道が3q余りあって、四国霊場のなかでも名高い難所である」とありますが、S字カーブが連続する急勾配の山道でした。
 さて、鶴林寺へは鶴峠から右へ入ることになりますが、この寺の名の由来などについて、同書には、次のように記されています。

 寺伝によれば798(延暦17)年、弘法大師が寺を開き修行中、老杉の梢(こずえ)に雌雄2羽の鶴に守られた黄金の地蔵菩薩を発見し、喜んで木彫りの地蔵菩薩を刻み、その胎内に黄金の菩薩を納め本尊としたので、寺名を霊鷲山(れいじゅうざん)鶴林寺としたという。2世真然(しんねん)僧正が七堂伽藍(がらん)を完成し、代々の天皇の尊信も厚く、三好(みよし)氏・蜂須賀(はちすか)氏らも寺を保護したといわれる。(ルビは括弧で表記)

 次いで、同書を見ると、次のように記さています。

 運慶作と伝えられる仁王像のある山門を入ると、すぐ右手に1861(文久元)年建立の六角堂がある。(中略)少し入って石段を右に上ると、1604(慶長9)年再建の本堂がある。ここに本尊の木造地蔵菩薩立像(国重文)が安置されている。(中略)
 本堂右に1822(文政5)年に建てられた美しい三重塔(県文化)がある。五智如来が安置された、県内で代表的な三重塔である。

 三重塔の建造年に関連して、中西亨先生の「続・塔の旅」には、「この塔には初層の勾欄に十二個のギボシがつき、そのうち十一個に銘文が刻まれている」とあり、「少しみてみると」として、「一番古いのが文化十四年(一八一七)、一番新しいのが文政三年(一八二〇)だからこの間に寄進が集ったのであろう」と記されています。

 三重塔については、こちらの写真を ↓ ご覧ください。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2002toba/awa_kaku1.jpg

 ところで、司馬[]太郎は、高群逸枝の「娘巡礼記」について「街道をゆく」(阿波紀行)の中で、次のように記しています。

 彼女はまだ無名の娘であった大正七年(一九一八)、ひとり熊本を出て遍路をした。約半年、八十八か所の山野を歩いたのだが、その間のことを『九州日日新聞』(現・『熊本日日新聞』)に寄稿した。百五回にわたる『娘巡礼記』がそれである。

 高群逸枝は、その「娘巡礼記」とは別に「お遍路」という書も著していますが、これは「当時の納経や備忘録を今度国元から取り寄せて新しく綴ったもの」(同書の著者「はしがき」)といいます。そんなことであったためでしょうか、同書では、鶴林寺について、「仁王門、六角堂、十王堂、護摩堂、本堂、二重塔、大師堂などが立ち並び宏壮な構えである」と記していますが、書くまでもなく、「二重塔」とありますのは「三重塔」の誤記、ないしは、どこかの多宝塔と取り違えているのかもしれません。岩波文庫「娘巡礼記」の解説には、高群逸枝は「女性史の開拓者として知られる」とありますが、高群逸枝については、「お遍路」を書店で眼にするまで、私は全く知りませんでした。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月19日

mada まだ寄り道なのですが

 五重塔、三重塔をめぐる旅にも拘わらず、まだ寄り道の旅です。

 改めて時を確認すると、平成15年4月27日のことになりますが、徳島のホテルを出た私は、国道438号線で西へ向かいました。そし、て、前日に道を間違えて行ってしまった神山町の中心部を過ぎた先で標識に従い道を右に採り、県道43号線に入って、第12番の摩廬山焼山寺(しょうざんじ、高野山真言宗)を目指しました。「徳島の歴史散歩」には、この寺は、「美しい自然に恵まれた山寺で、樹齢300年と推定される山門の杉並木や、参道に藤の群生地(ともに県天然)」があるとあり、境内は心和む聖地ともいうべき所ではありましたが、これといって見るべき特別なものはありませんでした。
 焼山寺を辞した私は、40キロ近く道を戻って右折し県道18号線に入り、更に県道33号、136号線を辿って、第18番札所へ向かいました。
 ここで、また時は遡りますが、平成7年の旅では、瑞巌寺から第19番札所へ直行したのですが、その途中、徳島市丈六町丈領にある丈六寺(じょうろくじ、曹洞宗)を訪れました。この寺は、第18番札所への道筋とも言うべき所にありますので、参詣をお奨めしたい寺であります。三門、観音堂、本堂は国の重要文化財に指定されています。
 時は目まぐるしく平成15年4月27日に戻りますが、第18番札所の母養山恩山寺(高野山真言宗)へ至りました。しかし、この寺も、これといって見るべきものはありませんでした。ただ、石造物には面白いものが見られ、新しいものながら、石造の三重塔がありました。
 次いで、第19番の橋池山立江寺(たつえじ、高野山真言宗)を訪れましたが、この寺は、この時が二度目でありました。というのも、この寺には大正7年(1918)建立という多宝塔があるからでした。「徳島県の歴史散歩」には、この寺は、「四国霊場の
うち四つある関所の一つで、罪人や邪心をもった者は、ここで必ず大師のおとがめをうけるといわれている」とありますが、ろくすっぽ手も合わせない私など咎めを受けること必定でありましょう。
 さて次は、四国八十八ヵ所の札所で初めて層塔に出会う鶴林寺でありますが、この札所について、司馬[]太郎は「街道をゆく」(阿波紀行)の中で、次のように記しています。

 私どもはこの旅で、札所といえば、第一番の霊山寺に詣ったきりである。
 おなじ寺でも、札所の寺は、ちょっとちがう。奈良や京都の古寺なら、なるべく境内に小さな建造物をたてることをひかえ、創建当時の閑寂な空間を保とうと努めている。これに対しお四国≠フ札所の寺は、お遍路さんの信心の脂(あぶら)でぬれているように思われる。
 この霊山寺の境内も、視野のなかにさまざまなものが自己主張していて、目をやすませてくれないのである。(中略)マンガの小僧を描いた看板まで立っている。お遍路さんのための納経所の場所を看板の小僧さんが、指でさし示しているのである。(ルビは括弧で表記)

 そして同書には、阿波へ来るに際し、「人はなぜ遍路に出るのかということを知り」たく、高群逸枝(たかむれいつえ)の「娘巡礼記」を改めて読んだとありますが、「結局、人の動機などそれぞれである」らしいということを知っただけであったようです。そして司馬[]太郎は、「ともかくも私には、遍路がわかりにくい」と記しています。私は何となく解りますが、かといって歩き遍路までするつもりはありません。

☆       ☆       ☆

 生活感覚の上では、まだ土曜日なのですが、時計の上では日にちが変わってしまいました。どうも土曜日はバタバタしてしまうことが多いので、これまで土曜日の定番としていました、こちらは ↓ 今後、日曜日の定番とします。

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2008年10月17日

またまた寄り道ですが

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅も、やっと塔のある寺を訪れたわけですが、またまた、何ヵ所か寄り道をします。

 瑞巌寺を最初に訪れた平成7年の旅では、眉山パークウェイで眉山山頂まで行く予定であったのですが、生憎の雨で、それは諦め南へ向かいました。しかし、平成15年の旅では天候もよく、前日(4月25日)に行くことができました。眼下に徳島市が展がり、紀伊水道も望むことができ、眉山公園は、ツツジが真っ盛りでありました。
 そして、瑞巌寺を再訪した時はホテルがすぐ近くでありましたので、車は置いて歩いて行ったのですが、その後、更に歩みを進めて、ロープウェイ発着場の近くにある潮音寺を訪れました。目的は、この寺にあるモラエス・小春夫婦の墓とおヨネの墓を見ることでありました。日本を愛したということでは、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが有名ですが、モラエスは、ハーン以上に日本を愛したと思われるにも拘わらず余り知られていませんので、私の旅の目的とは全く関係ないものの、せめて、その墓なりとも見ておこうと思ったのです。
 早坂暁著「遍路国往還記」には、次のように記されています。

   モラエスは阿波の辺土に死ぬるまで日本を恋ひぬ、かなしきまでに  吉井勇
 詩人のヴェンセスラシオ・デ・モラエスが、ポルトガル日本総領事の職を返上し、神戸から徳島の中州港に着いたのは、大正二年(一九一三)七月四日の早朝である。(中略)すでにモラエスは六十歳になっている。
 ――もうポルトガルには帰らない。徳島で死のう。死んで徳島の土になろう。(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)

 同書には、モラエスは、「すぐに市内の眉山麓にある潮音寺に向かった」が、そこには「福本ヨネの真新しい墓が出来上がっていた。法喜蓮照信女、行年三十八歳と刻まれてある」とあり、続けて次のように記されています。

 ヨネは徳島から出てきて大坂松島遊廓の芸者となったが、来日間もないモラエスに見染められて、結婚した。モラエスは美しい大きな眼と、美しい小さな手を持ったヨネを深く愛したけれど、心臓の悪かったヨネは、十三年目で死んでしまったのだ。
 モラエスは伊賀町にある四軒長屋の南端の家を借りた。書斎にした二階からは窓いっぱいに眉山が見え、かねて憧れていた「方丈記」や「徒然草」の隠遁生活をはじめた。

 続けて同書を見ますと、「ヨネの姪になる小春が一緒に住むようになった」が、「モラエスにとって孤独を慰めてくれるのは、小春ただ一人である。しかし、その小春も血を吐いて倒れた。肺結核で、あっという間に二十三歳の若さで死んでしまう。今度こそモラエスは、たった一人になった」とあります。そして、「昭和四年(一九二九)七月一日の夜、モラエスは(中略)、息が絶えた。七十六歳だった」とあります。
 そのモラエスは、その著「徳島の盆踊り」の中で、次のように記しています。

 徳島の巡礼、ここで呼ぶところの「お・へんどさん」、高貴な巡礼さんについて少々述べる。
 四国遍路と言う方がよいであろう。徳島市、徳島全県、四国の大島を構成している他の県いずれもが、はるか往昔以来、すべての日本人に篤く信仰されているいくつかの寺院のあることで、よく知られている。四国の島は非常に山が多い。険しい山をよじ登り、急峻な渓谷を下り、寺から寺へ徒歩でそれらの寺院を訪れ、さまざまな危険やさまざまな疲労に身をさらすことは、称賛に値いする行為となり、多くの信者がそれを行なっている。(中略)
 ……彼らの服装は変わっている。短かい着物をまとい、大きな藁帽子をかぶり、脚絆をつけ、旅人のサンダル〔わらじ〕をはいている。雨が降ると、背中を油紙でおおう。自分の名前や他の文言を書いた札を胸から下げている。杖をつく。それぞれ、四ヵ月ほどの旅に必要なすべての衣類を入れたリュックサックのようなものを背負っている。

 さて、次の目的地へ急ぎたいと思いますが、これから先は、上にあるとおり、険しい山を登り急峻な渓谷を下る道になります。しかし、書くまでもなく、私は車での旅でありました。

☆       ☆       ☆

 さて、これで何度目になりましょうか。私は見ませんでしたし、そんな番組があるのも知りませんでしたが、昨日の「めざましテレビ」で、わさびの化粧品が、花粉対策グッズとして紹介されたようです。こちらで ↓ 探してみて下さい。


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2008年10月16日

ようやく塔のある寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅も、長々と寄り道をしましたが、ようやく塔のある寺へ辿り着きます。

 瀬戸内晴美は、その自伝小説「いずこより」の中で、次のように記しています。

 眉山という優しい名前の山は、文字通り、女の眉のような、なだらかな弧を描く稜線を持っていた。四国山脈の東の端にあたり、その山の麓をめぐって、帯のような細長い町が紀淡海峡に面していた。傾城阿波鳴門のお弓とお鶴の物語や阿波踊りで知られている徳島の町だった。町の真中を青い帯締のように一筋の川が飾っていた。(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)

 そして、その河口は小さな港になっていたといいますが、出家して寂聴となった瀬戸内晴美は、その河港のある町で、小さな指物商の家に生まれ育ち、小学校へ入学する直前に、眉山の山裾の大工町に移転したといいます。

 ……新しい家の二階からは、眉山が指呼の間に横わっていた。山の樹々の一本一本が、風に揺れ、梢の葉がきらきら輝いたり陽にかげったりする表情まで、読みとれるくらいだった。山懐にある新町尋常小学校は、私の家からは、二分もかからなかった。

 今は新町小学校となっている学校と道を一つ隔て、すぐ先にある瑞巌寺(臨済宗妙心寺派)に、三重塔が建てられたという情報を最初にいただいたのは、何方からであったか失礼ながら忘却してしまったのですが、その情報を故吉田実氏にお伝えしたところ、さっそく現地に行かれ、平成3年3月15付にて、ご丁重なお手紙をいただきました。そのお手紙の一部を、ご紹介させていただくこととします。

 瑞巌寺は眉山の山麓にあり、塔は裏山を切り拓いた高台に建てられて、寺に近づくと山裾の中腹にある丹塗の塔がよく見えて来ます。傾斜地を拓いて建てた塔なので、塔高11・29mの小形にしか造れなかった有様がよく判ります。設計施工金剛組は大阪天王寺の伽藍を代々手掛けて来た社寺建築の一流業者丈けあって、小形乍らよく纏った美しい塔姿に仕上った純和様の木造塔です。

 お手紙には、瑞巌19世喜翁至道師が三重宝塔の建立趣意について書かれた印刷物も同封されておりましたが、昭和63年に書かれたそれには、次のように記されています。

 慶長の初期蜂須賀公入国前より阿波三社の一社として、庶民尊崇の八幡神社が瑞巌寺鎮守として境内の山上に祀られていました。今もその跡が歴然と残っています。(中略)昭和二十年終戦後間もなく、鳥居龍藏博士と、当時の仁科県教育長のお二方が来訪されて由緒ある社の跡だからと、お堂の建立を要望されましたが、敗戦後で街もバラックの物心共混沌たる時代でございまして、不可能な意を申し述べましたところ、せめて立札だけでも欲しいと熱意の程をもらしてお帰りなさったこともつい先日のように思い出されます。すでにお二方共物故されましたが、今日この発願を黄泉に在っておよろこび下さることと思います。爾来四十数年、坐禅会や写経会を続けてまいりました。真心をこめて写経され、奉納下さる写経奉安塔も要望の声があり、また、核家族化がすすむにしたがい帰すべき墓所もなく、無縁仏となる運命の方々も数多く、そうした仏様を永久納骨供養し、併せて今日の繁栄日本の礎となって散華した数十万の兵士、いまだ集骨さえ出来ていない南方の島や、海に異国の土と化した英霊を合祀申し上げたく瑞巌寺住職五十年を経て、特に七年の軍隊生活、ソ連捕虜の身を脱走して奇蹟の生還を果たし、本年喜寿を迎え、生かされ生きてまいりました私が、報恩の証としてこの建立を発願した次第であります。
 本尊としてお祀り申す予定の聖観音様は、本年一月より大河ドラマに放映されております武田信玄公の信奉されていました御像です。天正十年四月、武田家の菩提寺である甲斐の恵林寺の山門楼上にて、施餓鬼法会中に武田の残党が潜むとみた織田信長は、四方より火を放ちましたその時、快川国師はのち瑞巌寺開山となる一顎(いちかく)禅師に観音像と天神像を与え、わが法を後生に伝うべしと逃れさしめ、国師は檀上に端然として衆僧と共に安禅は必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も涼しと、一偈(いちげ)を大喝して火定に入られました有名な一語です。後、一顎禅師は阿波に渡り蜂須賀至鎮公の帰依を受け瑞巌寺が建立され、禅師を開山として請じ、観音堂には前記の観音様をお祀り申しました。戦災にて御堂は焼失しましたが観音様は難をまぬがれまして、現在、本堂に仮安置申しています。因みに現在、天神様として皆さんがよくお詣りのロープウェイの上の天神様は、当時、瑞巌寺の塔中として潮音寺が創建され、その鎮守様として一顎禅師より賜りました前記の天神様です。戦前、滝の山と呼ばれ、桜や錦竜水、焼餅の風趣と共にお春日さん、お薬師さん、朱塗りの三重塔≠ェ聳えて市の観光のシンボルであったと思います。塔が消えて既に四十五年になります今日、瑞巌寺周辺は市の中心として活性化を目ざし、街ぐるみ観光の街として変わりつつありますこの眉山麓に、四百年の歴史ある庭園や、由緒ある環境の中に三重塔≠再現して、県の文化遺跡を護持し、置市百年祭を記念して、観光の一助にでもなりますれば幸いと存ずる次第であります。
(ルビは括弧で表記)

 いささか長い引用となりましたたが、瑞巌寺創建の興味溢れる歴史についても触れられていますので、ほぼ全文を見た次第です。
 三重塔については、こちらの写真を ↓ ご覧ください・

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/36tokushiima/zuigan3/zuigan3.html

☆       ☆       ☆

 唐突な感じですが、ほっかほっかで広告依頼がありました、「世界のお土産通販サイト」を、ご紹介します。「やまやの辛子明太子」を是非、ということです。私も良く見た上で、購入しようかと思っています。こちら ↓ 覗き、「うまいもの満載」のバナーをクリックし、探してみて下さい。他にも、いろいろあるようです。



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2008年10月15日

四国の塔めぐり(プロローグその7)

 五重塔、三重塔をめぐる旅でありながら寄り道ばかりしていますが、今日を最後に、明日は塔のある寺へ向かいます。

 石井廃寺跡を後にした私は、県道20号線に戻り南西に車を向けました。ところで、藤井寺は第11番札所でありますから、次に目指すべきは第12番の焼山寺でありましたが、ことのついでに四国八十八ヵ所を巡っているだけであり、目的は塔や塔跡でありましたので、スケジュールやルートの関係で、次に目指しましたのは第13番札所の大栗山大日寺(真言宗大覚寺派)でした。途中で道を左に採れば、大日寺へは僅かな距離のはずでありましたが、その曲がり角に気づかぬまま車を駆しらせてしまいました。後から考えれば、途中で車を停め、道路地図で確かめればよかったのですが、名西郡神山町の中心部まで行って国道438号線に出てしまいました。この道は、明日のこととしていました焼山寺へ行くときに通る道であり、道路地図を見ますと、そこから遠からぬ所に焼山寺の名も見えます。であれば、巡礼の順序どおりにと思わぬでもありませんでしたが、その後のスケジュールのこともあって、私は国道を東に進み、大変な遠回りをした末に、大日寺へ辿り着きました。そのようにしてまで訪れた寺でありましたが、これといって見るべきものはありませんでした。しかし、道の反対側にある一宮神社は、石造の太鼓橋などもあって、雰囲気のいい神社でありました。
 大日寺を辞した私は、そこから僅か先にある第14番札所の盛寿山常楽寺(高野山真言宗)へ向かいました。「徳島県の歴史散歩」に、「境内は一面の岩地で、石段も岩を削ってつくられている。アララギ(イチイ)の巨樹が本堂の屋根に覆いかぶさるように茂っている」とありますように、ここは、変わった雰囲気の寺でありました。
 次いで、第15番札所の薬王山国分寺へ向かいました。上の書には、「府中の町のどこからも国分寺(曹洞宗)の高い本堂が目に入る。国分寺を訪ねるならその本堂を目当てにどんどん歩け ばよい」とあります。
 その国分寺について同書には、次のように記されています。

 ……ここの寺域は東西に約127m・南北109m余の長方形といわれ、東大寺式の伽藍配置であったが、天正の兵火で堂塔のほとんどが焼失、本堂と大師堂の間にある明王堂のみが焼け残った。(中略)庭園は桃山時代の様式を伝える枯山水の庭で、鶴亀の庭とよばれる。本県有数のりっぱなものであるが、庭園内に本堂を建てた際に破壊され、また管理が行き届いていないので荒廃している。(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)

 この庭は、その後、平成9年に国の名勝に指定されていますので、だいぶ整備されたようです。そして同書には、「山門横に創建時金堂の心礎といわれる大きな石がおかれている」とあります。しかしながら、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、「本堂への参道の左側に巨大な昔の国分寺の心礎があるが、これはもと境内の西方にあったもので、大きさは長径三・七五メートル、短径一・五四メートル、高さ七五センチという大きく細長い石に珍しく舞木廃寺式の枘溝のある心礎で、国分寺心礎として極めて異例である。枘溝の外周の径一〇〇センチ、内周の径五二センチ、溝の幅二四センチ、深さ一〇〜四センチ。溝の幅が広いので、大きな柱穴の中に出枘があるといった方がピッタリする」と記されています。そして、中西亨先生の「続・塔の旅」でも「天平時代の七重塔の礎石」とあります。
 ところで、そこにどんな建物が建っていたか記憶から消えていましたが、どうも焼けた跡のような所がありました。寺の人に訊きますと、そこには大師堂があったが、先年(年月を聞いたが忘却しました)焼けたとのことでありました。
 国分寺を後にした私は、国道192号線へ出て、東へ向かいました。次は第16番札所の光耀山観音寺(高野山真言宗)ということになりますが、この寺には見るべきものはありません。続いて、第17番札所の瑠璃山井戸寺(真言宗善通寺派)ですが、ここには、木造十一面観音立像(国重文)や日光・月光菩薩(県文化)がありますが、ふだんは見ることができません。しかし、上の書に、「山門はケヤキ造の力強い長屋門で、藩主蜂須賀重喜の大谷屋敷を移築したものといわれる。仁王像二体(国重文)は二mもある」とありますように、なかなか見応えがありました。
 以上、第12番札所を除き、第17番札所まで巡り終えた私は、その日の宿を求めてありました徳島市の中心部まで戻りました。

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2008年10月14日

四国の塔めぐり(プロローグその6)

 五重塔、三重塔をめぐる旅の筈ですが、なかなか塔に辿り着きません。今日も、寄り道です。

 藤井寺を後にした私は、国道192号線まで戻り、東へ車を進めました。次の目的地は石井廃寺跡ですがが、この廃寺跡を訪れる場合に目標となるのは、石井廃寺跡のすぐ南にある童学寺(真言宗)です。国道192号線を9キロほど行きますと石井の信号に至りますが、そこで右折し県道20号線に入って少し行きますと童学寺があります。「徳島県の歴史散歩」には、「童学寺は藤原仏の宝庫である。本尊の木造薬師如来坐像(国重文)をはじめ、その脇侍とみられる日光菩薩像、あるいは持国天像・多聞天像、さらにこれら諸像より時代がさかのぼるとみられる阿弥陀如来像などがある。これら諸像の存在は、この寺が石井廃寺の後身であることを証明しているようである。おそらく石井廃寺が藤原時代まで続き、その後を童学寺が受け継いだのであろうと考えられている」(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)、とあります。そして更に、「童学寺はその美しい庭園でも有名で、シーズンにはハイキングを楽しむ人たちも多く見かける。山そのものをとり入れた庭では、なだらかな起伏のなかにツツジなどの樹木が立ち並び、その前景に池が静かなたたずまいをみせている」とありますが、ここでも薄紫の藤の花が満開でありました。
 童学寺を後にした私は、石井廃寺跡へ向かいました。上の書には、その所在地について「名西郡石井町石井字城ノ内岡原727」とあり、交通の便について「JR徳島線徳島駅バス鴨島行石井
警察署下車15分」とあったうえ、「石井警察署バス停から南西へ約1・5q行くと石井廃寺跡(国史跡)がある。このあたりは四国山脈の東端近く、二つの大きな山の尾根に挟まれた三角形状の北下がりの地になっている。この付近の自然の景観はすばらしく、古代人がこの地に寺を建てた理由がわかる気がする」とあります。そして同書には、「廃寺跡は1957(昭和32)年から3年間発掘調査が行われ、白鳳の面影が白日のものとなった。ただ、寺域の全容が明らかににされたわけではなく、確認されたのは金堂跡・塔跡と回廊跡の一部にとどまっている。現在、金堂跡・塔跡を含む土地が徳島県教育委員会の協力で買い上げられ、石井町によって保存整備されている」とあります。そして岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、「塔跡は心礎のほか四天柱礎のすべてと側柱礎六個が残存しており、塔の一辺五・三八メートル、心礎は〇・七メートル×〇・七八メートルと小さく、中央に直径二一センチ、深さ九センチの孔がある。四天柱礎、側柱礎は自然石で、基壇の一辺推定一〇メートルである」とある。更に同書には、「南面していた法起寺式の寺であると推定された。さらに出土瓦(本薬師式複弁おやゆびサイン華文)から見て創建年代は奈良時代初期」とあります。

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2008年10月13日

四国の塔めぐり(プロローグその5)

 五重塔、三重塔をめぐる旅にも拘わらず、相変わらず寄り道です。

 時を確認しますと、平成7年4月27日ですが、切幡寺を後にし、撫養街道を更に西へ車を進めて、この日の宿を求めてあった、今は美馬市となっている旧美馬郡脇町へ向かいました。脇町南町伝統的建造物群保存地区となっている町は素晴らしい町並みが展開するところでありましたが、塔めぐりの旅日記という目的から逸れますので、詳しくは書きません。
 翌4月28日の早朝、町を散策した後、撫養街道を更に西へ向かい、これまた今は美馬市となっている旧美馬郡美馬町を目指しました。目的は後に書きます廃寺跡でしたが、駐車のことも考えて、「徳島県の歴史散歩」に、そこに「隣接して願勝寺(真言宗)がある」(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)とある寺を先に訪れました。同書に、「四国最古といわれるこの寺の池泉式枯山水庭園は、鎌倉時代の作庭であるという」とある庭は、なかなかのものでありました。
 目的の郡里(こうざと)廃寺跡(国史跡)について同書には、その所在地について「美馬郡美馬町銀杏の木」とあり、交通の便について「JR徳島線貞光駅下車25分」とあったうえ、次のように記されています。

 ……白鳳期の寺院跡に推定されており、1967〜68(昭和42〜43)年の発掘調査で、東西97m・南北120mの敷地に、回廊をめぐらした南大門・中門・金堂・五重塔・講堂など、七堂伽藍をもつ法起寺形式の遺構が確認され、大和の法隆寺にくらべられるほどの大寺の跡であることがわかった。寺跡からは、塔の水煙や仏像の一部、瓦や土器などが発見され、美馬郷土博物館に保管されている。

 現地には白い木柱が立てられていましたが、それには「地下式心礎」とあり、心礎そのものは眼にすることができませんでした。上の引用文に見える美馬郷土博物館は願勝寺の境内にありましたが、先を急いでいたこともあって拝観は省略しました。
 時を、平成15年の四国行の時に戻します。何日か前にも書きましたとおり、この年の4月26日、私は第11番札所の金剛山藤井寺(臨済宗妙心寺派)を訪れました。上の書には、「四国遍路は早く着いても遅くてもこの付近で一泊し、英気を養ったあと朝早く出発して『へんろころがし』という難所の急坂を登り第12番の札所焼山寺へむかったので、昔は寺の付近には遍路宿が多かった。今は寺で宿泊もできる」とあります。この寺に限りませんが、一度は四国八十八ヵ所の宿坊に泊まりたかったのですが、日程の都合で、それを果たす機会はありませんでした。ところで、上の書には、「境内には数百年を経たと思われる五色の藤の古木があり、桜や紅葉の名所でもある」とありますが、私が訪れた時は藤の花が真っ盛りで、大好きな藤の花を満喫することができました。なお、境内の端に、「焼山寺みち」という石の標識が立てられていましたが、歩き遍路の場合は、ここから難所へかかるのだなと、感無量なものがありました。

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2008年10月12日

四国の塔めぐり(プロローグその4)

 五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、また寄り道です。

 さて、次に訪れた第10番札所の得度山切幡寺(きりはたじ、高野山
真言宗)は、層塔に限らずに塔をめぐる人にとっては、見逃すことのできない寺の一つでしょう。「徳島県の歴史散歩」には、その所在地について阿波郡市場町切幡字観音とありますが、現在は阿波市観音となっており、公共交通機関での便について「JR徳島線鴨島駅バス阿波線八幡下車20分」(ルビ省略)とあったうえ、「バスを降り、門前町を抜けると仁王門があり、さらに石段を上ると本堂の前に出る」とあります。私は車での訪れでありましたが、仁王門の先にある駐車場からも「是より二三四段」とありました。
 続けて同書には、「本堂上方の大塔(国重文)は二重塔で、元和年間(1615〜24)徳川秀忠が堺の神宮寺に寄進したものを、1873(明治6)年この地の大工が解体して持ち帰り建立したもの」とありますが、これは正確ではないようです。後に見るように、中西亨先生は、「続・塔の旅」で、「元和二年(一六一六)徳川秀忠公の建立とされていて、四国では石手寺塔についで古い」と記されていますが、それはさて措き先生は、私も会員になっています史迹美術同攷会の会誌「史迹と美術」の725号に、次のように記しておらます。

 ……大阪住吉大社の神宮寺には二基の方型大塔があったが、これも明治分離で取毀されることになった。その時、たまたまこの地へ来た四国霊場の一つ切幡寺の住職がこれを知り、保存の良かった西塔の方をもらいうけ海を渡して寺に再興復元した由だ。私がはじめてこの塔をみた時、土地の人は運ばれてきた材の組立て方がわからず、方形大塔という変った形になったと伝えられているとのことだったが、そんなことはなく、元の位置での写真が残されていて、あの形の塔二基が列んでいた。(中略)近年重文に指定された。

 どんな塔であるかは、写真をご覧いただいた方が早いでしょう。こちらを ↓ どうぞ。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/36tokushiima/kirihata2/kirihata2.html
 
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 昨日はパソコンの調子が悪く、ブログが書けませんでした。したがって、今日のご案内は、土曜日の定番メニューの、こちらを ↓ どうぞ。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月10日

四国の塔めぐり(プロローグその3)

 四国での五重塔、三重塔をめぐる旅は、なかなか層塔のある寺へ行き着きません。今日も、寄り道の旅です。

 霊山寺を後にした私は第2番札所へ向かったのですが、その途中、撫養街道を少し西へ行った先で標識に従い右折し、ドイツ館に立ち寄りました。と記しましたが、実際に訪れましたのは、平成15年の旅の最終日(5月4日)のことでした。
 鳴門市大麻(おおあさ)町板東に所在するドイツ館について、「徳島県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 ……第1次世界大戦の際、中国の青島(チンタオ)で捕虜となったドイツ兵およそ1000人が大麻山麓のこの地に収容されていたが、敵味方を超えた人間愛と友情が住民との間に芽生え、ドイツ文化の数々が板東の住民に伝えられた。(中略)
 また、音楽好きの彼らは楽団をつくり、民家の軒先を借りた急ごしらえの野外ステージで、ベートーヴェンの第九を演奏したり、近くの霊山寺(りょうぜんじ)の境内で絵などの展覧会などを開いたりした。第九の演奏は本邦初演といわれている。(ルビは括弧で表記)

 同書には、続けて「こうした背景を記念し、日独親善友好のかけ橋として市立ドイツ館が建設され、1972(昭和47)年5月に落成したが、手狭になったので、1993(平成5)年10月に隣に新館を建設した」とあります。
 次いで訪れた大麻比古(おおあさひこ)神社の境内には、ドイツ兵が造ったというドイツ橋やメガネ橋があり、雰囲気が感じられる神社でありました。
 大麻比古神社を後にした私は、第2番札所の日照山極楽寺(高野山真言宗)へ向かいましたが、記すべきことは何もありません。
 次いで私は、第3番札所の亀光山金泉寺(こんせんじ、高野山真言宗)へ向かいました。この寺には多宝塔がありますが、建立されたのは平成になってからで、コンクリートづくりで一部木造といいます。そして、多宝塔は本堂の裏に、うっかりすると見過ごしてしまうかもしれない状態で建てられています。
 第4番の黒巖山大日寺(だいにちじ、東寺真言宗)、第5番の無尽山地蔵寺(真言宗御室派)についても記すべきことは何もなく、板野郡上板町引野所在の第6番の温泉山安楽寺(高野山真言宗)も同様ですが、この寺には、その後、多宝塔が建てられました。この多宝塔はコンクリート造でありますが、形容は本格的なもので、なかなか美しいものでありました。
 第7番の光明山十楽寺(高野山真言宗)についても記すべきことはありませんが、次いで訪れた、今は阿波市となっている、旧板野郡土成町所在の第8番札所普明山熊谷寺(くまたにじ、高野山真言宗)には、1687(貞享4)年の建立といわれる仁王門(県文化)があり、様式が古く豪壮な点で、四国霊場中随一といわれているものです。なお、熊谷寺の読みについては宮崎忍勝・原田是宏共著「四国八十八所遍路」に拠りましたが、「徳島県の歴史散歩」では「くまだにじ」とルビが付されています。
 そして、境内に脚を踏み入れますと、すぐ眼に入ってきますのが安永3年(1774)建立という多宝塔で、吉野川市の指定有形文化財となっています。四国には古い多宝塔はなく、この塔が最も古く、香川県綾歌郡飯山町(現在は坂出市に合併されています)にある三谷寺の多宝塔が次いで古いようですが、私は拝観していません。なお、「続・塔の旅」には、熊谷寺の多宝塔は、「先年までかなりいたみがみられたが、昭和五十五年から六年にかけて改修され、美しい姿に生まれ変り、巡礼の人々を迎えてくれる」とあります。
 第9番札所の正覚山法輪寺(高野山真言宗)は、本尊が釈迦如来涅槃像ということで珍しいのですが、他に見るべきものはありませんでした。

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 昨日は食欲の秋で食べ過ぎた時の対策(?)をご紹介しましたが、今日は、食欲の秋に役立つと思われます情報を、お知らせします。お馴染みの「ぐるなび食市場」ですが、こちらを ↓ どうぞ。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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