さて、高知県に入ってからは、多宝塔1基は見ましたものの、四国八十八ヵ所札所や、古い町並み、そして鍾乳洞と、塔には関係のない所を巡ってきましたが、高知県の第1番目の層塔は、長岡郡大豊町の資産家の墓園ともいうべき堂ヶ峯園にあります。
この墓園に建てられた五重塔に関する最初の情報は、故吉田実氏からの平成4年12月25日付のお手紙でありましたが、そのお手紙には、次のように記されていました。
金花舎、三菱商事GR工法、海住山寺型五重塔が10月18日、高知県長岡郡大豊町(土讃線角茂谷駅)の山奥に完成しました。久里浜霊園、松戸、本土寺の姉妹塔ということになりますか。木造ではないので私の対象外ですが、瑠璃光寺版全国の五重塔の次の改訂版用に取材の都合もあり、明春参詣して来る心算です。但し、塔を建設したのは山口県宇部市に本拠を置く吉永企業グループの事業主吉永浩三氏で、故郷大豊町の町起こし事業にと造営したものです。大豊堂ヶ峯園といヽ老人向け福祉と研修施設に露天風呂付ということで、宗教法人では無さそうですが、詳しいことは明年参詣の上で又御報せします。(氏の勘違いと想われる地名について一ヵ所訂正しました)
しかし、故吉田氏は、その頃ご多忙であったのでしょう、行かれたとのお報せはありませんでした。私も行く機会を得ぬまま月日が過ぎていきましたが、あの忌まわしい阪神・淡路大震災が発生し、その頃、明石市にお住まいであった氏は、それどころではなくなってしまわれたのであります。
さて、時を確認しますと、平成7年5月1日のことになりますが、私は、国道32号線へ出て、今は三好市となっています旧池田町方面へ車を駆しらせました。 生憎なことに、風雨が激しい日でした。根曳峠を越え、角茂谷(かくもだに)駅も近くなったと想われる馬瀬という集落に入りますと、前方右手の小高い所に朱色も鮮やかな五重塔が見えました。
国道の脇にあった店で道を尋ね、国道から右に折れ小さな橋を渡った先、そこが入口と想われる所に車を駐め、折から風雨が更に激しくなったなか、参道(?)を登りました。途中にゲートがありましたが、人影はなく、幸い施錠はされていませんでしたので、閂を外し扉を開け奥へ進みました。登り切った所に、小さなワゴン車が一台駐まっていて警備員がいました。拝観を拒否されるかと思いましたが、許されました。
まず門のような建造物があり、そこには「吉永家累代之霊域」とありました。いわば一個人、一家族の霊域であり、故吉田氏のお手紙にあったような町興しのための施設とは思われませんでした。警備員の話によれば、五重塔には、吉永家累代の位牌が納められており、塔の左隣りの法隆寺の夢殿風の建物には、観音像だか阿弥陀像だかが安置されているとのことでありました。それらの建物は、いずれも金花舎が販売していたものです。今、私は「販売していた」と過去形で書きましたが、同社は、その後、経営に破綻をきたし、他の大手企業が引き受けましたが、その会社にあっても、うまくいかなかったようです。
それはともかく、この他にも、法事でも行うときのためと想われます会館風の建物もあり、土地代は別として、建物だけでも10数億になるのではないかと想われました。また、3人3交代で24時間の常駐警備体制で警備しているとのことでしたが、その警備料だけでも相当な金額
になるでしょう。近くに民家はあるものの、気の利いた食堂はなく、また現場を離れるわけにはいかないので、警備員は弁当持参で車の中で食事を摂ったり仮眠したりするとのことでありましたが、世の中には、私など思いも及ばないことを考え、実行する人もいるものだというのが、その時の実感でした。
ともあれ、私のように、層塔ならば総て、という物好きな人間でない限り、わざわざ訪れるまでもない塔です。
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