2008年12月27日

豊前国分寺の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる九州の旅で拝観する最初の塔、それが豊前国分寺の三重塔ですが、昨日も見ましたリーフレットには、次のように記されています。

 国分僧寺の塔は本来七重塔で、当初鐘楼門をはさんで三重塔とは反対の東側にあったと推定されています。
 焼失後、塔が再建されたのは明治になってからです。住職宮本孝梁師の発願により、明治二一年(一八八八年)に着工し、二八年完成、二九年一月に落慶法要が行われました。
 その後一〇〇年間経過して傷みが激しかったため、昭和六〇年から六二年に全面的な解体修理が実施されました。
 三重塔は昭和三二年に福岡県の有形文化財に指定されています。
 建物の高さは約二三・三m、初層の大きさは一辺が約七・五mです。建築様式は層塔と多宝塔の折衷様式で、心柱は全長二三m・根元六〇p角の杉材の一本物です。

 創建当初は七重塔であったという天平の国分寺の塔址は今は残っていないようなので、上のリーフレットには豊前国分寺星座(うお座)寺伽藍配置図も描かれ、塔跡推定地も示されていますが、訪れてはいません。
 ところで、「豊前国分寺三重塔」というリーフレットには、「昭和32年、県の文化財に指定されたが、その後落雷のため大破したので再び浄財を募って昭和40年に復元し、さらに昭和63年に全面的な解体修理により昔日の面影を偲ばせる優美な塔が完成した」とあります。解体修理の年の違いは措いて、落雷による大破とは、どの程度であったのでしょうか。修理ではなく復元とあるのも、気になるところです。しかしながら、県の文化財の指定が解かれていないのですから、大破とはいいながら、大部分が古材を使用しての修理であったのでしょう。
 このリーフレットには、続けて次のように記されています。(原文のママ)

 ……上層と中層の屋根は同じ大きさで、下層は大きく張り出している。床下の礎石29基のうち奈良時代の円形柱座をほどこした礎石が3基ある。
 「塔」はインドのストゥパー(仏塔)の流れをくむ多重塔形式をとっていますが塔の内陣には大日如来を中尊とする四仏が安置され多宝塔形式となっており全体的には層塔形式と宝塔形式の折衷形式とみなされています。また二層目には12星座の彫刻が施され、明治の文明開花の影響がみられます。

 ちょっと眼を昭和53年発行の旧版「福岡県の歴史散歩」に眼を移しますと、次のように記されています。

 ……二九個の礎石のうち枘(ほぞ)穴をもつ心礎と円形柱座をもつ礎石二基は創建時のものといえるが、その位置には疑問がある。山門と鐘楼門(中門)をむすぶ線の延長戦上には南方は村道が約二〇〇メートル南にのびガランデ(伽藍田の意)地区につうじており、北方には本堂のすぐ後方の東西約一一〇メートル、南北七〇メートルの長方形の竹藪(やぶ)をとびこえて旧道の痕跡があるので、これがもとの伽藍中軸線と考えられるが、塔の中心は中軸線から三五メートル西で、上国豊前の国の国分寺としては近すぎる。大正初年、塔の西隣の畑から多数の古瓦をだした(豊津高校所蔵品はその一部)ことがあり、塔の位置をおもわせる。(原文のママ。ルビは括弧で表記)

 三重塔の床下にある礎石の一つが、「枘(ほぞ)穴をもつ心礎と円形柱座をもつ礎石二基は創建時のものといえる」ということですが、申し上げるまでもなく、それらの礎石は見ることができませんでした。また、先に見ましたパンフレットと同名の別のリーフレットには、相輪の部分写真が掲載されており、それには、「遙かインドは、ストゥーパの形を伝える真の塔婆」と説明書きが付してあります。このような説明があることからして、塔の本質を承知している人が、リーフレットの作成に関与していることが解ります。
 ところで、「豊津町」というA三版の1枚刷りのものを見ますと、「塔の高さは23・3メートル、奈良法起寺と並び三重塔としては全国一を誇っている」とあります。一方、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、「一辺が七・五〇メートル、三重塔としては法起寺の塔をしのいで木造塔としては日本最大のものである」とあります。こちらは、塔の高さではなく、初重の一辺の長さが、法起寺の三重塔を超え日本最大というように記されているわけです。しかし、同書には、法起寺の三重塔の初重の一辺は六・四一m、高さ二三・九〇mとあります。であれば、高さでは法起寺の塔より低いが、初重の一辺は確かに法起寺の三重塔より長く、それは見た目でも明らかでありました。しかし、これまた同書には、奈良の薬師寺三重塔は、裳階の部分の長さではなく塔身の初重の一辺が七・〇九mとあり、これら三塔の中では最も長く、「法起寺の塔をしのいで」というのは、適切な表現ではないことになります。それほど重要なことではありませんので中西亨先生に確かめてはいませんが、同書やリーフレットが、法起寺の三重塔を引き合いに出していますのは、法起寺の三重塔が最古の三重塔であるからでしょう。
 ともあれ、中西先生も「日本塔総鑑」で、「とにかく変わった塔」と記しておられるとおり、この塔を眼にした瞬間は、美しいと感じられる姿ではありません。他に例を見ない形式でありますが、設計、建立者の意図は、どんなものであったのでしょうか。
 いずれにしましても、下の写真をご覧いただいた方が早いでしょう。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/40fukuoka/buzenkokubu3/buzenkokubu3.html

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 さて、今日は趣を変えて、天使の元気という珍しい商品を、ご紹介します。何はともあれ、こちらを ↓ ご覧になられ、ご自分で、どんなものかを、お確かめください。正直に申し上げて、私も、これから色々と研究してみたいと思っています。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 20:40| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月26日

九州での最初の塔のある寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、九州での最初の塔のある寺を訪れます。

 平成15年8月10日、私は中津市の中心部のホテルを出発し北東へ向かい、市の西端を流れる山国川を渡って、福岡県に入りました。国道10号線から椎名道路に入り、徳永の出口で一般道路へ出て祓川に架かる橋を渡った先で左折し、川沿いの道を進みました。祓川に架かる二つ目の橋の所で右折し、県道238号線を行きますと、やがて右手前方に豊前国分寺の三重塔の相輪が見えてきます。途中々々に豊前国分寺への案内標識がありますので、迷うことなく辿り着けるでしょう。
 この寺を訪れるのは、この時が2度目で、最初の訪れは、平成11年の4月11日でした。その時は福岡に出張し、仕事の方は前日の土曜日の午前中に終了していましたので、午後は後に書きます大分廃寺跡や神興廃寺などをめぐり、個人的に滞在を1日延ばし、日曜日に6時間コースのレンタカーで豊前国分寺をはじめ、幾つかの寺跡をめぐりました。
 ところで、平成10年5月、豊津町役場に観光パンフレットを送って貰えないかと連絡したところ、7部のパンフレットやリーフレットをお送りいただきました。これから見ていきますように、それらは実に質の良いもので、豊津町の文化の高いことが伺われました。みやこ町となった今も、それは受け継がれているに違いないと思いますが、どうでしょうか。
 そのうちの一つ、豊津町作成の「歴史回廊の里」という立派なパンフレットには、次のように記されています。

英彦山を源流に町の中央を貫流する祓川に広がる緑豊かな田園のまち「豊津」は、かつて豊前国の国府が置かれ、政治経済の中心地として栄えていました。
やがて鎌倉時代以降、豊前国府の衰退とともに、豊津の地は歴史の舞台から遠ざかっていきます。
しかし時代が下って、江戸時代の天保年間(1830〜1845)、当時、難行原(ナンギョウバル)と呼ばれていた豊津台地の開発を小笠原藩が始めてから、再び豊津の地は脚光を浴び始めます。
五年の歳月をかけた開発は天保十五年に終り、商人や職人も多く住み、地名も難行原から錦原へと改められました。
そして、まわりの原野の開墾も進み、現在の豊津町の原形ができあがったのです。(原文のママ)

 そして、豊津町作成の「豊津町歴史回廊の里 国史跡豊前国分寺跡」というリーフレットには、「豊前国分寺の変遷」について、次のように記されています。

 天平勝宝8年(756年)、筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向等26国の国分寺に「仏事荘厳具の下賜」がされ、このころまでに豊前国分寺では主要な建物が完成したと考えられています。その後、平安時代にかけて盛んに活動を続けていた諸国の国分寺も、鎌倉時代以降多くが衰退していきました。
 しかし、豊前国分寺は平安時代に天台宗の勢力下に入り、鎌倉・室町時代にもかわらず法灯をともし続けていました。そして、天正年間(1573年〜1592年)初期に戦国大名大友氏の戦火にあい、主要建物はすべて焼失したと伝えられています。その後、天正年間中にはいち早く同地に草庵が結ばれ、本尊薬師如来が造仏安置されました。本格的な再建は、江戸時代以降小笠原藩の援助を受けて当時の歴代住職の努力によって進みました。
 現在敷地内に残る建物のうち本堂は寛文6年(1666年)、鐘楼門は貞享元年(1684年)に建立されたものです。
 なお、国分僧寺の敷地は昭和51年(1976年)に国の史跡に指定されています。

 さて、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めておきます。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 18:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月25日

いよいよ九州なのですが……

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、いよいよ九州なのですが、九州は、塔そのものが少ないうえに、古い塔は5本の指にも足りません。それは追々に見ていくこととなります。

 四国に渡った日の日記で、「古事記」(岩波書店刊)の記述を引用しました。その末尾は「土左國は建依別と謂ふ」(ルビ省略。以下、同書からの引用について同じ)でしたが、それに続いて「次に隱伎の三子島を生みき。亦の名は天之ハート2(われている)許呂別」とあり、更に続けて次のように記されています。

 ……次に筑紫島を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫國は白日別と謂ひ、豐國は豐日別と謂ひ、肥國は建日向日豐久士比泥別と謂ひ、熊時計國は建日別と謂ふ。

 古事記に四つと記されている国数は、山川出版社刊「図説歴史散歩事典」に拠りますと、「701年(大宝元)の令制で畿内・七道の制となり、58国3島(壱岐・対馬・多褹)、824年(天長元)に66国2島(壱岐・対馬)、『延喜式』で68国となった」(ルビ省略)ということです。そして、筑紫国が筑前・筑後に、豊国が豊前・豊後に、肥国は肥前・肥後に、熊曽国は薩摩・大隅に分けられました。その後、日向という国ができましたが、現在の宮崎県となる日向国については、宮崎県を訪れた時に、詳しく書くこととします。
 ところで、上に「延喜式」とありますが、吉田孝著「古代国家の歩み」には、寛平九年(八九七)に即位した醍醐天皇の時代に制定されたという「延喜式」について、次のように記されています。

 醍醐天皇の時代には、国史(『日本三代実録』)や格式(『延喜挌』『延喜式』)が編纂される。なかでも『延喜式』五〇巻は、律令の施行細則である式を集大成したもので、律令制の百科便覧の趣をもち、公事や年中行事の典拠として永く尊重された。日本の律令格式のなかで、ほぼ完全な形で今日に伝えられたのが『延喜式』だけであるのは、単なる偶然でなく、そのような特色によるものであろう。(ルビ省略)

 この旅日記で最初に訪れますのは福岡県で、延喜式の国名でいえば、筑前・筑後そして豊前の北部であります。「福岡県の歴史散歩」は、福岡県を「北九州――諸文化の源流」、「福岡――大陸文化の潮騒」、「筑後――磐井の故郷」、そして「筑豊――修験道文化と香春岳」の四つに区分して記していますが、層塔は、前三者にしかありません。もっとも後に見ますが、筑豊地域には塔跡が幾つか遺っています。右の書に準ずるわけではありませんが、この旅も、上の順序で塔めぐりをすることとし、途中の道筋にある塔跡を訪ねることとします。

 平成15年8月9日、私は一人、大分空港へ降り立ちました。そして、予約してあったレンタカーで、杵築(きつき)市街にありまする武家屋敷跡、宇佐の大楽寺、宇佐八幡宮(弥勒寺跡)、虚空蔵寺跡、そして中津市の郊外にある瑞福寺などを訪れましたが、そこはまだ大分県内です。しかし結局この時の旅の第1日目は、大分県内でとどまることとなり、中津市の中心部のビジネスホテルに旅の第一夜の宿を求めました。ホテルで眼を通した「大分県の歴史散歩」には、「旧豊前(ぶぜん)国は周防灘(すおうなだ)に面してほぼ南北に連なる小国で、企救(きく)・京都(みやこ)・仲津(なかつ)・田川(たがわ)・築城(ついき)・上毛(こうげ)・下毛(しもげ)・宇佐の八郡からなっていた。明治の府県制成立によって宇佐・下毛の二郡は大分県に、そのほかは福岡県に編入された」(ルビは括弧で表記)とあります。
 九州で最初に訪れますのは、上のような次第で今は福岡県になっており、平成18年3月20日、旧京都郡の勝山町、犀川町と合併し、現在では「みやこ町」となっています旧京都郡豊津町です。「京都郡」という名は、どのようなことに由来するのでしょうか。ひらがなになったとはいえ、「みやこ」という読みが残されたことは、幸いでありました。

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 歳はとりたくないものですね、掲載日に関するインプットを間違えました。日付が変わってしまい、バナーの内容とコメントが違ってしまいました、済みません。ご利用の方がおられましたら、謝罪いたします。ともあれ、こちらを ↓ ご覧ください。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月24日

西光寺を再訪

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅の最後の塔のある西光寺を、再び訪れる機会を得ましたが、その前に。

 西光寺から宿へ戻った私は、準備されていました朝食を摂った後、まず、「二十四の瞳」の舞台となりました岬の分教場へ向かいました。言申し上げるまでもないことながら、それは既に廃校となっていて観光地の一つとなっていますが、疎開先での小学校を思い出させる懐かしいものでした。そこから少し先に、高峰秀子が主役の「おんな先生」を演じた映画「二十四の瞳」を撮影した時のセットが、そのまま残されて映画村として観光施設化されていましたが、そこは割愛して、寒霞渓(国名勝)へ向かいました。紅雲亭というロープウェイの乗場まで行き、山頂までロープウェイで往復しましたが、この時は眼が覚めるような新緑に覆われた光景を満喫することができました。
 そして、寒霞渓ブルーラインで山頂まで行き、更に銚子渓に立ち寄って、昼食として小豆島の名産のソーメンを食しました。次いで、小豆島スカイラインを辿って土庄町へ向かいましたが、途中でスカイラインから逸れ、重要民俗資料の中山農村歌舞伎舞台を見物した後、土庄町へと車を進め再び西光寺を訪れました。

 放哉は一八八五(明治一八)年鳥取市立川町生まれ、一高時代に一級上の自由律俳句の荻原井泉水と出あった。東大法学部を卒業後、就職したものの酒でしくじり放浪、夫人とも別れた。明石(兵庫県)の須磨寺や京都の竜岸寺の寺男を転々とし、一九二五(大正一四)年の夏、井泉水の高弟で淵崎の俳人井上一二(文八郎)が、西光寺住職との俳句の交遊関係のつてで、放哉を西光寺奥の院である南郷庵に招いた。すでに肺を病み、遍路の施しをうける八ヵ月ばかりの蟄居生活であったが、彼の自由律俳句の決定的な作品はこの地のものが多い。(ルビ省略)

 上は、「香川県の歴史散歩」からの引用ですが、以前に見ました「遍路国往還記」には、「浅黄色の風呂敷包み一つ持って、尾崎放哉は小豆島土庄の港へ着いた。(中略)放哉は島の第五十八番札所である西光寺の奥院南郷庵に入った。庵はお大師さまをまつった六畳、居間の八畳、台所の三畳という簡素なもので、西に窓が一つある」とあり、「障子あけて置く海も暮れきる」という一句が挙げられています。吉村昭の「海は暮れきる」という伝記小説の題名は、この句から採ったのでありましょう。
 その「海は暮れきる」は、放哉が妻と別れて西光寺に辿り着くまでの間には、「京都知恩院塔頭常称院の寺男になったが、そこを追われ、兵庫須磨寺をへて福井県小浜町の常高寺の寺男にもなった」とあります。京都の竜岸寺、そして京都の知恩院の塔頭の常称院については、実際にあるのかどうか確認していませんが、須磨寺(福詳寺)には三重塔があり、拙著「近畿・岡山篇」で訪れており、小浜町とあるのは申し上げるまでもなく、最近、次期アメリカ大統領のオバマ氏との関連で有名になりました現在の小浜市で、そこにある常高寺については、拙著「中部日本篇」で訪れました。これらの寺を訪れました時には既に「海は暮れきる」は読んでいたので、放哉は、ここの寺男をしていたのだな、と感慨が深いものがありました。
 西光寺の墓地の入口にある、放哉の終焉の南郷庵の跡地と言われる所に造られています尾崎放哉記念館にも行ってみました。記念館は小さなものでありましたが、墓地は明るい光に満ち溢れた高台にあって、そこからの眺めは素晴らしいもので、特に西光寺の三重塔を遠望するには、ここが最適ではないかと思われました。しかし、記念館には誰もいず、中を見学することはできませんでした。放哉ファンの方ならば、前もって西光寺へ連絡して訪れられた方が良いでしょう。
(長くなりますが、ここで止めるのは中途半端ですので続けます)
 昨日、「小豆島には二度と来ることはないであろうと思った」と書きましたが、平成13年の8月、備中、美作の塔をめぐった旅の3日目となる8月18日に再訪する機会を作り、新岡山港から高速艇で小豆島の土庄港へ渡り、西光寺へ向かいました。

 家並の中に入り、細い道をたどると寺の前に出た。王子山おやゆびサイン華院西光寺という大きな木札が門柱にかけられている。小豆島霊場八十八ヵ所第五十八番の札所で、由緒ある寺らしい風格が感じられた。山門の前には、右に地蔵菩薩、左に弥勒菩薩の石仏があり、境内は薄暗い。銀杏の巨樹が、空をおおっていた。

 上は、「海は暮れきる」の一節であり、放哉が西光寺を初めて訪れた時の描写である。時は大正時代であり、実際にあったことに忠実と思われますものの、あくまでも小説ではありますが、私が訪れた時も、町並みなどは、それほど変わっていないのではないかと思われました。ただし、その頃にはなかった三重塔に眼を奪われていて、石仏には気がつきませんでした。なお、土庄港からのバス便もあり、坂手行新町バス停下車5分ということでありますが、15分ほどの道程なので歩いて訪れることをお薦めします。
 さて、境内に入りますと、自転車で出かけようとしてされている年輩の男性がおられました。申し上げるまでもなく瀬尾哲命師とは面識はありませんでしたが、間違いなく瀬尾師であると思われましたので声をおかけしたところ、そのとおりでありました。外出のご用向きの妨げになってはと思い、いろいろお聞きしたいこともありましたが止めました。そんなわけで、束の間のことではありましたが、お話ができたのは幸いでありました。上の小説には、放哉が西光寺に身を寄せた時の住職の名を「杉本宥玄」としていますが、本名なのかどうか。本名とすれば、現在の住職の瀬尾哲命師とは、どのような関係なのか、特に確かめてはいません。
 私は午後1時50分発の高速艇で小豆島を後にしましたが、前に書きました法然寺の五重塔の拝観のため、もう一度、四国を訪れることができますかどうか。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 15:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月23日

いよいよ四国での最後の塔です

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅も、いよいよ最後の塔ということになります。

 平成7年5月10日の早朝、車で往復しても宿の朝食の時刻までには戻れることを確認した上で、私は西光寺へ車を駆しらせました。といいいますのも、その時は、小豆島には2度と来ることはないであろうと思いましたので、西光寺の三重塔を、最も条件の良い光の状態でカメラに収めたく、もし午前中が光の具合が悪ければ、午後3時頃までは小豆島に滞在する予定でありましたので、午後に再訪すればよいとの思いがあったからです。
 山門の前に駐車できるスペースがありましたので、そこに車を駐め、山門をくぐって境内に入りますと、正面に本堂が建ち、その背後の小高い所に朱色の三重塔が建っています。三重塔の建つ高台へは、本堂の右手から登ることができ、登り詰めた所からの眺望は素晴らしいものでした。そして、三重塔は南面して建てられており、角度によっては、塔前
に植えられている松の木に初重の一部が隠される程度ですので、光の具合としては、季節にもよりましょうが、午前でも午後でも特に問題がないようでありました。ただ、三重塔は小さな丘の上の狭いスペースに建っていますので、拝観するだけであればともかく、写真撮影ということ
になりますと、その狭さが問題となります。私は、ぎりぎりの所まで下がって、身を反らせながら写真を撮ったですが、三層目の屋根の反り具合などは、うまくカメラに収められませんでした。
 現像、焼付けしてみなければ安心できませんでしたが、まずまずの写真が撮れたと思いました私は宿へ戻りました。なお、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、三重塔は「昭和四十八年起工、五十年(一九七五)に完成した」とありますが、後に西光寺に文書で照会したところ、ご住職の瀬尾哲命師からのご回答には、棟上げは昭和49年8月、落慶法要は昭和52年10月23日とありました。この旅日記では、設計図書なども同封していただいていました、ご住職からのご回答を尊重しておくこととします。そして上の書には、三重塔の高さについての記載はなく、初重の一辺についてのみ3・38mとありますが、ご住職からいただいた設計図書には20・914メートルとあります。
 何はともあれ、下の写真を、ご覧ください。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2008to/saikoji16.jpg

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 さて、今年も残すところ僅かとなりましたが、今年も良きにつけ悪しきにつけ、色々と話題に事欠かない年でしたね。印象に残るのは、今年ほど、食材の安全性が問題になった年はなかったのではないでしょうか。そんな中で、やはり、赤ちゃんに安全な食材は重要ですよね。こちらで ↓ どうぞ。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月22日

高松港からフェリーで小豆島へ

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅も最後の塔ということになりますが、そのためにはフェリーを使わなければなりません。

 小豆島、という島の名を見たり聞いたりしたとき、何を想い浮かべますか、と問われた場合、貴方は何を想い浮かべられますか?私は、何といっても壺井栄の「二十四の瞳」ですが、中にはソーメンを想い浮かべ
られる方もおられるかもしれませんね。しかし、よほどの俳句通でもない限り、尾崎放哉(ほうさい)という五七五に拘らない自由律の俳句の作家を想い浮かべられる人はいないのではないでしょうか。かく言う私も、それまでは全く知りませんでした。それまでいいますのは、平成元年12月10日の朝日新聞朝刊の日曜版、「ぶらり出かけて」というシリーズ記事を見るまで、ということですが、それには、「小豆島」とあって、次のように記されています。

 山頭火が若い女性に人気だという。ならば、山頭火と並び称される一所不在の俳人、尾崎放哉にも光が当たっていいではないかと、島に渡った。「妻と財とを捨てた」漂白の人が、病と同居しながら俳ざんまいで最後の八カ月を過ごした地である。

 その記事(白井正夫記者)には、「放哉の小豆島での生活を吉村昭が『海は暮れきる』(講談社)で書いている」とありましたので、私はさっそく書店で講談社文庫の「海が暮れきる」を買い求めました。読み進めるうちに、これから訪れます三重塔がある西光寺(さいこうじ、真言宗)は、放哉が晩年を、その庵で暮らし、そして亡くなったことを知りました。そのことについては、後に書くこととします。
 まず、時を確認しますと、平成7年5月9日、かつての部下に見送られて、高松港からフェリーで小豆島の池田港へ渡ったのですが、その部下というのは、私が東急コミュニティーという会社で人事課長職にあった頃の女性社員です。その女性が結婚して子供もでき、夫君の転勤で高松に住んでいたのです。仲人役までは引き受けませんでしたが、実質的には私が縁結びの役割を果たし結婚披露宴にも出席しました。縁結びに至った経緯については省略しますが、子供を連れて高松港に現れた彼女を見て、あの娘も母親になったかと感慨深いものがあり、出航までの束の間の時間でありましたが、話に花が咲きました。
 小豆島では、港から近い「島の南西池田湾に突き出た緑の沖の鼻崖上に立つ」国民宿舎「小豆島」に一夜の宿を求めました。そして、その夜は、瀬戸内の島々の間に夕陽が沈んでいく光景を堪能しました。

 旅の思い出話で終わってしまいますが、この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めておきます。

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 さて、クリスマスは3日後になってしまいましたので、クリスマスプレゼントとしては遅きに失した感じですが、お部屋に観葉植物が一つでもありますと、心が和みますよね。こちらで ↓ どうぞ。

観葉植物.com
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2008年12月21日

四国八十八ヵ所めぐりの結願を果たす

 五重塔、三重塔をめぐる旅のついでではありましたが、形だけであれ、結願を果たしました。

 白鳥廃寺跡を後にした私は、国道11号線を西へ戻り、訪れた時には「さぬき市」となっていました旧大川郡寒川町神崎にあり、JR高徳線神崎駅から遠くない所にあるようである石井廃寺跡へ向かいました。「香川県の歴史散歩」に、「神崎駅から道を東にとり、津田川を渡ると雨滝山南麓の丘陵に出あう。小道を山の手にむかうと約20分で石井地区に出る。石井地区自治会館の敷地に石井廃寺跡がある。基壇と塔心礎がわずかに残る。出土瓦には古代の優美なものが多く、白鳳期の創建と推定されている」、とあったからです。しかし、迷った末、結局は辿り着けませんでした。
 次いで私は、第87番札所補陀落山長尾寺(ながおじ、天台宗)へ向かいました。この寺での見ものは、仁王門の前にあります一対の経幢(きょうどう、重文)でありましょう。経幢といいますのは、淡交社刊、財団法人京都府文化財保護基金編「文化財用語辞典」によりますと、「石柱に仏典を刻したもの。中に経巻・仏像等を納めるものもある」ということですが、「香川県の歴史散歩」には、ここの経幢の「1基の銘に『弘安(1278〜88)」第九天五月日大願主』とあり、元寇(げんこう)の役に出陣した讃岐将兵の霊を弔うため建立したと伝える」(ルビは括弧で表記)とあります。
 長尾寺を後にした私は、県道3号線を進み、国道377号線へと左折し、結願の札所である医王山大窪寺(おおくぼじ、真言宗大覚寺派)へ向かいました。この寺には多宝塔がありますが、本堂の背後の狭い所に建っており、写真を撮るには、すこぶる具合が悪い状況にありました。
 この多宝塔について、中西亨先生の「日本塔総鑑」には次のように紹介されています。

 ここの塔は多宝塔型ではあるが、普通の独立した塔とちがい、本堂の奥殿の上に多宝塔の上層をのせたもので、従って下層の方は普通の仏堂の形をしており、前に中殿・礼堂が接している。すべて木造で、昭和二十九年後の山を開いて建てられたもので、工事は四年かかったそうである。

 さて、ところどころで書きましたとおり、私の納経帳(アルバム)には、訪れた証拠であります印(写真)が数ヵ寺ありませんが、とにもかくにも、これで四国八十八ヵ所を巡り終えたことになります。信仰心からではありませんでしたが、ほっとしたのも、偽らざる気持ちでした。

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 今日は日曜日ですので、こちらを ↓ どうぞ。

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2008年12月20日

またまた寄り道ですが

 四国本島の五重塔、三重塔は見終わりましたが、四国では、もう一基だけ塔があります。それは、明後日あたりの楽しみとしていただくこととし、もう二日ほど寄り道に、お付き合い願います。なお、昨日は、サイト側のシステム障害のため、ブログが書けませんでした。

 志度寺から国道11号線を東へ進み、平成15年4月1日の3町合併により今は東かがわ市となっている、当時の大川郡白鳥町域に入り、湊川に架かる湊大橋の手前で右折して、川沿いの道を南下して少し行きますと、3階建てのマンションがあります。その辺りで道はカーブしますが、その曲がり角に白い看板がありましたので、車を道の傍らに寄せて駐め、その看板を見に行きますと、それが目指す白鳥廃寺跡でありました。
 この塔跡について「香川県の歴史散歩」には、交通の便について、高徳線讃岐白鳥駅からバス長尾引田線で湊バス停下車5分とあったうえ、「讃岐白鳥駅から国道11号線を西に約1・5qの湊大橋から、南に約600m、湊バス停で降りると、湊川左岸の北と南の低い丘陵に挟まれた水田のなかに、白鳥廃寺跡(県史跡)の東西二つの土壇が残っている。東側は塔基壇跡であり、西側は金堂基壇跡と考えられる。(中略)出土瓦はおやゆびサイン華文鐙瓦など白鳳期から平安後期までのものがある。塔基壇の礎石が火をうけており、ほかにも焼土がみられることから、寺の創建は白鳳期にさかのぼり平安後期に焼失したと考えられる」(ルビ省略)とあります。季節柄、礎石の周囲は雑草に覆われていましたが、周りの草を踏み分けて、ようやく心礎の写真が撮れる状況まですることができました。
 この塔跡について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、次のように記されています。

 ……昭和四三年に発掘調査が行なわれ、心礎のほか九個の礎石のある塔跡と、一一個の礎石の残る西方土壇が確認された。後者は金堂跡らしく、南面していたか東面していたかはっきりしないが、まず法起寺式の伽藍であろうと推定されている。心礎は一・六メートル×一・四メートル、上部を削平し直径三七センチ、深さ七・三センチの孔があるが、他の礎石は心礎を中心に集めた形跡があり、動いているのでどれが四天柱礎か側柱礎かよくわからない。したがって土壇の一辺は一二メートルであるが、塔の一辺長ははっきりしない。出土瓦は法隆寺系複弁おやゆびサイン華文鐙瓦で、白鳳末期ないし奈良初期。この寺の創建もその頃であろう。平安末期の瓦も発見され、その頃まで存続していたことを物語っている。

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2008年12月18日

志度寺の境内を散策

 五重塔の拝観を済ませた私は、志度寺の境内を散策しました。
 昨日見ました寺発行のリーフレットに「海女の墓」などのことが記されていますが、リーフレットにありますように藤原不比等が造立したものかどうかは判りませんものの、その「海女の墓」は、五重塔の右手奥にあります。現地には志度町文化財保護協会によって立てられた説明板がありましたが、この旅日記では、高群逸枝の「お遍路」に眼を通すこととします。

 寺内に海女墓がある。謡曲「海女」の女主人公である。天智朝、鎌足の女の才色は唐朝まで聞えて高宗の妃に迎えられた。鎌足が死んだとき高宗は宝玉を妃に与え、先考追福の資として兄の不比等におくらせた。宝玉をのせた船は今の志度浦にさしかかったとき、しけのために面向不背の珠を龍神のために攫われた。その珠は中に釈紳士服三尊を刻み、これを拝するに表裏なく上下なしという名宝であった。淡海(不比等)は珠を取り返すべく房前浦(志度浦の古名)に下り、漁師の娘と契って一子房
前を設けた。やがて夫の目的を知った妻は、死を決して海底に入り、首尾よく龍神から玉を取り戻すと、それを己が乳の下を切って押隠しながら浮び上がった。不比等はそこに一宇を建て、死度道場と名づけてその霊を弔った。
(ルビ省略)

 海女の墓を見物した後、私は本堂(国重文)を拝観し、本堂と向き合ってある書院の裏の庭園を散策しました。この庭園は見応えのあるもので、志度町観光協会によって現地に立てられた説明板には、次のように記されていました。

 この庭園は今から五百年前文明五年頃細川氏一派によって作庭された曲水式地割の古い型式を備えた廻遊式池水庭園でありましたが昭和三十六年京都林泉協会々長重森三玲先生の指導により復元され室町初期の石組を参考にし乍ら新しい現代感覚を盛込んだ庭園であります。

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2008年12月17日

ようやく香川県での三つ目の塔です

 寄り道が続きましたが、ようやく香川県での三つ目の塔を訪れます。

 まず年月日を確認しておくこととしますが、平成15年5月3日、第86番札所の補陀落山志度寺(しどじ、真言宗善通寺派)を訪れました。「香川県の歴史散歩」には、その所在地について「大川郡志度町志度1102」とありますが、平成14年4月1日に、大川郡西部の五町(津田町、大川町、志度町、寒川町、長尾町)が合併して、さぬき市となりました。そして、志度寺を訪れる場合の交通の便について、高徳線志度駅下車5分とありますが、琴電志度線の終点琴電志度駅からの方が僅かながら近いようです。そして同書には、「志度駅前の国道を横切り、北に少し歩くと寺町の通りと交差する。『讃岐国名勝図絵』に『人家軒を並べ富商および旅舎多し、四国巡拝の札所ありて往来の旅人日夜連綿として」と描かれた町並である。(中略)町並の東端、突き当たりに志度寺の仁王門がある」とあります。上の文中の国道は、言うまでもなく11号線でありますが、その町並みの中の旅館に一夜の宿を求めた私は、宿に荷物を置いてカメラだけを手に寺を訪れました。しかし、目指す五重塔は、それまでの訪れ(この時が3度目)で南面して建っていますが、写真は東側からしか撮れず、五重塔の撮影には陽の向きは不都合であることが判っていましたので、境内をざっと一巡したのみで翌日に改めて訪れました。
 この寺の歴史については、寺発行のリーフレットに眼を通すこととします。

 志度寺縁起絵図6巻(重文)によると、推古天皇の33年(西暦625年)に開創され、本尊・十一面観音、脇士・不動明王・毘沙門天(それぞれ重文)がまつられ、1369年前の往古より、人々に親しまれてきた。
 「梁塵秘抄」によると、所願成就をかなえてくださる観音霊験の聖地として、日本全国から信仰憧憬をよせられていたことが知られています。
 天武天皇の10年(西暦681年)には、藤原不比等公が妻の「海女の墓」を建立して、「死渡道場」と名付け、堂宇を拡張し、僧侶の学校、信者の修業の道場となった。
 持統天皇の7年(西暦693年)に藤原北家の始祖房前公が、僧・行基ととともに参詣して母親の追善をとむらい、父母の慈愛に感謝して千基の石塔群を造立した。
 「続日本紀」によると、このときに、藤原家が海人〈海士とも〉族の海部直の娘と縁を結び海人一族にたすけられて、海洋の支配権を獲得したことが知られている。補陀落山・志度寺は、一万坪の広大な寺域を有し潮騒が聞こえ、塩の香りが漂う海辺にまじかに接して、白装束の人々が鐘の音を打ち鳴らしながら、一年中往来しています。

寺へと続く町並みの中を歩いて行きますと、仁王門(重文)そして左手の塀越しに五重塔が見えてきます。それでなくても五重塔へ真っ先に行く私ですので、ここでは尚更のこと五重塔を先にしてしまいます。
 現地には、志度町、志度町観光協会によって立てられた説明板があって、それには次のように記されていました。(原文のママ)

塔の高さ三十三メートル、塔屋の間口四・五メートル、五層総ひのき作り朱の色も鮮かな木造五重の塔で、日本では十八番目に建立されたものである。(中略)
少年時代から、志度寺第三十三代住職十河龍澄和尚にこよなく可愛がられ、励まされて世に出た、東大阪市の竹野二郎氏が報恩と、仏法興隆のため、私財三億余円を寄進し、三年三ヵ月の歳月をかけて、昭和五十年五月十八日落慶したものである。

 この説明板の「日本では十八番目に建立されたもの」という説明は、何を根拠として書かれたのでしょうか。私の手元にあります昭和49年3月20日毎日新聞社発行、文化庁監修の「重要文化財一四」(建造物V)では、五重塔は22基が挙げられています。その中には、奈良の海竜王寺五重小塔(国宝)元興寺極楽坊五重小塔(国宝)、京都の教王護国寺五重小塔(重文)が含まれていますが、それを除いても19基となりますので、現在の志度寺の五重塔が「日本では十八番目に建立されたもの」でないことは明らかです。もちろん四国八十八ヵ所の寺で、ということでもないことは、これまで辿ってきたことにより明らかです。
 では、どのような基準に基づくのかということになりますが、その手がかりがありません。それはさて措き、五重塔については、下の写真をご覧いただいた方が早いでしょう。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/37kagawa/sido5/sido5.html

 なお、中西亨先生の「日本塔総鑑」には、「備後福山の明王院の国宝五重塔に模してたてられた純木造の立派なもの」とあります。しかしながら、やはり明王院の五重塔とは異なり、塔身が細いように思われました。

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リフォーム
posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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