2008年11月12日

愛媛県での最初の塔へ向かう前に

 五重塔、三重塔をめぐる愛媛県の旅も、ようやく塔のある所へ近づきつつありますが、もう一日、寄り道をします。

 平成7年5月6日、札所の順番としては逆になりますが、道順として第45番札所の海岸山岩屋寺(いわやじ、真言宗豊山派)を訪れました。「愛媛県の歴史散歩」に、「京都歓喜光寺(かんきこうじ)の『一遍上人絵伝』では、1273(文永10)年に一遍が菅生(すごお)の岩屋に半年余り参籠し、遊行の決意をしたとしている」(ルビは括弧で表記)とあります岩屋には、奥深くまで入って見物しました。
 次いで、第44番札所の菅生山大宝寺(たいほうじ、真言宗豊山派)を訪れましたが、山寺らしい雰囲気のある寺でありました。
 大宝寺を後にし、国道33号線(土佐街道・久万街道)に出て、砥部(とべ)焼で知られる伊予郡砥部町を目指しました。町の中心部辺りから右に折れ、第46番札所の医王山浄瑠璃寺(じょうるりじ、真言宗豊山派)へ向かったのですが、道に迷った末、 何とか辿り着きましたものの、特に見るべきものはありませんでした。この寺から松山へと通じる道の途中には、第47番札所の熊野山八坂寺(やさかじ、真言宗醍醐派)、次いで第48番札所の清滝山西林寺(さいりんじ、真言宗豊山派)が至近距離で続いていますが、いずれも特に見るべきものはありませんでした。
 西林寺から更に北へ進みますと、何ほどもなく国道11号線に出ます。そこで左折して少し行けば、来住(きし)廃寺跡に辿り着けるはずでありました。しかし、かなり駆しったのですが、それらしい標識もありませんでしたので諦めてUターンしました。すると、国道に大きな案内標識が出ていて、この日の一つの目的を果たすことができたのです。
 上の書には、交通の便について「伊予鉄道横河原線久米駅下車15
分」とあったうえ、「国道を西にむかってさらに300mほど進むと、道の北側にこんもりとした雑木林が見えてくる。これが長隆寺(黄檗宗)で、その寺域と西側一帯が来住廃寺跡(国史跡)である」(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)とあり、更に、次のように記されています。

 ……1967(昭和42)年および1977〜78年に行われた発掘調査によって、心礎と8個の礎石を有する基壇9・7m四方の塔跡、東西29m・南北18mの講堂跡、僧坊とみられる桁行8間・梁間3間の掘立柱建物跡、総長85mにも及ぶ回廊跡などの遺構が検出され、白鳳時代のものと推定される軒丸瓦や鴟尾片が出土した。この結果、この寺院は、法隆寺式の伽藍配置を有する白鳳時代の遺構と推定され、地方寺院の成立・展開を考える際の貴重な資料となっている。現在遺構の大部分は埋め戻されているが、塔の心礎と考えられる方形の巨岩が基壇上に露出していて、往時をしのぶよすがとなっている。

 その心礎石は真ん中で二つに割れていますが、これは割れたのではなく、「日本の木造塔跡」に拠れば、「巨石を楔を用いて二つに割り、二つの石の側面にそれぞれ半円形の孔を下まで彫った上、これを再び合わせて大体丸い孔が中央にあるように仕上げ」たものであるといいいます。なお、「愛媛県の歴史散歩」では、万葉集に見える「熱田津(にぎたつ」について囲み記事を設けており、「最近では来住廃寺跡の回廊遺構を『斉明天皇の行宮』と比定し、熱田津を重信川の河口付近と推定する学者もいる」とあります。
 長人差し指サイン寺を後にして浄瑠璃寺から辿ってきた道まで戻り、松山へ向かいましたが、途中に第49番札所の西林山浄土寺(じょうどじ、真言宗豊山派)、第50番札所の東山繁多寺(はんたじ、真言宗豊山派)があります。浄土寺の本堂は国重文に指定されている建造物でありますが、繁多寺には、これといって見るべきものはありませんでした。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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