2009年05月24日
暫く休まざるを得ませんでした
パソコンが壊れ、年金が頼りの生活で、修理代も新規購入代もままならず、暫く休まざるを得ませんでした。持つべきものは友達で、大学時代の友人がパソコンを無償で譲ってくれ、ようやくブログを書く環境が整いました。ただ、いろいろと処理しなければならないこともあり、ブログは6月に入ってから始めたいと思っています。ご興味のある方は、時折ご覧いただければ幸甚に存じます。
2009年01月08日
大圓寺の五重塔
大圓寺の五重塔の計画当初からの経緯について、故吉田実氏は、昨日も見ました「史迹と美術」に次のように記されています。
……寺院の環境を考慮し、種々試案を研究検討した末、納骨堂塔院を建設してその屋上に五重塔を建て上げる構想に到達し、清水建設株式会社の設計により、第一期工事として鉄筋コンクリート造三階建の塔院に着工された。このときの計画は五重塔も鉄筋コンクリート造で、(中略)福岡市の定める高さ四〇メートルという建築制限に合致するものであった。しかし、仏塔は矢張り木造でなければという念願で、あらためて地元猪ヶ倉建築設計事務所の設計を採用しその準備を進めていたとき、平成三年九月の一九号颱風は西日本の社寺建築に甚大な災害をもたらした。ために設計を検討し直して鉄骨補強構造に変更し見積り合わせの結果、五重塔工事は鹿島建設九州支店の協力を得ることに決まった。(中略)木工事は大坂四天王寺金剛組が担当されることになり、かくして五重塔地鎮起工式の運びとなった。
同著によれば、平成5年10月1日に起工式を執行、同7年10月31日に完成し、同年11月3日に開眼落慶式が執り行われたといいいます。
続けて同著には、「ここに大圓寺五重塔断面詳細図から読み取った数字を報告する」として、塔高などについて記されていますが、それは次のとおりです。すなわち、基壇上塔身の高さは60・80尺(18・422メートル)、相輪の長さは25・41尺(7・69メートル)、基壇上の塔総高は86・21尺(26・121メートル)で、これに塔院の高さを加えると、地上の塔総高は124・95尺(37・860メートル)といいます。
そして氏は、「堅固な鉄骨構造によって建造物強度を確保されるこの塔にあっては、軒廻りの木組は外装化粧材として用が足りる」とされたうえ、次のように記されています。
鉄骨補強構造木造五重塔は昭和五八年四月、大分県宇佐郡安心院町、大建寺五重塔で松井建設株式会社社寺建築部が開発施工した工法を嚆矢とするようである。私共が塔に参詣し見事な木造建造物として拝観するのはその外容と軒下の巧みな木組の妙であって、軸部内部の構造は目にする機会が無い。建物を木造で多重に積み上げる技法には、耐風耐震性能や経年縮寸による変形対策等の問題点の研究と熟達が永年伝承されて来たが、代って鉄骨補強構造が採用されてもそれは見隠れの楽屋裏での出来事である。寧ろ構造計算により強度に充分の効果が有り、長期的に外観の変形が防止され、更に今後次第に入手困難が予想される良質長尺物木材にとって代わるようになると云うのであれば、昭和、平成の時代の木造多重塔の新技術として容認されるのではなかろうか。但しこの新技法の遠隔成績は今後の研究課題である。(原文のママ)
さて、そんな予備知識をもって私が大圓寺を初めて訪れましたのは、平成10年の6月14日でありました。この時も出張の機会を利用したのですが、昨夜の宿を福岡市営地下鉄の天神駅の近くに求めていた私は、その天神駅から地下鉄で3つ目の唐人町駅で下車、進行方向の後方の出口から左側の階段を昇りました。地上に出ますと、すぐ眼の前に西日本銀行がありますが、そのすぐ先の黒門西の信号の所で左折し、唐人町商店街を横切って暫く行きますと、燦然と輝く相輪を付けた朱塗りの五重塔が見えてきます。唐人町駅から、五分ほどの距離です。
五重塔は、やや古さびた本堂の裏手に建っています。本堂の右手の墓地に入り、そこから数枚の写真を撮りましたが、その墓石に彫られた戒名が金色に輝いているのを珍しく眺めましたものの、墓石が邪魔になります。
境内から外に出て、門の左手の道を少し行きますと、塔の全容が見られる場所に出ます。しかし、五重塔は塔院の屋上から建ち上がっていますので、下から仰ぎ見るしかありません。しかも周辺は住宅が建て込んでおり、塔の基壇から相輪の先端までをカメラに収めるのは難しいのですが、幸い小さい空間ながら公園があります。しかし、最後部まで下が
って身体を反らせてカメラを向けましても、ファインダーに塔の全容が入りません。もちろん、軒下の木組などは、望遠鏡でも用意していない限り、その状況は判りません。この時は小雨模様であったので光線の具合など気になりませんでしたが、塔は西向きに建っていますので、小公園からの写真撮影は午後でなければなりません。この寺は、平成14年の2月1日に再訪していますが、この時は24ミリのワイドなレンズの用意がありましたので、何とか塔の全容を収めることができましたものの、でき映えは余り良くありませんでした。
写真のリンクを許可していただいている同好の方も苦労されたようですが、こちらの写真を ↓ ご覧ください。なお、今日の時点では、写真だけをご覧いただき、塔の説明文は無視してください。写真のリンク提供者は、どこかの塔と間違えておられるようで、この後、直ちにご連絡するつもりでいますので、そのうち訂正されると思います。
http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/40fukuoka/daien5/daien5.html
さて、どちらかと言いますと、これまでは女性向けの商品のご紹介が多かったのですが、今日は、男性専用というわけではありませんものの、ファイティングロード社の、トレーニング器具などを、ご紹介します。こちらを ↓ どうぞ。

……寺院の環境を考慮し、種々試案を研究検討した末、納骨堂塔院を建設してその屋上に五重塔を建て上げる構想に到達し、清水建設株式会社の設計により、第一期工事として鉄筋コンクリート造三階建の塔院に着工された。このときの計画は五重塔も鉄筋コンクリート造で、(中略)福岡市の定める高さ四〇メートルという建築制限に合致するものであった。しかし、仏塔は矢張り木造でなければという念願で、あらためて地元猪ヶ倉建築設計事務所の設計を採用しその準備を進めていたとき、平成三年九月の一九号颱風は西日本の社寺建築に甚大な災害をもたらした。ために設計を検討し直して鉄骨補強構造に変更し見積り合わせの結果、五重塔工事は鹿島建設九州支店の協力を得ることに決まった。(中略)木工事は大坂四天王寺金剛組が担当されることになり、かくして五重塔地鎮起工式の運びとなった。
同著によれば、平成5年10月1日に起工式を執行、同7年10月31日に完成し、同年11月3日に開眼落慶式が執り行われたといいいます。
続けて同著には、「ここに大圓寺五重塔断面詳細図から読み取った数字を報告する」として、塔高などについて記されていますが、それは次のとおりです。すなわち、基壇上塔身の高さは60・80尺(18・422メートル)、相輪の長さは25・41尺(7・69メートル)、基壇上の塔総高は86・21尺(26・121メートル)で、これに塔院の高さを加えると、地上の塔総高は124・95尺(37・860メートル)といいます。
そして氏は、「堅固な鉄骨構造によって建造物強度を確保されるこの塔にあっては、軒廻りの木組は外装化粧材として用が足りる」とされたうえ、次のように記されています。
鉄骨補強構造木造五重塔は昭和五八年四月、大分県宇佐郡安心院町、大建寺五重塔で松井建設株式会社社寺建築部が開発施工した工法を嚆矢とするようである。私共が塔に参詣し見事な木造建造物として拝観するのはその外容と軒下の巧みな木組の妙であって、軸部内部の構造は目にする機会が無い。建物を木造で多重に積み上げる技法には、耐風耐震性能や経年縮寸による変形対策等の問題点の研究と熟達が永年伝承されて来たが、代って鉄骨補強構造が採用されてもそれは見隠れの楽屋裏での出来事である。寧ろ構造計算により強度に充分の効果が有り、長期的に外観の変形が防止され、更に今後次第に入手困難が予想される良質長尺物木材にとって代わるようになると云うのであれば、昭和、平成の時代の木造多重塔の新技術として容認されるのではなかろうか。但しこの新技法の遠隔成績は今後の研究課題である。(原文のママ)
さて、そんな予備知識をもって私が大圓寺を初めて訪れましたのは、平成10年の6月14日でありました。この時も出張の機会を利用したのですが、昨夜の宿を福岡市営地下鉄の天神駅の近くに求めていた私は、その天神駅から地下鉄で3つ目の唐人町駅で下車、進行方向の後方の出口から左側の階段を昇りました。地上に出ますと、すぐ眼の前に西日本銀行がありますが、そのすぐ先の黒門西の信号の所で左折し、唐人町商店街を横切って暫く行きますと、燦然と輝く相輪を付けた朱塗りの五重塔が見えてきます。唐人町駅から、五分ほどの距離です。
五重塔は、やや古さびた本堂の裏手に建っています。本堂の右手の墓地に入り、そこから数枚の写真を撮りましたが、その墓石に彫られた戒名が金色に輝いているのを珍しく眺めましたものの、墓石が邪魔になります。
境内から外に出て、門の左手の道を少し行きますと、塔の全容が見られる場所に出ます。しかし、五重塔は塔院の屋上から建ち上がっていますので、下から仰ぎ見るしかありません。しかも周辺は住宅が建て込んでおり、塔の基壇から相輪の先端までをカメラに収めるのは難しいのですが、幸い小さい空間ながら公園があります。しかし、最後部まで下が
って身体を反らせてカメラを向けましても、ファインダーに塔の全容が入りません。もちろん、軒下の木組などは、望遠鏡でも用意していない限り、その状況は判りません。この時は小雨模様であったので光線の具合など気になりませんでしたが、塔は西向きに建っていますので、小公園からの写真撮影は午後でなければなりません。この寺は、平成14年の2月1日に再訪していますが、この時は24ミリのワイドなレンズの用意がありましたので、何とか塔の全容を収めることができましたものの、でき映えは余り良くありませんでした。
写真のリンクを許可していただいている同好の方も苦労されたようですが、こちらの写真を ↓ ご覧ください。なお、今日の時点では、写真だけをご覧いただき、塔の説明文は無視してください。写真のリンク提供者は、どこかの塔と間違えておられるようで、この後、直ちにご連絡するつもりでいますので、そのうち訂正されると思います。
http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/40fukuoka/daien5/daien5.html
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2009年01月07日
福岡県いや九州で二番目の塔へ
ようやく、福岡県、と言いますより九州で2番目の塔を訪れることになりますが、その大圓寺(だいえんじ)の五重塔を識りましたのは、実に思いがけない偶然からでありました。私は平成5年の7月9日から10日にかけまして、JR鹿児島本線沿いにある塔のある寺をめぐりました。その帰路、福岡空港で時間待ちと空腹を癒すために入った寿司屋で、ふと、福岡名店百選会発行の小冊子「月刊はかた」を手にしたのですが、墓所販売の宣伝の中に、この塔のことが掲載されていたのです。それには、「都会に咲く新名所、大圓寺『五重の塔』が誕生します」というキャッチフレーズのもとに、次のように記されていました。
お釈
様のお墓として、古来より大変縁起の良いものとして祭られてきた「五重の塔」。平成七年の秋頃、福岡の都心に初めて木造「五重の塔」が建立されます。当寺ではその礼拝の対象であるお釈
様のお墓の下に、墓所をつくりました。墓相についても理想に近いものです。たくさんのお墓をやさしく守って建つ美しいこの塔は、福岡の方々の新しい心の拠り所となることでしょう。
上の文中に、「古来より大変縁起の良いものとして」とありますことには、喉に小骨がつかえているような感じがしないでもありませんが、それはともかく、イラストによる完成予想図を見る限り、墓所となる建物の屋上から建ち上がるといったものながら、塔そのものの形は悪くなさそうでした。そして、何といっても木造であることが嬉しく、既にご存じのこととは思いましたが、さっそく故吉田実氏にご連絡しました。
氏は、やはり既に識っておられ、折り返しいただいた平成5年7月19日付のお手紙には、「何時頃から具体化していたのか、この塔の噂は割合い早い頃から聞いて居りましたが、詳細不詳で居りました。木造塔で着工になる模様、工事の進捗が心待たれます」とありました。心待ちする思いは、私も同じでした。
それから2ヶ月ほど経て、9月16日付のお手紙を同氏からいただきました。それには、「大圓寺・略縁起」、塔建物他境内配置図、五重塔院正面図・側面図、および立面図・断面図・寸法整理表などの貴重な資料が同封されていました。
氏は、「史迹と美術」の平成9年5月発行の第674号から「平成の木造五重塔」というシリーズで、その研究成果の発表を開始されましたが、その3番目として、平成9年8月発行の第677号に、この大圓寺の五重塔を採り挙げられました。以下、それを参照させていただき、寺歷や塔の構造などについて、予備知識として頭に入れておくこととします。
総本山を知恩院とする浄土宗鏡智山慈眼院大圓寺は、福岡市中央区唐人町三丁目一〇番九号に位置し、福岡ドームを指呼の間に望む市街地に所在する。昭和四三年二月、住居表示変更により現在の町名になる
は大圓寺町一四番地が公称されていたように、当地方の中核寺院であった寺歷がうかがわれる。
その寺歷については、先にお送りいただいていた「大圓寺・略縁起」に眼を通すこととします。
平安時代……康平三年(一〇六〇)庚子九月朔日。筑前国早良郡西入部村字黒塔(福岡市西区西入部四六五番地)の地に鎮守府將軍従五位下、源頼信公により大圓寺は創建され隆盛をきわむ。其の後平清盛の博多経営と原田氏との挟み打ちにより焼失す。
鎌倉時代……文久八年(一二七一年)頃崇福寺第五祖大応国師(南浦紹明、鎌倉建長寺管長)により中興開山される。
室町時代……度々の戦火により寺運傾く、姪浜興徳寺の支配に入る。(荒平城の戦その他)
江戸時代初期……慶長十二年(一六〇七年)の始め、荒戸山(西公園)荒神堂の西に、黒田如水公夫人光姫の援助をうけ、浄土宗鎮西派の寺院として再建される。
開山上人は豊前国築上郡の豪族、福島刑部の一子源道和尚なり。
江戸時代……慶安二年(一六四九年)荒戸山に東照宮造営の事おこり、荒戸後浜(抱ノ浜)の地を拝領し移転し終る。此の頃より黒田藩士族寺として確立する。(原文のママ。ルビ省略。以下、この「略縁起」からの引用について同じ)
同「略縁起」には、続けて「江戸時代中期」以後のことが記されていますが、それは省略するとしまして、「近代」を見ますと、「明治二十二年福岡に市政が施行され福岡市大圓寺町十四番地が公称となる」と記されています。
この先を続けますと長くなりますので、続きは明日のこととします。
さて今日は、ちょっと変わった女性向けの商品をご紹介します。もっとも、貴女は必要ないかもしれませんね。TVショッピングでも人気になったといいます姿勢ウォーカーですが、こちらを ↓ ご覧ください。

お釈


上の文中に、「古来より大変縁起の良いものとして」とありますことには、喉に小骨がつかえているような感じがしないでもありませんが、それはともかく、イラストによる完成予想図を見る限り、墓所となる建物の屋上から建ち上がるといったものながら、塔そのものの形は悪くなさそうでした。そして、何といっても木造であることが嬉しく、既にご存じのこととは思いましたが、さっそく故吉田実氏にご連絡しました。
氏は、やはり既に識っておられ、折り返しいただいた平成5年7月19日付のお手紙には、「何時頃から具体化していたのか、この塔の噂は割合い早い頃から聞いて居りましたが、詳細不詳で居りました。木造塔で着工になる模様、工事の進捗が心待たれます」とありました。心待ちする思いは、私も同じでした。
それから2ヶ月ほど経て、9月16日付のお手紙を同氏からいただきました。それには、「大圓寺・略縁起」、塔建物他境内配置図、五重塔院正面図・側面図、および立面図・断面図・寸法整理表などの貴重な資料が同封されていました。
氏は、「史迹と美術」の平成9年5月発行の第674号から「平成の木造五重塔」というシリーズで、その研究成果の発表を開始されましたが、その3番目として、平成9年8月発行の第677号に、この大圓寺の五重塔を採り挙げられました。以下、それを参照させていただき、寺歷や塔の構造などについて、予備知識として頭に入れておくこととします。
総本山を知恩院とする浄土宗鏡智山慈眼院大圓寺は、福岡市中央区唐人町三丁目一〇番九号に位置し、福岡ドームを指呼の間に望む市街地に所在する。昭和四三年二月、住居表示変更により現在の町名になる

その寺歷については、先にお送りいただいていた「大圓寺・略縁起」に眼を通すこととします。
平安時代……康平三年(一〇六〇)庚子九月朔日。筑前国早良郡西入部村字黒塔(福岡市西区西入部四六五番地)の地に鎮守府將軍従五位下、源頼信公により大圓寺は創建され隆盛をきわむ。其の後平清盛の博多経営と原田氏との挟み打ちにより焼失す。
鎌倉時代……文久八年(一二七一年)頃崇福寺第五祖大応国師(南浦紹明、鎌倉建長寺管長)により中興開山される。
室町時代……度々の戦火により寺運傾く、姪浜興徳寺の支配に入る。(荒平城の戦その他)
江戸時代初期……慶長十二年(一六〇七年)の始め、荒戸山(西公園)荒神堂の西に、黒田如水公夫人光姫の援助をうけ、浄土宗鎮西派の寺院として再建される。
開山上人は豊前国築上郡の豪族、福島刑部の一子源道和尚なり。
江戸時代……慶安二年(一六四九年)荒戸山に東照宮造営の事おこり、荒戸後浜(抱ノ浜)の地を拝領し移転し終る。此の頃より黒田藩士族寺として確立する。(原文のママ。ルビ省略。以下、この「略縁起」からの引用について同じ)
同「略縁起」には、続けて「江戸時代中期」以後のことが記されていますが、それは省略するとしまして、「近代」を見ますと、「明治二十二年福岡に市政が施行され福岡市大圓寺町十四番地が公称となる」と記されています。
この先を続けますと長くなりますので、続きは明日のこととします。
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2009年01月06日
次の塔へ行く前に、もう一日、寄り道です
五重塔、三重塔をめぐる旅は、寄り道が続いていますが、次の塔へ行く前に、もう一日、寄り道をします。
時を確認しますと平成11年の旅とも言えない小さな旅の時ですが、4月10日、大分廃寺跡を見学した後、博多駅まで戻った私は、JR鹿児島本線で東福間駅まで行き、そこからタクシーで神興廃寺跡、というより神興神社へ向かいました。「福岡県の歴史散歩」には、「畦町(あぜまちしゅく)宿と神興(じんごう)神社」(ルビは括弧で表記)という小見出しがあり、「JR福間駅JRバス福丸行畦町下車五分」とあったうえ、次のように記されています。
畦町宿は筑前27宿の一つ、南北に通じる町並には寄棟造中2階の家が少し遺っており宿場町の名残が感じられる。(中略)畦町宿から西へ30分ほど歩くと福間東中学校に隣接して神興神社がある。神社の境内に置かれている手洗石は、隣接丘陵上にあった寺院(神興廃寺)の塔心礎を移したもの。上面の枘穴は、径56・3p、深さ8・2pでかなり大きい。古瓦も奈良時代末から平安時代にかけてのものが出土しており、そのなかには「延喜11(911)年」と記されているものもある。(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)
何かあるんですか、との運転手の質問に応えますと、「へぇー、あんな所に、そんなものがあるとは知らなかった」、という意味の土地の言葉が返ってきました。なるほど神社は、拡張されたと想われます道の傍らに忘れられたようにしてあり、私のような者でないかぎり、近隣の人が初詣に来るだけであろうと思われました。
この廃寺について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、「この神社は高い石段の上にあり、心礎はもとこの下の方にあったらしい」とあり、「心礎の大きさは一・八メートル×一・四メートル」とあって、更に「創建年代は奈良時代も古い方であろう」とあります。
上で見ましたとおり、神興神社が福間東中学校に隣接してあるとのことであり、道路地図で見る限り東福間駅からの方が近かったので同駅からタクシーを利用したのですが、「博多まで戻るなら福間駅へ出た方が快速も停まるので便利で、料金も東福間駅へ戻るのと変わらない」と運転手が言いますので、帰りは福間駅まで行って貰いました。
ここで時を平成14年2月1日へと移しますが、この時も福岡出張の機会を利用しまして、市営地下鉄箱崎線で箱崎宮前駅まで行き、筥崎宮を訪れました。筥崎宮について「福岡県の歴史散歩」には、次のように記されています。
JR箱崎駅より西へ5分ほどのところに、日本三大八幡宮の一つ筥崎宮(祭神応神天皇・神功皇后・玉依姫命)がある。筥崎宮は923(延暦元)年筑前大分(嘉穂郡筑穂町)より、今の地に遷座された。(中略)
一の鳥居(国重文)は藩主黒田長政が1609(慶長14)年に、楼門(国重文)は1594(文禄3)年に小早川隆景が、本殿・拝殿(ともに国重文)は1546(天文15)年に大内義隆が、それぞれ建立したものである。
上に、筑前大分より今の地に遷座されたとありますが、私は訪れていませんものの、同書によれば、筑前大分駅から7分ぐらいの所に大分八幡宮があるといいます。
筥崎宮には、塔もなければ塔跡もありませんが、楼門、本殿、拝殿などは見応えがありましたし、同書に、「境内には、楼門のそばに神木である筥松、謡曲『唐船』にちなんだ唐船塔、蒙古碇石(県文化)などがある」とあるものなども、興味をそそられるものでありました。唐船塔というのは、石塔です。
そうと知っていて、この時期に訪れたわけではありませんが、寒牡丹が盛りで、私は牡丹の花が大好きですので、みごとな花を咲かせた寒牡丹を堪能することができましたのはラッキーでした。
さて、何と言いましても健康第一ですが、健康維持には色々な方法があると思います。その一つとして、スーパーミネラル水などは如何でしょう。こちらで ↓ どうぞ。
時を確認しますと平成11年の旅とも言えない小さな旅の時ですが、4月10日、大分廃寺跡を見学した後、博多駅まで戻った私は、JR鹿児島本線で東福間駅まで行き、そこからタクシーで神興廃寺跡、というより神興神社へ向かいました。「福岡県の歴史散歩」には、「畦町(あぜまちしゅく)宿と神興(じんごう)神社」(ルビは括弧で表記)という小見出しがあり、「JR福間駅JRバス福丸行畦町下車五分」とあったうえ、次のように記されています。
畦町宿は筑前27宿の一つ、南北に通じる町並には寄棟造中2階の家が少し遺っており宿場町の名残が感じられる。(中略)畦町宿から西へ30分ほど歩くと福間東中学校に隣接して神興神社がある。神社の境内に置かれている手洗石は、隣接丘陵上にあった寺院(神興廃寺)の塔心礎を移したもの。上面の枘穴は、径56・3p、深さ8・2pでかなり大きい。古瓦も奈良時代末から平安時代にかけてのものが出土しており、そのなかには「延喜11(911)年」と記されているものもある。(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)
何かあるんですか、との運転手の質問に応えますと、「へぇー、あんな所に、そんなものがあるとは知らなかった」、という意味の土地の言葉が返ってきました。なるほど神社は、拡張されたと想われます道の傍らに忘れられたようにしてあり、私のような者でないかぎり、近隣の人が初詣に来るだけであろうと思われました。
この廃寺について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、「この神社は高い石段の上にあり、心礎はもとこの下の方にあったらしい」とあり、「心礎の大きさは一・八メートル×一・四メートル」とあって、更に「創建年代は奈良時代も古い方であろう」とあります。
上で見ましたとおり、神興神社が福間東中学校に隣接してあるとのことであり、道路地図で見る限り東福間駅からの方が近かったので同駅からタクシーを利用したのですが、「博多まで戻るなら福間駅へ出た方が快速も停まるので便利で、料金も東福間駅へ戻るのと変わらない」と運転手が言いますので、帰りは福間駅まで行って貰いました。
ここで時を平成14年2月1日へと移しますが、この時も福岡出張の機会を利用しまして、市営地下鉄箱崎線で箱崎宮前駅まで行き、筥崎宮を訪れました。筥崎宮について「福岡県の歴史散歩」には、次のように記されています。
JR箱崎駅より西へ5分ほどのところに、日本三大八幡宮の一つ筥崎宮(祭神応神天皇・神功皇后・玉依姫命)がある。筥崎宮は923(延暦元)年筑前大分(嘉穂郡筑穂町)より、今の地に遷座された。(中略)
一の鳥居(国重文)は藩主黒田長政が1609(慶長14)年に、楼門(国重文)は1594(文禄3)年に小早川隆景が、本殿・拝殿(ともに国重文)は1546(天文15)年に大内義隆が、それぞれ建立したものである。
上に、筑前大分より今の地に遷座されたとありますが、私は訪れていませんものの、同書によれば、筑前大分駅から7分ぐらいの所に大分八幡宮があるといいます。
筥崎宮には、塔もなければ塔跡もありませんが、楼門、本殿、拝殿などは見応えがありましたし、同書に、「境内には、楼門のそばに神木である筥松、謡曲『唐船』にちなんだ唐船塔、蒙古碇石(県文化)などがある」とあるものなども、興味をそそられるものでありました。唐船塔というのは、石塔です。
そうと知っていて、この時期に訪れたわけではありませんが、寒牡丹が盛りで、私は牡丹の花が大好きですので、みごとな花を咲かせた寒牡丹を堪能することができましたのはラッキーでした。
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2009年01月05日
今日も寄り道ですが
五重塔、三重塔をめぐる旅は、今日も寄り道です。
平成15年のことになりますが、私は、みやこ町と行橋市の境に当たります八景山から国道496号線を北上しました。行橋市の中心部を流れる今川に架かる今川橋を渡りますと、国道は直角に左に折れ少し行った先で更に直角に右に折れます。更に少し行った先、突き当たった所が国道201号線で、そこを左に折れ、少し行った先で右に折れ、県道28号線(直方行橋線)に入りました。この道は平尾台への道ですが、3・5キロほど行きますと左手に椿市小学校があります。小学校の少し先、道が平尾台への登りにさしかかる手前辺り、今でもありますかどうか左手の酒店のすぐ手前の道を右折しますと、左前方の小さな森の中に、願光寺という寺があり、その境内が目指す椿市(つばいち)廃寺跡になります。右折した道は小型車がやっと、といった細さですので、酒店の辺りに車を駐め、歩いて行った方が無難でしょう。
現地には、行橋市教育委員会によって立てられた説明板があり、それには次のように記されていました。なお、同説明板によれば、この廃寺跡は、昭和56年2月2日、市の史跡に指定されたといいます。
椿市廃寺は、九州における初期寺院の一つで7世紀末から8世紀の初めに建てられた古代寺院跡である。
現在までの調査により、椿市廃寺は塔、金堂、講堂といった主要な建物が南北に一直線にならぶ九州では稀な四天王寺式の伽藍配置である。
講堂跡は、遺構の保存状態が良く乱石積の基壇や礎石が残っている。建物は7間×4間で、基壇の規模は、東西27m、南北18mほどである。
塔は、参道の西脇に心礎が残っている。花崗岩の巨石で上面に直径65pの円形の柱穴がある。この心礎は、現在の位置より約20mほど南から出土したと伝えられ、その付近に三重塔が建っていたと推定される。
本尊を安置した金堂の遺構は未確認であるが、講堂と塔の間に位置するものと考えられる。
講堂の東側では回廊跡と考えられる柱穴の列が見つかっていて、東西74m、南北100mの範囲に主要伽藍があったと考えている。回廊の外側でも寺院に関連すると考えられる建物跡が確認されているため、寺域はさらに広がるであろう。
出土する瓦の文様には、朝鮮半島の百済、高句麗、新羅など三国時代の影響が認められるものが多い。また、奈良の平城宮と同じ文様(同笵)の瓦も出土していて、中央政府とも何らかの関係があったものと思われる。
このように多彩な文化に彩られた椿市廃寺は、古代仏教文化を考える上で極めて重要な史跡である。(ルビ省略)
願光寺を後にした私は、そのまま県道を北西に進み、平尾台(国天然記念物)を目指ました。わずかの時間ではありましたものの眺めを楽しんだのですが、この旅日記としては全く関係ありませんので、先へ進むこととします。
平尾台を下り国道322号線に出た私は、4キロほど先にあります小倉南インターから九州自動車道に入り、一気に八女インターまで車を駆しらせたのですが、九州自動車道は、平成17年1月24日、旧津屋崎町と合併し今は福津市となっています旧福間町をかすめます。
ちょっと中途半端なのですが、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めることとします。したがって、明日も寄り道になります。
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平成15年のことになりますが、私は、みやこ町と行橋市の境に当たります八景山から国道496号線を北上しました。行橋市の中心部を流れる今川に架かる今川橋を渡りますと、国道は直角に左に折れ少し行った先で更に直角に右に折れます。更に少し行った先、突き当たった所が国道201号線で、そこを左に折れ、少し行った先で右に折れ、県道28号線(直方行橋線)に入りました。この道は平尾台への道ですが、3・5キロほど行きますと左手に椿市小学校があります。小学校の少し先、道が平尾台への登りにさしかかる手前辺り、今でもありますかどうか左手の酒店のすぐ手前の道を右折しますと、左前方の小さな森の中に、願光寺という寺があり、その境内が目指す椿市(つばいち)廃寺跡になります。右折した道は小型車がやっと、といった細さですので、酒店の辺りに車を駐め、歩いて行った方が無難でしょう。
現地には、行橋市教育委員会によって立てられた説明板があり、それには次のように記されていました。なお、同説明板によれば、この廃寺跡は、昭和56年2月2日、市の史跡に指定されたといいます。
椿市廃寺は、九州における初期寺院の一つで7世紀末から8世紀の初めに建てられた古代寺院跡である。
現在までの調査により、椿市廃寺は塔、金堂、講堂といった主要な建物が南北に一直線にならぶ九州では稀な四天王寺式の伽藍配置である。
講堂跡は、遺構の保存状態が良く乱石積の基壇や礎石が残っている。建物は7間×4間で、基壇の規模は、東西27m、南北18mほどである。
塔は、参道の西脇に心礎が残っている。花崗岩の巨石で上面に直径65pの円形の柱穴がある。この心礎は、現在の位置より約20mほど南から出土したと伝えられ、その付近に三重塔が建っていたと推定される。
本尊を安置した金堂の遺構は未確認であるが、講堂と塔の間に位置するものと考えられる。
講堂の東側では回廊跡と考えられる柱穴の列が見つかっていて、東西74m、南北100mの範囲に主要伽藍があったと考えている。回廊の外側でも寺院に関連すると考えられる建物跡が確認されているため、寺域はさらに広がるであろう。
出土する瓦の文様には、朝鮮半島の百済、高句麗、新羅など三国時代の影響が認められるものが多い。また、奈良の平城宮と同じ文様(同笵)の瓦も出土していて、中央政府とも何らかの関係があったものと思われる。
このように多彩な文化に彩られた椿市廃寺は、古代仏教文化を考える上で極めて重要な史跡である。(ルビ省略)
願光寺を後にした私は、そのまま県道を北西に進み、平尾台(国天然記念物)を目指ました。わずかの時間ではありましたものの眺めを楽しんだのですが、この旅日記としては全く関係ありませんので、先へ進むこととします。
平尾台を下り国道322号線に出た私は、4キロほど先にあります小倉南インターから九州自動車道に入り、一気に八女インターまで車を駆しらせたのですが、九州自動車道は、平成17年1月24日、旧津屋崎町と合併し今は福津市となっています旧福間町をかすめます。
ちょっと中途半端なのですが、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めることとします。したがって、明日も寄り道になります。
☆ ☆ ☆
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2009年01月04日
まだ寄り道なのですが
五重塔、三重塔をめぐる旅日記も、三が日は休みましたが、今日から再開することとします。ただし、未だ寄り道です。
新飯塚駅からJR筑豊本線で南へ向かいますと、三つ先に桂川(けいせん)という駅があります。そこでJR篠栗線に乗り換えますと一つ目に筑前大分(ちくぜんだいぶ)という駅があります。私は竜王寺を訪れた前日(平成11年4月10日)に、福岡駅から筑前大分駅まで篠栗線に乗りました。小学生のように、前方が見える先頭車両の一番前に乗って、かすめ過ぎる風景に心を遊ばせているうちに筑前大分駅に着きました。この駅までの途中には、長者原(ちょうじゃばる)、九郎原(くろうばる)などという珍しい名の駅もあり、門松(かどまつ)という目出度い駅名もあります。九州では、「原」を「はる」、濁って「ばる」と読みます。降り立った駅前などは寂れた感じでありましたが、首都圏の感覚で言えば楽な通勤圏になり、塔跡への道筋には新しい家並みも見ら
れ、かつての炭坑の町がベッドタウンに変貌しつつあるように見受けられました。
筑前大分駅から15分ほどの所に大分廃寺塔跡がありますが、「福岡県の歴史散歩」では、その所在地について、嘉穂郡筑穂町大分字長楽寺となっていますが、前に書きましたとおり、現在は飯塚市大分となっています。
現地には、筑穂教育委員会によって立てられた説明板があり、次のように記されていました。なお、説明板によれば、この塔跡は昭和16年12月13日に国の史跡に指定されています。
大分廃寺塔跡は、嘉穂郡で唯一の古代寺院の塔跡です。
塔跡は、保存状態が大変良く、塔の中心柱を支えた心礎を中心に十七個の礎石がほぼ創建当時のままの良行な状態で残っています。心礎は大変丁寧に作られており二条の排水溝が見られます。また、心礎側面に見られる線刻は伽藍造営の基準線と密接に関連するものとみられます。
現在までの発掘調査の結果などにより、寺域を区画すると思われる溝と柵列を検出し、その寺域は南北約九十四m・東西約百二m、大分廃寺の建立は八世紀初頭(今から約千三百年前)と推定されます。また、心礎柱座の直径から計算すると、三十mを超える三重の塔であったと考えられます。出土する古瓦は、新羅系と呼ばれる華麗な瓦であり、当時太宰府から豊前への官道の中継地点として、文化交流が盛んだったことがわかります。現在では塔跡以外は見ることができませんが、当時は七堂伽藍と言って塔・金堂・講堂などがそろった立派な寺院であり、その伽藍配位置は金堂を左に、塔を右に配する、法起寺式と推定されます。(原文のママ。ただし、ルビ省略)
さて、ここへ来る途中、筑前山手駅の手前で、左手の車窓から塔らしい建物が見えました。ちらっと見たかぎりでは、立派な三重塔のようでありましたので、新しい塔を発見、と胸をときめかせたものでありました。しかし帰りの電車の中から改めて見ますと、相輪などは体をなしておらず、果たして塔といってよいものかどうか判りませんでした。しかしながら眼にした以上、近くへ行って確かめねばなりません。ホテルに戻って明日のドライブコースを地図で確認しますと、幸いその近くを通ることを知りました。
翌日のことになりますが、新飯塚駅の辺りからは国道201号線の方が良いのではないかと判断し、これまで辿ってきた道を西へ向かいました。20キロほど山道(といっても立派な舗装路である)を登り降りしますと、やがて前日に乗った篠栗線が左に寄り添ってきます。間もなく筑前山手駅であるはずですが、前方に建物が見えてきました。しかし結論からいえば、塔風の建物であって、塔ではありませんでした。
4日休んでしまいましたので、トップページに同じバナーが二つということになってしまいますが、今日は日曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

新飯塚駅からJR筑豊本線で南へ向かいますと、三つ先に桂川(けいせん)という駅があります。そこでJR篠栗線に乗り換えますと一つ目に筑前大分(ちくぜんだいぶ)という駅があります。私は竜王寺を訪れた前日(平成11年4月10日)に、福岡駅から筑前大分駅まで篠栗線に乗りました。小学生のように、前方が見える先頭車両の一番前に乗って、かすめ過ぎる風景に心を遊ばせているうちに筑前大分駅に着きました。この駅までの途中には、長者原(ちょうじゃばる)、九郎原(くろうばる)などという珍しい名の駅もあり、門松(かどまつ)という目出度い駅名もあります。九州では、「原」を「はる」、濁って「ばる」と読みます。降り立った駅前などは寂れた感じでありましたが、首都圏の感覚で言えば楽な通勤圏になり、塔跡への道筋には新しい家並みも見ら
れ、かつての炭坑の町がベッドタウンに変貌しつつあるように見受けられました。
筑前大分駅から15分ほどの所に大分廃寺塔跡がありますが、「福岡県の歴史散歩」では、その所在地について、嘉穂郡筑穂町大分字長楽寺となっていますが、前に書きましたとおり、現在は飯塚市大分となっています。
現地には、筑穂教育委員会によって立てられた説明板があり、次のように記されていました。なお、説明板によれば、この塔跡は昭和16年12月13日に国の史跡に指定されています。
大分廃寺塔跡は、嘉穂郡で唯一の古代寺院の塔跡です。
塔跡は、保存状態が大変良く、塔の中心柱を支えた心礎を中心に十七個の礎石がほぼ創建当時のままの良行な状態で残っています。心礎は大変丁寧に作られており二条の排水溝が見られます。また、心礎側面に見られる線刻は伽藍造営の基準線と密接に関連するものとみられます。
現在までの発掘調査の結果などにより、寺域を区画すると思われる溝と柵列を検出し、その寺域は南北約九十四m・東西約百二m、大分廃寺の建立は八世紀初頭(今から約千三百年前)と推定されます。また、心礎柱座の直径から計算すると、三十mを超える三重の塔であったと考えられます。出土する古瓦は、新羅系と呼ばれる華麗な瓦であり、当時太宰府から豊前への官道の中継地点として、文化交流が盛んだったことがわかります。現在では塔跡以外は見ることができませんが、当時は七堂伽藍と言って塔・金堂・講堂などがそろった立派な寺院であり、その伽藍配位置は金堂を左に、塔を右に配する、法起寺式と推定されます。(原文のママ。ただし、ルビ省略)
さて、ここへ来る途中、筑前山手駅の手前で、左手の車窓から塔らしい建物が見えました。ちらっと見たかぎりでは、立派な三重塔のようでありましたので、新しい塔を発見、と胸をときめかせたものでありました。しかし帰りの電車の中から改めて見ますと、相輪などは体をなしておらず、果たして塔といってよいものかどうか判りませんでした。しかしながら眼にした以上、近くへ行って確かめねばなりません。ホテルに戻って明日のドライブコースを地図で確認しますと、幸いその近くを通ることを知りました。
翌日のことになりますが、新飯塚駅の辺りからは国道201号線の方が良いのではないかと判断し、これまで辿ってきた道を西へ向かいました。20キロほど山道(といっても立派な舗装路である)を登り降りしますと、やがて前日に乗った篠栗線が左に寄り添ってきます。間もなく筑前山手駅であるはずですが、前方に建物が見えてきました。しかし結論からいえば、塔風の建物であって、塔ではありませんでした。
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2009年01月01日
あけまして、おめでとうございます
明けまして、おめでとうございます
昨年中は 大変お世話になり ありがとうございました
ところで 昨年は皆様にとって どんな年でしたか
良い年でしたか
余り良い年ではなかったですか
悪い年でしたか
私にとっては、どちらかと言えば悪い年でした
今年は良い年になって欲しいと願っているのですが 景気回復の見通しも立たず どうなりますことやら
それでも 紅白歌合戦を見ながら 細々ながら自宅で年を越せるのは幸せなのですね
何はともあれ 皆様にとりましては 良き年でありますよう 心より お祈り申しあげます
今年も よろしく お願い申しあげます
平成21年 元旦
昨年中は 大変お世話になり ありがとうございました
ところで 昨年は皆様にとって どんな年でしたか
良い年でしたか
余り良い年ではなかったですか
悪い年でしたか
私にとっては、どちらかと言えば悪い年でした
今年は良い年になって欲しいと願っているのですが 景気回復の見通しも立たず どうなりますことやら
それでも 紅白歌合戦を見ながら 細々ながら自宅で年を越せるのは幸せなのですね
何はともあれ 皆様にとりましては 良き年でありますよう 心より お祈り申しあげます
今年も よろしく お願い申しあげます
平成21年 元旦
2008年12月30日
私の対象とする塔ではありませんが……
五重塔、三重塔をめぐる私の旅の対象ではありませんが、こんな塔も訪れました。
香春神社を後にした私は、国道201号線に戻って飯塚市へ向かいましたが、現在の飯塚市は、平成18年3月26日に、旧飯塚市、旧穂波町、旧筑穂町、旧庄内町、旧頴田(かいた)町の合併により、新しく生まれ変わっています。国道は、田川市を通過、旧庄内町を抜けますと、旧飯塚市域に入りますが、JR筑豊本線を陸橋で越えた先の新飯塚駅入口の信号を鋭角に右折して少し行きますと、左手に目指す竜王寺があります。
この寺のことについては、同好のA氏からの平成5年6月1日付のお手紙によって知りました。それには、「(総鑑)のコメントに直方竜王寺に小五重塔と二重小塔が有ると書いて有りますが、直方に竜王峡は有りますが寺は見当たりません。隣の飯塚市の竜王寺かと思っています」とありました。手紙の文中に「総鑑」とありますのは、中西亨先生の「日本塔総鑑」のことですが、その頃の私の手元には同書はありませんでした。今は手元にありますそれを見ますと、確かにそのようなことが記されています。A氏が指摘されたとおりであり、そのことに気付かれたのでありましょう、中西亨先生は「続・塔の旅」では、「多宝塔が北九州市の阿弥陀院(昭和四十二年)と直方市の東
寺(昭和四十一年)にできたが、共に本式とはいえまい。直方市には他に随尊寺に二重塔がある。(中略)飯塚市の竜王寺にも二重塔があるが、その同じ境内に小さい八角五重塔があった」と記しておられます。
この寺が、JR筑豊本線の新飯塚駅の北東の立岩という所にありますことを、何によってであるか記憶がないのですが知った私は、福岡駅まで戻る道筋でもありましたので立ち寄ったのです。しかし、実見したところ、私の旅日記の1頁を埋めて採り挙げるものではありませんでしたので、こんな塔もあるという程度の、ご紹介に止めます。
今年も、今日を含め残り2日となってしまいました。明日、ブログをが書けますかどう判りませんので、今年、お世話になりましたアフィリエイトサイトの「A8 net」、をご紹介します。こちらを ↓ どうぞ。

香春神社を後にした私は、国道201号線に戻って飯塚市へ向かいましたが、現在の飯塚市は、平成18年3月26日に、旧飯塚市、旧穂波町、旧筑穂町、旧庄内町、旧頴田(かいた)町の合併により、新しく生まれ変わっています。国道は、田川市を通過、旧庄内町を抜けますと、旧飯塚市域に入りますが、JR筑豊本線を陸橋で越えた先の新飯塚駅入口の信号を鋭角に右折して少し行きますと、左手に目指す竜王寺があります。
この寺のことについては、同好のA氏からの平成5年6月1日付のお手紙によって知りました。それには、「(総鑑)のコメントに直方竜王寺に小五重塔と二重小塔が有ると書いて有りますが、直方に竜王峡は有りますが寺は見当たりません。隣の飯塚市の竜王寺かと思っています」とありました。手紙の文中に「総鑑」とありますのは、中西亨先生の「日本塔総鑑」のことですが、その頃の私の手元には同書はありませんでした。今は手元にありますそれを見ますと、確かにそのようなことが記されています。A氏が指摘されたとおりであり、そのことに気付かれたのでありましょう、中西亨先生は「続・塔の旅」では、「多宝塔が北九州市の阿弥陀院(昭和四十二年)と直方市の東

この寺が、JR筑豊本線の新飯塚駅の北東の立岩という所にありますことを、何によってであるか記憶がないのですが知った私は、福岡駅まで戻る道筋でもありましたので立ち寄ったのです。しかし、実見したところ、私の旅日記の1頁を埋めて採り挙げるものではありませんでしたので、こんな塔もあるという程度の、ご紹介に止めます。
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2008年12月29日
暫くの間、塔跡などをめぐります
現に建つ五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、これから暫くの間、塔跡めぐりになります。
御所ヶ谷神籠石を後にした私は、県道へ戻って左折し、国道201号線で西へ向かいました。やがて前方に新仲哀(ちゅうあい)トンネルが見えてきますが、トンネルの入口のすぐ右手前の高台に菩提廃寺跡があります。廃寺跡といいましても、そこは民家の庭先のような所であり、礎石がある所も、あるいは個人の敷地かもしれません。
現地には、平成6年3月に勝山町教育委員会によって立てられた説明板があり、「昭和三十年三月十二日 県指定」とあったうえ、次のように記されていました。
菩提廃寺は、八世紀後半頃の創建とされ、建物配置に明確な規則性をもたない山岳寺院的な寺院跡です。
ここに見える三間×三間の塔礎石とこの北方に位置する四間×五間の金堂の礎石が今も残っています。(中略)
昭和六十一年には、塔礎石の周囲が調査され、基壇とその外側を巡る石列の存在が確認されました。一辺十一・二メートルの基壇を構築する石には、割れた礎石三点が含まれており、この基壇が改築されたものであることがわかりました。改築の原因としては、礎石が転用されていることや焼けた土が確認されたことから、塔の一部が炎上し部分的な倒壊があった可能性が指摘されています。
塔跡は整備されており、礎石の間には花が植えられていましたので、心礎の近くまで行って写真を撮ることができませんでした。
ところで、岩井隆次著「日本の木造塔跡」に眼を通しますと、「四天柱礎、側柱礎はすべて自然石で、塔の一辺は五・一五メートル、中の間が脇の間より相当大きいがこれは塔の規模が小さいためである。この寺は宝積寺といい、平安初期の創建といわれ」、とあります。なお、トンネルの名に「仲哀」という文字が見えますのは、古代史の愛好家にとって興味あるところではないでしょうか。
さて、そのトンネルを抜けますと香春(かわら)町で、石灰岩の採取で無惨な恰好になった香春岳が眼に入ってきます。
九州で最も注目すべき寺は、田川郡香春の天台寺ではないかと思います。香春の神さまが自ら新羅からおいでになったという、その香春神社の近くにある天台寺です。香春神が、(中略)渡来氏族の氏神であったのに対し、天台寺は氏寺であったと考えられます。その天台寺址からはすばらしい新羅系文様の瓦が出ているでしょう。
上は、「宇佐八幡と新羅花郎」と題された座談会(司馬[]太郎・上田正昭・金達寿編「朝鮮と古代日本文化」所収)での、田村圓澄(えんちょう)の発言です。新旧の「福岡県の歴史散歩」を見ましても、天台寺については何も記されていませんので無駄になるかとは思いましたが、気になっていた私は、次の目的地である飯塚市へ行く道筋に当たっていましたので、香春神社に立ち寄ることにしていたのです。しかし、この辺りはセメント工場が建ち並ぶだけの埃っぽい所で、香春神社への案内標識なども見当りませんでした。見当で国道201号線を右に折れ、その先の角にありましたコンビニに入りかけていた女性に香春神社の場所を尋ねました。その女性は、たぶん、この道を行って……、と教えてくださったうえ、「この辺りの者ではないので、間違っていたら、ごめんなさい」と言い添える親切な方であった。お礼を言い、教えられたとおり細い道を進みますと、間違いなく左手に香春神社がありました。しかし、近くまで行っても神社の案内板もなく、ましてや天台寺のそれなどありません。神社の境内を歩きまわりましたが、それらしい気配も感 じられませんでした。ただ、桜の花が見頃であったことが、唯一の慰めでした。
さて今日は女性向けの商品のご紹介になりますが、何時までも美肌生活を続けたいですよね。それならば、こちらは ↓ 如何でしょう。

御所ヶ谷神籠石を後にした私は、県道へ戻って左折し、国道201号線で西へ向かいました。やがて前方に新仲哀(ちゅうあい)トンネルが見えてきますが、トンネルの入口のすぐ右手前の高台に菩提廃寺跡があります。廃寺跡といいましても、そこは民家の庭先のような所であり、礎石がある所も、あるいは個人の敷地かもしれません。
現地には、平成6年3月に勝山町教育委員会によって立てられた説明板があり、「昭和三十年三月十二日 県指定」とあったうえ、次のように記されていました。
菩提廃寺は、八世紀後半頃の創建とされ、建物配置に明確な規則性をもたない山岳寺院的な寺院跡です。
ここに見える三間×三間の塔礎石とこの北方に位置する四間×五間の金堂の礎石が今も残っています。(中略)
昭和六十一年には、塔礎石の周囲が調査され、基壇とその外側を巡る石列の存在が確認されました。一辺十一・二メートルの基壇を構築する石には、割れた礎石三点が含まれており、この基壇が改築されたものであることがわかりました。改築の原因としては、礎石が転用されていることや焼けた土が確認されたことから、塔の一部が炎上し部分的な倒壊があった可能性が指摘されています。
塔跡は整備されており、礎石の間には花が植えられていましたので、心礎の近くまで行って写真を撮ることができませんでした。
ところで、岩井隆次著「日本の木造塔跡」に眼を通しますと、「四天柱礎、側柱礎はすべて自然石で、塔の一辺は五・一五メートル、中の間が脇の間より相当大きいがこれは塔の規模が小さいためである。この寺は宝積寺といい、平安初期の創建といわれ」、とあります。なお、トンネルの名に「仲哀」という文字が見えますのは、古代史の愛好家にとって興味あるところではないでしょうか。
さて、そのトンネルを抜けますと香春(かわら)町で、石灰岩の採取で無惨な恰好になった香春岳が眼に入ってきます。
九州で最も注目すべき寺は、田川郡香春の天台寺ではないかと思います。香春の神さまが自ら新羅からおいでになったという、その香春神社の近くにある天台寺です。香春神が、(中略)渡来氏族の氏神であったのに対し、天台寺は氏寺であったと考えられます。その天台寺址からはすばらしい新羅系文様の瓦が出ているでしょう。
上は、「宇佐八幡と新羅花郎」と題された座談会(司馬[]太郎・上田正昭・金達寿編「朝鮮と古代日本文化」所収)での、田村圓澄(えんちょう)の発言です。新旧の「福岡県の歴史散歩」を見ましても、天台寺については何も記されていませんので無駄になるかとは思いましたが、気になっていた私は、次の目的地である飯塚市へ行く道筋に当たっていましたので、香春神社に立ち寄ることにしていたのです。しかし、この辺りはセメント工場が建ち並ぶだけの埃っぽい所で、香春神社への案内標識なども見当りませんでした。見当で国道201号線を右に折れ、その先の角にありましたコンビニに入りかけていた女性に香春神社の場所を尋ねました。その女性は、たぶん、この道を行って……、と教えてくださったうえ、「この辺りの者ではないので、間違っていたら、ごめんなさい」と言い添える親切な方であった。お礼を言い、教えられたとおり細い道を進みますと、間違いなく左手に香春神社がありました。しかし、近くまで行っても神社の案内板もなく、ましてや天台寺のそれなどありません。神社の境内を歩きまわりましたが、それらしい気配も感 じられませんでした。ただ、桜の花が見頃であったことが、唯一の慰めでした。
☆ ☆ ☆
さて今日は女性向けの商品のご紹介になりますが、何時までも美肌生活を続けたいですよね。それならば、こちらは ↓ 如何でしょう。

2008年12月28日
これから先は、またしても寄り道です
五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、暫くの間、寄り道をします。
平成15年の塔めぐりの時は、豊前国分寺を辞した私は、県道238号線を進み、国道496号線に出ました。その左手角に観光案内所がありましたので立ち寄り、付近の案内図などを貰い、道を尋ねて国道を南下、上坂(かみさか)廃寺跡へ向かいました。この廃寺跡について、「福岡県の歴史散歩」には、次のように記されています。
豊津町の台ヶ原台地の東端と祓川に挟まれた水田下に上坂廃寺跡(県史跡)が埋没している。その塔の心礎は、直径2m以上の花崗岩でできており、柱を立てる円形の穴がうがたれ、さらにその底に舎利を入れる穴もあった。この塔心礎から塔の高さを推定すると約34mとなり、古代の京都平野のなかでも相当な高さであることがわかる。ただ文献にはこの寺についての記録がなく、豊前国分寺の経蔵跡とも、国分寺の前身寺ともいわれており、謎の多い寺院である。(ルビ省略)
上にもあるとおり、この心礎は水田下にありますので眼にすることができないことは判っていましたものの、ともかく行ってみたのですが、標識など何もなく、ここら辺りではないかと思われる所の近くで働いていた人に尋ね、大体の場所が判ったような次第です。そして、旧版の「福岡県の歴史散歩」には、次のように記されています。
このほか、京都郡内には勝山町仲哀トンネル入口右上に菩提廃寺(県史跡)、行橋市福丸に四天王寺式伽藍配置とみられる願光寺境内の椿市廃寺、犀川町木山に木山廃寺と三つの古代寺院跡があるので、平安初期には京都郡内に六つの大寺院が存在し、三重以上の大塔が群立していたことになる。
上に、「六つの大寺院」とありますが、同書を見ても、もう一つが、どの廃寺なのか不明です。それはともかく、菩提廃寺と椿市廃寺については後に訪れますが、木山廃寺へは行かずじまいでした。
上坂廃寺跡を後にした私は、国道496号線を戻り、八景山という信号まで車を進めました。平成15年の旅では、そのまま国道を進み、行橋市へ向かったのですが、ここで時を平成11年4月11日まで遡らせることとします。なお、八景山の信号の左手には、町のシンボルである豊前国分寺の三重塔の相輪をイメージしたものといいます石造の相輪を象った「天平の塔」が設置されています。
平成11年の時は、八景山の信号で左折し、県道58号線を西へ向かいました。そして、国道201号線へ出るべくレンタカーを駆しらせていますと、御所ヶ谷神籠石(どしょがたにこうごいし)の標識が左手に見えてきました。予定に入れてあったわけではありませんが、機会があれば訪れたいと思っていた所でありましたので、私は躊躇なく、その標識に従いました。
神籠石は塔とは全く関係がありませんが、寄り道ついでに、「福岡県の歴史散歩」に眼を通すこととします。
……この御所ヶ谷神籠石(国史跡)は、九州・中国各地に7世紀頃つくられた朝鮮式山城の一つと考えられている。
門跡は、東門・中門・西門・東北門・南門・南西門の6ヵ所、列石は部分的に残存して10ヵ所あり、すべて花崗岩が使われている。(中略)中門は、高さ6・5mから7・5m、長さ18m、ととのった石樋(せきひ)を有しており、その雄大さに圧倒される。(ルビは括弧で表記)
同書には、「1市2町にまたがり門跡・列石・土塁が約3qにわたっって続いている」ともありますが、申し上げるまでもなく、私はその総てを眼にしたわけではありません。車が通れる道の終点は、上の引用文中の「中門」の跡が遺る所であり、ほんの一部分をみただけですが、それだけでも、まさに「その雄大さに圧倒」されました。
さて、今日は平成20年も最後の日曜日で、既に昨日から長い年末年始の休みに入っている方もおられることでしょう。日曜日の定番メニューの、こちらを ↓ どうぞ。このサイトに未登録の方がおられましたら、無料ですので、是非ご登録をお願いします。ご登録いただきますと、私に、たばこ代くらいのお小遣いが入りますので、よろしく、お願いいたします。

平成15年の塔めぐりの時は、豊前国分寺を辞した私は、県道238号線を進み、国道496号線に出ました。その左手角に観光案内所がありましたので立ち寄り、付近の案内図などを貰い、道を尋ねて国道を南下、上坂(かみさか)廃寺跡へ向かいました。この廃寺跡について、「福岡県の歴史散歩」には、次のように記されています。
豊津町の台ヶ原台地の東端と祓川に挟まれた水田下に上坂廃寺跡(県史跡)が埋没している。その塔の心礎は、直径2m以上の花崗岩でできており、柱を立てる円形の穴がうがたれ、さらにその底に舎利を入れる穴もあった。この塔心礎から塔の高さを推定すると約34mとなり、古代の京都平野のなかでも相当な高さであることがわかる。ただ文献にはこの寺についての記録がなく、豊前国分寺の経蔵跡とも、国分寺の前身寺ともいわれており、謎の多い寺院である。(ルビ省略)
上にもあるとおり、この心礎は水田下にありますので眼にすることができないことは判っていましたものの、ともかく行ってみたのですが、標識など何もなく、ここら辺りではないかと思われる所の近くで働いていた人に尋ね、大体の場所が判ったような次第です。そして、旧版の「福岡県の歴史散歩」には、次のように記されています。
このほか、京都郡内には勝山町仲哀トンネル入口右上に菩提廃寺(県史跡)、行橋市福丸に四天王寺式伽藍配置とみられる願光寺境内の椿市廃寺、犀川町木山に木山廃寺と三つの古代寺院跡があるので、平安初期には京都郡内に六つの大寺院が存在し、三重以上の大塔が群立していたことになる。
上に、「六つの大寺院」とありますが、同書を見ても、もう一つが、どの廃寺なのか不明です。それはともかく、菩提廃寺と椿市廃寺については後に訪れますが、木山廃寺へは行かずじまいでした。
上坂廃寺跡を後にした私は、国道496号線を戻り、八景山という信号まで車を進めました。平成15年の旅では、そのまま国道を進み、行橋市へ向かったのですが、ここで時を平成11年4月11日まで遡らせることとします。なお、八景山の信号の左手には、町のシンボルである豊前国分寺の三重塔の相輪をイメージしたものといいます石造の相輪を象った「天平の塔」が設置されています。
平成11年の時は、八景山の信号で左折し、県道58号線を西へ向かいました。そして、国道201号線へ出るべくレンタカーを駆しらせていますと、御所ヶ谷神籠石(どしょがたにこうごいし)の標識が左手に見えてきました。予定に入れてあったわけではありませんが、機会があれば訪れたいと思っていた所でありましたので、私は躊躇なく、その標識に従いました。
神籠石は塔とは全く関係がありませんが、寄り道ついでに、「福岡県の歴史散歩」に眼を通すこととします。
……この御所ヶ谷神籠石(国史跡)は、九州・中国各地に7世紀頃つくられた朝鮮式山城の一つと考えられている。
門跡は、東門・中門・西門・東北門・南門・南西門の6ヵ所、列石は部分的に残存して10ヵ所あり、すべて花崗岩が使われている。(中略)中門は、高さ6・5mから7・5m、長さ18m、ととのった石樋(せきひ)を有しており、その雄大さに圧倒される。(ルビは括弧で表記)
同書には、「1市2町にまたがり門跡・列石・土塁が約3qにわたっって続いている」ともありますが、申し上げるまでもなく、私はその総てを眼にしたわけではありません。車が通れる道の終点は、上の引用文中の「中門」の跡が遺る所であり、ほんの一部分をみただけですが、それだけでも、まさに「その雄大さに圧倒」されました。
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さて、今日は平成20年も最後の日曜日で、既に昨日から長い年末年始の休みに入っている方もおられることでしょう。日曜日の定番メニューの、こちらを ↓ どうぞ。このサイトに未登録の方がおられましたら、無料ですので、是非ご登録をお願いします。ご登録いただきますと、私に、たばこ代くらいのお小遣いが入りますので、よろしく、お願いいたします。

2008年12月27日
豊前国分寺の三重塔
五重塔、三重塔をめぐる九州の旅で拝観する最初の塔、それが豊前国分寺の三重塔ですが、昨日も見ましたリーフレットには、次のように記されています。
国分僧寺の塔は本来七重塔で、当初鐘楼門をはさんで三重塔とは反対の東側にあったと推定されています。
焼失後、塔が再建されたのは明治になってからです。住職宮本孝梁師の発願により、明治二一年(一八八八年)に着工し、二八年完成、二九年一月に落慶法要が行われました。
その後一〇〇年間経過して傷みが激しかったため、昭和六〇年から六二年に全面的な解体修理が実施されました。
三重塔は昭和三二年に福岡県の有形文化財に指定されています。
建物の高さは約二三・三m、初層の大きさは一辺が約七・五mです。建築様式は層塔と多宝塔の折衷様式で、心柱は全長二三m・根元六〇p角の杉材の一本物です。
創建当初は七重塔であったという天平の国分寺の塔址は今は残っていないようなので、上のリーフレットには豊前国分寺
寺伽藍配置図も描かれ、塔跡推定地も示されていますが、訪れてはいません。
ところで、「豊前国分寺三重塔」というリーフレットには、「昭和32年、県の文化財に指定されたが、その後落雷のため大破したので再び浄財を募って昭和40年に復元し、さらに昭和63年に全面的な解体修理により昔日の面影を偲ばせる優美な塔が完成した」とあります。解体修理の年の違いは措いて、落雷による大破とは、どの程度であったのでしょうか。修理ではなく復元とあるのも、気になるところです。しかしながら、県の文化財の指定が解かれていないのですから、大破とはいいながら、大部分が古材を使用しての修理であったのでしょう。
このリーフレットには、続けて次のように記されています。(原文のママ)
……上層と中層の屋根は同じ大きさで、下層は大きく張り出している。床下の礎石29基のうち奈良時代の円形柱座をほどこした礎石が3基ある。
「塔」はインドのストゥパー(仏塔)の流れをくむ多重塔形式をとっていますが塔の内陣には大日如来を中尊とする四仏が安置され多宝塔形式となっており全体的には層塔形式と宝塔形式の折衷形式とみなされています。また二層目には12星座の彫刻が施され、明治の文明開花の影響がみられます。
ちょっと眼を昭和53年発行の旧版「福岡県の歴史散歩」に眼を移しますと、次のように記されています。
……二九個の礎石のうち枘(ほぞ)穴をもつ心礎と円形柱座をもつ礎石二基は創建時のものといえるが、その位置には疑問がある。山門と鐘楼門(中門)をむすぶ線の延長戦上には南方は村道が約二〇〇メートル南にのびガランデ(伽藍田の意)地区につうじており、北方には本堂のすぐ後方の東西約一一〇メートル、南北七〇メートルの長方形の竹藪(やぶ)をとびこえて旧道の痕跡があるので、これがもとの伽藍中軸線と考えられるが、塔の中心は中軸線から三五メートル西で、上国豊前の国の国分寺としては近すぎる。大正初年、塔の西隣の畑から多数の古瓦をだした(豊津高校所蔵品はその一部)ことがあり、塔の位置をおもわせる。(原文のママ。ルビは括弧で表記)
三重塔の床下にある礎石の一つが、「枘(ほぞ)穴をもつ心礎と円形柱座をもつ礎石二基は創建時のものといえる」ということですが、申し上げるまでもなく、それらの礎石は見ることができませんでした。また、先に見ましたパンフレットと同名の別のリーフレットには、相輪の部分写真が掲載されており、それには、「遙かインドは、ストゥーパの形を伝える真の塔婆」と説明書きが付してあります。このような説明があることからして、塔の本質を承知している人が、リーフレットの作成に関与していることが解ります。
ところで、「豊津町」というA三版の1枚刷りのものを見ますと、「塔の高さは23・3メートル、奈良法起寺と並び三重塔としては全国一を誇っている」とあります。一方、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、「一辺が七・五〇メートル、三重塔としては法起寺の塔をしのいで木造塔としては日本最大のものである」とあります。こちらは、塔の高さではなく、初重の一辺の長さが、法起寺の三重塔を超え日本最大というように記されているわけです。しかし、同書には、法起寺の三重塔の初重の一辺は六・四一m、高さ二三・九〇mとあります。であれば、高さでは法起寺の塔より低いが、初重の一辺は確かに法起寺の三重塔より長く、それは見た目でも明らかでありました。しかし、これまた同書には、奈良の薬師寺三重塔は、裳階の部分の長さではなく塔身の初重の一辺が七・〇九mとあり、これら三塔の中では最も長く、「法起寺の塔をしのいで」というのは、適切な表現ではないことになります。それほど重要なことではありませんので中西亨先生に確かめてはいませんが、同書やリーフレットが、法起寺の三重塔を引き合いに出していますのは、法起寺の三重塔が最古の三重塔であるからでしょう。
ともあれ、中西先生も「日本塔総鑑」で、「とにかく変わった塔」と記しておられるとおり、この塔を眼にした瞬間は、美しいと感じられる姿ではありません。他に例を見ない形式でありますが、設計、建立者の意図は、どんなものであったのでしょうか。
いずれにしましても、下の写真をご覧いただいた方が早いでしょう。
http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/40fukuoka/buzenkokubu3/buzenkokubu3.html
さて、今日は趣を変えて、天使の元気という珍しい商品を、ご紹介します。何はともあれ、こちらを ↓ ご覧になられ、ご自分で、どんなものかを、お確かめください。正直に申し上げて、私も、これから色々と研究してみたいと思っています。

国分僧寺の塔は本来七重塔で、当初鐘楼門をはさんで三重塔とは反対の東側にあったと推定されています。
焼失後、塔が再建されたのは明治になってからです。住職宮本孝梁師の発願により、明治二一年(一八八八年)に着工し、二八年完成、二九年一月に落慶法要が行われました。
その後一〇〇年間経過して傷みが激しかったため、昭和六〇年から六二年に全面的な解体修理が実施されました。
三重塔は昭和三二年に福岡県の有形文化財に指定されています。
建物の高さは約二三・三m、初層の大きさは一辺が約七・五mです。建築様式は層塔と多宝塔の折衷様式で、心柱は全長二三m・根元六〇p角の杉材の一本物です。
創建当初は七重塔であったという天平の国分寺の塔址は今は残っていないようなので、上のリーフレットには豊前国分寺

ところで、「豊前国分寺三重塔」というリーフレットには、「昭和32年、県の文化財に指定されたが、その後落雷のため大破したので再び浄財を募って昭和40年に復元し、さらに昭和63年に全面的な解体修理により昔日の面影を偲ばせる優美な塔が完成した」とあります。解体修理の年の違いは措いて、落雷による大破とは、どの程度であったのでしょうか。修理ではなく復元とあるのも、気になるところです。しかしながら、県の文化財の指定が解かれていないのですから、大破とはいいながら、大部分が古材を使用しての修理であったのでしょう。
このリーフレットには、続けて次のように記されています。(原文のママ)
……上層と中層の屋根は同じ大きさで、下層は大きく張り出している。床下の礎石29基のうち奈良時代の円形柱座をほどこした礎石が3基ある。
「塔」はインドのストゥパー(仏塔)の流れをくむ多重塔形式をとっていますが塔の内陣には大日如来を中尊とする四仏が安置され多宝塔形式となっており全体的には層塔形式と宝塔形式の折衷形式とみなされています。また二層目には12星座の彫刻が施され、明治の文明開花の影響がみられます。
ちょっと眼を昭和53年発行の旧版「福岡県の歴史散歩」に眼を移しますと、次のように記されています。
……二九個の礎石のうち枘(ほぞ)穴をもつ心礎と円形柱座をもつ礎石二基は創建時のものといえるが、その位置には疑問がある。山門と鐘楼門(中門)をむすぶ線の延長戦上には南方は村道が約二〇〇メートル南にのびガランデ(伽藍田の意)地区につうじており、北方には本堂のすぐ後方の東西約一一〇メートル、南北七〇メートルの長方形の竹藪(やぶ)をとびこえて旧道の痕跡があるので、これがもとの伽藍中軸線と考えられるが、塔の中心は中軸線から三五メートル西で、上国豊前の国の国分寺としては近すぎる。大正初年、塔の西隣の畑から多数の古瓦をだした(豊津高校所蔵品はその一部)ことがあり、塔の位置をおもわせる。(原文のママ。ルビは括弧で表記)
三重塔の床下にある礎石の一つが、「枘(ほぞ)穴をもつ心礎と円形柱座をもつ礎石二基は創建時のものといえる」ということですが、申し上げるまでもなく、それらの礎石は見ることができませんでした。また、先に見ましたパンフレットと同名の別のリーフレットには、相輪の部分写真が掲載されており、それには、「遙かインドは、ストゥーパの形を伝える真の塔婆」と説明書きが付してあります。このような説明があることからして、塔の本質を承知している人が、リーフレットの作成に関与していることが解ります。
ところで、「豊津町」というA三版の1枚刷りのものを見ますと、「塔の高さは23・3メートル、奈良法起寺と並び三重塔としては全国一を誇っている」とあります。一方、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、「一辺が七・五〇メートル、三重塔としては法起寺の塔をしのいで木造塔としては日本最大のものである」とあります。こちらは、塔の高さではなく、初重の一辺の長さが、法起寺の三重塔を超え日本最大というように記されているわけです。しかし、同書には、法起寺の三重塔の初重の一辺は六・四一m、高さ二三・九〇mとあります。であれば、高さでは法起寺の塔より低いが、初重の一辺は確かに法起寺の三重塔より長く、それは見た目でも明らかでありました。しかし、これまた同書には、奈良の薬師寺三重塔は、裳階の部分の長さではなく塔身の初重の一辺が七・〇九mとあり、これら三塔の中では最も長く、「法起寺の塔をしのいで」というのは、適切な表現ではないことになります。それほど重要なことではありませんので中西亨先生に確かめてはいませんが、同書やリーフレットが、法起寺の三重塔を引き合いに出していますのは、法起寺の三重塔が最古の三重塔であるからでしょう。
ともあれ、中西先生も「日本塔総鑑」で、「とにかく変わった塔」と記しておられるとおり、この塔を眼にした瞬間は、美しいと感じられる姿ではありません。他に例を見ない形式でありますが、設計、建立者の意図は、どんなものであったのでしょうか。
いずれにしましても、下の写真をご覧いただいた方が早いでしょう。
http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/40fukuoka/buzenkokubu3/buzenkokubu3.html
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さて、今日は趣を変えて、天使の元気という珍しい商品を、ご紹介します。何はともあれ、こちらを ↓ ご覧になられ、ご自分で、どんなものかを、お確かめください。正直に申し上げて、私も、これから色々と研究してみたいと思っています。

2008年12月26日
九州での最初の塔のある寺へ
五重塔、三重塔をめぐる旅も、九州での最初の塔のある寺を訪れます。
平成15年8月10日、私は中津市の中心部のホテルを出発し北東へ向かい、市の西端を流れる山国川を渡って、福岡県に入りました。国道10号線から椎名道路に入り、徳永の出口で一般道路へ出て祓川に架かる橋を渡った先で左折し、川沿いの道を進みました。祓川に架かる二つ目の橋の所で右折し、県道238号線を行きますと、やがて右手前方に豊前国分寺の三重塔の相輪が見えてきます。途中々々に豊前国分寺への案内標識がありますので、迷うことなく辿り着けるでしょう。
この寺を訪れるのは、この時が2度目で、最初の訪れは、平成11年の4月11日でした。その時は福岡に出張し、仕事の方は前日の土曜日の午前中に終了していましたので、午後は後に書きます大分廃寺跡や神興廃寺などをめぐり、個人的に滞在を1日延ばし、日曜日に6時間コースのレンタカーで豊前国分寺をはじめ、幾つかの寺跡をめぐりました。
ところで、平成10年5月、豊津町役場に観光パンフレットを送って貰えないかと連絡したところ、7部のパンフレットやリーフレットをお送りいただきました。これから見ていきますように、それらは実に質の良いもので、豊津町の文化の高いことが伺われました。みやこ町となった今も、それは受け継がれているに違いないと思いますが、どうでしょうか。
そのうちの一つ、豊津町作成の「歴史回廊の里」という立派なパンフレットには、次のように記されています。
英彦山を源流に町の中央を貫流する祓川に広がる緑豊かな田園のまち「豊津」は、かつて豊前国の国府が置かれ、政治経済の中心地として栄えていました。
やがて鎌倉時代以降、豊前国府の衰退とともに、豊津の地は歴史の舞台から遠ざかっていきます。
しかし時代が下って、江戸時代の天保年間(1830〜1845)、当時、難行原(ナンギョウバル)と呼ばれていた豊津台地の開発を小笠原藩が始めてから、再び豊津の地は脚光を浴び始めます。
五年の歳月をかけた開発は天保十五年に終り、商人や職人も多く住み、地名も難行原から錦原へと改められました。
そして、まわりの原野の開墾も進み、現在の豊津町の原形ができあがったのです。(原文のママ)
そして、豊津町作成の「豊津町歴史回廊の里 国史跡豊前国分寺跡」というリーフレットには、「豊前国分寺の変遷」について、次のように記されています。
天平勝宝8年(756年)、筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向等26国の国分寺に「仏事荘厳具の下賜」がされ、このころまでに豊前国分寺では主要な建物が完成したと考えられています。その後、平安時代にかけて盛んに活動を続けていた諸国の国分寺も、鎌倉時代以降多くが衰退していきました。
しかし、豊前国分寺は平安時代に天台宗の勢力下に入り、鎌倉・室町時代にもかわらず法灯をともし続けていました。そして、天正年間(1573年〜1592年)初期に戦国大名大友氏の戦火にあい、主要建物はすべて焼失したと伝えられています。その後、天正年間中にはいち早く同地に草庵が結ばれ、本尊薬師如来が造仏安置されました。本格的な再建は、江戸時代以降小笠原藩の援助を受けて当時の歴代住職の努力によって進みました。
現在敷地内に残る建物のうち本堂は寛文6年(1666年)、鐘楼門は貞享元年(1684年)に建立されたものです。
なお、国分僧寺の敷地は昭和51年(1976年)に国の史跡に指定されています。
さて、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めておきます。
年末年始の休日に海外旅行の計画がある方は、既に準備が整っておられることでしょう。ただ、こちらもお済みですか?そうです、海外旅行保険です。まだの方は、こちらなど ↓ 如何でしょう。

平成15年8月10日、私は中津市の中心部のホテルを出発し北東へ向かい、市の西端を流れる山国川を渡って、福岡県に入りました。国道10号線から椎名道路に入り、徳永の出口で一般道路へ出て祓川に架かる橋を渡った先で左折し、川沿いの道を進みました。祓川に架かる二つ目の橋の所で右折し、県道238号線を行きますと、やがて右手前方に豊前国分寺の三重塔の相輪が見えてきます。途中々々に豊前国分寺への案内標識がありますので、迷うことなく辿り着けるでしょう。
この寺を訪れるのは、この時が2度目で、最初の訪れは、平成11年の4月11日でした。その時は福岡に出張し、仕事の方は前日の土曜日の午前中に終了していましたので、午後は後に書きます大分廃寺跡や神興廃寺などをめぐり、個人的に滞在を1日延ばし、日曜日に6時間コースのレンタカーで豊前国分寺をはじめ、幾つかの寺跡をめぐりました。
ところで、平成10年5月、豊津町役場に観光パンフレットを送って貰えないかと連絡したところ、7部のパンフレットやリーフレットをお送りいただきました。これから見ていきますように、それらは実に質の良いもので、豊津町の文化の高いことが伺われました。みやこ町となった今も、それは受け継がれているに違いないと思いますが、どうでしょうか。
そのうちの一つ、豊津町作成の「歴史回廊の里」という立派なパンフレットには、次のように記されています。
英彦山を源流に町の中央を貫流する祓川に広がる緑豊かな田園のまち「豊津」は、かつて豊前国の国府が置かれ、政治経済の中心地として栄えていました。
やがて鎌倉時代以降、豊前国府の衰退とともに、豊津の地は歴史の舞台から遠ざかっていきます。
しかし時代が下って、江戸時代の天保年間(1830〜1845)、当時、難行原(ナンギョウバル)と呼ばれていた豊津台地の開発を小笠原藩が始めてから、再び豊津の地は脚光を浴び始めます。
五年の歳月をかけた開発は天保十五年に終り、商人や職人も多く住み、地名も難行原から錦原へと改められました。
そして、まわりの原野の開墾も進み、現在の豊津町の原形ができあがったのです。(原文のママ)
そして、豊津町作成の「豊津町歴史回廊の里 国史跡豊前国分寺跡」というリーフレットには、「豊前国分寺の変遷」について、次のように記されています。
天平勝宝8年(756年)、筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向等26国の国分寺に「仏事荘厳具の下賜」がされ、このころまでに豊前国分寺では主要な建物が完成したと考えられています。その後、平安時代にかけて盛んに活動を続けていた諸国の国分寺も、鎌倉時代以降多くが衰退していきました。
しかし、豊前国分寺は平安時代に天台宗の勢力下に入り、鎌倉・室町時代にもかわらず法灯をともし続けていました。そして、天正年間(1573年〜1592年)初期に戦国大名大友氏の戦火にあい、主要建物はすべて焼失したと伝えられています。その後、天正年間中にはいち早く同地に草庵が結ばれ、本尊薬師如来が造仏安置されました。本格的な再建は、江戸時代以降小笠原藩の援助を受けて当時の歴代住職の努力によって進みました。
現在敷地内に残る建物のうち本堂は寛文6年(1666年)、鐘楼門は貞享元年(1684年)に建立されたものです。
なお、国分僧寺の敷地は昭和51年(1976年)に国の史跡に指定されています。
さて、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めておきます。
☆ ☆ ☆
年末年始の休日に海外旅行の計画がある方は、既に準備が整っておられることでしょう。ただ、こちらもお済みですか?そうです、海外旅行保険です。まだの方は、こちらなど ↓ 如何でしょう。

2008年12月25日
いよいよ九州なのですが……
五重塔、三重塔をめぐる旅も、いよいよ九州なのですが、九州は、塔そのものが少ないうえに、古い塔は5本の指にも足りません。それは追々に見ていくこととなります。
四国に渡った日の日記で、「古事記」(岩波書店刊)の記述を引用しました。その末尾は「土左國は建依別と謂ふ」(ルビ省略。以下、同書からの引用について同じ)でしたが、それに続いて「次に隱伎の三子島を生みき。亦の名は天之
許呂別」とあり、更に続けて次のように記されています。
……次に筑紫島を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫國は白日別と謂ひ、豐國は豐日別と謂ひ、肥國は建日向日豐久士比泥別と謂ひ、熊
國は建日別と謂ふ。
古事記に四つと記されている国数は、山川出版社刊「図説歴史散歩事典」に拠りますと、「701年(大宝元)の令制で畿内・七道の制となり、58国3島(壱岐・対馬・多褹)、824年(天長元)に66国2島(壱岐・対馬)、『延喜式』で68国となった」(ルビ省略)ということです。そして、筑紫国が筑前・筑後に、豊国が豊前・豊後に、肥国は肥前・肥後に、熊曽国は薩摩・大隅に分けられました。その後、日向という国ができましたが、現在の宮崎県となる日向国については、宮崎県を訪れた時に、詳しく書くこととします。
ところで、上に「延喜式」とありますが、吉田孝著「古代国家の歩み」には、寛平九年(八九七)に即位した醍醐天皇の時代に制定されたという「延喜式」について、次のように記されています。
醍醐天皇の時代には、国史(『日本三代実録』)や格式(『延喜挌』『延喜式』)が編纂される。なかでも『延喜式』五〇巻は、律令の施行細則である式を集大成したもので、律令制の百科便覧の趣をもち、公事や年中行事の典拠として永く尊重された。日本の律令格式のなかで、ほぼ完全な形で今日に伝えられたのが『延喜式』だけであるのは、単なる偶然でなく、そのような特色によるものであろう。(ルビ省略)
この旅日記で最初に訪れますのは福岡県で、延喜式の国名でいえば、筑前・筑後そして豊前の北部であります。「福岡県の歴史散歩」は、福岡県を「北九州――諸文化の源流」、「福岡――大陸文化の潮騒」、「筑後――磐井の故郷」、そして「筑豊――修験道文化と香春岳」の四つに区分して記していますが、層塔は、前三者にしかありません。もっとも後に見ますが、筑豊地域には塔跡が幾つか遺っています。右の書に準ずるわけではありませんが、この旅も、上の順序で塔めぐりをすることとし、途中の道筋にある塔跡を訪ねることとします。
平成15年8月9日、私は一人、大分空港へ降り立ちました。そして、予約してあったレンタカーで、杵築(きつき)市街にありまする武家屋敷跡、宇佐の大楽寺、宇佐八幡宮(弥勒寺跡)、虚空蔵寺跡、そして中津市の郊外にある瑞福寺などを訪れましたが、そこはまだ大分県内です。しかし結局この時の旅の第1日目は、大分県内でとどまることとなり、中津市の中心部のビジネスホテルに旅の第一夜の宿を求めました。ホテルで眼を通した「大分県の歴史散歩」には、「旧豊前(ぶぜん)国は周防灘(すおうなだ)に面してほぼ南北に連なる小国で、企救(きく)・京都(みやこ)・仲津(なかつ)・田川(たがわ)・築城(ついき)・上毛(こうげ)・下毛(しもげ)・宇佐の八郡からなっていた。明治の府県制成立によって宇佐・下毛の二郡は大分県に、そのほかは福岡県に編入された」(ルビは括弧で表記)とあります。
九州で最初に訪れますのは、上のような次第で今は福岡県になっており、平成18年3月20日、旧京都郡の勝山町、犀川町と合併し、現在では「みやこ町」となっています旧京都郡豊津町です。「京都郡」という名は、どのようなことに由来するのでしょうか。ひらがなになったとはいえ、「みやこ」という読みが残されたことは、幸いでありました。
歳はとりたくないものですね、掲載日に関するインプットを間違えました。日付が変わってしまい、バナーの内容とコメントが違ってしまいました、済みません。ご利用の方がおられましたら、謝罪いたします。ともあれ、こちらを ↓ ご覧ください。

四国に渡った日の日記で、「古事記」(岩波書店刊)の記述を引用しました。その末尾は「土左國は建依別と謂ふ」(ルビ省略。以下、同書からの引用について同じ)でしたが、それに続いて「次に隱伎の三子島を生みき。亦の名は天之

……次に筑紫島を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫國は白日別と謂ひ、豐國は豐日別と謂ひ、肥國は建日向日豐久士比泥別と謂ひ、熊

古事記に四つと記されている国数は、山川出版社刊「図説歴史散歩事典」に拠りますと、「701年(大宝元)の令制で畿内・七道の制となり、58国3島(壱岐・対馬・多褹)、824年(天長元)に66国2島(壱岐・対馬)、『延喜式』で68国となった」(ルビ省略)ということです。そして、筑紫国が筑前・筑後に、豊国が豊前・豊後に、肥国は肥前・肥後に、熊曽国は薩摩・大隅に分けられました。その後、日向という国ができましたが、現在の宮崎県となる日向国については、宮崎県を訪れた時に、詳しく書くこととします。
ところで、上に「延喜式」とありますが、吉田孝著「古代国家の歩み」には、寛平九年(八九七)に即位した醍醐天皇の時代に制定されたという「延喜式」について、次のように記されています。
醍醐天皇の時代には、国史(『日本三代実録』)や格式(『延喜挌』『延喜式』)が編纂される。なかでも『延喜式』五〇巻は、律令の施行細則である式を集大成したもので、律令制の百科便覧の趣をもち、公事や年中行事の典拠として永く尊重された。日本の律令格式のなかで、ほぼ完全な形で今日に伝えられたのが『延喜式』だけであるのは、単なる偶然でなく、そのような特色によるものであろう。(ルビ省略)
この旅日記で最初に訪れますのは福岡県で、延喜式の国名でいえば、筑前・筑後そして豊前の北部であります。「福岡県の歴史散歩」は、福岡県を「北九州――諸文化の源流」、「福岡――大陸文化の潮騒」、「筑後――磐井の故郷」、そして「筑豊――修験道文化と香春岳」の四つに区分して記していますが、層塔は、前三者にしかありません。もっとも後に見ますが、筑豊地域には塔跡が幾つか遺っています。右の書に準ずるわけではありませんが、この旅も、上の順序で塔めぐりをすることとし、途中の道筋にある塔跡を訪ねることとします。
平成15年8月9日、私は一人、大分空港へ降り立ちました。そして、予約してあったレンタカーで、杵築(きつき)市街にありまする武家屋敷跡、宇佐の大楽寺、宇佐八幡宮(弥勒寺跡)、虚空蔵寺跡、そして中津市の郊外にある瑞福寺などを訪れましたが、そこはまだ大分県内です。しかし結局この時の旅の第1日目は、大分県内でとどまることとなり、中津市の中心部のビジネスホテルに旅の第一夜の宿を求めました。ホテルで眼を通した「大分県の歴史散歩」には、「旧豊前(ぶぜん)国は周防灘(すおうなだ)に面してほぼ南北に連なる小国で、企救(きく)・京都(みやこ)・仲津(なかつ)・田川(たがわ)・築城(ついき)・上毛(こうげ)・下毛(しもげ)・宇佐の八郡からなっていた。明治の府県制成立によって宇佐・下毛の二郡は大分県に、そのほかは福岡県に編入された」(ルビは括弧で表記)とあります。
九州で最初に訪れますのは、上のような次第で今は福岡県になっており、平成18年3月20日、旧京都郡の勝山町、犀川町と合併し、現在では「みやこ町」となっています旧京都郡豊津町です。「京都郡」という名は、どのようなことに由来するのでしょうか。ひらがなになったとはいえ、「みやこ」という読みが残されたことは、幸いでありました。
☆ ☆ ☆
歳はとりたくないものですね、掲載日に関するインプットを間違えました。日付が変わってしまい、バナーの内容とコメントが違ってしまいました、済みません。ご利用の方がおられましたら、謝罪いたします。ともあれ、こちらを ↓ ご覧ください。

2008年12月24日
西光寺を再訪
五重塔、三重塔をめぐる四国の旅の最後の塔のある西光寺を、再び訪れる機会を得ましたが、その前に。
西光寺から宿へ戻った私は、準備されていました朝食を摂った後、まず、「二十四の瞳」の舞台となりました岬の分教場へ向かいました。言申し上げるまでもないことながら、それは既に廃校となっていて観光地の一つとなっていますが、疎開先での小学校を思い出させる懐かしいものでした。そこから少し先に、高峰秀子が主役の「おんな先生」を演じた映画「二十四の瞳」を撮影した時のセットが、そのまま残されて映画村として観光施設化されていましたが、そこは割愛して、寒霞渓(国名勝)へ向かいました。紅雲亭というロープウェイの乗場まで行き、山頂までロープウェイで往復しましたが、この時は眼が覚めるような新緑に覆われた光景を満喫することができました。
そして、寒霞渓ブルーラインで山頂まで行き、更に銚子渓に立ち寄って、昼食として小豆島の名産のソーメンを食しました。次いで、小豆島スカイラインを辿って土庄町へ向かいましたが、途中でスカイラインから逸れ、重要民俗資料の中山農村歌舞伎舞台を見物した後、土庄町へと車を進め再び西光寺を訪れました。
放哉は一八八五(明治一八)年鳥取市立川町生まれ、一高時代に一級上の自由律俳句の荻原井泉水と出あった。東大法学部を卒業後、就職したものの酒でしくじり放浪、夫人とも別れた。明石(兵庫県)の須磨寺や京都の竜岸寺の寺男を転々とし、一九二五(大正一四)年の夏、井泉水の高弟で淵崎の俳人井上一二(文八郎)が、西光寺住職との俳句の交遊関係のつてで、放哉を西光寺奥の院である南郷庵に招いた。すでに肺を病み、遍路の施しをうける八ヵ月ばかりの蟄居生活であったが、彼の自由律俳句の決定的な作品はこの地のものが多い。(ルビ省略)
上は、「香川県の歴史散歩」からの引用ですが、以前に見ました「遍路国往還記」には、「浅黄色の風呂敷包み一つ持って、尾崎放哉は小豆島土庄の港へ着いた。(中略)放哉は島の第五十八番札所である西光寺の奥院南郷庵に入った。庵はお大師さまをまつった六畳、居間の八畳、台所の三畳という簡素なもので、西に窓が一つある」とあり、「障子あけて置く海も暮れきる」という一句が挙げられています。吉村昭の「海は暮れきる」という伝記小説の題名は、この句から採ったのでありましょう。
その「海は暮れきる」は、放哉が妻と別れて西光寺に辿り着くまでの間には、「京都知恩院塔頭常称院の寺男になったが、そこを追われ、兵庫須磨寺をへて福井県小浜町の常高寺の寺男にもなった」とあります。京都の竜岸寺、そして京都の知恩院の塔頭の常称院については、実際にあるのかどうか確認していませんが、須磨寺(福詳寺)には三重塔があり、拙著「近畿・岡山篇」で訪れており、小浜町とあるのは申し上げるまでもなく、最近、次期アメリカ大統領のオバマ氏との関連で有名になりました現在の小浜市で、そこにある常高寺については、拙著「中部日本篇」で訪れました。これらの寺を訪れました時には既に「海は暮れきる」は読んでいたので、放哉は、ここの寺男をしていたのだな、と感慨が深いものがありました。
西光寺の墓地の入口にある、放哉の終焉の南郷庵の跡地と言われる所に造られています尾崎放哉記念館にも行ってみました。記念館は小さなものでありましたが、墓地は明るい光に満ち溢れた高台にあって、そこからの眺めは素晴らしいもので、特に西光寺の三重塔を遠望するには、ここが最適ではないかと思われました。しかし、記念館には誰もいず、中を見学することはできませんでした。放哉ファンの方ならば、前もって西光寺へ連絡して訪れられた方が良いでしょう。
(長くなりますが、ここで止めるのは中途半端ですので続けます)
昨日、「小豆島には二度と来ることはないであろうと思った」と書きましたが、平成13年の8月、備中、美作の塔をめぐった旅の3日目となる8月18日に再訪する機会を作り、新岡山港から高速艇で小豆島の土庄港へ渡り、西光寺へ向かいました。
家並の中に入り、細い道をたどると寺の前に出た。王子山
華院西光寺という大きな木札が門柱にかけられている。小豆島霊場八十八ヵ所第五十八番の札所で、由緒ある寺らしい風格が感じられた。山門の前には、右に地蔵菩薩、左に弥勒菩薩の石仏があり、境内は薄暗い。銀杏の巨樹が、空をおおっていた。
上は、「海は暮れきる」の一節であり、放哉が西光寺を初めて訪れた時の描写である。時は大正時代であり、実際にあったことに忠実と思われますものの、あくまでも小説ではありますが、私が訪れた時も、町並みなどは、それほど変わっていないのではないかと思われました。ただし、その頃にはなかった三重塔に眼を奪われていて、石仏には気がつきませんでした。なお、土庄港からのバス便もあり、坂手行新町バス停下車5分ということでありますが、15分ほどの道程なので歩いて訪れることをお薦めします。
さて、境内に入りますと、自転車で出かけようとしてされている年輩の男性がおられました。申し上げるまでもなく瀬尾哲命師とは面識はありませんでしたが、間違いなく瀬尾師であると思われましたので声をおかけしたところ、そのとおりでありました。外出のご用向きの妨げになってはと思い、いろいろお聞きしたいこともありましたが止めました。そんなわけで、束の間のことではありましたが、お話ができたのは幸いでありました。上の小説には、放哉が西光寺に身を寄せた時の住職の名を「杉本宥玄」としていますが、本名なのかどうか。本名とすれば、現在の住職の瀬尾哲命師とは、どのような関係なのか、特に確かめてはいません。
私は午後1時50分発の高速艇で小豆島を後にしましたが、前に書きました法然寺の五重塔の拝観のため、もう一度、四国を訪れることができますかどうか。
私は、このブログを書く他は、これといって沢山の容量が必要なことを行っているわけではありませんので必要ないのですが、中には大容量のサーバーの必要性を感じている方もおられるでしょう。そのような方は、こちらの ↓ レンタルサーバーを、ご検討されてみては如何でしょう。
西光寺から宿へ戻った私は、準備されていました朝食を摂った後、まず、「二十四の瞳」の舞台となりました岬の分教場へ向かいました。言申し上げるまでもないことながら、それは既に廃校となっていて観光地の一つとなっていますが、疎開先での小学校を思い出させる懐かしいものでした。そこから少し先に、高峰秀子が主役の「おんな先生」を演じた映画「二十四の瞳」を撮影した時のセットが、そのまま残されて映画村として観光施設化されていましたが、そこは割愛して、寒霞渓(国名勝)へ向かいました。紅雲亭というロープウェイの乗場まで行き、山頂までロープウェイで往復しましたが、この時は眼が覚めるような新緑に覆われた光景を満喫することができました。
そして、寒霞渓ブルーラインで山頂まで行き、更に銚子渓に立ち寄って、昼食として小豆島の名産のソーメンを食しました。次いで、小豆島スカイラインを辿って土庄町へ向かいましたが、途中でスカイラインから逸れ、重要民俗資料の中山農村歌舞伎舞台を見物した後、土庄町へと車を進め再び西光寺を訪れました。
放哉は一八八五(明治一八)年鳥取市立川町生まれ、一高時代に一級上の自由律俳句の荻原井泉水と出あった。東大法学部を卒業後、就職したものの酒でしくじり放浪、夫人とも別れた。明石(兵庫県)の須磨寺や京都の竜岸寺の寺男を転々とし、一九二五(大正一四)年の夏、井泉水の高弟で淵崎の俳人井上一二(文八郎)が、西光寺住職との俳句の交遊関係のつてで、放哉を西光寺奥の院である南郷庵に招いた。すでに肺を病み、遍路の施しをうける八ヵ月ばかりの蟄居生活であったが、彼の自由律俳句の決定的な作品はこの地のものが多い。(ルビ省略)
上は、「香川県の歴史散歩」からの引用ですが、以前に見ました「遍路国往還記」には、「浅黄色の風呂敷包み一つ持って、尾崎放哉は小豆島土庄の港へ着いた。(中略)放哉は島の第五十八番札所である西光寺の奥院南郷庵に入った。庵はお大師さまをまつった六畳、居間の八畳、台所の三畳という簡素なもので、西に窓が一つある」とあり、「障子あけて置く海も暮れきる」という一句が挙げられています。吉村昭の「海は暮れきる」という伝記小説の題名は、この句から採ったのでありましょう。
その「海は暮れきる」は、放哉が妻と別れて西光寺に辿り着くまでの間には、「京都知恩院塔頭常称院の寺男になったが、そこを追われ、兵庫須磨寺をへて福井県小浜町の常高寺の寺男にもなった」とあります。京都の竜岸寺、そして京都の知恩院の塔頭の常称院については、実際にあるのかどうか確認していませんが、須磨寺(福詳寺)には三重塔があり、拙著「近畿・岡山篇」で訪れており、小浜町とあるのは申し上げるまでもなく、最近、次期アメリカ大統領のオバマ氏との関連で有名になりました現在の小浜市で、そこにある常高寺については、拙著「中部日本篇」で訪れました。これらの寺を訪れました時には既に「海は暮れきる」は読んでいたので、放哉は、ここの寺男をしていたのだな、と感慨が深いものがありました。
西光寺の墓地の入口にある、放哉の終焉の南郷庵の跡地と言われる所に造られています尾崎放哉記念館にも行ってみました。記念館は小さなものでありましたが、墓地は明るい光に満ち溢れた高台にあって、そこからの眺めは素晴らしいもので、特に西光寺の三重塔を遠望するには、ここが最適ではないかと思われました。しかし、記念館には誰もいず、中を見学することはできませんでした。放哉ファンの方ならば、前もって西光寺へ連絡して訪れられた方が良いでしょう。
(長くなりますが、ここで止めるのは中途半端ですので続けます)
昨日、「小豆島には二度と来ることはないであろうと思った」と書きましたが、平成13年の8月、備中、美作の塔をめぐった旅の3日目となる8月18日に再訪する機会を作り、新岡山港から高速艇で小豆島の土庄港へ渡り、西光寺へ向かいました。
家並の中に入り、細い道をたどると寺の前に出た。王子山

上は、「海は暮れきる」の一節であり、放哉が西光寺を初めて訪れた時の描写である。時は大正時代であり、実際にあったことに忠実と思われますものの、あくまでも小説ではありますが、私が訪れた時も、町並みなどは、それほど変わっていないのではないかと思われました。ただし、その頃にはなかった三重塔に眼を奪われていて、石仏には気がつきませんでした。なお、土庄港からのバス便もあり、坂手行新町バス停下車5分ということでありますが、15分ほどの道程なので歩いて訪れることをお薦めします。
さて、境内に入りますと、自転車で出かけようとしてされている年輩の男性がおられました。申し上げるまでもなく瀬尾哲命師とは面識はありませんでしたが、間違いなく瀬尾師であると思われましたので声をおかけしたところ、そのとおりでありました。外出のご用向きの妨げになってはと思い、いろいろお聞きしたいこともありましたが止めました。そんなわけで、束の間のことではありましたが、お話ができたのは幸いでありました。上の小説には、放哉が西光寺に身を寄せた時の住職の名を「杉本宥玄」としていますが、本名なのかどうか。本名とすれば、現在の住職の瀬尾哲命師とは、どのような関係なのか、特に確かめてはいません。
私は午後1時50分発の高速艇で小豆島を後にしましたが、前に書きました法然寺の五重塔の拝観のため、もう一度、四国を訪れることができますかどうか。
☆ ☆ ☆
私は、このブログを書く他は、これといって沢山の容量が必要なことを行っているわけではありませんので必要ないのですが、中には大容量のサーバーの必要性を感じている方もおられるでしょう。そのような方は、こちらの ↓ レンタルサーバーを、ご検討されてみては如何でしょう。
2008年12月23日
いよいよ四国での最後の塔です
五重塔、三重塔をめぐる四国の旅も、いよいよ最後の塔ということになります。
平成7年5月10日の早朝、車で往復しても宿の朝食の時刻までには戻れることを確認した上で、私は西光寺へ車を駆しらせました。といいいますのも、その時は、小豆島には2度と来ることはないであろうと思いましたので、西光寺の三重塔を、最も条件の良い光の状態でカメラに収めたく、もし午前中が光の具合が悪ければ、午後3時頃までは小豆島に滞在する予定でありましたので、午後に再訪すればよいとの思いがあったからです。
山門の前に駐車できるスペースがありましたので、そこに車を駐め、山門をくぐって境内に入りますと、正面に本堂が建ち、その背後の小高い所に朱色の三重塔が建っています。三重塔の建つ高台へは、本堂の右手から登ることができ、登り詰めた所からの眺望は素晴らしいものでした。そして、三重塔は南面して建てられており、角度によっては、塔前
に植えられている松の木に初重の一部が隠される程度ですので、光の具合としては、季節にもよりましょうが、午前でも午後でも特に問題がないようでありました。ただ、三重塔は小さな丘の上の狭いスペースに建っていますので、拝観するだけであればともかく、写真撮影ということ
になりますと、その狭さが問題となります。私は、ぎりぎりの所まで下がって、身を反らせながら写真を撮ったですが、三層目の屋根の反り具合などは、うまくカメラに収められませんでした。
現像、焼付けしてみなければ安心できませんでしたが、まずまずの写真が撮れたと思いました私は宿へ戻りました。なお、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、三重塔は「昭和四十八年起工、五十年(一九七五)に完成した」とありますが、後に西光寺に文書で照会したところ、ご住職の瀬尾哲命師からのご回答には、棟上げは昭和49年8月、落慶法要は昭和52年10月23日とありました。この旅日記では、設計図書なども同封していただいていました、ご住職からのご回答を尊重しておくこととします。そして上の書には、三重塔の高さについての記載はなく、初重の一辺についてのみ3・38mとありますが、ご住職からいただいた設計図書には20・914メートルとあります。
何はともあれ、下の写真を、ご覧ください。
http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2008to/saikoji16.jpg
さて、今年も残すところ僅かとなりましたが、今年も良きにつけ悪しきにつけ、色々と話題に事欠かない年でしたね。印象に残るのは、今年ほど、食材の安全性が問題になった年はなかったのではないでしょうか。そんな中で、やはり、赤ちゃんに安全な食材は重要ですよね。こちらで ↓ どうぞ。

平成7年5月10日の早朝、車で往復しても宿の朝食の時刻までには戻れることを確認した上で、私は西光寺へ車を駆しらせました。といいいますのも、その時は、小豆島には2度と来ることはないであろうと思いましたので、西光寺の三重塔を、最も条件の良い光の状態でカメラに収めたく、もし午前中が光の具合が悪ければ、午後3時頃までは小豆島に滞在する予定でありましたので、午後に再訪すればよいとの思いがあったからです。
山門の前に駐車できるスペースがありましたので、そこに車を駐め、山門をくぐって境内に入りますと、正面に本堂が建ち、その背後の小高い所に朱色の三重塔が建っています。三重塔の建つ高台へは、本堂の右手から登ることができ、登り詰めた所からの眺望は素晴らしいものでした。そして、三重塔は南面して建てられており、角度によっては、塔前
に植えられている松の木に初重の一部が隠される程度ですので、光の具合としては、季節にもよりましょうが、午前でも午後でも特に問題がないようでありました。ただ、三重塔は小さな丘の上の狭いスペースに建っていますので、拝観するだけであればともかく、写真撮影ということ
になりますと、その狭さが問題となります。私は、ぎりぎりの所まで下がって、身を反らせながら写真を撮ったですが、三層目の屋根の反り具合などは、うまくカメラに収められませんでした。
現像、焼付けしてみなければ安心できませんでしたが、まずまずの写真が撮れたと思いました私は宿へ戻りました。なお、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、三重塔は「昭和四十八年起工、五十年(一九七五)に完成した」とありますが、後に西光寺に文書で照会したところ、ご住職の瀬尾哲命師からのご回答には、棟上げは昭和49年8月、落慶法要は昭和52年10月23日とありました。この旅日記では、設計図書なども同封していただいていました、ご住職からのご回答を尊重しておくこととします。そして上の書には、三重塔の高さについての記載はなく、初重の一辺についてのみ3・38mとありますが、ご住職からいただいた設計図書には20・914メートルとあります。
何はともあれ、下の写真を、ご覧ください。
http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2008to/saikoji16.jpg
☆ ☆ ☆
さて、今年も残すところ僅かとなりましたが、今年も良きにつけ悪しきにつけ、色々と話題に事欠かない年でしたね。印象に残るのは、今年ほど、食材の安全性が問題になった年はなかったのではないでしょうか。そんな中で、やはり、赤ちゃんに安全な食材は重要ですよね。こちらで ↓ どうぞ。

2008年12月22日
高松港からフェリーで小豆島へ
五重塔、三重塔をめぐる四国の旅も最後の塔ということになりますが、そのためにはフェリーを使わなければなりません。
小豆島、という島の名を見たり聞いたりしたとき、何を想い浮かべますか、と問われた場合、貴方は何を想い浮かべられますか?私は、何といっても壺井栄の「二十四の瞳」ですが、中にはソーメンを想い浮かべ
られる方もおられるかもしれませんね。しかし、よほどの俳句通でもない限り、尾崎放哉(ほうさい)という五七五に拘らない自由律の俳句の作家を想い浮かべられる人はいないのではないでしょうか。かく言う私も、それまでは全く知りませんでした。それまでいいますのは、平成元年12月10日の朝日新聞朝刊の日曜版、「ぶらり出かけて」というシリーズ記事を見るまで、ということですが、それには、「小豆島」とあって、次のように記されています。
山頭火が若い女性に人気だという。ならば、山頭火と並び称される一所不在の俳人、尾崎放哉にも光が当たっていいではないかと、島に渡った。「妻と財とを捨てた」漂白の人が、病と同居しながら俳ざんまいで最後の八カ月を過ごした地である。
その記事(白井正夫記者)には、「放哉の小豆島での生活を吉村昭が『海は暮れきる』(講談社)で書いている」とありましたので、私はさっそく書店で講談社文庫の「海が暮れきる」を買い求めました。読み進めるうちに、これから訪れます三重塔がある西光寺(さいこうじ、真言宗)は、放哉が晩年を、その庵で暮らし、そして亡くなったことを知りました。そのことについては、後に書くこととします。
まず、時を確認しますと、平成7年5月9日、かつての部下に見送られて、高松港からフェリーで小豆島の池田港へ渡ったのですが、その部下というのは、私が東急コミュニティーという会社で人事課長職にあった頃の女性社員です。その女性が結婚して子供もでき、夫君の転勤で高松に住んでいたのです。仲人役までは引き受けませんでしたが、実質的には私が縁結びの役割を果たし結婚披露宴にも出席しました。縁結びに至った経緯については省略しますが、子供を連れて高松港に現れた彼女を見て、あの娘も母親になったかと感慨深いものがあり、出航までの束の間の時間でありましたが、話に花が咲きました。
小豆島では、港から近い「島の南西池田湾に突き出た緑の沖の鼻崖上に立つ」国民宿舎「小豆島」に一夜の宿を求めました。そして、その夜は、瀬戸内の島々の間に夕陽が沈んでいく光景を堪能しました。
旅の思い出話で終わってしまいますが、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めておきます。
さて、クリスマスは3日後になってしまいましたので、クリスマスプレゼントとしては遅きに失した感じですが、お部屋に観葉植物が一つでもありますと、心が和みますよね。こちらで ↓ どうぞ。

小豆島、という島の名を見たり聞いたりしたとき、何を想い浮かべますか、と問われた場合、貴方は何を想い浮かべられますか?私は、何といっても壺井栄の「二十四の瞳」ですが、中にはソーメンを想い浮かべ
られる方もおられるかもしれませんね。しかし、よほどの俳句通でもない限り、尾崎放哉(ほうさい)という五七五に拘らない自由律の俳句の作家を想い浮かべられる人はいないのではないでしょうか。かく言う私も、それまでは全く知りませんでした。それまでいいますのは、平成元年12月10日の朝日新聞朝刊の日曜版、「ぶらり出かけて」というシリーズ記事を見るまで、ということですが、それには、「小豆島」とあって、次のように記されています。
山頭火が若い女性に人気だという。ならば、山頭火と並び称される一所不在の俳人、尾崎放哉にも光が当たっていいではないかと、島に渡った。「妻と財とを捨てた」漂白の人が、病と同居しながら俳ざんまいで最後の八カ月を過ごした地である。
その記事(白井正夫記者)には、「放哉の小豆島での生活を吉村昭が『海は暮れきる』(講談社)で書いている」とありましたので、私はさっそく書店で講談社文庫の「海が暮れきる」を買い求めました。読み進めるうちに、これから訪れます三重塔がある西光寺(さいこうじ、真言宗)は、放哉が晩年を、その庵で暮らし、そして亡くなったことを知りました。そのことについては、後に書くこととします。
まず、時を確認しますと、平成7年5月9日、かつての部下に見送られて、高松港からフェリーで小豆島の池田港へ渡ったのですが、その部下というのは、私が東急コミュニティーという会社で人事課長職にあった頃の女性社員です。その女性が結婚して子供もでき、夫君の転勤で高松に住んでいたのです。仲人役までは引き受けませんでしたが、実質的には私が縁結びの役割を果たし結婚披露宴にも出席しました。縁結びに至った経緯については省略しますが、子供を連れて高松港に現れた彼女を見て、あの娘も母親になったかと感慨深いものがあり、出航までの束の間の時間でありましたが、話に花が咲きました。
小豆島では、港から近い「島の南西池田湾に突き出た緑の沖の鼻崖上に立つ」国民宿舎「小豆島」に一夜の宿を求めました。そして、その夜は、瀬戸内の島々の間に夕陽が沈んでいく光景を堪能しました。
旅の思い出話で終わってしまいますが、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めておきます。
☆ ☆ ☆
さて、クリスマスは3日後になってしまいましたので、クリスマスプレゼントとしては遅きに失した感じですが、お部屋に観葉植物が一つでもありますと、心が和みますよね。こちらで ↓ どうぞ。

2008年12月21日
四国八十八ヵ所めぐりの結願を果たす
五重塔、三重塔をめぐる旅のついでではありましたが、形だけであれ、結願を果たしました。
白鳥廃寺跡を後にした私は、国道11号線を西へ戻り、訪れた時には「さぬき市」となっていました旧大川郡寒川町神崎にあり、JR高徳線神崎駅から遠くない所にあるようである石井廃寺跡へ向かいました。「香川県の歴史散歩」に、「神崎駅から道を東にとり、津田川を渡ると雨滝山南麓の丘陵に出あう。小道を山の手にむかうと約20分で石井地区に出る。石井地区自治会館の敷地に石井廃寺跡がある。基壇と塔心礎がわずかに残る。出土瓦には古代の優美なものが多く、白鳳期の創建と推定されている」、とあったからです。しかし、迷った末、結局は辿り着けませんでした。
次いで私は、第87番札所補陀落山長尾寺(ながおじ、天台宗)へ向かいました。この寺での見ものは、仁王門の前にあります一対の経幢(きょうどう、重文)でありましょう。経幢といいますのは、淡交社刊、財団法人京都府文化財保護基金編「文化財用語辞典」によりますと、「石柱に仏典を刻したもの。中に経巻・仏像等を納めるものもある」ということですが、「香川県の歴史散歩」には、ここの経幢の「1基の銘に『弘安(1278〜88)」第九天五月日大願主』とあり、元寇(げんこう)の役に出陣した讃岐将兵の霊を弔うため建立したと伝える」(ルビは括弧で表記)とあります。
長尾寺を後にした私は、県道3号線を進み、国道377号線へと左折し、結願の札所である医王山大窪寺(おおくぼじ、真言宗大覚寺派)へ向かいました。この寺には多宝塔がありますが、本堂の背後の狭い所に建っており、写真を撮るには、すこぶる具合が悪い状況にありました。
この多宝塔について、中西亨先生の「日本塔総鑑」には次のように紹介されています。
ここの塔は多宝塔型ではあるが、普通の独立した塔とちがい、本堂の奥殿の上に多宝塔の上層をのせたもので、従って下層の方は普通の仏堂の形をしており、前に中殿・礼堂が接している。すべて木造で、昭和二十九年後の山を開いて建てられたもので、工事は四年かかったそうである。
さて、ところどころで書きましたとおり、私の納経帳(アルバム)には、訪れた証拠であります印(写真)が数ヵ寺ありませんが、とにもかくにも、これで四国八十八ヵ所を巡り終えたことになります。信仰心からではありませんでしたが、ほっとしたのも、偽らざる気持ちでした。
今日は日曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

白鳥廃寺跡を後にした私は、国道11号線を西へ戻り、訪れた時には「さぬき市」となっていました旧大川郡寒川町神崎にあり、JR高徳線神崎駅から遠くない所にあるようである石井廃寺跡へ向かいました。「香川県の歴史散歩」に、「神崎駅から道を東にとり、津田川を渡ると雨滝山南麓の丘陵に出あう。小道を山の手にむかうと約20分で石井地区に出る。石井地区自治会館の敷地に石井廃寺跡がある。基壇と塔心礎がわずかに残る。出土瓦には古代の優美なものが多く、白鳳期の創建と推定されている」、とあったからです。しかし、迷った末、結局は辿り着けませんでした。
次いで私は、第87番札所補陀落山長尾寺(ながおじ、天台宗)へ向かいました。この寺での見ものは、仁王門の前にあります一対の経幢(きょうどう、重文)でありましょう。経幢といいますのは、淡交社刊、財団法人京都府文化財保護基金編「文化財用語辞典」によりますと、「石柱に仏典を刻したもの。中に経巻・仏像等を納めるものもある」ということですが、「香川県の歴史散歩」には、ここの経幢の「1基の銘に『弘安(1278〜88)」第九天五月日大願主』とあり、元寇(げんこう)の役に出陣した讃岐将兵の霊を弔うため建立したと伝える」(ルビは括弧で表記)とあります。
長尾寺を後にした私は、県道3号線を進み、国道377号線へと左折し、結願の札所である医王山大窪寺(おおくぼじ、真言宗大覚寺派)へ向かいました。この寺には多宝塔がありますが、本堂の背後の狭い所に建っており、写真を撮るには、すこぶる具合が悪い状況にありました。
この多宝塔について、中西亨先生の「日本塔総鑑」には次のように紹介されています。
ここの塔は多宝塔型ではあるが、普通の独立した塔とちがい、本堂の奥殿の上に多宝塔の上層をのせたもので、従って下層の方は普通の仏堂の形をしており、前に中殿・礼堂が接している。すべて木造で、昭和二十九年後の山を開いて建てられたもので、工事は四年かかったそうである。
さて、ところどころで書きましたとおり、私の納経帳(アルバム)には、訪れた証拠であります印(写真)が数ヵ寺ありませんが、とにもかくにも、これで四国八十八ヵ所を巡り終えたことになります。信仰心からではありませんでしたが、ほっとしたのも、偽らざる気持ちでした。
☆ ☆ ☆
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2008年12月20日
またまた寄り道ですが
四国本島の五重塔、三重塔は見終わりましたが、四国では、もう一基だけ塔があります。それは、明後日あたりの楽しみとしていただくこととし、もう二日ほど寄り道に、お付き合い願います。なお、昨日は、サイト側のシステム障害のため、ブログが書けませんでした。
志度寺から国道11号線を東へ進み、平成15年4月1日の3町合併により今は東かがわ市となっている、当時の大川郡白鳥町域に入り、湊川に架かる湊大橋の手前で右折して、川沿いの道を南下して少し行きますと、3階建てのマンションがあります。その辺りで道はカーブしますが、その曲がり角に白い看板がありましたので、車を道の傍らに寄せて駐め、その看板を見に行きますと、それが目指す白鳥廃寺跡でありました。
この塔跡について「香川県の歴史散歩」には、交通の便について、高徳線讃岐白鳥駅からバス長尾引田線で湊バス停下車5分とあったうえ、「讃岐白鳥駅から国道11号線を西に約1・5qの湊大橋から、南に約600m、湊バス停で降りると、湊川左岸の北と南の低い丘陵に挟まれた水田のなかに、白鳥廃寺跡(県史跡)の東西二つの土壇が残っている。東側は塔基壇跡であり、西側は金堂基壇跡と考えられる。(中略)出土瓦は
華文鐙瓦など白鳳期から平安後期までのものがある。塔基壇の礎石が火をうけており、ほかにも焼土がみられることから、寺の創建は白鳳期にさかのぼり平安後期に焼失したと考えられる」(ルビ省略)とあります。季節柄、礎石の周囲は雑草に覆われていましたが、周りの草を踏み分けて、ようやく心礎の写真が撮れる状況まですることができました。
この塔跡について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、次のように記されています。
……昭和四三年に発掘調査が行なわれ、心礎のほか九個の礎石のある塔跡と、一一個の礎石の残る西方土壇が確認された。後者は金堂跡らしく、南面していたか東面していたかはっきりしないが、まず法起寺式の伽藍であろうと推定されている。心礎は一・六メートル×一・四メートル、上部を削平し直径三七センチ、深さ七・三センチの孔があるが、他の礎石は心礎を中心に集めた形跡があり、動いているのでどれが四天柱礎か側柱礎かよくわからない。したがって土壇の一辺は一二メートルであるが、塔の一辺長ははっきりしない。出土瓦は法隆寺系複弁
華文鐙瓦で、白鳳末期ないし奈良初期。この寺の創建もその頃であろう。平安末期の瓦も発見され、その頃まで存続していたことを物語っている。
今日も女性向けの商品の紹介になりますが、レバンテの薬用スキンケアは、如何でしょう。まずは、トライアルセットでの、お試しを、こちらで ↓ どうぞ。

志度寺から国道11号線を東へ進み、平成15年4月1日の3町合併により今は東かがわ市となっている、当時の大川郡白鳥町域に入り、湊川に架かる湊大橋の手前で右折して、川沿いの道を南下して少し行きますと、3階建てのマンションがあります。その辺りで道はカーブしますが、その曲がり角に白い看板がありましたので、車を道の傍らに寄せて駐め、その看板を見に行きますと、それが目指す白鳥廃寺跡でありました。
この塔跡について「香川県の歴史散歩」には、交通の便について、高徳線讃岐白鳥駅からバス長尾引田線で湊バス停下車5分とあったうえ、「讃岐白鳥駅から国道11号線を西に約1・5qの湊大橋から、南に約600m、湊バス停で降りると、湊川左岸の北と南の低い丘陵に挟まれた水田のなかに、白鳥廃寺跡(県史跡)の東西二つの土壇が残っている。東側は塔基壇跡であり、西側は金堂基壇跡と考えられる。(中略)出土瓦は

この塔跡について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、次のように記されています。
……昭和四三年に発掘調査が行なわれ、心礎のほか九個の礎石のある塔跡と、一一個の礎石の残る西方土壇が確認された。後者は金堂跡らしく、南面していたか東面していたかはっきりしないが、まず法起寺式の伽藍であろうと推定されている。心礎は一・六メートル×一・四メートル、上部を削平し直径三七センチ、深さ七・三センチの孔があるが、他の礎石は心礎を中心に集めた形跡があり、動いているのでどれが四天柱礎か側柱礎かよくわからない。したがって土壇の一辺は一二メートルであるが、塔の一辺長ははっきりしない。出土瓦は法隆寺系複弁

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2008年12月18日
志度寺の境内を散策
五重塔の拝観を済ませた私は、志度寺の境内を散策しました。
昨日見ました寺発行のリーフレットに「海女の墓」などのことが記されていますが、リーフレットにありますように藤原不比等が造立したものかどうかは判りませんものの、その「海女の墓」は、五重塔の右手奥にあります。現地には志度町文化財保護協会によって立てられた説明板がありましたが、この旅日記では、高群逸枝の「お遍路」に眼を通すこととします。
寺内に海女墓がある。謡曲「海女」の女主人公である。天智朝、鎌足の女の才色は唐朝まで聞えて高宗の妃に迎えられた。鎌足が死んだとき高宗は宝玉を妃に与え、先考追福の資として兄の不比等におくらせた。宝玉をのせた船は今の志度浦にさしかかったとき、しけのために面向不背の珠を龍神のために攫われた。その珠は中に釈
三尊を刻み、これを拝するに表裏なく上下なしという名宝であった。淡海(不比等)は珠を取り返すべく房前浦(志度浦の古名)に下り、漁師の娘と契って一子房
前を設けた。やがて夫の目的を知った妻は、死を決して海底に入り、首尾よく龍神から玉を取り戻すと、それを己が乳の下を切って押隠しながら浮び上がった。不比等はそこに一宇を建て、死度道場と名づけてその霊を弔った。(ルビ省略)
海女の墓を見物した後、私は本堂(国重文)を拝観し、本堂と向き合ってある書院の裏の庭園を散策しました。この庭園は見応えのあるもので、志度町観光協会によって現地に立てられた説明板には、次のように記されていました。
この庭園は今から五百年前文明五年頃細川氏一派によって作庭された曲水式地割の古い型式を備えた廻遊式池水庭園でありましたが昭和三十六年京都林泉協会々長重森三玲先生の指導により復元され室町初期の石組を参考にし乍ら新しい現代感覚を盛込んだ庭園であります。
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寺内に海女墓がある。謡曲「海女」の女主人公である。天智朝、鎌足の女の才色は唐朝まで聞えて高宗の妃に迎えられた。鎌足が死んだとき高宗は宝玉を妃に与え、先考追福の資として兄の不比等におくらせた。宝玉をのせた船は今の志度浦にさしかかったとき、しけのために面向不背の珠を龍神のために攫われた。その珠は中に釈

前を設けた。やがて夫の目的を知った妻は、死を決して海底に入り、首尾よく龍神から玉を取り戻すと、それを己が乳の下を切って押隠しながら浮び上がった。不比等はそこに一宇を建て、死度道場と名づけてその霊を弔った。(ルビ省略)
海女の墓を見物した後、私は本堂(国重文)を拝観し、本堂と向き合ってある書院の裏の庭園を散策しました。この庭園は見応えのあるもので、志度町観光協会によって現地に立てられた説明板には、次のように記されていました。
この庭園は今から五百年前文明五年頃細川氏一派によって作庭された曲水式地割の古い型式を備えた廻遊式池水庭園でありましたが昭和三十六年京都林泉協会々長重森三玲先生の指導により復元され室町初期の石組を参考にし乍ら新しい現代感覚を盛込んだ庭園であります。
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2008年12月17日
ようやく香川県での三つ目の塔です
寄り道が続きましたが、ようやく香川県での三つ目の塔を訪れます。
まず年月日を確認しておくこととしますが、平成15年5月3日、第86番札所の補陀落山志度寺(しどじ、真言宗善通寺派)を訪れました。「香川県の歴史散歩」には、その所在地について「大川郡志度町志度1102」とありますが、平成14年4月1日に、大川郡西部の五町(津田町、大川町、志度町、寒川町、長尾町)が合併して、さぬき市となりました。そして、志度寺を訪れる場合の交通の便について、高徳線志度駅下車5分とありますが、琴電志度線の終点琴電志度駅からの方が僅かながら近いようです。そして同書には、「志度駅前の国道を横切り、北に少し歩くと寺町の通りと交差する。『讃岐国名勝図絵』に『人家軒を並べ富商および旅舎多し、四国巡拝の札所ありて往来の旅人日夜連綿として」と描かれた町並である。(中略)町並の東端、突き当たりに志度寺の仁王門がある」とあります。上の文中の国道は、言うまでもなく11号線でありますが、その町並みの中の旅館に一夜の宿を求めた私は、宿に荷物を置いてカメラだけを手に寺を訪れました。しかし、目指す五重塔は、それまでの訪れ(この時が3度目)で南面して建っていますが、写真は東側からしか撮れず、五重塔の撮影には陽の向きは不都合であることが判っていましたので、境内をざっと一巡したのみで翌日に改めて訪れました。
この寺の歴史については、寺発行のリーフレットに眼を通すこととします。
志度寺縁起絵図6巻(重文)によると、推古天皇の33年(西暦625年)に開創され、本尊・十一面観音、脇士・不動明王・毘沙門天(それぞれ重文)がまつられ、1369年前の往古より、人々に親しまれてきた。
「梁塵秘抄」によると、所願成就をかなえてくださる観音霊験の聖地として、日本全国から信仰憧憬をよせられていたことが知られています。
天武天皇の10年(西暦681年)には、藤原不比等公が妻の「海女の墓」を建立して、「死渡道場」と名付け、堂宇を拡張し、僧侶の学校、信者の修業の道場となった。
持統天皇の7年(西暦693年)に藤原北家の始祖房前公が、僧・行基ととともに参詣して母親の追善をとむらい、父母の慈愛に感謝して千基の石塔群を造立した。
「続日本紀」によると、このときに、藤原家が海人〈海士とも〉族の海部直の娘と縁を結び海人一族にたすけられて、海洋の支配権を獲得したことが知られている。補陀落山・志度寺は、一万坪の広大な寺域を有し潮騒が聞こえ、塩の香りが漂う海辺にまじかに接して、白装束の人々が鐘の音を打ち鳴らしながら、一年中往来しています。
寺へと続く町並みの中を歩いて行きますと、仁王門(重文)そして左手の塀越しに五重塔が見えてきます。それでなくても五重塔へ真っ先に行く私ですので、ここでは尚更のこと五重塔を先にしてしまいます。
現地には、志度町、志度町観光協会によって立てられた説明板があって、それには次のように記されていました。(原文のママ)
塔の高さ三十三メートル、塔屋の間口四・五メートル、五層総ひのき作り朱の色も鮮かな木造五重の塔で、日本では十八番目に建立されたものである。(中略)
少年時代から、志度寺第三十三代住職十河龍澄和尚にこよなく可愛がられ、励まされて世に出た、東大阪市の竹野二郎氏が報恩と、仏法興隆のため、私財三億余円を寄進し、三年三ヵ月の歳月をかけて、昭和五十年五月十八日落慶したものである。
この説明板の「日本では十八番目に建立されたもの」という説明は、何を根拠として書かれたのでしょうか。私の手元にあります昭和49年3月20日毎日新聞社発行、文化庁監修の「重要文化財一四」(建造物V)では、五重塔は22基が挙げられています。その中には、奈良の海竜王寺五重小塔(国宝)元興寺極楽坊五重小塔(国宝)、京都の教王護国寺五重小塔(重文)が含まれていますが、それを除いても19基となりますので、現在の志度寺の五重塔が「日本では十八番目に建立されたもの」でないことは明らかです。もちろん四国八十八ヵ所の寺で、ということでもないことは、これまで辿ってきたことにより明らかです。
では、どのような基準に基づくのかということになりますが、その手がかりがありません。それはさて措き、五重塔については、下の写真をご覧いただいた方が早いでしょう。
http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/37kagawa/sido5/sido5.html
なお、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、「備後福山の明王院の国宝五重塔に模してたてられた純木造の立派なもの」とあります。しかしながら、やはり明王院の五重塔とは異なり、塔身が細いように思われました。
さて今日は、ちょっと変わったところで、年内は無理かもしれないが、年明けには住宅のリフォームを、と考えておられる方に、全国展開しているリフォームのナカヤマを、ご紹介します。こちらを ↓ どうぞ。


まず年月日を確認しておくこととしますが、平成15年5月3日、第86番札所の補陀落山志度寺(しどじ、真言宗善通寺派)を訪れました。「香川県の歴史散歩」には、その所在地について「大川郡志度町志度1102」とありますが、平成14年4月1日に、大川郡西部の五町(津田町、大川町、志度町、寒川町、長尾町)が合併して、さぬき市となりました。そして、志度寺を訪れる場合の交通の便について、高徳線志度駅下車5分とありますが、琴電志度線の終点琴電志度駅からの方が僅かながら近いようです。そして同書には、「志度駅前の国道を横切り、北に少し歩くと寺町の通りと交差する。『讃岐国名勝図絵』に『人家軒を並べ富商および旅舎多し、四国巡拝の札所ありて往来の旅人日夜連綿として」と描かれた町並である。(中略)町並の東端、突き当たりに志度寺の仁王門がある」とあります。上の文中の国道は、言うまでもなく11号線でありますが、その町並みの中の旅館に一夜の宿を求めた私は、宿に荷物を置いてカメラだけを手に寺を訪れました。しかし、目指す五重塔は、それまでの訪れ(この時が3度目)で南面して建っていますが、写真は東側からしか撮れず、五重塔の撮影には陽の向きは不都合であることが判っていましたので、境内をざっと一巡したのみで翌日に改めて訪れました。
この寺の歴史については、寺発行のリーフレットに眼を通すこととします。
志度寺縁起絵図6巻(重文)によると、推古天皇の33年(西暦625年)に開創され、本尊・十一面観音、脇士・不動明王・毘沙門天(それぞれ重文)がまつられ、1369年前の往古より、人々に親しまれてきた。
「梁塵秘抄」によると、所願成就をかなえてくださる観音霊験の聖地として、日本全国から信仰憧憬をよせられていたことが知られています。
天武天皇の10年(西暦681年)には、藤原不比等公が妻の「海女の墓」を建立して、「死渡道場」と名付け、堂宇を拡張し、僧侶の学校、信者の修業の道場となった。
持統天皇の7年(西暦693年)に藤原北家の始祖房前公が、僧・行基ととともに参詣して母親の追善をとむらい、父母の慈愛に感謝して千基の石塔群を造立した。
「続日本紀」によると、このときに、藤原家が海人〈海士とも〉族の海部直の娘と縁を結び海人一族にたすけられて、海洋の支配権を獲得したことが知られている。補陀落山・志度寺は、一万坪の広大な寺域を有し潮騒が聞こえ、塩の香りが漂う海辺にまじかに接して、白装束の人々が鐘の音を打ち鳴らしながら、一年中往来しています。
寺へと続く町並みの中を歩いて行きますと、仁王門(重文)そして左手の塀越しに五重塔が見えてきます。それでなくても五重塔へ真っ先に行く私ですので、ここでは尚更のこと五重塔を先にしてしまいます。
現地には、志度町、志度町観光協会によって立てられた説明板があって、それには次のように記されていました。(原文のママ)
塔の高さ三十三メートル、塔屋の間口四・五メートル、五層総ひのき作り朱の色も鮮かな木造五重の塔で、日本では十八番目に建立されたものである。(中略)
少年時代から、志度寺第三十三代住職十河龍澄和尚にこよなく可愛がられ、励まされて世に出た、東大阪市の竹野二郎氏が報恩と、仏法興隆のため、私財三億余円を寄進し、三年三ヵ月の歳月をかけて、昭和五十年五月十八日落慶したものである。
この説明板の「日本では十八番目に建立されたもの」という説明は、何を根拠として書かれたのでしょうか。私の手元にあります昭和49年3月20日毎日新聞社発行、文化庁監修の「重要文化財一四」(建造物V)では、五重塔は22基が挙げられています。その中には、奈良の海竜王寺五重小塔(国宝)元興寺極楽坊五重小塔(国宝)、京都の教王護国寺五重小塔(重文)が含まれていますが、それを除いても19基となりますので、現在の志度寺の五重塔が「日本では十八番目に建立されたもの」でないことは明らかです。もちろん四国八十八ヵ所の寺で、ということでもないことは、これまで辿ってきたことにより明らかです。
では、どのような基準に基づくのかということになりますが、その手がかりがありません。それはさて措き、五重塔については、下の写真をご覧いただいた方が早いでしょう。
http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/37kagawa/sido5/sido5.html
なお、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、「備後福山の明王院の国宝五重塔に模してたてられた純木造の立派なもの」とあります。しかしながら、やはり明王院の五重塔とは異なり、塔身が細いように思われました。
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