2008年12月30日

私の対象とする塔ではありませんが……

 五重塔、三重塔をめぐる私の旅の対象ではありませんが、こんな塔も訪れました。

 香春神社を後にした私は、国道201号線に戻って飯塚市へ向かいましたが、現在の飯塚市は、平成18年3月26日に、旧飯塚市、旧穂波町、旧筑穂町、旧庄内町、旧頴田(かいた)町の合併により、新しく生まれ変わっています。国道は、田川市を通過、旧庄内町を抜けますと、旧飯塚市域に入りますが、JR筑豊本線を陸橋で越えた先の新飯塚駅入口の信号を鋭角に右折して少し行きますと、左手に目指す竜王寺があります。
 この寺のことについては、同好のA氏からの平成5年6月1日付のお手紙によって知りました。それには、「(総鑑)のコメントに直方竜王寺に小五重塔と二重小塔が有ると書いて有りますが、直方に竜王峡は有りますが寺は見当たりません。隣の飯塚市の竜王寺かと思っています」とありました。手紙の文中に「総鑑」とありますのは、中西亨先生の「日本塔総鑑」のことですが、その頃の私の手元には同書はありませんでした。今は手元にありますそれを見ますと、確かにそのようなことが記されています。A氏が指摘されたとおりであり、そのことに気付かれたのでありましょう、中西亨先生は「続・塔の旅」では、「多宝塔が北九州市の阿弥陀院(昭和四十二年)と直方市の東おやゆびサイン寺(昭和四十一年)にできたが、共に本式とはいえまい。直方市には他に随尊寺に二重塔がある。(中略)飯塚市の竜王寺にも二重塔があるが、その同じ境内に小さい八角五重塔があった」と記しておられます。
 この寺が、JR筑豊本線の新飯塚駅の北東の立岩という所にありますことを、何によってであるか記憶がないのですが知った私は、福岡駅まで戻る道筋でもありましたので立ち寄ったのです。しかし、実見したところ、私の旅日記の1頁を埋めて採り挙げるものではありませんでしたので、こんな塔もあるという程度の、ご紹介に止めます。

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2008年12月29日

暫くの間、塔跡などをめぐります

 現に建つ五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、これから暫くの間、塔跡めぐりになります。

 御所ヶ谷神籠石を後にした私は、県道へ戻って左折し、国道201号線で西へ向かいました。やがて前方に新仲哀(ちゅうあい)トンネルが見えてきますが、トンネルの入口のすぐ右手前の高台に菩提廃寺跡があります。廃寺跡といいましても、そこは民家の庭先のような所であり、礎石がある所も、あるいは個人の敷地かもしれません。
 現地には、平成6年3月に勝山町教育委員会によって立てられた説明板があり、「昭和三十年三月十二日 県指定」とあったうえ、次のように記されていました。

 菩提廃寺は、八世紀後半頃の創建とされ、建物配置に明確な規則性をもたない山岳寺院的な寺院跡です。
 ここに見える三間×三間の塔礎石とこの北方に位置する四間×五間の金堂の礎石が今も残っています。(中略)
 昭和六十一年には、塔礎石の周囲が調査され、基壇とその外側を巡る石列の存在が確認されました。一辺十一・二メートルの基壇を構築する石には、割れた礎石三点が含まれており、この基壇が改築されたものであることがわかりました。改築の原因としては、礎石が転用されていることや焼けた土が確認されたことから、塔の一部が炎上し部分的な倒壊があった可能性が指摘されています。

 塔跡は整備されており、礎石の間には花が植えられていましたので、心礎の近くまで行って写真を撮ることができませんでした。
 ところで、岩井隆次著「日本の木造塔跡」に眼を通しますと、「四天柱礎、側柱礎はすべて自然石で、塔の一辺は五・一五メートル、中の間が脇の間より相当大きいがこれは塔の規模が小さいためである。この寺は宝積寺といい、平安初期の創建といわれ」、とあります。なお、トンネルの名に「仲哀」という文字が見えますのは、古代史の愛好家にとって興味あるところではないでしょうか。
 さて、そのトンネルを抜けますと香春(かわら)町で、石灰岩の採取で無惨な恰好になった香春岳が眼に入ってきます。

 九州で最も注目すべき寺は、田川郡香春の天台寺ではないかと思います。香春の神さまが自ら新羅からおいでになったという、その香春神社の近くにある天台寺です。香春神が、(中略)渡来氏族の氏神であったのに対し、天台寺は氏寺であったと考えられます。その天台寺址からはすばらしい新羅系文様の瓦が出ているでしょう。

 上は、「宇佐八幡と新羅花郎」と題された座談会(司馬[]太郎・上田正昭・金達寿編「朝鮮と古代日本文化」所収)での、田村圓澄(えんちょう)の発言です。新旧の「福岡県の歴史散歩」を見ましても、天台寺については何も記されていませんので無駄になるかとは思いましたが、気になっていた私は、次の目的地である飯塚市へ行く道筋に当たっていましたので、香春神社に立ち寄ることにしていたのです。しかし、この辺りはセメント工場が建ち並ぶだけの埃っぽい所で、香春神社への案内標識なども見当りませんでした。見当で国道201号線を右に折れ、その先の角にありましたコンビニに入りかけていた女性に香春神社の場所を尋ねました。その女性は、たぶん、この道を行って……、と教えてくださったうえ、「この辺りの者ではないので、間違っていたら、ごめんなさい」と言い添える親切な方であった。お礼を言い、教えられたとおり細い道を進みますと、間違いなく左手に香春神社がありました。しかし、近くまで行っても神社の案内板もなく、ましてや天台寺のそれなどありません。神社の境内を歩きまわりましたが、それらしい気配も感 じられませんでした。ただ、桜の花が見頃であったことが、唯一の慰めでした。

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2008年12月28日

これから先は、またしても寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、暫くの間、寄り道をします。

 平成15年の塔めぐりの時は、豊前国分寺を辞した私は、県道238号線を進み、国道496号線に出ました。その左手角に観光案内所がありましたので立ち寄り、付近の案内図などを貰い、道を尋ねて国道を南下、上坂(かみさか)廃寺跡へ向かいました。この廃寺跡について、「福岡県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 豊津町の台ヶ原台地の東端と祓川に挟まれた水田下に上坂廃寺跡(県史跡)が埋没している。その塔の心礎は、直径2m以上の花崗岩でできており、柱を立てる円形の穴がうがたれ、さらにその底に舎利を入れる穴もあった。この塔心礎から塔の高さを推定すると約34mとなり、古代の京都平野のなかでも相当な高さであることがわかる。ただ文献にはこの寺についての記録がなく、豊前国分寺の経蔵跡とも、国分寺の前身寺ともいわれており、謎の多い寺院である。(ルビ省略)

 上にもあるとおり、この心礎は水田下にありますので眼にすることができないことは判っていましたものの、ともかく行ってみたのですが、標識など何もなく、ここら辺りではないかと思われる所の近くで働いていた人に尋ね、大体の場所が判ったような次第です。そして、旧版の「福岡県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 このほか、京都郡内には勝山町仲哀トンネル入口右上に菩提廃寺(県史跡)、行橋市福丸に四天王寺式伽藍配置とみられる願光寺境内の椿市廃寺、犀川町木山に木山廃寺と三つの古代寺院跡があるので、平安初期には京都郡内に六つの大寺院が存在し、三重以上の大塔が群立していたことになる。

 上に、「六つの大寺院」とありますが、同書を見ても、もう一つが、どの廃寺なのか不明です。それはともかく、菩提廃寺と椿市廃寺については後に訪れますが、木山廃寺へは行かずじまいでした。
 上坂廃寺跡を後にした私は、国道496号線を戻り、八景山という信号まで車を進めました。平成15年の旅では、そのまま国道を進み、行橋市へ向かったのですが、ここで時を平成11年4月11日まで遡らせることとします。なお、八景山の信号の左手には、町のシンボルである豊前国分寺の三重塔の相輪をイメージしたものといいます石造の相輪を象った「天平の塔」が設置されています。
 平成11年の時は、八景山の信号で左折し、県道58号線を西へ向かいました。そして、国道201号線へ出るべくレンタカーを駆しらせていますと、御所ヶ谷神籠石(どしょがたにこうごいし)の標識が左手に見えてきました。予定に入れてあったわけではありませんが、機会があれば訪れたいと思っていた所でありましたので、私は躊躇なく、その標識に従いました。
 神籠石は塔とは全く関係がありませんが、寄り道ついでに、「福岡県の歴史散歩」に眼を通すこととします。

 ……この御所ヶ谷神籠石(国史跡)は、九州・中国各地に7世紀頃つくられた朝鮮式山城の一つと考えられている。
 門跡は、東門・中門・西門・東北門・南門・南西門の6ヵ所、列石は部分的に残存して10ヵ所あり、すべて花崗岩が使われている。(中略)中門は、高さ6・5mから7・5m、長さ18m、ととのった石樋(せきひ)を有しており、その雄大さに圧倒される。(ルビは括弧で表記)

 同書には、「1市2町にまたがり門跡・列石・土塁が約3qにわたっって続いている」ともありますが、申し上げるまでもなく、私はその総てを眼にしたわけではありません。車が通れる道の終点は、上の引用文中の「中門」の跡が遺る所であり、ほんの一部分をみただけですが、それだけでも、まさに「その雄大さに圧倒」されました。

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2008年12月27日

豊前国分寺の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる九州の旅で拝観する最初の塔、それが豊前国分寺の三重塔ですが、昨日も見ましたリーフレットには、次のように記されています。

 国分僧寺の塔は本来七重塔で、当初鐘楼門をはさんで三重塔とは反対の東側にあったと推定されています。
 焼失後、塔が再建されたのは明治になってからです。住職宮本孝梁師の発願により、明治二一年(一八八八年)に着工し、二八年完成、二九年一月に落慶法要が行われました。
 その後一〇〇年間経過して傷みが激しかったため、昭和六〇年から六二年に全面的な解体修理が実施されました。
 三重塔は昭和三二年に福岡県の有形文化財に指定されています。
 建物の高さは約二三・三m、初層の大きさは一辺が約七・五mです。建築様式は層塔と多宝塔の折衷様式で、心柱は全長二三m・根元六〇p角の杉材の一本物です。

 創建当初は七重塔であったという天平の国分寺の塔址は今は残っていないようなので、上のリーフレットには豊前国分寺星座(うお座)寺伽藍配置図も描かれ、塔跡推定地も示されていますが、訪れてはいません。
 ところで、「豊前国分寺三重塔」というリーフレットには、「昭和32年、県の文化財に指定されたが、その後落雷のため大破したので再び浄財を募って昭和40年に復元し、さらに昭和63年に全面的な解体修理により昔日の面影を偲ばせる優美な塔が完成した」とあります。解体修理の年の違いは措いて、落雷による大破とは、どの程度であったのでしょうか。修理ではなく復元とあるのも、気になるところです。しかしながら、県の文化財の指定が解かれていないのですから、大破とはいいながら、大部分が古材を使用しての修理であったのでしょう。
 このリーフレットには、続けて次のように記されています。(原文のママ)

 ……上層と中層の屋根は同じ大きさで、下層は大きく張り出している。床下の礎石29基のうち奈良時代の円形柱座をほどこした礎石が3基ある。
 「塔」はインドのストゥパー(仏塔)の流れをくむ多重塔形式をとっていますが塔の内陣には大日如来を中尊とする四仏が安置され多宝塔形式となっており全体的には層塔形式と宝塔形式の折衷形式とみなされています。また二層目には12星座の彫刻が施され、明治の文明開花の影響がみられます。

 ちょっと眼を昭和53年発行の旧版「福岡県の歴史散歩」に眼を移しますと、次のように記されています。

 ……二九個の礎石のうち枘(ほぞ)穴をもつ心礎と円形柱座をもつ礎石二基は創建時のものといえるが、その位置には疑問がある。山門と鐘楼門(中門)をむすぶ線の延長戦上には南方は村道が約二〇〇メートル南にのびガランデ(伽藍田の意)地区につうじており、北方には本堂のすぐ後方の東西約一一〇メートル、南北七〇メートルの長方形の竹藪(やぶ)をとびこえて旧道の痕跡があるので、これがもとの伽藍中軸線と考えられるが、塔の中心は中軸線から三五メートル西で、上国豊前の国の国分寺としては近すぎる。大正初年、塔の西隣の畑から多数の古瓦をだした(豊津高校所蔵品はその一部)ことがあり、塔の位置をおもわせる。(原文のママ。ルビは括弧で表記)

 三重塔の床下にある礎石の一つが、「枘(ほぞ)穴をもつ心礎と円形柱座をもつ礎石二基は創建時のものといえる」ということですが、申し上げるまでもなく、それらの礎石は見ることができませんでした。また、先に見ましたパンフレットと同名の別のリーフレットには、相輪の部分写真が掲載されており、それには、「遙かインドは、ストゥーパの形を伝える真の塔婆」と説明書きが付してあります。このような説明があることからして、塔の本質を承知している人が、リーフレットの作成に関与していることが解ります。
 ところで、「豊津町」というA三版の1枚刷りのものを見ますと、「塔の高さは23・3メートル、奈良法起寺と並び三重塔としては全国一を誇っている」とあります。一方、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、「一辺が七・五〇メートル、三重塔としては法起寺の塔をしのいで木造塔としては日本最大のものである」とあります。こちらは、塔の高さではなく、初重の一辺の長さが、法起寺の三重塔を超え日本最大というように記されているわけです。しかし、同書には、法起寺の三重塔の初重の一辺は六・四一m、高さ二三・九〇mとあります。であれば、高さでは法起寺の塔より低いが、初重の一辺は確かに法起寺の三重塔より長く、それは見た目でも明らかでありました。しかし、これまた同書には、奈良の薬師寺三重塔は、裳階の部分の長さではなく塔身の初重の一辺が七・〇九mとあり、これら三塔の中では最も長く、「法起寺の塔をしのいで」というのは、適切な表現ではないことになります。それほど重要なことではありませんので中西亨先生に確かめてはいませんが、同書やリーフレットが、法起寺の三重塔を引き合いに出していますのは、法起寺の三重塔が最古の三重塔であるからでしょう。
 ともあれ、中西先生も「日本塔総鑑」で、「とにかく変わった塔」と記しておられるとおり、この塔を眼にした瞬間は、美しいと感じられる姿ではありません。他に例を見ない形式でありますが、設計、建立者の意図は、どんなものであったのでしょうか。
 いずれにしましても、下の写真をご覧いただいた方が早いでしょう。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/40fukuoka/buzenkokubu3/buzenkokubu3.html

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2008年12月26日

九州での最初の塔のある寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、九州での最初の塔のある寺を訪れます。

 平成15年8月10日、私は中津市の中心部のホテルを出発し北東へ向かい、市の西端を流れる山国川を渡って、福岡県に入りました。国道10号線から椎名道路に入り、徳永の出口で一般道路へ出て祓川に架かる橋を渡った先で左折し、川沿いの道を進みました。祓川に架かる二つ目の橋の所で右折し、県道238号線を行きますと、やがて右手前方に豊前国分寺の三重塔の相輪が見えてきます。途中々々に豊前国分寺への案内標識がありますので、迷うことなく辿り着けるでしょう。
 この寺を訪れるのは、この時が2度目で、最初の訪れは、平成11年の4月11日でした。その時は福岡に出張し、仕事の方は前日の土曜日の午前中に終了していましたので、午後は後に書きます大分廃寺跡や神興廃寺などをめぐり、個人的に滞在を1日延ばし、日曜日に6時間コースのレンタカーで豊前国分寺をはじめ、幾つかの寺跡をめぐりました。
 ところで、平成10年5月、豊津町役場に観光パンフレットを送って貰えないかと連絡したところ、7部のパンフレットやリーフレットをお送りいただきました。これから見ていきますように、それらは実に質の良いもので、豊津町の文化の高いことが伺われました。みやこ町となった今も、それは受け継がれているに違いないと思いますが、どうでしょうか。
 そのうちの一つ、豊津町作成の「歴史回廊の里」という立派なパンフレットには、次のように記されています。

英彦山を源流に町の中央を貫流する祓川に広がる緑豊かな田園のまち「豊津」は、かつて豊前国の国府が置かれ、政治経済の中心地として栄えていました。
やがて鎌倉時代以降、豊前国府の衰退とともに、豊津の地は歴史の舞台から遠ざかっていきます。
しかし時代が下って、江戸時代の天保年間(1830〜1845)、当時、難行原(ナンギョウバル)と呼ばれていた豊津台地の開発を小笠原藩が始めてから、再び豊津の地は脚光を浴び始めます。
五年の歳月をかけた開発は天保十五年に終り、商人や職人も多く住み、地名も難行原から錦原へと改められました。
そして、まわりの原野の開墾も進み、現在の豊津町の原形ができあがったのです。(原文のママ)

 そして、豊津町作成の「豊津町歴史回廊の里 国史跡豊前国分寺跡」というリーフレットには、「豊前国分寺の変遷」について、次のように記されています。

 天平勝宝8年(756年)、筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向等26国の国分寺に「仏事荘厳具の下賜」がされ、このころまでに豊前国分寺では主要な建物が完成したと考えられています。その後、平安時代にかけて盛んに活動を続けていた諸国の国分寺も、鎌倉時代以降多くが衰退していきました。
 しかし、豊前国分寺は平安時代に天台宗の勢力下に入り、鎌倉・室町時代にもかわらず法灯をともし続けていました。そして、天正年間(1573年〜1592年)初期に戦国大名大友氏の戦火にあい、主要建物はすべて焼失したと伝えられています。その後、天正年間中にはいち早く同地に草庵が結ばれ、本尊薬師如来が造仏安置されました。本格的な再建は、江戸時代以降小笠原藩の援助を受けて当時の歴代住職の努力によって進みました。
 現在敷地内に残る建物のうち本堂は寛文6年(1666年)、鐘楼門は貞享元年(1684年)に建立されたものです。
 なお、国分僧寺の敷地は昭和51年(1976年)に国の史跡に指定されています。

 さて、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めておきます。

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2008年12月25日

いよいよ九州なのですが……

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、いよいよ九州なのですが、九州は、塔そのものが少ないうえに、古い塔は5本の指にも足りません。それは追々に見ていくこととなります。

 四国に渡った日の日記で、「古事記」(岩波書店刊)の記述を引用しました。その末尾は「土左國は建依別と謂ふ」(ルビ省略。以下、同書からの引用について同じ)でしたが、それに続いて「次に隱伎の三子島を生みき。亦の名は天之ハート2(われている)許呂別」とあり、更に続けて次のように記されています。

 ……次に筑紫島を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫國は白日別と謂ひ、豐國は豐日別と謂ひ、肥國は建日向日豐久士比泥別と謂ひ、熊時計國は建日別と謂ふ。

 古事記に四つと記されている国数は、山川出版社刊「図説歴史散歩事典」に拠りますと、「701年(大宝元)の令制で畿内・七道の制となり、58国3島(壱岐・対馬・多褹)、824年(天長元)に66国2島(壱岐・対馬)、『延喜式』で68国となった」(ルビ省略)ということです。そして、筑紫国が筑前・筑後に、豊国が豊前・豊後に、肥国は肥前・肥後に、熊曽国は薩摩・大隅に分けられました。その後、日向という国ができましたが、現在の宮崎県となる日向国については、宮崎県を訪れた時に、詳しく書くこととします。
 ところで、上に「延喜式」とありますが、吉田孝著「古代国家の歩み」には、寛平九年(八九七)に即位した醍醐天皇の時代に制定されたという「延喜式」について、次のように記されています。

 醍醐天皇の時代には、国史(『日本三代実録』)や格式(『延喜挌』『延喜式』)が編纂される。なかでも『延喜式』五〇巻は、律令の施行細則である式を集大成したもので、律令制の百科便覧の趣をもち、公事や年中行事の典拠として永く尊重された。日本の律令格式のなかで、ほぼ完全な形で今日に伝えられたのが『延喜式』だけであるのは、単なる偶然でなく、そのような特色によるものであろう。(ルビ省略)

 この旅日記で最初に訪れますのは福岡県で、延喜式の国名でいえば、筑前・筑後そして豊前の北部であります。「福岡県の歴史散歩」は、福岡県を「北九州――諸文化の源流」、「福岡――大陸文化の潮騒」、「筑後――磐井の故郷」、そして「筑豊――修験道文化と香春岳」の四つに区分して記していますが、層塔は、前三者にしかありません。もっとも後に見ますが、筑豊地域には塔跡が幾つか遺っています。右の書に準ずるわけではありませんが、この旅も、上の順序で塔めぐりをすることとし、途中の道筋にある塔跡を訪ねることとします。

 平成15年8月9日、私は一人、大分空港へ降り立ちました。そして、予約してあったレンタカーで、杵築(きつき)市街にありまする武家屋敷跡、宇佐の大楽寺、宇佐八幡宮(弥勒寺跡)、虚空蔵寺跡、そして中津市の郊外にある瑞福寺などを訪れましたが、そこはまだ大分県内です。しかし結局この時の旅の第1日目は、大分県内でとどまることとなり、中津市の中心部のビジネスホテルに旅の第一夜の宿を求めました。ホテルで眼を通した「大分県の歴史散歩」には、「旧豊前(ぶぜん)国は周防灘(すおうなだ)に面してほぼ南北に連なる小国で、企救(きく)・京都(みやこ)・仲津(なかつ)・田川(たがわ)・築城(ついき)・上毛(こうげ)・下毛(しもげ)・宇佐の八郡からなっていた。明治の府県制成立によって宇佐・下毛の二郡は大分県に、そのほかは福岡県に編入された」(ルビは括弧で表記)とあります。
 九州で最初に訪れますのは、上のような次第で今は福岡県になっており、平成18年3月20日、旧京都郡の勝山町、犀川町と合併し、現在では「みやこ町」となっています旧京都郡豊津町です。「京都郡」という名は、どのようなことに由来するのでしょうか。ひらがなになったとはいえ、「みやこ」という読みが残されたことは、幸いでありました。

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 歳はとりたくないものですね、掲載日に関するインプットを間違えました。日付が変わってしまい、バナーの内容とコメントが違ってしまいました、済みません。ご利用の方がおられましたら、謝罪いたします。ともあれ、こちらを ↓ ご覧ください。


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2008年12月24日

西光寺を再訪

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅の最後の塔のある西光寺を、再び訪れる機会を得ましたが、その前に。

 西光寺から宿へ戻った私は、準備されていました朝食を摂った後、まず、「二十四の瞳」の舞台となりました岬の分教場へ向かいました。言申し上げるまでもないことながら、それは既に廃校となっていて観光地の一つとなっていますが、疎開先での小学校を思い出させる懐かしいものでした。そこから少し先に、高峰秀子が主役の「おんな先生」を演じた映画「二十四の瞳」を撮影した時のセットが、そのまま残されて映画村として観光施設化されていましたが、そこは割愛して、寒霞渓(国名勝)へ向かいました。紅雲亭というロープウェイの乗場まで行き、山頂までロープウェイで往復しましたが、この時は眼が覚めるような新緑に覆われた光景を満喫することができました。
 そして、寒霞渓ブルーラインで山頂まで行き、更に銚子渓に立ち寄って、昼食として小豆島の名産のソーメンを食しました。次いで、小豆島スカイラインを辿って土庄町へ向かいましたが、途中でスカイラインから逸れ、重要民俗資料の中山農村歌舞伎舞台を見物した後、土庄町へと車を進め再び西光寺を訪れました。

 放哉は一八八五(明治一八)年鳥取市立川町生まれ、一高時代に一級上の自由律俳句の荻原井泉水と出あった。東大法学部を卒業後、就職したものの酒でしくじり放浪、夫人とも別れた。明石(兵庫県)の須磨寺や京都の竜岸寺の寺男を転々とし、一九二五(大正一四)年の夏、井泉水の高弟で淵崎の俳人井上一二(文八郎)が、西光寺住職との俳句の交遊関係のつてで、放哉を西光寺奥の院である南郷庵に招いた。すでに肺を病み、遍路の施しをうける八ヵ月ばかりの蟄居生活であったが、彼の自由律俳句の決定的な作品はこの地のものが多い。(ルビ省略)

 上は、「香川県の歴史散歩」からの引用ですが、以前に見ました「遍路国往還記」には、「浅黄色の風呂敷包み一つ持って、尾崎放哉は小豆島土庄の港へ着いた。(中略)放哉は島の第五十八番札所である西光寺の奥院南郷庵に入った。庵はお大師さまをまつった六畳、居間の八畳、台所の三畳という簡素なもので、西に窓が一つある」とあり、「障子あけて置く海も暮れきる」という一句が挙げられています。吉村昭の「海は暮れきる」という伝記小説の題名は、この句から採ったのでありましょう。
 その「海は暮れきる」は、放哉が妻と別れて西光寺に辿り着くまでの間には、「京都知恩院塔頭常称院の寺男になったが、そこを追われ、兵庫須磨寺をへて福井県小浜町の常高寺の寺男にもなった」とあります。京都の竜岸寺、そして京都の知恩院の塔頭の常称院については、実際にあるのかどうか確認していませんが、須磨寺(福詳寺)には三重塔があり、拙著「近畿・岡山篇」で訪れており、小浜町とあるのは申し上げるまでもなく、最近、次期アメリカ大統領のオバマ氏との関連で有名になりました現在の小浜市で、そこにある常高寺については、拙著「中部日本篇」で訪れました。これらの寺を訪れました時には既に「海は暮れきる」は読んでいたので、放哉は、ここの寺男をしていたのだな、と感慨が深いものがありました。
 西光寺の墓地の入口にある、放哉の終焉の南郷庵の跡地と言われる所に造られています尾崎放哉記念館にも行ってみました。記念館は小さなものでありましたが、墓地は明るい光に満ち溢れた高台にあって、そこからの眺めは素晴らしいもので、特に西光寺の三重塔を遠望するには、ここが最適ではないかと思われました。しかし、記念館には誰もいず、中を見学することはできませんでした。放哉ファンの方ならば、前もって西光寺へ連絡して訪れられた方が良いでしょう。
(長くなりますが、ここで止めるのは中途半端ですので続けます)
 昨日、「小豆島には二度と来ることはないであろうと思った」と書きましたが、平成13年の8月、備中、美作の塔をめぐった旅の3日目となる8月18日に再訪する機会を作り、新岡山港から高速艇で小豆島の土庄港へ渡り、西光寺へ向かいました。

 家並の中に入り、細い道をたどると寺の前に出た。王子山おやゆびサイン華院西光寺という大きな木札が門柱にかけられている。小豆島霊場八十八ヵ所第五十八番の札所で、由緒ある寺らしい風格が感じられた。山門の前には、右に地蔵菩薩、左に弥勒菩薩の石仏があり、境内は薄暗い。銀杏の巨樹が、空をおおっていた。

 上は、「海は暮れきる」の一節であり、放哉が西光寺を初めて訪れた時の描写である。時は大正時代であり、実際にあったことに忠実と思われますものの、あくまでも小説ではありますが、私が訪れた時も、町並みなどは、それほど変わっていないのではないかと思われました。ただし、その頃にはなかった三重塔に眼を奪われていて、石仏には気がつきませんでした。なお、土庄港からのバス便もあり、坂手行新町バス停下車5分ということでありますが、15分ほどの道程なので歩いて訪れることをお薦めします。
 さて、境内に入りますと、自転車で出かけようとしてされている年輩の男性がおられました。申し上げるまでもなく瀬尾哲命師とは面識はありませんでしたが、間違いなく瀬尾師であると思われましたので声をおかけしたところ、そのとおりでありました。外出のご用向きの妨げになってはと思い、いろいろお聞きしたいこともありましたが止めました。そんなわけで、束の間のことではありましたが、お話ができたのは幸いでありました。上の小説には、放哉が西光寺に身を寄せた時の住職の名を「杉本宥玄」としていますが、本名なのかどうか。本名とすれば、現在の住職の瀬尾哲命師とは、どのような関係なのか、特に確かめてはいません。
 私は午後1時50分発の高速艇で小豆島を後にしましたが、前に書きました法然寺の五重塔の拝観のため、もう一度、四国を訪れることができますかどうか。

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2008年12月23日

いよいよ四国での最後の塔です

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅も、いよいよ最後の塔ということになります。

 平成7年5月10日の早朝、車で往復しても宿の朝食の時刻までには戻れることを確認した上で、私は西光寺へ車を駆しらせました。といいいますのも、その時は、小豆島には2度と来ることはないであろうと思いましたので、西光寺の三重塔を、最も条件の良い光の状態でカメラに収めたく、もし午前中が光の具合が悪ければ、午後3時頃までは小豆島に滞在する予定でありましたので、午後に再訪すればよいとの思いがあったからです。
 山門の前に駐車できるスペースがありましたので、そこに車を駐め、山門をくぐって境内に入りますと、正面に本堂が建ち、その背後の小高い所に朱色の三重塔が建っています。三重塔の建つ高台へは、本堂の右手から登ることができ、登り詰めた所からの眺望は素晴らしいものでした。そして、三重塔は南面して建てられており、角度によっては、塔前
に植えられている松の木に初重の一部が隠される程度ですので、光の具合としては、季節にもよりましょうが、午前でも午後でも特に問題がないようでありました。ただ、三重塔は小さな丘の上の狭いスペースに建っていますので、拝観するだけであればともかく、写真撮影ということ
になりますと、その狭さが問題となります。私は、ぎりぎりの所まで下がって、身を反らせながら写真を撮ったですが、三層目の屋根の反り具合などは、うまくカメラに収められませんでした。
 現像、焼付けしてみなければ安心できませんでしたが、まずまずの写真が撮れたと思いました私は宿へ戻りました。なお、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、三重塔は「昭和四十八年起工、五十年(一九七五)に完成した」とありますが、後に西光寺に文書で照会したところ、ご住職の瀬尾哲命師からのご回答には、棟上げは昭和49年8月、落慶法要は昭和52年10月23日とありました。この旅日記では、設計図書なども同封していただいていました、ご住職からのご回答を尊重しておくこととします。そして上の書には、三重塔の高さについての記載はなく、初重の一辺についてのみ3・38mとありますが、ご住職からいただいた設計図書には20・914メートルとあります。
 何はともあれ、下の写真を、ご覧ください。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2008to/saikoji16.jpg

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月22日

高松港からフェリーで小豆島へ

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅も最後の塔ということになりますが、そのためにはフェリーを使わなければなりません。

 小豆島、という島の名を見たり聞いたりしたとき、何を想い浮かべますか、と問われた場合、貴方は何を想い浮かべられますか?私は、何といっても壺井栄の「二十四の瞳」ですが、中にはソーメンを想い浮かべ
られる方もおられるかもしれませんね。しかし、よほどの俳句通でもない限り、尾崎放哉(ほうさい)という五七五に拘らない自由律の俳句の作家を想い浮かべられる人はいないのではないでしょうか。かく言う私も、それまでは全く知りませんでした。それまでいいますのは、平成元年12月10日の朝日新聞朝刊の日曜版、「ぶらり出かけて」というシリーズ記事を見るまで、ということですが、それには、「小豆島」とあって、次のように記されています。

 山頭火が若い女性に人気だという。ならば、山頭火と並び称される一所不在の俳人、尾崎放哉にも光が当たっていいではないかと、島に渡った。「妻と財とを捨てた」漂白の人が、病と同居しながら俳ざんまいで最後の八カ月を過ごした地である。

 その記事(白井正夫記者)には、「放哉の小豆島での生活を吉村昭が『海は暮れきる』(講談社)で書いている」とありましたので、私はさっそく書店で講談社文庫の「海が暮れきる」を買い求めました。読み進めるうちに、これから訪れます三重塔がある西光寺(さいこうじ、真言宗)は、放哉が晩年を、その庵で暮らし、そして亡くなったことを知りました。そのことについては、後に書くこととします。
 まず、時を確認しますと、平成7年5月9日、かつての部下に見送られて、高松港からフェリーで小豆島の池田港へ渡ったのですが、その部下というのは、私が東急コミュニティーという会社で人事課長職にあった頃の女性社員です。その女性が結婚して子供もでき、夫君の転勤で高松に住んでいたのです。仲人役までは引き受けませんでしたが、実質的には私が縁結びの役割を果たし結婚披露宴にも出席しました。縁結びに至った経緯については省略しますが、子供を連れて高松港に現れた彼女を見て、あの娘も母親になったかと感慨深いものがあり、出航までの束の間の時間でありましたが、話に花が咲きました。
 小豆島では、港から近い「島の南西池田湾に突き出た緑の沖の鼻崖上に立つ」国民宿舎「小豆島」に一夜の宿を求めました。そして、その夜は、瀬戸内の島々の間に夕陽が沈んでいく光景を堪能しました。

 旅の思い出話で終わってしまいますが、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めておきます。

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2008年12月21日

四国八十八ヵ所めぐりの結願を果たす

 五重塔、三重塔をめぐる旅のついでではありましたが、形だけであれ、結願を果たしました。

 白鳥廃寺跡を後にした私は、国道11号線を西へ戻り、訪れた時には「さぬき市」となっていました旧大川郡寒川町神崎にあり、JR高徳線神崎駅から遠くない所にあるようである石井廃寺跡へ向かいました。「香川県の歴史散歩」に、「神崎駅から道を東にとり、津田川を渡ると雨滝山南麓の丘陵に出あう。小道を山の手にむかうと約20分で石井地区に出る。石井地区自治会館の敷地に石井廃寺跡がある。基壇と塔心礎がわずかに残る。出土瓦には古代の優美なものが多く、白鳳期の創建と推定されている」、とあったからです。しかし、迷った末、結局は辿り着けませんでした。
 次いで私は、第87番札所補陀落山長尾寺(ながおじ、天台宗)へ向かいました。この寺での見ものは、仁王門の前にあります一対の経幢(きょうどう、重文)でありましょう。経幢といいますのは、淡交社刊、財団法人京都府文化財保護基金編「文化財用語辞典」によりますと、「石柱に仏典を刻したもの。中に経巻・仏像等を納めるものもある」ということですが、「香川県の歴史散歩」には、ここの経幢の「1基の銘に『弘安(1278〜88)」第九天五月日大願主』とあり、元寇(げんこう)の役に出陣した讃岐将兵の霊を弔うため建立したと伝える」(ルビは括弧で表記)とあります。
 長尾寺を後にした私は、県道3号線を進み、国道377号線へと左折し、結願の札所である医王山大窪寺(おおくぼじ、真言宗大覚寺派)へ向かいました。この寺には多宝塔がありますが、本堂の背後の狭い所に建っており、写真を撮るには、すこぶる具合が悪い状況にありました。
 この多宝塔について、中西亨先生の「日本塔総鑑」には次のように紹介されています。

 ここの塔は多宝塔型ではあるが、普通の独立した塔とちがい、本堂の奥殿の上に多宝塔の上層をのせたもので、従って下層の方は普通の仏堂の形をしており、前に中殿・礼堂が接している。すべて木造で、昭和二十九年後の山を開いて建てられたもので、工事は四年かかったそうである。

 さて、ところどころで書きましたとおり、私の納経帳(アルバム)には、訪れた証拠であります印(写真)が数ヵ寺ありませんが、とにもかくにも、これで四国八十八ヵ所を巡り終えたことになります。信仰心からではありませんでしたが、ほっとしたのも、偽らざる気持ちでした。

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2008年12月20日

またまた寄り道ですが

 四国本島の五重塔、三重塔は見終わりましたが、四国では、もう一基だけ塔があります。それは、明後日あたりの楽しみとしていただくこととし、もう二日ほど寄り道に、お付き合い願います。なお、昨日は、サイト側のシステム障害のため、ブログが書けませんでした。

 志度寺から国道11号線を東へ進み、平成15年4月1日の3町合併により今は東かがわ市となっている、当時の大川郡白鳥町域に入り、湊川に架かる湊大橋の手前で右折して、川沿いの道を南下して少し行きますと、3階建てのマンションがあります。その辺りで道はカーブしますが、その曲がり角に白い看板がありましたので、車を道の傍らに寄せて駐め、その看板を見に行きますと、それが目指す白鳥廃寺跡でありました。
 この塔跡について「香川県の歴史散歩」には、交通の便について、高徳線讃岐白鳥駅からバス長尾引田線で湊バス停下車5分とあったうえ、「讃岐白鳥駅から国道11号線を西に約1・5qの湊大橋から、南に約600m、湊バス停で降りると、湊川左岸の北と南の低い丘陵に挟まれた水田のなかに、白鳥廃寺跡(県史跡)の東西二つの土壇が残っている。東側は塔基壇跡であり、西側は金堂基壇跡と考えられる。(中略)出土瓦はおやゆびサイン華文鐙瓦など白鳳期から平安後期までのものがある。塔基壇の礎石が火をうけており、ほかにも焼土がみられることから、寺の創建は白鳳期にさかのぼり平安後期に焼失したと考えられる」(ルビ省略)とあります。季節柄、礎石の周囲は雑草に覆われていましたが、周りの草を踏み分けて、ようやく心礎の写真が撮れる状況まですることができました。
 この塔跡について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、次のように記されています。

 ……昭和四三年に発掘調査が行なわれ、心礎のほか九個の礎石のある塔跡と、一一個の礎石の残る西方土壇が確認された。後者は金堂跡らしく、南面していたか東面していたかはっきりしないが、まず法起寺式の伽藍であろうと推定されている。心礎は一・六メートル×一・四メートル、上部を削平し直径三七センチ、深さ七・三センチの孔があるが、他の礎石は心礎を中心に集めた形跡があり、動いているのでどれが四天柱礎か側柱礎かよくわからない。したがって土壇の一辺は一二メートルであるが、塔の一辺長ははっきりしない。出土瓦は法隆寺系複弁おやゆびサイン華文鐙瓦で、白鳳末期ないし奈良初期。この寺の創建もその頃であろう。平安末期の瓦も発見され、その頃まで存続していたことを物語っている。

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2008年12月18日

志度寺の境内を散策

 五重塔の拝観を済ませた私は、志度寺の境内を散策しました。
 昨日見ました寺発行のリーフレットに「海女の墓」などのことが記されていますが、リーフレットにありますように藤原不比等が造立したものかどうかは判りませんものの、その「海女の墓」は、五重塔の右手奥にあります。現地には志度町文化財保護協会によって立てられた説明板がありましたが、この旅日記では、高群逸枝の「お遍路」に眼を通すこととします。

 寺内に海女墓がある。謡曲「海女」の女主人公である。天智朝、鎌足の女の才色は唐朝まで聞えて高宗の妃に迎えられた。鎌足が死んだとき高宗は宝玉を妃に与え、先考追福の資として兄の不比等におくらせた。宝玉をのせた船は今の志度浦にさしかかったとき、しけのために面向不背の珠を龍神のために攫われた。その珠は中に釈紳士服三尊を刻み、これを拝するに表裏なく上下なしという名宝であった。淡海(不比等)は珠を取り返すべく房前浦(志度浦の古名)に下り、漁師の娘と契って一子房
前を設けた。やがて夫の目的を知った妻は、死を決して海底に入り、首尾よく龍神から玉を取り戻すと、それを己が乳の下を切って押隠しながら浮び上がった。不比等はそこに一宇を建て、死度道場と名づけてその霊を弔った。
(ルビ省略)

 海女の墓を見物した後、私は本堂(国重文)を拝観し、本堂と向き合ってある書院の裏の庭園を散策しました。この庭園は見応えのあるもので、志度町観光協会によって現地に立てられた説明板には、次のように記されていました。

 この庭園は今から五百年前文明五年頃細川氏一派によって作庭された曲水式地割の古い型式を備えた廻遊式池水庭園でありましたが昭和三十六年京都林泉協会々長重森三玲先生の指導により復元され室町初期の石組を参考にし乍ら新しい現代感覚を盛込んだ庭園であります。

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2008年12月17日

ようやく香川県での三つ目の塔です

 寄り道が続きましたが、ようやく香川県での三つ目の塔を訪れます。

 まず年月日を確認しておくこととしますが、平成15年5月3日、第86番札所の補陀落山志度寺(しどじ、真言宗善通寺派)を訪れました。「香川県の歴史散歩」には、その所在地について「大川郡志度町志度1102」とありますが、平成14年4月1日に、大川郡西部の五町(津田町、大川町、志度町、寒川町、長尾町)が合併して、さぬき市となりました。そして、志度寺を訪れる場合の交通の便について、高徳線志度駅下車5分とありますが、琴電志度線の終点琴電志度駅からの方が僅かながら近いようです。そして同書には、「志度駅前の国道を横切り、北に少し歩くと寺町の通りと交差する。『讃岐国名勝図絵』に『人家軒を並べ富商および旅舎多し、四国巡拝の札所ありて往来の旅人日夜連綿として」と描かれた町並である。(中略)町並の東端、突き当たりに志度寺の仁王門がある」とあります。上の文中の国道は、言うまでもなく11号線でありますが、その町並みの中の旅館に一夜の宿を求めた私は、宿に荷物を置いてカメラだけを手に寺を訪れました。しかし、目指す五重塔は、それまでの訪れ(この時が3度目)で南面して建っていますが、写真は東側からしか撮れず、五重塔の撮影には陽の向きは不都合であることが判っていましたので、境内をざっと一巡したのみで翌日に改めて訪れました。
 この寺の歴史については、寺発行のリーフレットに眼を通すこととします。

 志度寺縁起絵図6巻(重文)によると、推古天皇の33年(西暦625年)に開創され、本尊・十一面観音、脇士・不動明王・毘沙門天(それぞれ重文)がまつられ、1369年前の往古より、人々に親しまれてきた。
 「梁塵秘抄」によると、所願成就をかなえてくださる観音霊験の聖地として、日本全国から信仰憧憬をよせられていたことが知られています。
 天武天皇の10年(西暦681年)には、藤原不比等公が妻の「海女の墓」を建立して、「死渡道場」と名付け、堂宇を拡張し、僧侶の学校、信者の修業の道場となった。
 持統天皇の7年(西暦693年)に藤原北家の始祖房前公が、僧・行基ととともに参詣して母親の追善をとむらい、父母の慈愛に感謝して千基の石塔群を造立した。
 「続日本紀」によると、このときに、藤原家が海人〈海士とも〉族の海部直の娘と縁を結び海人一族にたすけられて、海洋の支配権を獲得したことが知られている。補陀落山・志度寺は、一万坪の広大な寺域を有し潮騒が聞こえ、塩の香りが漂う海辺にまじかに接して、白装束の人々が鐘の音を打ち鳴らしながら、一年中往来しています。

寺へと続く町並みの中を歩いて行きますと、仁王門(重文)そして左手の塀越しに五重塔が見えてきます。それでなくても五重塔へ真っ先に行く私ですので、ここでは尚更のこと五重塔を先にしてしまいます。
 現地には、志度町、志度町観光協会によって立てられた説明板があって、それには次のように記されていました。(原文のママ)

塔の高さ三十三メートル、塔屋の間口四・五メートル、五層総ひのき作り朱の色も鮮かな木造五重の塔で、日本では十八番目に建立されたものである。(中略)
少年時代から、志度寺第三十三代住職十河龍澄和尚にこよなく可愛がられ、励まされて世に出た、東大阪市の竹野二郎氏が報恩と、仏法興隆のため、私財三億余円を寄進し、三年三ヵ月の歳月をかけて、昭和五十年五月十八日落慶したものである。

 この説明板の「日本では十八番目に建立されたもの」という説明は、何を根拠として書かれたのでしょうか。私の手元にあります昭和49年3月20日毎日新聞社発行、文化庁監修の「重要文化財一四」(建造物V)では、五重塔は22基が挙げられています。その中には、奈良の海竜王寺五重小塔(国宝)元興寺極楽坊五重小塔(国宝)、京都の教王護国寺五重小塔(重文)が含まれていますが、それを除いても19基となりますので、現在の志度寺の五重塔が「日本では十八番目に建立されたもの」でないことは明らかです。もちろん四国八十八ヵ所の寺で、ということでもないことは、これまで辿ってきたことにより明らかです。
 では、どのような基準に基づくのかということになりますが、その手がかりがありません。それはさて措き、五重塔については、下の写真をご覧いただいた方が早いでしょう。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/37kagawa/sido5/sido5.html

 なお、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、「備後福山の明王院の国宝五重塔に模してたてられた純木造の立派なもの」とあります。しかしながら、やはり明王院の五重塔とは異なり、塔身が細いように思われました。

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2008年12月16日

もう一日、寄り道です

 五重塔、三重塔の旅日記も、昨日は時間がなく書けませんでした。

 一昨日、田宮神社の別当寺であった一宮寺を訪れたことは書きましたが、もう一度、田宮神社について「香川県の歴史散歩」に記されているところに眼を通すこととします。まず、そこへの交通の便について、「琴電一宮駅下車8分」とあったうえ、「電車が一宮駅に近づくと、大きな松林に囲まれた神社の前を通過する。それが讃岐国一宮の田村神社(祭神倭迹迹日百襲姫命・五十狭芹命・猿田彦大神ほか)である」(ルビ省略)と記されています。そして、この神社の西隣に、一宮寺があります。
 上に「琴電」とありますのは琴電琴平線ですが、同線は高松築港駅と琴電琴平駅を結んでいます。高松築港駅から行った場合、一宮駅の一つ手前が仏生山駅です。この駅で下車して15分の所に仏生山来迎院法然寺という寺がありますが、現在この寺で五重塔が建設されています。同寺のHP(URLは下記のとおり)を見ますと、竣工は平成23年2月下旬、落慶法要を3月下旬に予定しているようです。五重塔、三重塔の全国制覇を目指すのであれば、また四国に行かなければなりませんが、果たして行くことができますかどうか。

http://www.geocities.jp/raigouin/

 さて、一宮寺を後にした私は、高松市の中心部を抜け、第84番札所の南面山屋島寺(やしまじ、真言宗御室派)へ向かいました。ドナルド・キーンが「十九年前わたしは、これこそ日本で一番美しい公園と思うと書いたが、その考えは今日でも変らない」(「讃岐たぬき紀行」)という(私は、そこまでとは思いませんが)栗林公園には、平成7年に訪れていますので、この時は割愛しました。屋島寺は、源平合戦で有名でありますので、改めて書くこともないでしょう。
 続いて私は、第85番札所の五剣山八栗寺(やくりじ、真言宗大覚寺派)へ向かいました。この寺の所在地について、「香川県の歴史散歩」では「木田郡牟礼町」としていますが、平成18年1月10日の合併により高知市となりました。この寺へは平成2年にも訪れていますので、この度は2度目です。同書には、「八栗寺へ行くには、琴電八栗駅から県道(高松牟礼線)を北へ約200m行き、牟礼の信号を右(東)へ折れると八栗寺への参道で、まっすぐ進むと、約1・5qで八栗登山鉄道ケーブルの登山口駅に着く。ケーブルで頂上までは約5分、降りるとすぐ北に八栗寺がある」とあります。
 この寺には多宝塔がありますが、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第3巻、多宝塔)には、「全体に鎌倉様式でみどりの樹木のなかの朱の色が美しい。1辺が4メートル総高17・177メートル。弘法大師御遠忌1150年記念事業として昭和59年(1948)に建立された」と記されています。

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2008年12月14日

今日も、まだ寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、今日も、まだ寄り道をします。

 時を確認しますと平成15年5月3日、鴨廃寺を後にした私は、丁字路まで戻って直進、県道180号線を更に進み、第81番札所の綾松山白峰寺(しらみねじ、真言宗御室派)、そして第82番札所の青峰山根香寺(ねごろじ、天台系単立)を訪れました。これらの札所は、平成2年にも訪れていますが、私の納経帳に印を押す(写真を撮る)ための再訪でありました。なお、この寺の漢字表記や読みについて「香川県の歴史散歩」では、「白峯寺(しろみねじ」となっており、読みはともかく漢字表記は、こちらの方が正しいようです。その白峯寺では、国重文の十三重塔石塔が見応えがあり、根香寺は本堂が変わった趣きで回廊をめぐって参拝するようになっていたことが印象に残っています。
 ところで、この旅日記を書くに当たり、同書を詳細に見てみますと、白峯寺の項に、次のようなことが記されています。

 客殿(県文化)は延宝年間(1673〜81)に高松藩初代藩主松平頼重(よりしげ)が寄進したもので、江戸時代前期の特色を示している。客殿の裏には高さ2・25mの石造五重塔(県文化)があり、隅軒の先の強い反(そ)り、屋根の軒先が厚くその切り方が垂直であることなど、鎌倉時代後期の特色を示している。(ルビは括弧で表記)

 詳細に眼を通したうえで訪れていたならば、拝観せずにはおかなかったものをと残念でありましたが、後の祭りでした。
 平成2年のときは、根香寺を後にして五色台スカイラインの入口まで戻り、スカイラインに入って五色台へ向かいましたが、そのドライブの何と素晴らしかったことか。五色台へ登ってくる麓あたりの空気は異様な悪臭に満ちていましたが、ここまで登ってきますと空気も爽やかで、そして何といっても瀬戸内海を望む光景の美しさは、筆舌に尽くしがたいものでありました。瀬戸大橋は、四国の人々にとっては重要な交通手段ではありましょうが、私には自然破壊としか思えなかったのですが、ここからですと、美しく見えました。
 平成15年の時は、五色台スカイラインの光景を、もう一度、味わいたかったが、時間の都合で割愛し、私は根香寺から、第83番札所の神毫山一宮寺(いちのみやじ、真言宗御室派)へ直行しました。
 旧版の「香川県の歴史散歩」には、「山門南側の宝塔と鐘楼西側の石塔が興味深い。とくに後者は大宝院供養塔として知られ、三基のうち一基には一二四七(宝治元)年の銘がある」とありますが、それこそ「とくに後者」の三基は見応えがありました。なお、大宝院というのは、隣接した由緒ある田村神社の別当寺であったもので、現在の一宮寺であるといいます。この寺も、平成2年に訪れていますが、私の納経帳を埋めるための再訪でありました。

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2008年12月13日

まだ寄り道が続きます

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、まだ寄り道です。

 開法寺塔跡を後にした私は、県道33号線まで戻り西へ向かい、国道11号線の下をくぐり、JR予讃線の八十場(やそば)駅のすぐ先にあります第79番札所の金華山高照院(こうしょういん、真言宗御室派)を訪れました。しかし、この寺では、どうにも写真の撮りようがなく、私の納経帳(アルバム)に、この寺の印(写真)がなく、前にも書きましたように、私が四国八十八ヵ所を総て訪れたということを、証明することができません。
 ところで、この寺のフルネームは、金華山天皇寺高照院というのだそうですが、前にも見ました「四国八十八所遍路」によりますと、保元の乱(1156)によって配流の身となり、鼓岡神社のある辺りで生涯を閉じたといわれる崇徳上皇の鎮魂のために白峰社が建立されましたが、以前からあった金華山摩尼珠院妙成就寺という寺を、天皇寺と改めて別当寺としたといいます。天皇寺自体は明治の神仏分離令のため廃寺となりましたが、末寺の高照院が納経所となったことによるといいます。
 高照院を辞した私は、国道11号線との交差点まで戻って左折し、国道を進みました。ほんの少し行った先で国道は右にクランク状に曲がりますが、そこから少し行った先、二つ目の信号で右に行きますとJR予讃線の鴨川駅に至りますが、私はそこを左折しました。曲がった道は県道180号線で、少し行きますと県道は丁字路にぶつかりますが、そこで右に折れてちょっと行きますと右手に酒店があり、その先の道を左へ入った道の右手の田の中に、目的としていました心礎がありました。田の中にあることは、下に見るように行く前から判っていましたので、季節柄、田植えも終わって傍まで近づけないのではないかと思っていました。しかし、休田していたのであれば農家の人にとっては大変なことでしょうが、申し訳ないことながら私にとっては幸いなことに何も植えられておらず、近くで見ることができました。しかし、近くに踏み台にするようなものはなく、持参もしていませんでしたので、穴の様子などは明瞭に見ることはできませんでした。
 この心礎について岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、「鴨廃寺」という小見出しで、次のように記されています。

 坂出市加茂町の烏帽子山に向い合う山の神部落の田の中にあって、原位置から動いていない。大きさは一・七九メートル×一・三メートル、姿のよい美しい心礎で、上部を削平し直径七〇センチの極めて浅い環状排水溝がある。しかもこの環状溝の内側は少し盛り上っていて、その中心に直径三八〜三七・五センチ、深さ一二〜一一センチの孔がある。こういう形は伊豆市ヶ原廃寺心礎とよく似ており、近くの開法寺の山王廃寺式心礎の亜流と考えられる。出土瓦も開法寺と同笵の瓦なので、開法寺よりやや遅れて建造された寺であろう。

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2008年12月12日

まだまだ寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、まだまだ寄り道が続きます。

 平成15年5月3日のことになりますが、県道33号線を西へ進み、国道11号線の高架橋の下をくぐり、綾川に架かる綾川大橋を渡り一つ目の信号で左折、更に一つ目の四つ角を左折しますと、右手に鼓岡神社があります。更に車を進めますと、道が二股に岐かれる所の右手に府中ポンプ場がありますが、その脇の道を左に入った所に開法寺(かいほうじ)塔跡があります。と書きましたものの、それは幾つかの地図や資料を見ながら書いているのであって、初めて訪れた平成7年のときは、近くまで行っていながら、探し当てるのに苦労しました。尋ねること2、3度、ようやく知っている人に出会いましたが、近くに住んでいても、石が幾つかあるだけのことですので、興味がなければ、その存在を知らなくても当然でしょう。そして、平成15年のときも、迷った末に辿り着きました。この遺跡を訪れる場合、開法寺塔跡といって尋ねても知っている人は少ないので、鼓岡神社の所在地を尋ねる方が良いかもしれません。
 この塔跡について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、次のように記されています。

 坂出市南谷の鼓岡神社の南に開法池という溜池があり、その東側に完全な姿で残っている塔の遺跡がある。この寺は開法寺といって、『菅原文章』の客舎冬衣の詩に「開法寺在府衙之西」といわれたところで、昔の国府の跡はこの寺跡のすぐ東にある。
 心礎のほか四天柱礎、側柱礎がすべて完全に残っている。塔の一辺五・八メートル、基壇は壇上積みであるが一部(六・五メートル)が残っているだけである(一辺一一・二メートル)。心礎の大きさは二・一メートル×一・二メートル、直径八五センチ、幅三センチ、深さ三センチの環状排水溝の柱座があり、その中央に直径四六センチ、深さ一五センチの孔がある。(中略)上野山王廃寺と大体同じ形であるが、ただ違うところは山王廃寺が地下式であることと舎利孔があることなどである。なお環状溝から外に出ている排水溝は、山王廃寺では四本であるがこの寺では二本(幅、深さともに三センチ、長さそれぞれ一八センチ及び二〇センチ)である。四天柱礎及び側柱礎はいずれも自然石、伽藍配置は一応法起寺式と想定されているが、北の端に出てくる礎石が講堂のものか僧坊のものか判明しない。しかし塔と廻廊の関係からすると、法起寺式と考えるのが妥当とされている。素縁素弁八葉、十葉おやゆびサイン華文鐙瓦及び高句麗様式の周縁鋸歯文、素弁八葉おやゆびサイン華文の鐙瓦及び珠文帯扁行唐草文宇瓦が出土し、およそ白鳳期の創建であろう。国分寺建立に先立ち、天武天皇一三年に「諸国の家毎に仏舎を造り仏像及び経を置き礼拝供養せしむ」との詔に基づき国府に造られた寺ではないかと推定されている。

 上に「上野山王廃寺」の塔心礎との比較がありますが、「上野」とは上毛野(かみつけの)すなわち「上野(こうずけ)国」のことであり、山王廃寺の塔心礎は、現在の群馬県前橋市総社町にあり、上にありますとおり地下式でありますが、見学できるように整備されています。この塔跡は国の史跡に指定されており、ここから遠くない所に上野国分寺跡(国史跡)もありますので、興味のある方は訪ねられるとよいでしょう。

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 昨日は、迷惑メールに悩まされ、ブログを書く時間がありませんでした。
 それはさて措き、私は毎日が日曜日の年金生活ですが、現役の方の中には、年末年始の休みが9連休という方もおられるのでしょうね。そして、国内旅行ないし帰省を予定されている方の中には、どうしても航空機を利用しなければならない方もおられるかと思います。そんな場合、エアーズゲートを活用されては如何でしょうか。こちらで ↓ どうぞ。



 なお、今日も削除しましものの、トラックバックに卑猥なものを付ける無礼な輩がおりますが、私とは全く関係がありません。貴重な記事と思われるものは、残させていただきました。
posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月10日

讃岐国分寺を訪ねます

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、今日は幻の七重塔へ向かいます。

 まず時を確認しますが、平成15年5月2日のことです。この日は、さほどの距離を駆しったわけではないのですが、立ち寄る所が多かったので、私は第80番札所の白牛山国分寺(真言宗御室派)に近い民宿に宿を求めてありました。というのも、遍路の順序からすれば次は第79番となるわけですが、旅のコースとしては、第80番を訪れた後に、第79番、第81番、第82番、そして第83番へ廻った方が効率的であったからです。なお、この頃の国分寺の所在地は、綾歌郡国分寺町国分でありましたが、平成18年1月10日の合併により、今は高松市となっています。
 民宿に着いた時は、まだ陽が高かったので、民宿に車を置いたまま、歩いて国分寺を訪れました。この寺には、平成7年5月9日にも訪れていますが、現在の国分寺の境内は、殆ど聖武天皇の勅願により建てられた国分寺の跡の中にあります。しかし、どういうわけか現在の寺は、それを快く思っていないらしく、当山とは無関係という看板が立てられていました。果たして今は、どうであろうか、そんな思いで境内に入ったのですが、「国分寺由来」とある説明板の末尾に、「当山の正式名称は宗教法人国分寺であり『跡』や『公園』ではありません」とありました。現に寺として経営し、かつ家族が生活しているのでありますので、「跡」とされたり、「公園」とされたりすることには抵抗もありましょうが、考古学的にも「跡」であることは証明されていることであれば拘る必要はないと思うのですが。
 現地には、昭和63年に国分寺町教育委員会によって立てられた説明板もあり、それには次のように記されていました。

 全国60余りの僧寺・尼寺のなかで、奈良時代の建物が現存するものはなく、その所在地さえ不明になっている例も少なくない。讃岐国の場合は、僧寺・尼寺ともに寺地が判明しており僧寺跡は国の特別史跡、尼寺跡は史跡に指定されている。
 讃岐国分僧寺は現在の白牛山国分寺境内に金堂跡・塔跡の礎石をほぼ原位置で残し、現国分寺本堂(鎌倉時代・国指定重要文化財)は旧講堂跡に建てられたと推定されている。また、近年の発掘調査の結果、寺域を区切る土塀跡や溝、僧坊跡・鐘楼跡・回廊跡などが確認され、東西約220m(2町)の寺域をもつこと、中門と金堂を結ぶ回廊内の東に塔を置く大官大寺式の伽藍配置をとることなどが判明した。

 ちょっと判りにくいかもしれませんが、塔跡の写真を掲げます。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/touato/37kagawa/sanukikokubun/sanukikokubun.html

 上の写真でお判りいただけますかどうか、中央に石造五重塔の下にあるのが心礎のようです。「ようです」と書きましたのは、旧版の「香川県の歴史散歩」には、「中央の心礎には、約四〇センチの枘穴があるが、いまその上に鎌倉時代の石の七重の層塔が建てられて、見ることができない」とあるからです。私が眼にしましたのは石造七重塔ではなく石造五重塔でしたので、果たして、その下にある石が、かつての塔の心礎でありますかどうか確信がありませんが、まず間違いないでしょう。
 平成8年(1996)発行の新版の「香川県の歴史散歩」には、「国分寺町では寺跡を史跡公園として整備しており、築地塀の一部の実物や僧坊覆屋を復元し、10分の1の石造伽藍模型をつくっている」とありますが、それについては、故吉田実氏からの平成5年3月10日付のお手紙で知っていました。そのお手紙には、「変った復元模型として石造、讃岐国分寺七重塔が讃岐国分寺遺跡に設置してあります」とあり、「文化庁監修、月刊文化財に紹介されています」として、そのコピーが同封されていました。そして、「この寺の住職は妙なものを遺跡に造られて迷惑だと云わん許りの応待です。実態はよろしく御推察下さい」ともありました。しかし、そのお手紙のことをすっかり忘れていました私は、平成7年の時は、その石造七重塔の模型を見ずに寺を辞してしまいました。そこで、平成15年に再訪となった次第です。お送りいただいた月刊「文化財」には、次のように記されています。

 ……国分寺町が平成二年度から史跡等活用特別事業の採択を受け、遺構全体模型設置工事として、平成三年度に十分の一の大きさの七重塔を史跡地北東に設置した。露出展示するために石材を使用しているが、従前の石塔とは異なり屋根表面には丸瓦、屋根裏面には二重垂木を彫り込んでいる。また、高欄は木製、相輪は金属製とするなど、木造塔を忠実に再現している。建物は一辺一メートル、一層の屋根の一辺は二メートル、高さ六・三メートル、重さ一二トンであり、平成四年度以降も順次伽藍模型を設置していく予定である。

 この模型は、ちょうど現在の国分寺の裏手にありますが、寺の境内とは、厳重な金網で隔てられていました。宗教と観光を厳密に考えることは、ある意味で重要なことであるとは思いますが、あまり厳格に考えず、誰もが自由に古代と現代を往復(いきき)できるようにする方がよいのではないでしょうか。もっとも、これまでも随所で書いてきましたように、不逞の輩が出没し、怪しからぬ行為に及ぶのも確かで、それなりに文化財を保護する対策は欠かせず、それはまた、寂しいことではあるのですが。そんなことに余計な神経や費用をかけずに済むよう、日本が真の意味での文化国家になることを祈りたいと思います。

☆       ☆       ☆

 年末年始の休みに、名物風呂のある温泉宿で過ごすのは如何ですか?年金生活となった私には、夢の話なのですが。こちらで ↓ どうぞ。

 
posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月09日

似て非なる塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、今日は、ある塔に似て非なる塔などを訪れます。

 海岸寺を後にした私が次に向かいましたのは少林寺拳法総本部でありますが、ここに、中国の西安(昔の長安)の「大雁塔の写し」という塔があることについては、中西亨先生の「続・塔の旅」で知りました。ここを平成2年に初めて訪れたときには、ともかくも近くまで行ってみよう、といった程度の気持ちでありました。しかし、その時は写真に撮るまでもないものと判断し、一見しただけで次の目的地に向かったのですが、やはり私のアルバムの半頁でも埋めるべく再訪したのです。
 少林寺拳法総本部は、海岸寺から県道21号線を多度津町の中心部へ戻る途中の左手の高台にあります。どこで左に折れたか明確に書くことができないのですが、迷った記憶がありませんので、近くまで行けば判るのではないでしょうか。そして、塔を拝観し写真を撮るだけなら、道路からで十分で、わざわざ中へ入るまでもありませんでした。
 塔愛好家であれば書くまでもないことながら、大雁塔について、先にも見た平山郁夫先生の著作「シルクロード巡礼 玄奘三蔵 祈りの旅」には、次のように記されています。

 ……西安の町のどこからでも見えるのが、慈恩寺の大雁塔である。(中略)
 貞観十九年(六四五)正月、玄奘は長安に戻った。玄奘、このとき四十八歳、十六年ぶりの帰国であった。かつて人目を忍んで出立した都に、大勢の人びとの歓迎を受けて凱旋将軍のように戻ってきたのである。長安の弘福寺には、太宗の命令で経典翻訳所が用意されていた。以後二年、玄奘はこの寺で、持ち帰った「瑜伽師地論」の翻訳にあたった。訳を終えて献上に訪れた玄奘に、帝あ政務を補佐するよう命じた。玄奘はこれを固辞して、なお仏教宣揚のため、翻訳にいそしんだ。太宗は新訳の「瑜伽師地論」を九部、写させて全国に頒布した。以後、それまでの先人の翻訳を旧約と称し、玄奘訳を新訳と称することとなる。この慈恩寺に、玄奘が苦難の末にインドから持ち帰った経典を納めるため、大雁塔が造営された。永徴三年(六五二)、玄奘五十一歳のときのことであった。

 写真を掲載できれば一目瞭然ですが、当然ながら、似て非なる塔です。
 それはさて措き、少林寺拳法総本部を後にした私は、更に道を戻り、金倉寺から辿った県道23号線との丁字路を直進し、第77番札所の桑多山道隆寺(どうりゅうじ、真言宗醍醐派)へ向かいました。この寺は平成2年にも訪れていますが、その時に撮った多宝塔の写真は不出来でありましたものの、この旅日記では層塔を主としていますので、改めて訪れることはなかったのですが、平成7年のときは、旅のコースにありましたので再訪したのです。この多宝塔は、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第三巻、多宝塔)に拠れば、「弘法大師1150年御遠忌の記念事業として昭和58年(1983)に建立された」といいいます。
 道隆寺を後にした私は、第78番札所の仏光山郷照寺(ごうしょうじ、時宗)へ向かいました。ここも平成2年にも訪れていますが、その時の写真が撮れていなかったので、私の納経帳を埋めるべく再訪となった次第です。

 さて、この先を書き続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めにします。

☆       ☆       ☆

 さて、今日は、北国からの贈り物を、ご紹介します。三大蟹がメインのようですが、他にも、いろいろあるようです。ギフトに、ちょっと豪華な夕食に、如何でしょう。こちらで ↓ どうぞ。



posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月08日

またもや寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記も、昨日は、おじゃま虫の襲来に遭い、休まざるを得ませんでした。

 法勲寺を跡にした私は、県道22号線を西へ向かい、途中で県道4号線(丸亀街道)へと右折し旧丸亀市域に入って、すぐ先の右手にある宝幢寺(ほうとうじ)池の畔まで行きました。目的の宝幢寺の塔心礎は、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には「その池の堤防から一〇メートルぐらいの池の中に白鳳の古寺の心礎が残っている」とありますので、渇水期でもないかぎり恐らく、そこにある塔心礎は見られないであろうと思っていました。そして、案の定、それは水面下にあった、というより、そのこと自体を、確認することさえできませんでした。
 宝幢寺池を後にした私は、県道4号線を北へ進み、高松自動車道の少し手前の郡家(ぐんげ)町という信号で左折し、県道18号線を西へ進み、国道319号線へ出て右折し、平成2年の10月21日の早朝にも訪れている第76番札所の鶏足山金倉寺(こんぞうじ、天台寺門宗)を再訪しました。平成2年に訪れたときには気づかなかったのですが、この時は、偶然にも「三層塔真柱礎址」と刻された白い石柱を眼にしました。しかし心礎の上には、五輪塔様の石が載せられており、心礎の形状は判りませんでした。
 金倉寺を辞した私は、県道25号線で仲多郡多度津町へ至り、県道21号線に突き当たって左折し、四国八十八ヵ所の番外札所の屏風浦海岸寺(かいがんじ、真言宗醍醐派)へ向かいました。以前にも見ました「四国八十八所遍路」には、「海岸寺の本坊は予讃線と県道を越えた、文字通り海岸に建っており、本坊から、だいぶ離れた御産盥(みたらい)山古墳の東側の山つづきに奥の院や大塔が建てられている」(ルビは括弧で表記)とあります。
 上に「大塔」とありますがが二重塔であり、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第三巻、多宝塔)には、次のように記されています。

 この塔ははじめ三重塔として設計されたものの、いろいろな事情により二重までで留まったものでそのためか、相輪はなくて屋根には宝珠のみ置く。(中略)
 上層は擬宝珠勾欄付の縁をめぐらし、屋根は本瓦葺。基壇と初層の軸部部分は朱色に塗ってある。
 一辺が約3・5メートル、総高約11メートル。

 私の本来の対象の塔ではありませんが、写真を掲げておきます。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/37kagawa/kaigan2/kaigan2.html

 この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めておきます。したがって、明日、いや暫くは寄り道となりますことを予告しておきます。

☆       ☆       ☆

 さて、昨日お休みしてしまいましたので、今日は日曜日の定番メニューのこちらを ↓ どうぞ。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 20:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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