2008年11月27日

興願寺の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、最後の三重塔となる興願寺の三重塔ですが、伊予三島市教育委員会によって平成元年2月に立てられた説明板には、「市指定文化財 興願寺三重塔」とあったうえ、次のように記されていました(原文のママ、ルビ省略)。

 摩尼山普門院興願寺は承応元年(一六五二年)高野山の快順上人により開基される。
 この塔は、もと二十一番札所阿波の大龍寺にあり荒廃していたが、住職が同窓の親友である仏縁によりこれを譲り受け昭和二十八年十月解体、昭和三十二年ここへ移築復元した。
 棟札に貞享元年(一六八四年)建立とある。塔は初層回縁に擬宝珠高欄をつけ、正面に唐様の桟唐戸、側面に和様の板唐戸を採用し、脇間は腰高連子窓とする。円柱上の組物は三手先、中備は蟇股とし内面に竜虎鶴亀花鳥翁嫗等の華麗な彫刻をほどこす。軒下は雲支輪で水鳥等の彫刻がある。この塔は初層の軒を唐様の扇棰としているが二層と三層は和様の繁棰を採用し、軒下の複雑な建築美を強張している。また、軒下隅木には地天の像を配し軒先に風鐸をつける。(中略)二層と三層は簡素な和様とし柱間は間斗束で統一している。
屋根は本瓦葺、相輪の宝珠に火焰がつく。
 この塔は、初層から上層にかけての逓減率が良く大変均整のとれた美しい建築で、江戸時代初期の代表的な三重塔である。

 先にお断りしたとおりルビは省略しましたが、上の文章では、「擬宝珠」に「ぎぼうしゅ」とルビが付されています。しかし、「広辞苑」に拠りますと、「ぎぼうじゅ」と読む場合は「ぎぼうしゅの転」とあり、「ユリ科の多年草」の場合であって、「ぎぼし」と読む場合は「ギボウシュの約転)とあり、「欄干の柱頭などにつける宝珠の飾り」とあります。よって、この場合は、「ぎぼし」とルビを付るのが正しいようで、他の多くの書でもそうなっており、中西亨先生は、カナで「ギボシ」と表記されています。蛇足ながら、書いた次第です。
 そして説明板に、この塔は、「もと二十一番札所阿波の大龍寺にあり荒廃していたが(中略)昭和三十二年ここへ移築復元した」とありますが、中西先生の「続・塔の旅」には、次のように記されています。

 ……この太竜寺は四国でも屈指の大寺院で、弘法大師空海との関係が最も確実な名刹で、近世には蜂須賀侯の帰依を得て、大伽藍群を擁していた寺であった。(中略)昭和八年刊行の『日本社寺大観』寺院編によると「境内広闊、老杉欝蒼として山水の勝を占め、堂宇に金堂・大師堂・求聞持堂・中興堂・毘沙門堂・鎮守堂・六角経蔵・護摩堂・多宝塔・三重塔・仁王門・鐘楼・庫裡・書院・方丈を具ふ。……」とあり、その伽藍の様が偲ばれるが、特に注目されるのは多宝塔と三重塔が併存していることで、この本には三重塔の写真も登載されていた。しかしこの三重塔は戦後破損がひどくなり、昭和三十四年愛媛県の興願寺へ移されて、昭和四十一年私がはじめて太竜寺へ参拝した時にはその姿は既になく(後略)。

 そして、平成15年に訪れた時は、先に見たとおり市指定の文化財でありましたが、インターネットで愛媛県の教育委員会のホームページを見ますと県指定文化財となっていますので照会したところ、平成16年4月16日に指定されたとのことでありました。
 さて、この塔の訪れは三度であることは既に記しましたが、最初の時のことは記憶に乏しいのです。2度目、3度目の時は幼稚園が開園されているときで、園内は園児でいっぱいでありました。私が断って園内に入り、三重塔の周囲を廻り写真を撮っているのを見て園児たちが不思議そうな顔をしたり、何をしているのかと尋ねたりします。そして3度目の時は、園内に鯉幟があげられていて、塔の姿をすっきりカメラに収めることはできませんでした。しかし、それはそれで、カラー写真では美しいものとなりました。それにしても、もう少し三重塔が建つに相応しい場所であったならば、という思いは禁じ得ませんでした。

☆       ☆       ☆

 さて今日も、このブログを時折お読みいただいている方にはお馴染みの「ぐるなび食市場」
ですが、今、訳あり激安セールが開催されています。こちらで ↓ どうぞ。それにしても、もう「おせち」という言葉が見られる時期になったのですね。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。