2008年12月03日

香川県での二番目の塔を訪れます

 第75番札所の五岳山善通寺(ぜんつうじ、真言宗善通寺派総本山)五重塔も3度目の訪問で、平成2年10月21日が最初、2度目が平成7年5月9日、そして、この度(平成15年5月2日)、再々訪した次第です。最初の訪れと2度目の訪れの間には5年の月日が流れていましたので、最初の訪れの時の印象は薄れていましたが、どこか違うものを感じました。しかし、どこと指摘することもできないまま寺を後にしました。そして再々訪となったわけですが、そのときに入手できました貴重な資料によって、ようやく判りました。その「総本山善通寺五重塔修理工事報告書」(以下「報告書」と略す)は、後に改めて見ることとしますが、修理工事は、三重県鈴鹿市の観音寺三重塔、大阪府豊中市の藤井寺三重塔の新築工事を行った伸和建設株式会社で、報告書の編集兼発行も同社です。
 善通寺は、四国八十八ヵ所の中でも最も知られた札所であると思われますので、改めて見るまでもないと思いますが、全く見ないわけにもいきません。上の資料にも、寺の創建のことなどについて記されていますが、ここでは「香川県の歴史散歩」に眼を通すこととします。

 ……寺伝によれば、唐から帰朝した空海が自ら学んだ長安(ちょうあん)の青竜寺(せいりゅうじ)を模して813(弘仁4)年に建立し、父佐伯直田公善通(さえきあたいのたきみよしみち)の名を冠したとされるが、境内から出土する古瓦群からすれば、創立は奈良時代にさかのぼり、当初は佐伯氏の氏寺ではなかったかと考えられている。
 その後、京都の東寺(とうじ)や随心院(ずいしんいん)と本末関係を結び盛衰を繰り返していくなかで、南北朝時代、那珂(なか)郡出身の宥範(ゆうはん)が大勧進職(かんじんしょく)として寺域の整備に尽力したが、1558(永禄元)年、天霧(あまぎり)城の城主香川之景(ゆきかげ)を討つために本陣を構えた阿波(あわ)領主三好実休(みよしじっきゅう)の兵火にあい、堂塔のほとんどが灰燼(かいじん)に帰した。現在の堂舎の多くは、江戸時代に高松藩・丸亀(まるがめ)藩の代々の藩主の援助により再興されたものである。(やや煩わしいのですが、ルビを省くわkにはいかない箇所もあり、括弧で表記しました)

 参詣者用の駐車場は西院(誕生院)の西に隣接してあり、車での訪れの場合は、その西院の正覚門から入ることになりまする。しかし、やはり正面玄関から訪れることとしたいので、3度の訪れのいずれのときも、西院を足早に抜け東院へ行き、五重塔を右手に見た手前で右に折れ南大門をくぐり、いったん境内の外に出て、改めて境内に入り直しました。上の書には、「南大門を抜けた一帯が東院(伽藍)で、伽藍配置は創建時に比定されており、また境内は善通寺旧境内として県史跡の指定をうけている。南大門左手にある樹高30mと40mの大クス(県天然)は、空海誕生時にはすでに繁茂していたと伝えられる」(ルビ省略)とあります。

 続けて書きたいところなのですが、長くなりますので、今日は、ここで止めることとします。

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 さて、年末年始の休みに旅行を、と考えておられる方も多いことでしょう。本当は海外旅行をしたいのだが、予算の方が?という方は、暖かい沖縄など如何でしょう。沖縄旅行のことなら、こちらで ↓ 何でも用が足りそうですよ。




posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月02日

またしても寄り道ですが

 昨日は、野暮用に追われ、ブログを書く時間がありませんでした。そして、五重塔、三重塔をめぐる旅は、またしても寄り道です。

 本山寺を後にした私は、第71番札所の剣五山弥谷寺(いやだにじ、真言宗善通寺派)へ向かいました。この寺は、平成2年にも訪れていますが、例によって私の納経帳を埋めるための再訪でありました。しかしそれだけではなく、印象に残っている寺であったからで、そのあたりのことにつき、「香川県の歴史散歩」には、「JR予讃線詫間駅下車、車15分」(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)とあったうえ、次のように記されています。

 詫間駅から県道(善通寺詫間線)を車で10分ほど走ると、弥谷寺口というバス停がある。このバス停から山道を北に1qほど登ると弥谷寺(真言宗)に着く。「いやだにさん」の名で親しまれている(中略)。山門(仁王門)の手前に俳句茶屋という茶店があり、ここまで車で登ることができる。
 山門をくぐると、ゆるやかな石段が続き樹木が茂り昼でも薄暗い。谷川に沿って参道を進むと古めかしい石仏があり「賽の河原」とよばれている。ここを過ぎると大きな金剛挙菩薩が目の前にあらわれてくる。しばらく行くと鉄製の急な階段があり、登りきると大師堂(納経所)である。(中略)
 大師堂を出ると多宝塔・十王堂・鐘楼があり、比丘尼谷に出る。ここの岩壁には阿弥陀三尊・五輪塔、南無阿弥陀仏の名号が刻まれており、弥谷寺信仰遺跡(県史跡)として特異な雰囲気を醸し出している。

 上の文中に見られる多宝塔は、もちろん拝観しましたが、中西亨先生の「総鑑」によれば、明治10年(1877)の建立といいます。
 さて、四国八十八ヵ所としては、第72番札所の我拝師山曼荼羅寺(まんだらじ、真言宗善通寺派)、第73番札所の我拝師山出釈紳士服寺(しゅっしゃかじ、真言宗御室派)、第74番札所の医王山甲山寺(こうやまじ、真言宗善通寺派)と続きますが、「香川県の歴史散歩」には、「以上の3ヵ寺と、善通寺・金倉寺・三野町の弥谷寺、多度津町の道隆寺とをあわせて7箇所まいりといい、簡便な札所めぐりとなっている」とあります。曼荼羅寺、出釈紳士服寺、甲山寺の3寺は、平成2年にも訪れており、その時は納経帳に印を押して(写真を撮って)いなかったので、それを埋めることが目的でありましたが、建物は特に見るべきものもありませんでした。なお、右の文中の「三野町は、今は三豊市となっています。
 ところで、瀬戸内寂聴の西行を描いた「白道(びゃくどう」という小説には、次のような気になる記述があります。しかし、さすがの私も、その所在までは確かめていません。
 すなわち、西行の歌集「『山家集』では、西行が曼荼羅寺の行道所へへ登り、我拝師山にも登った記録が見えている」(ルビ省略)とあり、西行は、その頂上で「塔の礎」を見たように記されている。その後に続く文章は、瀬戸内寂聴も、そこを訪ねたうえで書いているのかどうか判然としませんが、次のように記されています。

 そこには大師と釈紳士服の出スキーった記念として塔を建ててあったらしいが、今はただ塔の礎だけが残っていた。その礎は計ることが出来ないくらい大きく見え、その塔は高野山の大塔くらいもあったかと想像される。

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 さて、今日のブログの本文でも、いろいろ出てきましたが、いわゆる「平成の大合併」といわれるものは凄まじいものですね。現在、香川県を旅しているわけですが、香川県よりも面積の大きい市が誕生したというのですから驚きです。それは、飛騨の高山市です。寒いかもしれませんが、年末年始のお休みに高山を訪れるのも良いかもしれませんね。その時の宿として、本陣平野屋などは如何でしょう。こちらで ↓ ご覧ください。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月30日

香川県で最初の塔がある寺

 さて、香川県に入っての最初の塔は、第70番札所七宝山本山寺(高野山真言宗)にあります。この寺は、平成2年10月20日が最初の訪問で、第2回目が平成7年5月9日、そして平成15年5月2日に再々訪し、前2回の訪問で、この寺の五重塔の撮影には午前中がよいことが判っていましたので、できるだけ寺の近くに宿を取るべく、いささか苦労しました。というのも、2度目のときに求めた門前の旅館には何度も電話したのですが、どういうわけか通じなかったからであります。現地に行って判ったことですが、廃業したとのことでありました。泊まったときの印象では、お遍路さん相手の宿であったと想われるますが、車での遍路が多くなって宿泊客も減り、経営が成り立たなくなったのではないでしょうあか。そんなわけで、マンションを急遽ホテルにしたようなビジネスホテルしかなく、キッチンルームもそのままの殺風景な宿しか取れませんでした。
 それはさて措き、この寺の伽藍については、中西亨先生の「続・塔の旅」に眼を通すこととします。

 本山寺(「もとやまじ」とよみ、「ほんざんじ」とはよまない)は四国でも屈指の名刹で、今も多くの伽藍を擁し、大寺の風格がある。寺伝によると大同二年(八〇七)、平城天皇の勅願により弘法大師空海が建立されたという。古くから大伽藍が軒をつらねていたようで、今ある本堂は鎌倉後期の正安二年(一三〇〇)の建立で国宝に指定されている。又山門は八脚門で同じ鎌倉後期の建立とされ、こちらは重文になっている。

 この寺を3度も訪れたましたのは、改めて書くまでもなく五重塔があるからですが、ここでは五重塔よりも本堂の方が見応えがありまう。私は唐招提寺の金堂が、塔を別にすれば最も好きな寺院建築物でうが、それにもどこか趣が似た素晴らしい建物であります。以前にも見た「国宝日和――瀬戸内海の旅――」には、「鎌倉の建物はどれもけれん味がなくていい。瓦屋根の、いくらか反りを持った、過不足のない、ゆるやかな曲線、それを支える柱も、柱間のとり方も、蟇股も、蔀戸の按配も、いかにも安定している」と記されています。その本堂を中心とした境内も、ゆったりとしていて、心やすまる環境です。
 五重塔について、中西亨先生の「続・塔の旅」をには、次のように記されています。

 ここの塔は、創建後まもなくの大同四年(八〇九)に弘法大師によって建立され、天暦二年(九四八)に修理があったと伝えている。以後の変遷は明らかでないが、なんらかの形で塔はずっと伝えられたようで、今の塔は明治四十三年の建立だが、その前の塔の旧材を集めて建てたという塔堂が今も現存している。
 さて現在の五重塔は明治二十七年頃から計画されたらしい。その時の勧進書が私の手許にある(中略)。この勧進書によって寄進が集まったようで、塔は明治四十三年(一九一〇)に完成したが、その時の記念写真のエハガキ(袋入)も手許に存している。(中略)
 塔は五重であるが、明治期の塔の常だろうがきわめて細長く、不安定な感じである。三重塔にしたら或いはもっといい形になるのかもしれない。相輪部が短く、各層の軸部はかなり高い。
 五重塔については、こちらの写真を ↓ ご覧ください。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/37kagawa/motoyama5/motoyama5.html

 なお、蛇足ながら、私が訪れた頃の本山寺の所在地は、三豊郡豊中町でありましたが、平成18年1月1日の7町合併により、三豊市豊中町本山甲1445となっています。

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 さて今日は日曜日ですので、定番メニューの、こちらを ↓ どうぞ。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月29日

いよいよ香川県へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、いよいよ香川県へとなるわけですが、またまた、ちょっと寄り道をします。

 昨日、雲辺寺を訪れたことは書きましたが、今日は、その辺りから書き始めます。時を確認しますと、平成15年5月1日のことですが、三角寺を後にした私は、国道192号線まで山道を戻り、三島川之江インターから松山自動車道に入りました。そして、途中で県境を越え、そこは香川県となる大野原インターで降り、国道11号線、県道8号線と辿って、雲辺寺へのロープウェイ乗場へ向かいました。ところで雲辺寺の所在地ですが、これまで何度か見ました「四国八十八所遍路」やJTB発行の「新日本ガイド」では徳島県としていますものの、新版の歴史散歩シリーズでは、香川県のそれで収録している。しかし、旧版の「香川県の歴史散歩」には、「雲辺寺は、地籍上は阿波の国になるが、四国遍路順では、讃岐最初の第六六番札所になっている」とあり、徳島県とするのが地理的には正しいようです。現に山頂駅でロープウェイを降りて少し行きますと、黄色の線が引かれていて、手前が香川県、先が徳島県となっており、徳島県側の道には、雲辺寺へ至る表示がありました。
 新版の「香川県の歴史散歩」に眼を通しますと、「雲辺寺山(標高911m)の山頂、四国霊場のなかでも最も高い所にある」とあり、登り道および下り道とも「狭く急峻な道なので『遍路ころがし』の異名があり、霊場巡拝のお遍路さんたちに恐れられてきた」とあったうえ、続けて次のように記されています。

 1987(昭和62)年春開通した雲辺寺ロープウェーは、難所の雲辺寺参りをいとも容易に解決してくれた。落合バス停から東へ、広域林道(大野原財田線)の森林浴を楽しみながら3・1q行くと、雲辺寺ロープウェーの山麓駅に着く。定員101名、スイス製大型ゴンドラは、わずか7分で山頂の雲辺寺にたどり着く。(中略)全長2594mのロープウェーを昇降するとき、眼下にひろがる三豊平野・瀬戸内海はもとより、遠く中国地方までも展望する一大パノラマが楽しめる。(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)

 雲辺寺は、この時が2度目で、最初の訪れのとき(平成2年)は国道192号線でいったん徳島県に入り、少し行った先で左折して県道8号線を進み、香川県と徳島県の県境の曼陀トンネルを抜けて落合に至りました。その時は生憎の天候で霞んでいましたが、2度目のときは、そこそこ大パノラマを楽しむことができました。この寺は、車でも訪れることができるようですが、その道と想われる未舗装の道が、うねうねと続いているのも見えました。
 さて、ロープウェイで山を下った私は、来た道とは逆の方向へ林道を進み、第67番札所の小松尾山大興寺(だいこうじ、真言宗善通寺派)へ向かいました。取り立てて書くべきものはありませんでしたが、雰囲気の良い寺でありました。
 次の第68番札所の琴弾山神恵院(じんねいん)と第69番七宝山観音寺(かんのんじ、共に真言宗大覚寺派)は、同じ寺域の中にあります。その理由について、上の書には、「868(明治元)年の神仏分離令により、琴弾八幡宮の神宮寺神恵院が観音寺の寺域内に移されたためである」とあったうえ、次のように記されています。

 観音寺は、初め琴弾八幡宮鎮座の折りに日證上人が神宮寺として建立した法相宗の道場で、弥勒帰敬寺と称し、創建当時は一山に48基の仏塔があり、東・西金堂、中金堂など、奈良興福寺そのままの七堂伽藍が建ち並んでいたという。

 48基の仏塔というのは、とても木造塔とは思えませんが、石塔があったのでしょうか。先に見ました「四国八十八所遍路」には、「観音寺は市名にもなっているほどの大寺院」であったとありますが、金堂は国重文となっています。

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2008年11月28日

愛媛県内で、もう一日ちょっと寄り道を

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、明日は香川県にはいりますが、もう一日ちょっとだけ愛媛県内で寄り道をします。

 興願寺を後にした私は、道を尋ね尋ねして国道192号に出ました。そして、少し行った先にある標識にしたがい右折し、山道を登り第65番札所の由霊山三角寺(さんかくじ、高野山真言宗)へ向かいました。車で四国八十八ヵ所を巡る場合、第64番札所からの道順については、それなりの標識が完備されているのかもしれませんが、私のように途中で寄り道をした場合は、最も迷う道筋かもしれません。この寺を訪れるのも、平成2年のときに続いて2度目でしたが、その時の写真が、どういうわけか撮れていず、私の四国八十八ヵ所札所の納経帳を埋めるための再訪でした。しかし、これといって見るべきものも写真を撮るべきものもなく、以前にも書きましたとおり私の納経帳(アルバム)には、この寺の印(写真)はありません。
 私が次に目指したのは、そこは香川県となる本山寺ですが、その前に幾つか四国八十八ヵ所の札所に立ち寄りました。まず、第66番札所の雲辺寺(うんぺんじ、真言宗御室派)ですが、車での訪れの場合、自動車道利用と一般道による場合とでは異なると想わますものの、さほど迷うことはないのではないでしょうか。平成2年の訪れのときは一般道を辿りましたが、迷ったという記憶はありません。

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2008年11月27日

興願寺の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、最後の三重塔となる興願寺の三重塔ですが、伊予三島市教育委員会によって平成元年2月に立てられた説明板には、「市指定文化財 興願寺三重塔」とあったうえ、次のように記されていました(原文のママ、ルビ省略)。

 摩尼山普門院興願寺は承応元年(一六五二年)高野山の快順上人により開基される。
 この塔は、もと二十一番札所阿波の大龍寺にあり荒廃していたが、住職が同窓の親友である仏縁によりこれを譲り受け昭和二十八年十月解体、昭和三十二年ここへ移築復元した。
 棟札に貞享元年(一六八四年)建立とある。塔は初層回縁に擬宝珠高欄をつけ、正面に唐様の桟唐戸、側面に和様の板唐戸を採用し、脇間は腰高連子窓とする。円柱上の組物は三手先、中備は蟇股とし内面に竜虎鶴亀花鳥翁嫗等の華麗な彫刻をほどこす。軒下は雲支輪で水鳥等の彫刻がある。この塔は初層の軒を唐様の扇棰としているが二層と三層は和様の繁棰を採用し、軒下の複雑な建築美を強張している。また、軒下隅木には地天の像を配し軒先に風鐸をつける。(中略)二層と三層は簡素な和様とし柱間は間斗束で統一している。
屋根は本瓦葺、相輪の宝珠に火焰がつく。
 この塔は、初層から上層にかけての逓減率が良く大変均整のとれた美しい建築で、江戸時代初期の代表的な三重塔である。

 先にお断りしたとおりルビは省略しましたが、上の文章では、「擬宝珠」に「ぎぼうしゅ」とルビが付されています。しかし、「広辞苑」に拠りますと、「ぎぼうじゅ」と読む場合は「ぎぼうしゅの転」とあり、「ユリ科の多年草」の場合であって、「ぎぼし」と読む場合は「ギボウシュの約転)とあり、「欄干の柱頭などにつける宝珠の飾り」とあります。よって、この場合は、「ぎぼし」とルビを付るのが正しいようで、他の多くの書でもそうなっており、中西亨先生は、カナで「ギボシ」と表記されています。蛇足ながら、書いた次第です。
 そして説明板に、この塔は、「もと二十一番札所阿波の大龍寺にあり荒廃していたが(中略)昭和三十二年ここへ移築復元した」とありますが、中西先生の「続・塔の旅」には、次のように記されています。

 ……この太竜寺は四国でも屈指の大寺院で、弘法大師空海との関係が最も確実な名刹で、近世には蜂須賀侯の帰依を得て、大伽藍群を擁していた寺であった。(中略)昭和八年刊行の『日本社寺大観』寺院編によると「境内広闊、老杉欝蒼として山水の勝を占め、堂宇に金堂・大師堂・求聞持堂・中興堂・毘沙門堂・鎮守堂・六角経蔵・護摩堂・多宝塔・三重塔・仁王門・鐘楼・庫裡・書院・方丈を具ふ。……」とあり、その伽藍の様が偲ばれるが、特に注目されるのは多宝塔と三重塔が併存していることで、この本には三重塔の写真も登載されていた。しかしこの三重塔は戦後破損がひどくなり、昭和三十四年愛媛県の興願寺へ移されて、昭和四十一年私がはじめて太竜寺へ参拝した時にはその姿は既になく(後略)。

 そして、平成15年に訪れた時は、先に見たとおり市指定の文化財でありましたが、インターネットで愛媛県の教育委員会のホームページを見ますと県指定文化財となっていますので照会したところ、平成16年4月16日に指定されたとのことでありました。
 さて、この塔の訪れは三度であることは既に記しましたが、最初の時のことは記憶に乏しいのです。2度目、3度目の時は幼稚園が開園されているときで、園内は園児でいっぱいでありました。私が断って園内に入り、三重塔の周囲を廻り写真を撮っているのを見て園児たちが不思議そうな顔をしたり、何をしているのかと尋ねたりします。そして3度目の時は、園内に鯉幟があげられていて、塔の姿をすっきりカメラに収めることはできませんでした。しかし、それはそれで、カラー写真では美しいものとなりました。それにしても、もう少し三重塔が建つに相応しい場所であったならば、という思いは禁じ得ませんでした。

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 さて今日も、このブログを時折お読みいただいている方にはお馴染みの「ぐるなび食市場」
ですが、今、訳あり激安セールが開催されています。こちらで ↓ どうぞ。それにしても、もう「おせち」という言葉が見られる時期になったのですね。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月26日

愛媛県で三番目の塔へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記も、昨日は何ということなくサボってしまいました。気を取り直して、旅を続けたいと思います。

 まず、時を確認しておきますが、平成15年の5月1日のことです。「うちぬき」を後にした私は、いよ西条インターまで行き、松山自動車道で一つ先の土居インターまで車を進めました。そして、国道11号線を東へ向かい、伊予三島市(平成16年4月1日の市町村合併により現在は四国中央市という味気ない市名になっています)の中心部にある興願寺を目指しました。
 この寺を初めて訪れたのは平成2年の10月20日で、平成7年の5月8日にも訪れていますので、この日の訪れは3度目でした。にも拘わらず、過去の2度は、いずれも、すんなり辿り着けませんでした。そこで、この度は、いずれ旅日記を書くこともあろうかと考え、処々で車を駐め、メモをしながら訪れました。
 国道11号線を東へ向かい、JR予讃線の伊予三島駅への入口を過ぎて少し行きますと、左手に製紙工場が、右手に神社の石柱塀(?)が見えてきます。車を駐めて神社のような所に行ってみますと、「御旅所」というバス停がありました。その角の信号を右折し、二つ目の宮川2丁目交差点の信号で右折して少し行きますと、右手に三重塔が見えてきます。しかし、三重塔は三島幼稚園の敷地の中に建っていて、一見したところ、風情といったものは感じられません。そこは、右に曲がれる道がある丁字路になっていますが、そこを右に折れた道の左側(西)に興願寺が、右側(東)に興願寺の経営になる三島幼稚園があり、三重塔は幼稚園の隅、ちょうど三叉路の右角に建っています。これらの道は、いずれも狭く駐車に十分なスペースもありませんので、この三重塔は、伊予三島駅周辺の駐車場に車を入れて、歩いて訪れた方がよいかもしれません。もっとも私の場合は、3度とも車でありましたが、三重塔の近くまで行き、幼稚園の前の道に車を片寄せて駐車しての訪れでありましたから、駅周辺に駐車場があるか否かは判りません。「愛媛県の歴史散歩」
には、次のように記されています。

 ……伊予三島駅から北へゆるやかな坂道をしばらく下ると国道11号に出て、三島港が見える。途中、商店街へ入ると今治藩の三島陣屋跡の石碑があり、さらに三島神社(祭神大山積神ほか)の楼門へと至る。
 三島神社は、720(養老4)年、越智玉澄によって大三島宮(大山ボート(船)神社)より勧請されたものといわれ、伊予三島市の地名はこの神社に由来する。(ルビ省略)

 その近くに、三島神社の別当寺であった興願寺(こうがんじ、真言宗)があります。私は一度だけ興願寺から三島神社まで脚を延ばしたことがありますが、ほんの僅かな距離でした。

 さて、三重塔のことについて続いて書きたいのですが、長くなりますので、明日のこととします。

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 さて、一昨日に続き今日もまた、これまで何度かご紹介しましたが、山口油屋福太郎明太子は如何でしょう。こちらで ↓ どうぞ。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月24日

次の塔へ向かう前に、もう一日、寄り道を

 五重塔、三重塔をめぐる愛媛県の旅は、三番目の塔のある所へ向かっているのですが、もう一日だけ寄り道をします。
 平成15年の旅のことですが、国道11号線を、前神寺から吉祥寺の近くまで戻った私は、氷見の信号で左折して県道142号線に入り、黒瀬峠へ向かいました。黒瀬峠を越えますと、ダム湖の黒瀬湖に行き当たりますが、そこで右折し、湖沿いの県道12号線を辿りました。以前にも見ました「四国八十八所遍路」には、「予讃本線西条駅から石鎚山ロープウェイ行きバスに乗り『上原』にて横峰寺登り口行きバスに乗り換え終点下車、徒歩一・五`」とありますが、上原のバス停近くに民宿が3軒あり、私は、その一つに、この日(4月30日)の宿を求めてありました。
 翌5月1日、バスで第60番札所の石鈇山横峰寺(よこみねじ、真言宗御室派)へ向かいました。終点で下車、上に「徒歩一・五`」とある道は60歳を過ぎていた身には、長く険しく感じられましたが、建物などには見るべきものはありませんでした。しかし、ちょうど石楠花が満開の時期で、大好きな花を満喫でき、時間そして費用(往復のバス代1700円)をかけて訪れただけの価値はあったと言えます。
 宿へ戻った私は、お世話になった宿の人たちに別れを告げて山を下りました。横峰寺訪問にたっぷり時間をとってありましたが、以外と早く済みましたので、そんな場合にと心積もりしていました「うちぬき」に立ち寄りました。私は道路地図を見て、JR予讃線の石鎚山駅のところで左に折れた少し先に「うちぬき名水」と記されている場所を目指しました。しかし、探し当てられないまま西条市役所まで行き、商工観光課発行の「西条うちぬきマップ」を貰いました。それに拠りますと、「うちぬき」というのは、「市内至る所で湧き出る自噴水」があり、これを「うちぬき」と呼んでいるといいます。そして、うちぬきは市役所の周辺に集中していますが、少し離れた3ヵ所にもあることが判りました。私は、それらを一通り見て廻りましたが、躑躅が満開になっていて、清らかな水と花に溢れた光景を満喫することができました。
 平成7年の旅に戻りまするが、法安寺を辞した私は、河内寺を訪れました。この寺について「愛媛県の歴史散歩」には、「JR予讃線新居浜駅バス昭和通方面行元塚下車、バス乗換え広瀬公園行慈眼寺下車2分」(ルビ省略、以下、同書からの引用文につき同じ)の所に慈眼寺(じげんじ)という寺があるとあり、「慈眼寺前のバス停から北に進み、スーパーマーケット前の交差点を右折して数分歩くと、楠中央通の西側に河内寺(真言宗)がある。この寺は飛鳥時代の創建と伝えられる古刹で、境内各所から飛鳥時代の百済式や法隆寺式軒丸瓦が出土した。(中略)現在は小さな本堂があるにすぎないが、境内には五重塔の礎石13個が残存し、往時の栄華をしのばせている」とあります。しかし、現地に新居浜市教育委員会によって立てられた説明板があり、「この礎石は後年に移転配置されたものですが、中央に置いてある礎石の枘穴(径61p柱穴の深さ7p)によって往時の建築物の柱(塔の心柱)の太さが偲ばれます」とありました。心礎は、3分の1ほどが欠き取られていまして、完全な姿ではありませんでした。

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 これまでも何度かご紹介しましたが、今日もまた、わさび一筋80年金印をご紹介します。山葵といっても、お刺身を食べるときの「わさび」だけ、というわけではありません。ともあれ、こちらで ↓ どうぞ。



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2008年11月23日

もうちょっと寄り道をしたうえで

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、またまた寄り道です。

 法安寺を後にした私は、四国八十八ヵ所第61番札所の栴檀山香園寺(こうおんじ、真言系単立)へ向かいました。順番からすれば、次は第60番ということになるわけですが、車での遍路の場合は、この寺、そして第62番札所の天養山宝寿寺(宝珠自動車道、高野山真言宗)、第63番札所の密教山吉祥寺(きっしょうじ、真言宗東寺派)、そして第64番札所の石鈇山前神寺(まえがみじ、真言宗石鈇派)を先に訪れた方がよさそうでしたので、第60番は明日のこととしたのです。
 ところで、香園寺について、以前にも眼を通しました「四国八十八所遍路」の「愛媛・香川編」には、次のように記されています。

 寺は大きなコンクリートのかたまりでできている。褐色の大聖堂と呼ばれる四階建てほどのビルディングの中に、一階が大師堂、二階が本堂となっていて、本尊大日如来を中心に同心円をえがくように座席が列を作っている。他の寺が暗い厨子の中に、仏さまがいるのかいないのか、はっきりしないまま、なんとなく内陣に向って参拝してきた歯がゆさの中にあって、この香園寺だけは、まったくそれまでの寺のイメージを一新した構えでお遍路さんをおどろかせる。夏は冷房、冬は暖房が入っていて、金色の大日如来が参拝の人たちを見下ろしている。

 著者は、どんな思い、考えで記しているのか判りませんが、私はあっけにとられると共に、写真を撮るにも何を撮っていいか判らず、以前にも書きましたとおり、結局、私の納経帳(アルバム)には、この寺の印(写真)がありません。
 そして、第62番と第63番の札所にも、これといった見るべきものはありませんでした。平成7年の旅では、このようなことは予め判っていましたので、国道11号線の左右に至近距離で所在するこれらの札所はとばして、少し先まで行き、加茂川の手前の信号で右折して国道194号線に入り、保国寺(ほうこくじ、臨済宗)へ向かいました。「愛媛県の歴史散歩」には、「本堂裏にある池泉観賞式の庭園(国名勝)は、永享年間1429〜41)の築造になるとみられる石庭で、四国では最古のものといわれる。(中略)室町時代初期の庭園様式を備えた名園といわれ、庭園文化史上貴重なものとなっている」と記されています。
 庫裡を訪れ庭園の拝観をお願いしましたところ、いったんは、予約が必要との応えがあったのですが、折角お出でになられたのですから、ということで、特別に拝観させていただきました。そして拝観できた庭園は、見応えのある庭でありましたし、いかにも禅宗の寺らしく、閑寂な雰囲気につつまれた境内も、心落ち着くものでありました。住職のご内儀と想われたご婦人のご配慮に対し、このブログをお読み頂けているとは思えませんが、心より感謝いたいしたいと思います。

☆       ☆       ☆

 本当に、時の過ぎるのは速いものですね。年金生活になってからは、余計に感じます。毎日が日曜日の私には関係ないことですが、3連休の中日、皆様は、どのようにお過ごしなのでしょうか。そんなわけで、今日は日曜日の定番メニューの、こちらを ↓ どうぞ。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月22日

思い出が残る法安寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅も疲れが出たわけではありませんが、昨日は休んでしまいました。

 さて、興隆寺を後にした私は、県道151号線を戻り、県道48号線を突っ切り国道11号線まで出て左折し、法安寺(ほうあんじ)跡を目指しました。国道へ出て今治小松自動車道をくぐり少し行きますと、右手に小松中学校がありますが、その先の小松中学校前の信号を左折して県道144号に入り、すぐ先の左へ斜めに入る道を進めば、その後は迷うことはないでしょう。
 この寺は平成7年5月7日にも訪れていますが、「愛媛県の歴史散歩」には、所在地について「周桑郡小松町北川長丁(ながちょう)157」(ルビは括弧で表記)とあります。現在、小松町は、西条市小松町となっています。そして、交通の便について「JR予讃線伊予小松駅バス松山行北川入口下車一五分」とあったうえ、「バス停北川入口から北へ進むと、水田の中に千本ボタンで有名な法安寺(真言宗)がある」とある。そして、寺でいただいた説明書「国指定史跡・法安寺跡(昭和19年3月7日指定)」には、次のように記されています(原文のママ。明らかに脱字と思われる一字を補充)。

 愛媛県また小松町が全国に誇る文化財、法安寺跡は、現法安寺の境内に残る古代寺院の遺跡である。法安寺は小松町北川にあって美しい牡丹の花とともに大変有名で、県内はもちろん全国から学者や研究者、学生が調査や研究に訪れている。法安寺跡はかって日本の古寺研究の権威者、石田茂作先生によって確認調査がおこなわれ、塔跡周辺から出土した、素弁連華文軒丸瓦から飛鳥時代に創建された愛媛県下最古の貴重な寺院であるといわれている。石田先生によると法安寺は推古四年(五九六)周敷郡の豪族で天皇近侍(名代)の丹治比氏の建立ではないかといわれ、地方の豪族がその権威を維持するために建立したといわれている。法安寺は飛鳥時代建立の全国、四六か寺中、畿内以外の五か寺中にふくまれている。現在薬師堂が法安寺跡の一部に建てられており、この境内に塔跡と金堂跡が南北にならんで残っている。
 塔の基壇は一辺が(一一・九メートル)の方形とみられており一二個の礎石が残っている。(ルビ省略)

 一方、岩井隆次著「日本の木造塔跡」には、「八五センチ×六四センチくらいの小さい自然石が一つ中心に置いてある」が、これは心礎ではないとあります。現地には、「明日の北川を考える会」によって立てられた「法安寺推定図」を示した看板がありましたが、それには塔は三重塔として描かれていました。
 最初の訪れのときは、住職がおられないため寺を守っておられるという高齢のご婦人(おばあちゃん)と、姪御さん(と聞いた)中年のご婦人が応接して下さいました。上で見ましたように法安寺は「千本ボタンで有名」とのことでありますが、おばあちゃんは、そんなことで有名になるよりも、飛鳥時代まで遡る歴史を持つ寺として識られることを望んでおられるようでありました。そして、おばあちゃんは、塔跡に興味を示す私を大歓迎して下さり、いろいろご案内くださったうえ、大切に保管されていた瓦などを、わざわざ出してきて見せて下さいました。私は古瓦については全く無知でありますが、瓦の文様は、実に美しいものでありました。ご厚意に対し、持参していました拙著「塔に魅せられて関東篇」をお渡ししましたが、お返しに塔の姿が染められたタオルと、名物の「よしの餅」を頂戴しました。
 そして、平成15年4月30日に再訪したわけですが、姪御さんだけがおられ、8年の歳月が挟まっているにも拘わらず、私のことを覚えていて下さいました。聞けば、おばあちゃんは、前年に93歳で亡くなられたとのことでありました。そんな寂しい話の一方、姪御さんの方は、縁があって僧籍にある方と結婚されたとのことでありました。そのご住職は生憎ご不在でありましたが、姪御さんと、おばあちゃんのことなど、8年前の想い出話にふけりました。
 再びお会いすることもないでありましょう姪御さんから、かつてと同じようにタオルと「よしの餅」を頂戴して法安寺を後にしました。

☆       ☆       ☆

 正直言って男性の私には余り興味はないのですが、女性の方々の中には悩んでおられる方もおられるかもしれませんね。ともあれ、ビバリーグレンラボラトリーズの、こちらを ↓ ご覧ください。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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