2008年12月21日

四国八十八ヵ所めぐりの結願を果たす

 五重塔、三重塔をめぐる旅のついでではありましたが、形だけであれ、結願を果たしました。

 白鳥廃寺跡を後にした私は、国道11号線を西へ戻り、訪れた時には「さぬき市」となっていました旧大川郡寒川町神崎にあり、JR高徳線神崎駅から遠くない所にあるようである石井廃寺跡へ向かいました。「香川県の歴史散歩」に、「神崎駅から道を東にとり、津田川を渡ると雨滝山南麓の丘陵に出あう。小道を山の手にむかうと約20分で石井地区に出る。石井地区自治会館の敷地に石井廃寺跡がある。基壇と塔心礎がわずかに残る。出土瓦には古代の優美なものが多く、白鳳期の創建と推定されている」、とあったからです。しかし、迷った末、結局は辿り着けませんでした。
 次いで私は、第87番札所補陀落山長尾寺(ながおじ、天台宗)へ向かいました。この寺での見ものは、仁王門の前にあります一対の経幢(きょうどう、重文)でありましょう。経幢といいますのは、淡交社刊、財団法人京都府文化財保護基金編「文化財用語辞典」によりますと、「石柱に仏典を刻したもの。中に経巻・仏像等を納めるものもある」ということですが、「香川県の歴史散歩」には、ここの経幢の「1基の銘に『弘安(1278〜88)」第九天五月日大願主』とあり、元寇(げんこう)の役に出陣した讃岐将兵の霊を弔うため建立したと伝える」(ルビは括弧で表記)とあります。
 長尾寺を後にした私は、県道3号線を進み、国道377号線へと左折し、結願の札所である医王山大窪寺(おおくぼじ、真言宗大覚寺派)へ向かいました。この寺には多宝塔がありますが、本堂の背後の狭い所に建っており、写真を撮るには、すこぶる具合が悪い状況にありました。
 この多宝塔について、中西亨先生の「日本塔総鑑」には次のように紹介されています。

 ここの塔は多宝塔型ではあるが、普通の独立した塔とちがい、本堂の奥殿の上に多宝塔の上層をのせたもので、従って下層の方は普通の仏堂の形をしており、前に中殿・礼堂が接している。すべて木造で、昭和二十九年後の山を開いて建てられたもので、工事は四年かかったそうである。

 さて、ところどころで書きましたとおり、私の納経帳(アルバム)には、訪れた証拠であります印(写真)が数ヵ寺ありませんが、とにもかくにも、これで四国八十八ヵ所を巡り終えたことになります。信仰心からではありませんでしたが、ほっとしたのも、偽らざる気持ちでした。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 18:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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