2008年12月24日

西光寺を再訪

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅の最後の塔のある西光寺を、再び訪れる機会を得ましたが、その前に。

 西光寺から宿へ戻った私は、準備されていました朝食を摂った後、まず、「二十四の瞳」の舞台となりました岬の分教場へ向かいました。言申し上げるまでもないことながら、それは既に廃校となっていて観光地の一つとなっていますが、疎開先での小学校を思い出させる懐かしいものでした。そこから少し先に、高峰秀子が主役の「おんな先生」を演じた映画「二十四の瞳」を撮影した時のセットが、そのまま残されて映画村として観光施設化されていましたが、そこは割愛して、寒霞渓(国名勝)へ向かいました。紅雲亭というロープウェイの乗場まで行き、山頂までロープウェイで往復しましたが、この時は眼が覚めるような新緑に覆われた光景を満喫することができました。
 そして、寒霞渓ブルーラインで山頂まで行き、更に銚子渓に立ち寄って、昼食として小豆島の名産のソーメンを食しました。次いで、小豆島スカイラインを辿って土庄町へ向かいましたが、途中でスカイラインから逸れ、重要民俗資料の中山農村歌舞伎舞台を見物した後、土庄町へと車を進め再び西光寺を訪れました。

 放哉は一八八五(明治一八)年鳥取市立川町生まれ、一高時代に一級上の自由律俳句の荻原井泉水と出あった。東大法学部を卒業後、就職したものの酒でしくじり放浪、夫人とも別れた。明石(兵庫県)の須磨寺や京都の竜岸寺の寺男を転々とし、一九二五(大正一四)年の夏、井泉水の高弟で淵崎の俳人井上一二(文八郎)が、西光寺住職との俳句の交遊関係のつてで、放哉を西光寺奥の院である南郷庵に招いた。すでに肺を病み、遍路の施しをうける八ヵ月ばかりの蟄居生活であったが、彼の自由律俳句の決定的な作品はこの地のものが多い。(ルビ省略)

 上は、「香川県の歴史散歩」からの引用ですが、以前に見ました「遍路国往還記」には、「浅黄色の風呂敷包み一つ持って、尾崎放哉は小豆島土庄の港へ着いた。(中略)放哉は島の第五十八番札所である西光寺の奥院南郷庵に入った。庵はお大師さまをまつった六畳、居間の八畳、台所の三畳という簡素なもので、西に窓が一つある」とあり、「障子あけて置く海も暮れきる」という一句が挙げられています。吉村昭の「海は暮れきる」という伝記小説の題名は、この句から採ったのでありましょう。
 その「海は暮れきる」は、放哉が妻と別れて西光寺に辿り着くまでの間には、「京都知恩院塔頭常称院の寺男になったが、そこを追われ、兵庫須磨寺をへて福井県小浜町の常高寺の寺男にもなった」とあります。京都の竜岸寺、そして京都の知恩院の塔頭の常称院については、実際にあるのかどうか確認していませんが、須磨寺(福詳寺)には三重塔があり、拙著「近畿・岡山篇」で訪れており、小浜町とあるのは申し上げるまでもなく、最近、次期アメリカ大統領のオバマ氏との関連で有名になりました現在の小浜市で、そこにある常高寺については、拙著「中部日本篇」で訪れました。これらの寺を訪れました時には既に「海は暮れきる」は読んでいたので、放哉は、ここの寺男をしていたのだな、と感慨が深いものがありました。
 西光寺の墓地の入口にある、放哉の終焉の南郷庵の跡地と言われる所に造られています尾崎放哉記念館にも行ってみました。記念館は小さなものでありましたが、墓地は明るい光に満ち溢れた高台にあって、そこからの眺めは素晴らしいもので、特に西光寺の三重塔を遠望するには、ここが最適ではないかと思われました。しかし、記念館には誰もいず、中を見学することはできませんでした。放哉ファンの方ならば、前もって西光寺へ連絡して訪れられた方が良いでしょう。
(長くなりますが、ここで止めるのは中途半端ですので続けます)
 昨日、「小豆島には二度と来ることはないであろうと思った」と書きましたが、平成13年の8月、備中、美作の塔をめぐった旅の3日目となる8月18日に再訪する機会を作り、新岡山港から高速艇で小豆島の土庄港へ渡り、西光寺へ向かいました。

 家並の中に入り、細い道をたどると寺の前に出た。王子山おやゆびサイン華院西光寺という大きな木札が門柱にかけられている。小豆島霊場八十八ヵ所第五十八番の札所で、由緒ある寺らしい風格が感じられた。山門の前には、右に地蔵菩薩、左に弥勒菩薩の石仏があり、境内は薄暗い。銀杏の巨樹が、空をおおっていた。

 上は、「海は暮れきる」の一節であり、放哉が西光寺を初めて訪れた時の描写である。時は大正時代であり、実際にあったことに忠実と思われますものの、あくまでも小説ではありますが、私が訪れた時も、町並みなどは、それほど変わっていないのではないかと思われました。ただし、その頃にはなかった三重塔に眼を奪われていて、石仏には気がつきませんでした。なお、土庄港からのバス便もあり、坂手行新町バス停下車5分ということでありますが、15分ほどの道程なので歩いて訪れることをお薦めします。
 さて、境内に入りますと、自転車で出かけようとしてされている年輩の男性がおられました。申し上げるまでもなく瀬尾哲命師とは面識はありませんでしたが、間違いなく瀬尾師であると思われましたので声をおかけしたところ、そのとおりでありました。外出のご用向きの妨げになってはと思い、いろいろお聞きしたいこともありましたが止めました。そんなわけで、束の間のことではありましたが、お話ができたのは幸いでありました。上の小説には、放哉が西光寺に身を寄せた時の住職の名を「杉本宥玄」としていますが、本名なのかどうか。本名とすれば、現在の住職の瀬尾哲命師とは、どのような関係なのか、特に確かめてはいません。
 私は午後1時50分発の高速艇で小豆島を後にしましたが、前に書きました法然寺の五重塔の拝観のため、もう一度、四国を訪れることができますかどうか。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 15:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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