お釈


上の文中に、「古来より大変縁起の良いものとして」とありますことには、喉に小骨がつかえているような感じがしないでもありませんが、それはともかく、イラストによる完成予想図を見る限り、墓所となる建物の屋上から建ち上がるといったものながら、塔そのものの形は悪くなさそうでした。そして、何といっても木造であることが嬉しく、既にご存じのこととは思いましたが、さっそく故吉田実氏にご連絡しました。
氏は、やはり既に識っておられ、折り返しいただいた平成5年7月19日付のお手紙には、「何時頃から具体化していたのか、この塔の噂は割合い早い頃から聞いて居りましたが、詳細不詳で居りました。木造塔で着工になる模様、工事の進捗が心待たれます」とありました。心待ちする思いは、私も同じでした。
それから2ヶ月ほど経て、9月16日付のお手紙を同氏からいただきました。それには、「大圓寺・略縁起」、塔建物他境内配置図、五重塔院正面図・側面図、および立面図・断面図・寸法整理表などの貴重な資料が同封されていました。
氏は、「史迹と美術」の平成9年5月発行の第674号から「平成の木造五重塔」というシリーズで、その研究成果の発表を開始されましたが、その3番目として、平成9年8月発行の第677号に、この大圓寺の五重塔を採り挙げられました。以下、それを参照させていただき、寺歷や塔の構造などについて、予備知識として頭に入れておくこととします。
総本山を知恩院とする浄土宗鏡智山慈眼院大圓寺は、福岡市中央区唐人町三丁目一〇番九号に位置し、福岡ドームを指呼の間に望む市街地に所在する。昭和四三年二月、住居表示変更により現在の町名になる

その寺歷については、先にお送りいただいていた「大圓寺・略縁起」に眼を通すこととします。
平安時代……康平三年(一〇六〇)庚子九月朔日。筑前国早良郡西入部村字黒塔(福岡市西区西入部四六五番地)の地に鎮守府將軍従五位下、源頼信公により大圓寺は創建され隆盛をきわむ。其の後平清盛の博多経営と原田氏との挟み打ちにより焼失す。
鎌倉時代……文久八年(一二七一年)頃崇福寺第五祖大応国師(南浦紹明、鎌倉建長寺管長)により中興開山される。
室町時代……度々の戦火により寺運傾く、姪浜興徳寺の支配に入る。(荒平城の戦その他)
江戸時代初期……慶長十二年(一六〇七年)の始め、荒戸山(西公園)荒神堂の西に、黒田如水公夫人光姫の援助をうけ、浄土宗鎮西派の寺院として再建される。
開山上人は豊前国築上郡の豪族、福島刑部の一子源道和尚なり。
江戸時代……慶安二年(一六四九年)荒戸山に東照宮造営の事おこり、荒戸後浜(抱ノ浜)の地を拝領し移転し終る。此の頃より黒田藩士族寺として確立する。(原文のママ。ルビ省略。以下、この「略縁起」からの引用について同じ)
同「略縁起」には、続けて「江戸時代中期」以後のことが記されていますが、それは省略するとしまして、「近代」を見ますと、「明治二十二年福岡に市政が施行され福岡市大圓寺町十四番地が公称となる」と記されています。
この先を続けますと長くなりますので、続きは明日のこととします。
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