2008年12月26日

九州での最初の塔のある寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、九州での最初の塔のある寺を訪れます。

 平成15年8月10日、私は中津市の中心部のホテルを出発し北東へ向かい、市の西端を流れる山国川を渡って、福岡県に入りました。国道10号線から椎名道路に入り、徳永の出口で一般道路へ出て祓川に架かる橋を渡った先で左折し、川沿いの道を進みました。祓川に架かる二つ目の橋の所で右折し、県道238号線を行きますと、やがて右手前方に豊前国分寺の三重塔の相輪が見えてきます。途中々々に豊前国分寺への案内標識がありますので、迷うことなく辿り着けるでしょう。
 この寺を訪れるのは、この時が2度目で、最初の訪れは、平成11年の4月11日でした。その時は福岡に出張し、仕事の方は前日の土曜日の午前中に終了していましたので、午後は後に書きます大分廃寺跡や神興廃寺などをめぐり、個人的に滞在を1日延ばし、日曜日に6時間コースのレンタカーで豊前国分寺をはじめ、幾つかの寺跡をめぐりました。
 ところで、平成10年5月、豊津町役場に観光パンフレットを送って貰えないかと連絡したところ、7部のパンフレットやリーフレットをお送りいただきました。これから見ていきますように、それらは実に質の良いもので、豊津町の文化の高いことが伺われました。みやこ町となった今も、それは受け継がれているに違いないと思いますが、どうでしょうか。
 そのうちの一つ、豊津町作成の「歴史回廊の里」という立派なパンフレットには、次のように記されています。

英彦山を源流に町の中央を貫流する祓川に広がる緑豊かな田園のまち「豊津」は、かつて豊前国の国府が置かれ、政治経済の中心地として栄えていました。
やがて鎌倉時代以降、豊前国府の衰退とともに、豊津の地は歴史の舞台から遠ざかっていきます。
しかし時代が下って、江戸時代の天保年間(1830〜1845)、当時、難行原(ナンギョウバル)と呼ばれていた豊津台地の開発を小笠原藩が始めてから、再び豊津の地は脚光を浴び始めます。
五年の歳月をかけた開発は天保十五年に終り、商人や職人も多く住み、地名も難行原から錦原へと改められました。
そして、まわりの原野の開墾も進み、現在の豊津町の原形ができあがったのです。(原文のママ)

 そして、豊津町作成の「豊津町歴史回廊の里 国史跡豊前国分寺跡」というリーフレットには、「豊前国分寺の変遷」について、次のように記されています。

 天平勝宝8年(756年)、筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向等26国の国分寺に「仏事荘厳具の下賜」がされ、このころまでに豊前国分寺では主要な建物が完成したと考えられています。その後、平安時代にかけて盛んに活動を続けていた諸国の国分寺も、鎌倉時代以降多くが衰退していきました。
 しかし、豊前国分寺は平安時代に天台宗の勢力下に入り、鎌倉・室町時代にもかわらず法灯をともし続けていました。そして、天正年間(1573年〜1592年)初期に戦国大名大友氏の戦火にあい、主要建物はすべて焼失したと伝えられています。その後、天正年間中にはいち早く同地に草庵が結ばれ、本尊薬師如来が造仏安置されました。本格的な再建は、江戸時代以降小笠原藩の援助を受けて当時の歴代住職の努力によって進みました。
 現在敷地内に残る建物のうち本堂は寛文6年(1666年)、鐘楼門は貞享元年(1684年)に建立されたものです。
 なお、国分僧寺の敷地は昭和51年(1976年)に国の史跡に指定されています。

 さて、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めておきます。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 18:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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