2008年12月25日

いよいよ九州なのですが……

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、いよいよ九州なのですが、九州は、塔そのものが少ないうえに、古い塔は5本の指にも足りません。それは追々に見ていくこととなります。

 四国に渡った日の日記で、「古事記」(岩波書店刊)の記述を引用しました。その末尾は「土左國は建依別と謂ふ」(ルビ省略。以下、同書からの引用について同じ)でしたが、それに続いて「次に隱伎の三子島を生みき。亦の名は天之ハート2(われている)許呂別」とあり、更に続けて次のように記されています。

 ……次に筑紫島を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫國は白日別と謂ひ、豐國は豐日別と謂ひ、肥國は建日向日豐久士比泥別と謂ひ、熊時計國は建日別と謂ふ。

 古事記に四つと記されている国数は、山川出版社刊「図説歴史散歩事典」に拠りますと、「701年(大宝元)の令制で畿内・七道の制となり、58国3島(壱岐・対馬・多褹)、824年(天長元)に66国2島(壱岐・対馬)、『延喜式』で68国となった」(ルビ省略)ということです。そして、筑紫国が筑前・筑後に、豊国が豊前・豊後に、肥国は肥前・肥後に、熊曽国は薩摩・大隅に分けられました。その後、日向という国ができましたが、現在の宮崎県となる日向国については、宮崎県を訪れた時に、詳しく書くこととします。
 ところで、上に「延喜式」とありますが、吉田孝著「古代国家の歩み」には、寛平九年(八九七)に即位した醍醐天皇の時代に制定されたという「延喜式」について、次のように記されています。

 醍醐天皇の時代には、国史(『日本三代実録』)や格式(『延喜挌』『延喜式』)が編纂される。なかでも『延喜式』五〇巻は、律令の施行細則である式を集大成したもので、律令制の百科便覧の趣をもち、公事や年中行事の典拠として永く尊重された。日本の律令格式のなかで、ほぼ完全な形で今日に伝えられたのが『延喜式』だけであるのは、単なる偶然でなく、そのような特色によるものであろう。(ルビ省略)

 この旅日記で最初に訪れますのは福岡県で、延喜式の国名でいえば、筑前・筑後そして豊前の北部であります。「福岡県の歴史散歩」は、福岡県を「北九州――諸文化の源流」、「福岡――大陸文化の潮騒」、「筑後――磐井の故郷」、そして「筑豊――修験道文化と香春岳」の四つに区分して記していますが、層塔は、前三者にしかありません。もっとも後に見ますが、筑豊地域には塔跡が幾つか遺っています。右の書に準ずるわけではありませんが、この旅も、上の順序で塔めぐりをすることとし、途中の道筋にある塔跡を訪ねることとします。

 平成15年8月9日、私は一人、大分空港へ降り立ちました。そして、予約してあったレンタカーで、杵築(きつき)市街にありまする武家屋敷跡、宇佐の大楽寺、宇佐八幡宮(弥勒寺跡)、虚空蔵寺跡、そして中津市の郊外にある瑞福寺などを訪れましたが、そこはまだ大分県内です。しかし結局この時の旅の第1日目は、大分県内でとどまることとなり、中津市の中心部のビジネスホテルに旅の第一夜の宿を求めました。ホテルで眼を通した「大分県の歴史散歩」には、「旧豊前(ぶぜん)国は周防灘(すおうなだ)に面してほぼ南北に連なる小国で、企救(きく)・京都(みやこ)・仲津(なかつ)・田川(たがわ)・築城(ついき)・上毛(こうげ)・下毛(しもげ)・宇佐の八郡からなっていた。明治の府県制成立によって宇佐・下毛の二郡は大分県に、そのほかは福岡県に編入された」(ルビは括弧で表記)とあります。
 九州で最初に訪れますのは、上のような次第で今は福岡県になっており、平成18年3月20日、旧京都郡の勝山町、犀川町と合併し、現在では「みやこ町」となっています旧京都郡豊津町です。「京都郡」という名は、どのようなことに由来するのでしょうか。ひらがなになったとはいえ、「みやこ」という読みが残されたことは、幸いでありました。

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 歳はとりたくないものですね、掲載日に関するインプットを間違えました。日付が変わってしまい、バナーの内容とコメントが違ってしまいました、済みません。ご利用の方がおられましたら、謝罪いたします。ともあれ、こちらを ↓ ご覧ください。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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