2008年12月16日

もう一日、寄り道です

 五重塔、三重塔の旅日記も、昨日は時間がなく書けませんでした。

 一昨日、田宮神社の別当寺であった一宮寺を訪れたことは書きましたが、もう一度、田宮神社について「香川県の歴史散歩」に記されているところに眼を通すこととします。まず、そこへの交通の便について、「琴電一宮駅下車8分」とあったうえ、「電車が一宮駅に近づくと、大きな松林に囲まれた神社の前を通過する。それが讃岐国一宮の田村神社(祭神倭迹迹日百襲姫命・五十狭芹命・猿田彦大神ほか)である」(ルビ省略)と記されています。そして、この神社の西隣に、一宮寺があります。
 上に「琴電」とありますのは琴電琴平線ですが、同線は高松築港駅と琴電琴平駅を結んでいます。高松築港駅から行った場合、一宮駅の一つ手前が仏生山駅です。この駅で下車して15分の所に仏生山来迎院法然寺という寺がありますが、現在この寺で五重塔が建設されています。同寺のHP(URLは下記のとおり)を見ますと、竣工は平成23年2月下旬、落慶法要を3月下旬に予定しているようです。五重塔、三重塔の全国制覇を目指すのであれば、また四国に行かなければなりませんが、果たして行くことができますかどうか。

http://www.geocities.jp/raigouin/

 さて、一宮寺を後にした私は、高松市の中心部を抜け、第84番札所の南面山屋島寺(やしまじ、真言宗御室派)へ向かいました。ドナルド・キーンが「十九年前わたしは、これこそ日本で一番美しい公園と思うと書いたが、その考えは今日でも変らない」(「讃岐たぬき紀行」)という(私は、そこまでとは思いませんが)栗林公園には、平成7年に訪れていますので、この時は割愛しました。屋島寺は、源平合戦で有名でありますので、改めて書くこともないでしょう。
 続いて私は、第85番札所の五剣山八栗寺(やくりじ、真言宗大覚寺派)へ向かいました。この寺の所在地について、「香川県の歴史散歩」では「木田郡牟礼町」としていますが、平成18年1月10日の合併により高知市となりました。この寺へは平成2年にも訪れていますので、この度は2度目です。同書には、「八栗寺へ行くには、琴電八栗駅から県道(高松牟礼線)を北へ約200m行き、牟礼の信号を右(東)へ折れると八栗寺への参道で、まっすぐ進むと、約1・5qで八栗登山鉄道ケーブルの登山口駅に着く。ケーブルで頂上までは約5分、降りるとすぐ北に八栗寺がある」とあります。
 この寺には多宝塔がありますが、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第3巻、多宝塔)には、「全体に鎌倉様式でみどりの樹木のなかの朱の色が美しい。1辺が4メートル総高17・177メートル。弘法大師御遠忌1150年記念事業として昭和59年(1948)に建立された」と記されています。

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2008年12月14日

今日も、まだ寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、今日も、まだ寄り道をします。

 時を確認しますと平成15年5月3日、鴨廃寺を後にした私は、丁字路まで戻って直進、県道180号線を更に進み、第81番札所の綾松山白峰寺(しらみねじ、真言宗御室派)、そして第82番札所の青峰山根香寺(ねごろじ、天台系単立)を訪れました。これらの札所は、平成2年にも訪れていますが、私の納経帳に印を押す(写真を撮る)ための再訪でありました。なお、この寺の漢字表記や読みについて「香川県の歴史散歩」では、「白峯寺(しろみねじ」となっており、読みはともかく漢字表記は、こちらの方が正しいようです。その白峯寺では、国重文の十三重塔石塔が見応えがあり、根香寺は本堂が変わった趣きで回廊をめぐって参拝するようになっていたことが印象に残っています。
 ところで、この旅日記を書くに当たり、同書を詳細に見てみますと、白峯寺の項に、次のようなことが記されています。

 客殿(県文化)は延宝年間(1673〜81)に高松藩初代藩主松平頼重(よりしげ)が寄進したもので、江戸時代前期の特色を示している。客殿の裏には高さ2・25mの石造五重塔(県文化)があり、隅軒の先の強い反(そ)り、屋根の軒先が厚くその切り方が垂直であることなど、鎌倉時代後期の特色を示している。(ルビは括弧で表記)

 詳細に眼を通したうえで訪れていたならば、拝観せずにはおかなかったものをと残念でありましたが、後の祭りでした。
 平成2年のときは、根香寺を後にして五色台スカイラインの入口まで戻り、スカイラインに入って五色台へ向かいましたが、そのドライブの何と素晴らしかったことか。五色台へ登ってくる麓あたりの空気は異様な悪臭に満ちていましたが、ここまで登ってきますと空気も爽やかで、そして何といっても瀬戸内海を望む光景の美しさは、筆舌に尽くしがたいものでありました。瀬戸大橋は、四国の人々にとっては重要な交通手段ではありましょうが、私には自然破壊としか思えなかったのですが、ここからですと、美しく見えました。
 平成15年の時は、五色台スカイラインの光景を、もう一度、味わいたかったが、時間の都合で割愛し、私は根香寺から、第83番札所の神毫山一宮寺(いちのみやじ、真言宗御室派)へ直行しました。
 旧版の「香川県の歴史散歩」には、「山門南側の宝塔と鐘楼西側の石塔が興味深い。とくに後者は大宝院供養塔として知られ、三基のうち一基には一二四七(宝治元)年の銘がある」とありますが、それこそ「とくに後者」の三基は見応えがありました。なお、大宝院というのは、隣接した由緒ある田村神社の別当寺であったもので、現在の一宮寺であるといいます。この寺も、平成2年に訪れていますが、私の納経帳を埋めるための再訪でありました。

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2008年12月13日

まだ寄り道が続きます

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、まだ寄り道です。

 開法寺塔跡を後にした私は、県道33号線まで戻り西へ向かい、国道11号線の下をくぐり、JR予讃線の八十場(やそば)駅のすぐ先にあります第79番札所の金華山高照院(こうしょういん、真言宗御室派)を訪れました。しかし、この寺では、どうにも写真の撮りようがなく、私の納経帳(アルバム)に、この寺の印(写真)がなく、前にも書きましたように、私が四国八十八ヵ所を総て訪れたということを、証明することができません。
 ところで、この寺のフルネームは、金華山天皇寺高照院というのだそうですが、前にも見ました「四国八十八所遍路」によりますと、保元の乱(1156)によって配流の身となり、鼓岡神社のある辺りで生涯を閉じたといわれる崇徳上皇の鎮魂のために白峰社が建立されましたが、以前からあった金華山摩尼珠院妙成就寺という寺を、天皇寺と改めて別当寺としたといいます。天皇寺自体は明治の神仏分離令のため廃寺となりましたが、末寺の高照院が納経所となったことによるといいます。
 高照院を辞した私は、国道11号線との交差点まで戻って左折し、国道を進みました。ほんの少し行った先で国道は右にクランク状に曲がりますが、そこから少し行った先、二つ目の信号で右に行きますとJR予讃線の鴨川駅に至りますが、私はそこを左折しました。曲がった道は県道180号線で、少し行きますと県道は丁字路にぶつかりますが、そこで右に折れてちょっと行きますと右手に酒店があり、その先の道を左へ入った道の右手の田の中に、目的としていました心礎がありました。田の中にあることは、下に見るように行く前から判っていましたので、季節柄、田植えも終わって傍まで近づけないのではないかと思っていました。しかし、休田していたのであれば農家の人にとっては大変なことでしょうが、申し訳ないことながら私にとっては幸いなことに何も植えられておらず、近くで見ることができました。しかし、近くに踏み台にするようなものはなく、持参もしていませんでしたので、穴の様子などは明瞭に見ることはできませんでした。
 この心礎について岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、「鴨廃寺」という小見出しで、次のように記されています。

 坂出市加茂町の烏帽子山に向い合う山の神部落の田の中にあって、原位置から動いていない。大きさは一・七九メートル×一・三メートル、姿のよい美しい心礎で、上部を削平し直径七〇センチの極めて浅い環状排水溝がある。しかもこの環状溝の内側は少し盛り上っていて、その中心に直径三八〜三七・五センチ、深さ一二〜一一センチの孔がある。こういう形は伊豆市ヶ原廃寺心礎とよく似ており、近くの開法寺の山王廃寺式心礎の亜流と考えられる。出土瓦も開法寺と同笵の瓦なので、開法寺よりやや遅れて建造された寺であろう。

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2008年12月12日

まだまだ寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、まだまだ寄り道が続きます。

 平成15年5月3日のことになりますが、県道33号線を西へ進み、国道11号線の高架橋の下をくぐり、綾川に架かる綾川大橋を渡り一つ目の信号で左折、更に一つ目の四つ角を左折しますと、右手に鼓岡神社があります。更に車を進めますと、道が二股に岐かれる所の右手に府中ポンプ場がありますが、その脇の道を左に入った所に開法寺(かいほうじ)塔跡があります。と書きましたものの、それは幾つかの地図や資料を見ながら書いているのであって、初めて訪れた平成7年のときは、近くまで行っていながら、探し当てるのに苦労しました。尋ねること2、3度、ようやく知っている人に出会いましたが、近くに住んでいても、石が幾つかあるだけのことですので、興味がなければ、その存在を知らなくても当然でしょう。そして、平成15年のときも、迷った末に辿り着きました。この遺跡を訪れる場合、開法寺塔跡といって尋ねても知っている人は少ないので、鼓岡神社の所在地を尋ねる方が良いかもしれません。
 この塔跡について、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、次のように記されています。

 坂出市南谷の鼓岡神社の南に開法池という溜池があり、その東側に完全な姿で残っている塔の遺跡がある。この寺は開法寺といって、『菅原文章』の客舎冬衣の詩に「開法寺在府衙之西」といわれたところで、昔の国府の跡はこの寺跡のすぐ東にある。
 心礎のほか四天柱礎、側柱礎がすべて完全に残っている。塔の一辺五・八メートル、基壇は壇上積みであるが一部(六・五メートル)が残っているだけである(一辺一一・二メートル)。心礎の大きさは二・一メートル×一・二メートル、直径八五センチ、幅三センチ、深さ三センチの環状排水溝の柱座があり、その中央に直径四六センチ、深さ一五センチの孔がある。(中略)上野山王廃寺と大体同じ形であるが、ただ違うところは山王廃寺が地下式であることと舎利孔があることなどである。なお環状溝から外に出ている排水溝は、山王廃寺では四本であるがこの寺では二本(幅、深さともに三センチ、長さそれぞれ一八センチ及び二〇センチ)である。四天柱礎及び側柱礎はいずれも自然石、伽藍配置は一応法起寺式と想定されているが、北の端に出てくる礎石が講堂のものか僧坊のものか判明しない。しかし塔と廻廊の関係からすると、法起寺式と考えるのが妥当とされている。素縁素弁八葉、十葉おやゆびサイン華文鐙瓦及び高句麗様式の周縁鋸歯文、素弁八葉おやゆびサイン華文の鐙瓦及び珠文帯扁行唐草文宇瓦が出土し、およそ白鳳期の創建であろう。国分寺建立に先立ち、天武天皇一三年に「諸国の家毎に仏舎を造り仏像及び経を置き礼拝供養せしむ」との詔に基づき国府に造られた寺ではないかと推定されている。

 上に「上野山王廃寺」の塔心礎との比較がありますが、「上野」とは上毛野(かみつけの)すなわち「上野(こうずけ)国」のことであり、山王廃寺の塔心礎は、現在の群馬県前橋市総社町にあり、上にありますとおり地下式でありますが、見学できるように整備されています。この塔跡は国の史跡に指定されており、ここから遠くない所に上野国分寺跡(国史跡)もありますので、興味のある方は訪ねられるとよいでしょう。

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 昨日は、迷惑メールに悩まされ、ブログを書く時間がありませんでした。
 それはさて措き、私は毎日が日曜日の年金生活ですが、現役の方の中には、年末年始の休みが9連休という方もおられるのでしょうね。そして、国内旅行ないし帰省を予定されている方の中には、どうしても航空機を利用しなければならない方もおられるかと思います。そんな場合、エアーズゲートを活用されては如何でしょうか。こちらで ↓ どうぞ。



 なお、今日も削除しましものの、トラックバックに卑猥なものを付ける無礼な輩がおりますが、私とは全く関係がありません。貴重な記事と思われるものは、残させていただきました。
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2008年12月10日

讃岐国分寺を訪ねます

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、今日は幻の七重塔へ向かいます。

 まず時を確認しますが、平成15年5月2日のことです。この日は、さほどの距離を駆しったわけではないのですが、立ち寄る所が多かったので、私は第80番札所の白牛山国分寺(真言宗御室派)に近い民宿に宿を求めてありました。というのも、遍路の順序からすれば次は第79番となるわけですが、旅のコースとしては、第80番を訪れた後に、第79番、第81番、第82番、そして第83番へ廻った方が効率的であったからです。なお、この頃の国分寺の所在地は、綾歌郡国分寺町国分でありましたが、平成18年1月10日の合併により、今は高松市となっています。
 民宿に着いた時は、まだ陽が高かったので、民宿に車を置いたまま、歩いて国分寺を訪れました。この寺には、平成7年5月9日にも訪れていますが、現在の国分寺の境内は、殆ど聖武天皇の勅願により建てられた国分寺の跡の中にあります。しかし、どういうわけか現在の寺は、それを快く思っていないらしく、当山とは無関係という看板が立てられていました。果たして今は、どうであろうか、そんな思いで境内に入ったのですが、「国分寺由来」とある説明板の末尾に、「当山の正式名称は宗教法人国分寺であり『跡』や『公園』ではありません」とありました。現に寺として経営し、かつ家族が生活しているのでありますので、「跡」とされたり、「公園」とされたりすることには抵抗もありましょうが、考古学的にも「跡」であることは証明されていることであれば拘る必要はないと思うのですが。
 現地には、昭和63年に国分寺町教育委員会によって立てられた説明板もあり、それには次のように記されていました。

 全国60余りの僧寺・尼寺のなかで、奈良時代の建物が現存するものはなく、その所在地さえ不明になっている例も少なくない。讃岐国の場合は、僧寺・尼寺ともに寺地が判明しており僧寺跡は国の特別史跡、尼寺跡は史跡に指定されている。
 讃岐国分僧寺は現在の白牛山国分寺境内に金堂跡・塔跡の礎石をほぼ原位置で残し、現国分寺本堂(鎌倉時代・国指定重要文化財)は旧講堂跡に建てられたと推定されている。また、近年の発掘調査の結果、寺域を区切る土塀跡や溝、僧坊跡・鐘楼跡・回廊跡などが確認され、東西約220m(2町)の寺域をもつこと、中門と金堂を結ぶ回廊内の東に塔を置く大官大寺式の伽藍配置をとることなどが判明した。

 ちょっと判りにくいかもしれませんが、塔跡の写真を掲げます。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/touato/37kagawa/sanukikokubun/sanukikokubun.html

 上の写真でお判りいただけますかどうか、中央に石造五重塔の下にあるのが心礎のようです。「ようです」と書きましたのは、旧版の「香川県の歴史散歩」には、「中央の心礎には、約四〇センチの枘穴があるが、いまその上に鎌倉時代の石の七重の層塔が建てられて、見ることができない」とあるからです。私が眼にしましたのは石造七重塔ではなく石造五重塔でしたので、果たして、その下にある石が、かつての塔の心礎でありますかどうか確信がありませんが、まず間違いないでしょう。
 平成8年(1996)発行の新版の「香川県の歴史散歩」には、「国分寺町では寺跡を史跡公園として整備しており、築地塀の一部の実物や僧坊覆屋を復元し、10分の1の石造伽藍模型をつくっている」とありますが、それについては、故吉田実氏からの平成5年3月10日付のお手紙で知っていました。そのお手紙には、「変った復元模型として石造、讃岐国分寺七重塔が讃岐国分寺遺跡に設置してあります」とあり、「文化庁監修、月刊文化財に紹介されています」として、そのコピーが同封されていました。そして、「この寺の住職は妙なものを遺跡に造られて迷惑だと云わん許りの応待です。実態はよろしく御推察下さい」ともありました。しかし、そのお手紙のことをすっかり忘れていました私は、平成7年の時は、その石造七重塔の模型を見ずに寺を辞してしまいました。そこで、平成15年に再訪となった次第です。お送りいただいた月刊「文化財」には、次のように記されています。

 ……国分寺町が平成二年度から史跡等活用特別事業の採択を受け、遺構全体模型設置工事として、平成三年度に十分の一の大きさの七重塔を史跡地北東に設置した。露出展示するために石材を使用しているが、従前の石塔とは異なり屋根表面には丸瓦、屋根裏面には二重垂木を彫り込んでいる。また、高欄は木製、相輪は金属製とするなど、木造塔を忠実に再現している。建物は一辺一メートル、一層の屋根の一辺は二メートル、高さ六・三メートル、重さ一二トンであり、平成四年度以降も順次伽藍模型を設置していく予定である。

 この模型は、ちょうど現在の国分寺の裏手にありますが、寺の境内とは、厳重な金網で隔てられていました。宗教と観光を厳密に考えることは、ある意味で重要なことであるとは思いますが、あまり厳格に考えず、誰もが自由に古代と現代を往復(いきき)できるようにする方がよいのではないでしょうか。もっとも、これまでも随所で書いてきましたように、不逞の輩が出没し、怪しからぬ行為に及ぶのも確かで、それなりに文化財を保護する対策は欠かせず、それはまた、寂しいことではあるのですが。そんなことに余計な神経や費用をかけずに済むよう、日本が真の意味での文化国家になることを祈りたいと思います。

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 年末年始の休みに、名物風呂のある温泉宿で過ごすのは如何ですか?年金生活となった私には、夢の話なのですが。こちらで ↓ どうぞ。

 
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2008年12月09日

似て非なる塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、今日は、ある塔に似て非なる塔などを訪れます。

 海岸寺を後にした私が次に向かいましたのは少林寺拳法総本部でありますが、ここに、中国の西安(昔の長安)の「大雁塔の写し」という塔があることについては、中西亨先生の「続・塔の旅」で知りました。ここを平成2年に初めて訪れたときには、ともかくも近くまで行ってみよう、といった程度の気持ちでありました。しかし、その時は写真に撮るまでもないものと判断し、一見しただけで次の目的地に向かったのですが、やはり私のアルバムの半頁でも埋めるべく再訪したのです。
 少林寺拳法総本部は、海岸寺から県道21号線を多度津町の中心部へ戻る途中の左手の高台にあります。どこで左に折れたか明確に書くことができないのですが、迷った記憶がありませんので、近くまで行けば判るのではないでしょうか。そして、塔を拝観し写真を撮るだけなら、道路からで十分で、わざわざ中へ入るまでもありませんでした。
 塔愛好家であれば書くまでもないことながら、大雁塔について、先にも見た平山郁夫先生の著作「シルクロード巡礼 玄奘三蔵 祈りの旅」には、次のように記されています。

 ……西安の町のどこからでも見えるのが、慈恩寺の大雁塔である。(中略)
 貞観十九年(六四五)正月、玄奘は長安に戻った。玄奘、このとき四十八歳、十六年ぶりの帰国であった。かつて人目を忍んで出立した都に、大勢の人びとの歓迎を受けて凱旋将軍のように戻ってきたのである。長安の弘福寺には、太宗の命令で経典翻訳所が用意されていた。以後二年、玄奘はこの寺で、持ち帰った「瑜伽師地論」の翻訳にあたった。訳を終えて献上に訪れた玄奘に、帝あ政務を補佐するよう命じた。玄奘はこれを固辞して、なお仏教宣揚のため、翻訳にいそしんだ。太宗は新訳の「瑜伽師地論」を九部、写させて全国に頒布した。以後、それまでの先人の翻訳を旧約と称し、玄奘訳を新訳と称することとなる。この慈恩寺に、玄奘が苦難の末にインドから持ち帰った経典を納めるため、大雁塔が造営された。永徴三年(六五二)、玄奘五十一歳のときのことであった。

 写真を掲載できれば一目瞭然ですが、当然ながら、似て非なる塔です。
 それはさて措き、少林寺拳法総本部を後にした私は、更に道を戻り、金倉寺から辿った県道23号線との丁字路を直進し、第77番札所の桑多山道隆寺(どうりゅうじ、真言宗醍醐派)へ向かいました。この寺は平成2年にも訪れていますが、その時に撮った多宝塔の写真は不出来でありましたものの、この旅日記では層塔を主としていますので、改めて訪れることはなかったのですが、平成7年のときは、旅のコースにありましたので再訪したのです。この多宝塔は、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第三巻、多宝塔)に拠れば、「弘法大師1150年御遠忌の記念事業として昭和58年(1983)に建立された」といいいます。
 道隆寺を後にした私は、第78番札所の仏光山郷照寺(ごうしょうじ、時宗)へ向かいました。ここも平成2年にも訪れていますが、その時の写真が撮れていなかったので、私の納経帳を埋めるべく再訪となった次第です。

 さて、この先を書き続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めにします。

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2008年12月08日

またもや寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記も、昨日は、おじゃま虫の襲来に遭い、休まざるを得ませんでした。

 法勲寺を跡にした私は、県道22号線を西へ向かい、途中で県道4号線(丸亀街道)へと右折し旧丸亀市域に入って、すぐ先の右手にある宝幢寺(ほうとうじ)池の畔まで行きました。目的の宝幢寺の塔心礎は、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には「その池の堤防から一〇メートルぐらいの池の中に白鳳の古寺の心礎が残っている」とありますので、渇水期でもないかぎり恐らく、そこにある塔心礎は見られないであろうと思っていました。そして、案の定、それは水面下にあった、というより、そのこと自体を、確認することさえできませんでした。
 宝幢寺池を後にした私は、県道4号線を北へ進み、高松自動車道の少し手前の郡家(ぐんげ)町という信号で左折し、県道18号線を西へ進み、国道319号線へ出て右折し、平成2年の10月21日の早朝にも訪れている第76番札所の鶏足山金倉寺(こんぞうじ、天台寺門宗)を再訪しました。平成2年に訪れたときには気づかなかったのですが、この時は、偶然にも「三層塔真柱礎址」と刻された白い石柱を眼にしました。しかし心礎の上には、五輪塔様の石が載せられており、心礎の形状は判りませんでした。
 金倉寺を辞した私は、県道25号線で仲多郡多度津町へ至り、県道21号線に突き当たって左折し、四国八十八ヵ所の番外札所の屏風浦海岸寺(かいがんじ、真言宗醍醐派)へ向かいました。以前にも見ました「四国八十八所遍路」には、「海岸寺の本坊は予讃線と県道を越えた、文字通り海岸に建っており、本坊から、だいぶ離れた御産盥(みたらい)山古墳の東側の山つづきに奥の院や大塔が建てられている」(ルビは括弧で表記)とあります。
 上に「大塔」とありますがが二重塔であり、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第三巻、多宝塔)には、次のように記されています。

 この塔ははじめ三重塔として設計されたものの、いろいろな事情により二重までで留まったものでそのためか、相輪はなくて屋根には宝珠のみ置く。(中略)
 上層は擬宝珠勾欄付の縁をめぐらし、屋根は本瓦葺。基壇と初層の軸部部分は朱色に塗ってある。
 一辺が約3・5メートル、総高約11メートル。

 私の本来の対象の塔ではありませんが、写真を掲げておきます。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/37kagawa/kaigan2/kaigan2.html

 この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺で止めておきます。したがって、明日、いや暫くは寄り道となりますことを予告しておきます。

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 さて、昨日お休みしてしまいましたので、今日は日曜日の定番メニューのこちらを ↓ どうぞ。

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2008年12月06日

またまた何ヶ所か寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、次の塔は香川県の県都、高松の先まで行かねばなりませんので、何ヶ所か寄り道をしながら向かいます。
 善通寺周辺の散策を終え、善通寺の駐車場に戻り車を引き出し、国道319号線に出て南々東へ向かい、仲多度郡琴平町の榎井(えない)という信号で左折して国道32号線を進みました。少し行きますと、今は平成18年3月20日の3町合併により「まんのう町」となっています、かつての仲多度郡満濃町域に入り、少し先で右折しますと満濃町役場があります。岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、「弘安寺」という小見出しがあって、「役場の近くに薬師寺があり、その本堂の縁の下には古寺の礎石が八個残っている」と記されています。しかし、手持ちの道路地図などでは具体的場所が判らず、役場に寄って、所在地を教えて貰いました。判りにくい所にありますので、訪れる場合は役場(今は、ちょっと南に移っているようで、まんのう町役場となっています)で道を尋ねる方がよいでしょう。
 上の書には、続けて「これは金堂跡らしく、その近くに心礎が小屋掛けして据えられているが、原位置ではないので伽藍配置は明らかでない。心礎は二・〇五メートル×一・五五メートル、表面を削平し直径五五センチ、深さ一一センチの穴がある」とあり、出土瓦から判断し、「白鳳も古い方に属する」ともあります。心礎は、今は手水鉢として利用されています。
 次いで私は、綾歌郡飯山町(はんざんちょう、平成17年3月22日の市町合併により新「丸亀市」となっています)の下法軍寺(しもほうぐんじ)にあります法勲寺(ほうくんじ)跡へ向かいました。この廃寺跡について、「香川県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 飯山高校先の島田バス停のある交差点から西へ、善通寺市与北方面へ行く県道(善通寺綾歌線)を約1q進み、南の小路に入ると150mの地に大正年間創建の法勲寺(浄土真宗)がある。その境内周辺が白鳳時代の法勲寺跡である。(中略)法勲寺境内にある塔心礎石や境内及びその周辺から出土した古瓦のなかには、百済様式、白鳳前期に属する素縁八葉素弁おやゆびサイン華文軒丸瓦や、白鳳時代の鋸歯文六葉単弁おやゆびサイン華文軒丸瓦などがあり、7世紀後半、白鳳時代の創建と推定とされている。(ルビ省略)

 私は、道路地図を頼りに、国道32号線を北東へ進み、そこは綾歌郡綾歌町(ここもまた現在は丸亀市となっています)となる岡田という信号で左折し、国道438号線を北上し、途中で県道22号線へと左折して、ともかく法勲寺に辿り着きました。しかし、境内を隅から隅まで探してみましたが、塔心礎らしいものは見当たりません。諦めて次の目的地へ向かいかけたのですが、折角ここまで来ていながら、と諦め切れずに、近くにありました(有)豊嶋設備を訪れました。何という偶然でありましょうか、そこの会長が法勲寺の住職で、社長夫人は住職のご息女だということでした。そして、「父(住職)は畑仕事をしているかと思いますので、声をかけてみて下さい」と言われます。私は寺へ戻り、畑仕事をしておられた住職の豊嶋正信氏に声をかけましたが、ご住職は「それは判るはずがないよ」と言われて、ご案内くださいました。しかし、その心礎は、ほんの僅かな一部の残片で、そうと言われなければ判らないものでした。
 ご住職に礼を述べ、私は、持参していた拙著「塔に魅せられて」(東日本篇)を受け取っていただいて、法勲寺を辞しました。

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 さて、クリスマス、年末年始の休みと楽しいものも間もなくですが、一つ憂鬱に感じるのは、大掃除ではありませんか。普段から、マメに掃除をしておられる方は、その延長線上で考えれば良いのでしょうが。こちらは ↓ そんな大掃除に役立つかもしれません。

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2008年12月05日

善通寺境内、周辺を散策

 善通寺五重塔については、こんな見方もあるようです。「香川県の歴史散歩」には、次のような記述が見られます。

 東院南東隅には法然上人ゆかりの逆修塔と並んで利生塔が建っている。逆修とは、生前に死後の利益を期するために行う仏事のことをいう。この逆修塔は、1207(建永2)年、讃岐に流された法然上人が善通寺に詣でた際、参詣者の後生の往世を祈って建立したと伝えられる五輪塔である。利生塔は、足利尊氏が南北朝の戦乱による犠牲者を弔うということで諸国に1基ずつ建立させたものであるが、讃岐国では宥範によって再建された五重塔があてられた。戦国の兵火によって塔が焼失した後は、かわりに石塔がおかれ現在に至ったものである。(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)

 さて、宝物館なども見学し、話の種にもなろうかと戒壇めぐりもしましたうえ、善通寺の拝観を終えた私は、歩いて仲村(なかむら)廃寺跡へ向かいましたが、その廃寺跡について同書には、次のように記されています。

 善通寺の北一帯にひろがる筆の山山麓から四国農業試験場にかけての地域は弥生時代の遺構で、旧陸軍第11師団の練兵場用地であった関係から、旧練兵場遺跡とよばれている。(中略)
 ……ここには空海の幼時の霊場として知られる仙遊寺(真言宗)があり、さらに境内に隣接した南側には、犬塚とよばれている鎌倉時代の作とされる笠塔婆も残されており、空海にまつわる義犬伝説を伝えている。そのほか、県道に面する四国農業試験場南東隅一帯は、白鳳時代の創建とされる古代寺院仲村廃寺跡で、付近からは古瓦も見つかっており、県道を挟んだ南側の墓地には礎石らしいものも数個残っている。

 仲村廃寺跡は見つかりませんでしたが、仙遊寺は訪れ、犬塚というものも見物しました。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月04日

善通寺の五重塔

 南大門からの道を挟んで、大クスの反対側(右手)に五重塔が聳え建っています。長い引用となりますが、五重塔について「報告書」には、次のように記されています(原文のママ)。

 当時の記録によると、延久四年(一〇七二)の東寺文書から五重塔一基が、延久四年を先立つ年に大風によって転倒したことが知られる。また弘安期(一二七八〜八八)以降と見られる「善通寺文書」には「□寺者 高祖大師渡唐之後 被移龍寺之勝境 歸朝最初之精□梵閣云 自介以降送五百餘廻之星霜之間 敷□堂舎令傾頽 兩基之塔婆依令顚倒」とあり二基の塔が存在していたようであるが、弘安期を降る頃には二基の塔は既になかったようである。一方、道範の「南海流浪記」には、「大師御建立二重の宝塔現存する。」となり、五重塔については触れていなく、多宝塔が存在していたと推察される。その約三十年後の文明六年(一四七四)御下賜の善通寺古伽藍絵図には大塔(五重塔)が存在し、それとは別に西塔跡として記載されており、この西塔が多宝塔を指していると推定されている。
 その後五重塔が大破したため、年代は不詳であるが推定で文明六年(一四七四)には、泉湧寺の長老である素道上人に大塔再興の院宣が下っている。しかし、この二度目の塔は永禄元年(一五五八)に焼失している。
 宝暦八年(一七五八)「善通寺大塔再興雑」には、その後の塔の再建の様子が詳細に記載されており、宝暦一二年一七六二)綸旨を賜り、明和元年(一七六四)一〇月八日一重柱立。明和二年(一七六五)初二重成就。安永六年(一七七七)八月二日三重目柱立。天明三年(一七八三)六月八日四重目柱立。天明四年(一七八四)一〇月一八日五重柱立。天明八年(一七八八)一〇月二五日成就し、祝潜の法会を開いている。しかし、この塔も、天保一一年(一八四〇)火災に罹り、一夕にして灰燼と化した。

 そして更に、「現在の塔はその後に再建された四度目のものである」とあり、「善通寺の記録によると、弘化二年(一八四五)五重塔再建の綸旨」を賜って、「明治一五年(一八八二)一一月四日 第五重上棟。明治三五年(一九〇二)一二月一二日 五重宝塔全備し、この日から一五日まで入仏式を行う」とある。しかし、中西亨先生の「続・塔の旅」には「明治十七年(一八八四)」完成とあり(当然、同先生の「総鑑」でも同じです)、「香川県の歴史散歩」では「1884(明治17)年の空海入定(にゅうじょう)1050年遠忌(おんき)に再建された」(ルビは括弧で表記)と記されています。建物としての完成は、こちらを採る方が正しいようですので、この旅日記では明治17年の再建としておきます。
 さて、「報告書」によりますと、五重塔の修理は平成2年7月1日に実測調査図面を作成することから始めて、3年余、平成5年11月2日に落慶法要を行ったといいいます。平成18年に善通寺開創1200年を迎えるので、様々な創建記念事業が行われたようですが、その一貫として五重塔の修理もなされたのです。そして、創建記念事業の資金調達の一つと思われますが、この年(平成15年)の4月26日から5月5日の間、五重塔の特別公開がなされていて、初重内部の拝観そして5層まで(2層までであったかもしれませんが記憶が薄れています)昇ることができまし。予想していなかったことでありますので、興隆寺の三重塔に昇ったときと同様の感動を味わいました。ただ、鳩の糞害防止のため各重に鳩除金物が新設されましたが、塔の保存のためという点からは、やむを得ないこととは思いますものの、そのネットは、どうにも目障りでありましたし、最初の訪れのときの印象と大きく異なりましたのは、このネットのためだったのです。それはともかく「報告書」には、修理は「五重及び四重の軒廻りまでは総て解体し、初重から三重までは軒廻り及び縁、腰組の修理及び不陸調整による半解体工事にとどめた」とあります。

 さて、最後に五重塔の写真を掲げて、今日の旅日記を終えることとします。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/37kagawa/zentu5/zentu5.html

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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