2008年12月09日

似て非なる塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、今日は、ある塔に似て非なる塔などを訪れます。

 海岸寺を後にした私が次に向かいましたのは少林寺拳法総本部でありますが、ここに、中国の西安(昔の長安)の「大雁塔の写し」という塔があることについては、中西亨先生の「続・塔の旅」で知りました。ここを平成2年に初めて訪れたときには、ともかくも近くまで行ってみよう、といった程度の気持ちでありました。しかし、その時は写真に撮るまでもないものと判断し、一見しただけで次の目的地に向かったのですが、やはり私のアルバムの半頁でも埋めるべく再訪したのです。
 少林寺拳法総本部は、海岸寺から県道21号線を多度津町の中心部へ戻る途中の左手の高台にあります。どこで左に折れたか明確に書くことができないのですが、迷った記憶がありませんので、近くまで行けば判るのではないでしょうか。そして、塔を拝観し写真を撮るだけなら、道路からで十分で、わざわざ中へ入るまでもありませんでした。
 塔愛好家であれば書くまでもないことながら、大雁塔について、先にも見た平山郁夫先生の著作「シルクロード巡礼 玄奘三蔵 祈りの旅」には、次のように記されています。

 ……西安の町のどこからでも見えるのが、慈恩寺の大雁塔である。(中略)
 貞観十九年(六四五)正月、玄奘は長安に戻った。玄奘、このとき四十八歳、十六年ぶりの帰国であった。かつて人目を忍んで出立した都に、大勢の人びとの歓迎を受けて凱旋将軍のように戻ってきたのである。長安の弘福寺には、太宗の命令で経典翻訳所が用意されていた。以後二年、玄奘はこの寺で、持ち帰った「瑜伽師地論」の翻訳にあたった。訳を終えて献上に訪れた玄奘に、帝あ政務を補佐するよう命じた。玄奘はこれを固辞して、なお仏教宣揚のため、翻訳にいそしんだ。太宗は新訳の「瑜伽師地論」を九部、写させて全国に頒布した。以後、それまでの先人の翻訳を旧約と称し、玄奘訳を新訳と称することとなる。この慈恩寺に、玄奘が苦難の末にインドから持ち帰った経典を納めるため、大雁塔が造営された。永徴三年(六五二)、玄奘五十一歳のときのことであった。

 写真を掲載できれば一目瞭然ですが、当然ながら、似て非なる塔です。
 それはさて措き、少林寺拳法総本部を後にした私は、更に道を戻り、金倉寺から辿った県道23号線との丁字路を直進し、第77番札所の桑多山道隆寺(どうりゅうじ、真言宗醍醐派)へ向かいました。この寺は平成2年にも訪れていますが、その時に撮った多宝塔の写真は不出来でありましたものの、この旅日記では層塔を主としていますので、改めて訪れることはなかったのですが、平成7年のときは、旅のコースにありましたので再訪したのです。この多宝塔は、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第三巻、多宝塔)に拠れば、「弘法大師1150年御遠忌の記念事業として昭和58年(1983)に建立された」といいいます。
 道隆寺を後にした私は、第78番札所の仏光山郷照寺(ごうしょうじ、時宗)へ向かいました。ここも平成2年にも訪れていますが、その時の写真が撮れていなかったので、私の納経帳を埋めるべく再訪となった次第です。

 さて、この先を書き続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めにします。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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