2008年11月20日

興隆寺の三重塔に昇る

 五重塔、三重塔をめぐる旅にあっても奇遇なことですが、興隆寺の三重塔に昇ることができたのです。
 時を確認しておきますが、興隆寺を初めて訪れた平成7年の5月8日のことです。三重塔へ行きますと、塔の初重の扉が開いていました。中を覗きますと、清掃に余念のない上品な感じの婦人と男性の姿が見られました。聞けば、明日、県による塔の調査があるとのことでありました。私は、まさに千載一遇のことでありましたので、ご婦人に、内部をこっそり拝観させていただけないかと言いますと、まだ掃除を始めたばかりで汚れているが良いですか、と言って下さり、構わないと言いますと、ならば、こっそりね、と、にこやか笑顔で応えて下さいました。そんなわけで、思いがけなく塔の内部に入ることができ、本尊の大日如来坐像も拝することができました。そして、二層目へ昇れる梯子のようなものがありましたので、ちょっと昇ってみてよいでしょうかと聞きますと、ちょっとね、と再び微笑を浮かべられたのです。
 二層まで昇りますと、三層へ昇る梯子とも言えそうもないものがありました。内部は暗く手探りで三層まで昇りましたたが、普段はめったに開けることもないでありましょう塔であれば、当然のことながら埃だらけで、蜘蛛の巣と鼠の糞のようなものにまみれての拝観となりました。しかし、そんなことに構っていられません。あまり長居をして、この願ってもないチャンスを与えて下さった方に、ご迷惑をかけることになってはと思いつつ、三層の縁の外に出た私は、塔からの眺めを楽しみ、写真を何枚も撮りました。一つだけ残念に思いましたのは、三層の柱の部分に落書き、それも金属製のもので彫ったものがあったことですが、かつては昇らせることもあったのでしょうか。
 下りは足元に気をつけながら、ゆっくりと降りてきましたので、眼が暗さに馴れて、心柱や垂木の端が輻輳している塔内の様子を観察することができました。島根県安来市の清水寺の三重塔は、最初から昇らせることを考慮に入れて建てられたものでありますので各層の内部は整然としていましたが、こちらは普通に建てられた塔であり、外部から眺める垂木の線の美しさは塔の魅力の一つでありますものの、内部がこんな風になっていることを自分の眼で見たのは初めてでした。このように塔の内部へ入り三層目まで昇れ、いろいろと拝観できましたのは、たまたま県による調査が行われるという前日に行き合わせたからでありますが、時期的にみて、その時の調査の結果、町(市)指定から県指定の文化財に格上げになったのではないでしょうか。とすれば、この三重塔との最初の出会いは、一つの画期であったわけです。
 許可して下さったご婦人に丁重に礼を述べ、興隆寺を後にしたのですが、明日は、また寄り道となります。

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2008年11月19日

興隆寺の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、ようやく興隆寺の三重塔に辿り着いたわけですが、まず、興隆寺の草創のことについて見ておきたいと思います。中西亨先生の「日本塔総鑑」には、次のように記されています。

 ……皇極天皇の御代空鉢上人の開基と伝え、その後養老年中安摩が原に移り更に報恩大師がこられた時火災があって本尊が移られた所が今の本堂の横の大杉の所で、そこに本尊を安置して本堂をたてたという。桓武天皇の御病気平癒により勅命によって伽藍を建立、三重塔もこの時に創建された。鎌倉時代になって頼朝公が再興して本堂を建てたというが、今の重文の本堂は南北朝時代文中四年(一三七五)のもので他に立派な石造宝篋印塔もある。今の三重塔は江戸後期天保三年(一八三二)八月の建立で、本堂に対する丘上に聳えている。

 現地に丹原町文化協会によって立てられていました三重塔の説明板には、町指定有形文化財として、次のように記されていました(原文のママ)。

相輪の露盤の刻銘から天保七年(一八三六)の建立である。文化年間(一八〇四〜一八一八)の住職光憧上人の発願にはじまり、次代の自性上人の時世に完達したものである。
桁行(正面)三間、梁行(側面)三間、和様と唐様の折衷様式で、一・二層と三層の垂木の配列が異なっている。
一・二層は二重繁垂木、三層は唐様で二重扇垂木で、組物は和様の三手先、窓は連子窓、扉は機唐戸。二・三層に風鐸がある。
昭和三十二年に一・二層の屋根を修理している。

 三重塔の建立年について、「総鑑」と相違がありますが、丹原町役場から送っていただいた「丹原町の文化財」では、「総鑑」と同じ建立年としていますので、ここでは、それに拠っておきます。
 そして「日本塔総鑑」には、塔は「江戸後期ながらさっぱりしたいい塔で、少し落書きもあるが保存はよろしい」と記されています。なお、三重塔は、平成16年4月16日付で県の重要文化財に指定されました。
 ところで、この三重塔につきましては貴重な経験をしたのですが、長くなりますので、そのことにつきましては、明日、書くこととします。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月18日

愛媛県で二番目の塔へ

 五重塔、三重塔をめぐる愛媛県の旅も、ようやく二番目の塔を訪れます。

 今日は、かつての周桑郡丹原(たんばら)町、平成16年11月1日の市町合併により現在は西条市丹原町古田(こた)1657となっている所にあります興隆寺(真言宗)を訪れます。この寺は、平成7年、そして平成15年の四国行のときも訪れていますが、平成7年の四国行を計画したときに所持していた道路地図では、道筋が良く判りませんでした。そこで丹原町役場に、付近の詳細な道路地図とパンフレットのようなものを送っていただければ幸甚に存じますと申し入れましたところ、道路の詳細図と共に、「丹原町シンボル一〇選」というパンフレットと「丹原町の文化財」という小冊子(いずれも丹原町発行)をお送りいただきました。
 平成15年4月30日に訪れたときは、泰山寺から興隆寺へ直行しました。国道196号線のバイパスで伊予湯ノ浦インターまで行き、そこで今治小松自動車道に入って、東予丹原インターで降りました。もちろん今治小松自動車道を利用しないで国道196号線を通っても行けますが、判りにくく、道に迷うかもしれません。現に、平成7年のときは、丹原町役場から送っていただいていた詳細な道路地図を見ながらの訪れであったにも拘わらず道に迷って、尋ね尋ねして、ようやく辿り着いたのでした。
 平成15年に訪れたときは、料金所で興隆寺への道の更に詳しい案内図を手に入れることができ、それを頼りに車を進めました。インターから一般道に出たら右折、その先の一つ目の信号で右折し、県道48号線を進みますと今中交差点に至り、そこに青い大きな道路標識があり、そこで右折して、県道151号線を進みました。暫く行きますと、また青い大きな道路標識がありますが、直進する道は県道150号線で、少し行きますと、四つ角の左手に学校があり、右手に寺への案内標識が出ています。そのまま直進して少し行った先にも寺への案内標識がありますので、それに従い右折しますと山道にかかります。そこから先の私の旅のメモは、平成7年のものと平成15年のものとに相違があり自分でも心許ないのですが、より新しい時のメモに拠って辿ると、次のようなことになります。
 寺の入口ともいうべき御由流宜(みゆるぎ)橋まで辿り着いて、狭い駐車スペースに車を駐めますと、そこからは石段登りとなります。朱塗りの橋が架かる清流の脇には、可憐ながら、どこか寂しさを感じます射干(しゃが)の花が群れをなして咲いていました。橋を渡って仁王門まで37段の緩やかな石段があり、大正7年(1918)建立といいいます仁王門からは歩幅の広い自然石の石段を80段ほど登ります。そこから、歩幅に合った、やや急な自然石の石段を70段ほど登りますと、右手に勅使門があり、更に80段ほど登った先に南面して本堂(国重文)が建ち、本堂の横に鎌倉期のものといいいます宝篋印塔(国重文)があります。そして、本堂と相対した高台に三重塔が建っていますが、三重塔の近くまで行くには、更に61段の厄除石段を登らなければなりません。三重塔は東面して建っているので、石段の下から見上げる塔の姿は北の側面ということになります。

 興隆寺への道案内のような恰好になりましたが、石段の数は何段になりましょうか、かなり大変であることをご承知いただけたかと思いますので、今日は、この辺で止めることとします。

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2008年11月17日

次の塔へ向かう前に、ちょっとだけ寄り道を

 五重塔、三重塔をめぐる旅でありながら、今日もまた、ちょっと寄り道します。

 平成7年の四国行のときのことになりますが、第58番札所より先に第59番札所の金光山国分寺(こくぶんじ、真言律宗)、を、いわゆる逆打ちの恰好で訪れました。そこには見るべきものはなかったのですが、私の目的は、そこから300mほど東にあります伊予国分寺の東塔跡(国史跡)で、「愛媛県の歴史散歩」には、「心礎ほか13個の巨大な礎石が並ぶ」とあり、更に次のように記されています。

 ……1967(昭和42)年の発掘調査で、伊予国分寺の創設が8世紀後半であること、塔基壇が10m四方で、高さ1mの版築構造が明らかとなり、南には回廊跡の存在が想定された。諸国の国分寺の建立は、741(天平13)年の聖武天皇の詔によるが、発掘による創建推定年代と『続日本紀』766(天平神護2)年に大直足山(おおくのあたえたりやま)が国分寺に稲(いね)・鍬(くわ)・墾田10町歩を寄進した事実が合致している。(ルビは括弧で表記)

 まさに巨大な礎石でありましたが、民家に囲まれた狭苦しい所に雑然とした感じで置かれてありました。
 次いで、JR予讃線の伊予桜井駅を目指しました。上の書に、「桜井駅裏の国分尼寺塔跡(県史跡)は、面積92u・高さ70pの基壇上に6個の礎石が露出する」、と記されていたからです。しかしながら桜井駅は無人駅で、駅構内を清掃していた年輩の女性に所在地を尋ねました
が知らないといいます。駅前の店で尋ねて、ようやく判りましたが、それは踏切の向こう側で、そこまでは車ではいけないとのことでした。私は、車を駅前に置いて田の畦を辿って、「史跡伊豫國分尼寺塔址」と記された石柱の立っている所まで行ってみました。しかしながら、礎石は雑草に覆われた状態で、かつての国分尼寺を偲ぶ何物もありませんでした。

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2008年11月16日

今日もまた寄り道です

 認知症の兆しでしょうか、自分のブログのカレンダーを見て気付きました。投稿日時の入力を謝りまして、五重塔、三重塔をめぐる旅日記は、一日ずつズレてしまいました。14日の分は13日に、15日の分は14日に書いたもので、昨日は休んでしまいました。
 それはさて措き、ということにさせていただき、平成7年の四国行のときのことになりますが、5月6日の夜は、松山城を望むホテルに宿を求め、路面電車の伊予鉄道で道後温泉駅まで行き、道後温泉本館で道後の湯を味わいました。
 翌7日、松山駅の西方にあります大宝寺(たいほうじ)へ向かいました。この寺を訪れましたのは、国宝の本堂を拝したかったからですが、それは重厚な建物で、この日の旅のコースからしますと、やや回り道でありましたものの、訪れた甲斐はありました。
 大宝寺を辞した私は、戻るような恰好で国道11号線へ出て東へ向かいました。そして、当時、できたばかりの川内インターから松山自動車道に入って、いよ小松インターまで一気に車を駆しらせたのですが、その後のことは、日を改めて書くこととします。
 この日の宿は、「こんもりした緑の小島に寄り添って浮かぶ高床式の宿」、国民宿舎「鹿島」に求めてありました。この宿は、現在は松山市に合併されています旧北条市の中心部、伊予北条駅の西の北条港市営渡船場から渡船に乗って3分、周囲約2キロほどの小さな島、鹿島にあって、おまけに温泉も湧いているのです。
 翌日、小さな島を一周した後、再び渡船のやっかいになって島を去りました。そして目指しましたのは、第52番札所の滝雲山太山寺(たいさんじ、真言宗智山派)でした。この寺の「二ノ門(八脚門)」(「愛媛県の歴史散歩」に拠りましたが仁王門とするのが正しいのかもしれません)は国の重文に指定されており、本堂は国宝であり、なかなか見応えのある建物でありました。次いで訪れた第53番札所の須賀山円明寺(えんみょうじ、真言宗智山派)は、県文の八脚門以外に見るべきものはなく、次に訪れた第54番札所の近見山延命寺(えんめいじ、真言宗豊山派)も見るべきものはありませんでした。
 ここで時を進め平成15年の旅のことになりますが、石手寺を後にして、国道317号線で今治市を目指しました。
 今治市域に入って、まず第55番札所の別宮山南光坊(なんこうぼう、真言宗醍醐派)を訪れましたが、ここは平成7年にも訪れていますものの、私の納経帳に印(アルバムに写真)がなかったので再訪したのですが、撮るべきものが何もなく、以前に書きましたとおり、四国八十八ヵ所のうち、訪れたことを証することができない5寺のうちの一つとなってしまいました。そして、平成7年の旅ではとばしていまし、第56番札所の金輪山泰山寺(たいさんじ、真言宗醍醐派)を訪れました。第57番札所の府頭山栄福寺(えいふくじ、高野山真言宗)、第58番札所の作礼山仙遊寺(せんゆうじ、高野山真言宗)は、平成7年の旅で訪れていましたので、この度はとばしました。

 長くなりましたので、今日は、この辺で止めることとします。

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 そして今日は日曜日ですので、定番メニューのこちらを ↓ どうぞ。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月15日

石手寺の三重塔

 五重塔、三重塔をめぐる愛媛県の旅の最初の塔は、以下に書きますようなものです。
 その前に、石手寺の由来について見ておきたいと思いますが、寺で貰ったリーフレットに眼を通しますと、「石手寺は聖武天皇の神亀五年に伊予の大守越智玉純が霊夢を蒙り十二社権現、天人、二五菩薩が来臨せらるるのを見てこの地を浄域として十二社権現を祠り勅願所と定めたことにはじまります」とありますので、由緒は古いということになります。そして、「愛媛県の歴史散歩」を見ますと、「初め安養寺といっていたが、813(弘仁4)年、石手寺に改めたという」。
 さて、この寺にある三重塔ですが、同書には、「三重塔は高さ24・1m、三間三重の本瓦葺で、安定感があり、清楚な印象を与える建物である。和様だが、組物の一部には天竺様の手法もみられる。本堂・三重塔とも1318年、河野氏の再建になるといわれる」(ルビ省略)とあります。しかし、境内には人が溢れ賑やかな状況で拝したためでありましょうか、「清楚な印象」は受けませんでした。
 それはともかく、中西亨先生の「続・塔の旅」に眼を通すこととします。

 石手寺三重塔は鎌倉後期の建立で、四国では唯一の中世の古塔である。つい近年阿波切幡寺の大塔が重文の指定を受けるまで、四国唯一の重文塔であった。四国で二番目の古さのこの切幡の大塔は元和二年(一六一六)の建立とされているから、石手寺の塔より三百年も新しいことになる。石手寺の方がほぼ二倍の古さだ。ただこの塔様式的にみて鎌倉後期とされているものの、今のところ棟札も記録もなくて建立年を知ることができない。現在その傍に在っておそらく同時代の建立と思われる仁王門が、文保二年(一三一八)の建立という記録(伊予古蹟志)がみつかったので、この塔もその頃の建立と推定されるにすぎない。そして仁王門が新国宝に昇格したのに、塔はまだ重文のままである。

 そして、「三重塔の最初のものは寺伝によると草創時の天平五年(七三三)の創建、延久五年(一〇七三)に再建、そして今の塔は三代目で上記のように仁王門建立の頃、則ち一三一八年頃の建立とされている。塔は純和様の堂々とした三重塔で大体型の通りであるが、珍しいのは初層の間斗束の束がないことで、これはどういうわけなのだろうか」とも記されています。

 三重塔については、こちらの写真を ↓ ご覧ください。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/38ehime/isite3/isite3.html

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 突然ですが、皆様は、臼井吉見作の「安曇野」という小説をご存知でしょうか?原稿用紙で5600枚に及ぶという長編小説で、別な表現を用いますと、全5部に及ぶ第五部などは、文庫本で700頁余りの分厚いものです。私は平成2年に読了しましたが、二度と読む気持にはなりません。面白くなかったからというのではなく、それだけの根気がなくなったからです。
 前置きが長くなりましたが、今日ご紹介する「新宿 中村屋」は、この小説に大変な縁を持つお店なのです。こちらから ↓ ご覧になって下さい。商品にご興味がない方も、この店の歴史の項目は、ご覧いただきたいと思います。  
 書き忘れるところでしたが、もし、「安曇野」を読みたいと思われる方がおられれば、プレゼント(気になった箇所に線を引いたりしたものですが)させて痛きます。ただし、送料は「着払い」とさせて頂きます。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月14日

ようやく愛媛県で最初の塔のある寺へ

 五重塔、三重塔をめぐる度でありながら、愛媛県に入ってからは寄り道が多かったのですが、ようやく塔のある寺を訪れます。

 平成15年の四国行のときは、大洲から松山までの札所には平成7年の四国行のとき訪れていましたので、大洲インターから四国横断自動車道路で、一気に松山インターまで車を駆しらせました。申し上げるまでもなく松山市は道後温泉で有名ですが、「愛媛県の歴史散歩」には次のように記されています。

 ……大化の改新後の律令国家形成期になると、古代貴族の道後温泉への来浴がしばしばみられるようになる。596(推古4)年に聖徳太子が葛城臣らと来湯したという『伊予風土記』逸文の記事には疑問があるが、639(舒明11)年の舒明天皇の来湯はかなり信憑性が高く、661(斉明7)年の斉明天皇一行の「熱田津石湯行宮」への滞在は、百済救援の途次のことであり、政治史的にも大きな意味を有する。(ルビ省略)

 その温泉から遠くない所に第51番札所の熊野山石手寺(いしてじ、真言宗豊山派)があります。これまで辿ってきました松山市内の札所は、見るべきものはありませんでしたものの心休まる雰囲気の寺でありましたが、この寺は、その門前からして人や車が溢れ、いかにも温泉に近い札所らしい殷賑さを見せていました。
 この寺は、この日が2度目の訪れでありましたが、最初のときは悪い予感のようなものを感じつつの訪れでありました。なぜならば、何の書物であったか忘れてしまいましたものの、この寺の仁王門の写真が掲載されていたのですが、国宝となっている仁王門の背後に、けばけばしい色彩の竜宮門のようなものが建っているのが写っていたのです。いかに庶民信仰の篤い寺とはいえ、これは何だ、と思わざるを得なかったのです。そして、その予感は、残念ながら的中しました。竜宮門のようなものこそありませんでしたが、何と表現していいか判りませんものの、全体的にまとまりのない、異様ともいえる雰囲気を感じたのです。竜宮門のようなものは境内の隅に片付けられていましたので、何か特別な行事があるときにだけ使用されるものであるのかもしれませんが、おぞましい、ともいうべき形と色合いの実物を眼にして、片付けられていたことに胸を撫でおろしました。そんなものが近くに置かれていては、折角の国宝仁王門も、台無しです。
 そのあたりのことについては、生口島の耕三寺を訪れたた時にも見ました岡谷公二記「国宝日和――瀬戸内海の旅――」に、的確にスケッチされていますので、それをお藉りすることとします。

 生姜の砂糖漬や、せんべいや、瓢箪や、数珠などを売る露店が左右に立ち並ぶ参道をゆくと、仁王門がたち、誰も国宝などとは知らず、わざわざ立止って仰ぎ見ることもなく、ぞろぞろと中をくぐって境内に入ってゆく。細長い、狭い敷地に、重要文化財の本堂、護摩堂、鐘楼、三重塔をはじめ、さまざまなお堂が所狭しと立並び、本堂の坊さんたちの読経の声が、マイクで増幅されてひびきわたり、沢山の百目蝋燭の光が堂の闇の中でゆれ、金めっきのおやゆびサインの葉がきらめき、壁には、千羽鶴や願掛け札がすき間もなく吊るされ、至るところに香煙が漂い、善男善女がひきもきらない。境内の一隅には、愛媛パゴダと称する金色の円塔をいただく不思議な建物や、天女の舞う極彩色の欄間絵で飾られたお堂があり、別の建物の縁側には、なにかの行事に使うらしい巨大な張子の白象が牙をむき、本堂の地下には、地底マントラと称して、長い地下道が掘られ、地下道を抜けたところには、マントラ大塔という、これまたなにやら得体の知れない、今出来の金ぴかの建造物がそびえている。俗悪といえば俗悪、悪趣味といえば悪趣味だが、この寺はたしかに生きて動いている。(送りがなは原文のママ)

 上に「地下道」とある所は、私は全く興味がありませんでしたが、たまたま観光バスで訪れた団体が来合わせましたので、ガイド嬢の説明を盗み聴くようにして後についていきましたが、わけの解らないものでありました。最初の訪れの時は宝物館も拝観しましたが、これといって印象に残っているものはありません。そんなわけで、この度は、目的の三重塔を拝観し、写真を何枚か撮っただけで、早々と寺を辞しました。なお、鐘楼に吊された梵鐘、そして鐘楼の奥にある訶梨帝母天堂も国の重要文化財に指定されでいます。

 そんなわけで、寺の由来や三重塔のことにつきましては、明日、書くこととします。

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 さて今日は、私も何度か利用したことがあります商店を、ご紹介します。冬は魚介類の美味しい季節ですが、こちらの ↓ ワールドシーを覗いて見ませんか。きっと、お気に召すものが、格安料金で見つかると思います。それにしても、もう、おせち料理が話題になる季節なのですね。

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2008年11月12日

愛媛県での最初の塔へ向かう前に

 五重塔、三重塔をめぐる愛媛県の旅も、ようやく塔のある所へ近づきつつありますが、もう一日、寄り道をします。

 平成7年5月6日、札所の順番としては逆になりますが、道順として第45番札所の海岸山岩屋寺(いわやじ、真言宗豊山派)を訪れました。「愛媛県の歴史散歩」に、「京都歓喜光寺(かんきこうじ)の『一遍上人絵伝』では、1273(文永10)年に一遍が菅生(すごお)の岩屋に半年余り参籠し、遊行の決意をしたとしている」(ルビは括弧で表記)とあります岩屋には、奥深くまで入って見物しました。
 次いで、第44番札所の菅生山大宝寺(たいほうじ、真言宗豊山派)を訪れましたが、山寺らしい雰囲気のある寺でありました。
 大宝寺を後にし、国道33号線(土佐街道・久万街道)に出て、砥部(とべ)焼で知られる伊予郡砥部町を目指しました。町の中心部辺りから右に折れ、第46番札所の医王山浄瑠璃寺(じょうるりじ、真言宗豊山派)へ向かったのですが、道に迷った末、 何とか辿り着きましたものの、特に見るべきものはありませんでした。この寺から松山へと通じる道の途中には、第47番札所の熊野山八坂寺(やさかじ、真言宗醍醐派)、次いで第48番札所の清滝山西林寺(さいりんじ、真言宗豊山派)が至近距離で続いていますが、いずれも特に見るべきものはありませんでした。
 西林寺から更に北へ進みますと、何ほどもなく国道11号線に出ます。そこで左折して少し行けば、来住(きし)廃寺跡に辿り着けるはずでありました。しかし、かなり駆しったのですが、それらしい標識もありませんでしたので諦めてUターンしました。すると、国道に大きな案内標識が出ていて、この日の一つの目的を果たすことができたのです。
 上の書には、交通の便について「伊予鉄道横河原線久米駅下車15
分」とあったうえ、「国道を西にむかってさらに300mほど進むと、道の北側にこんもりとした雑木林が見えてくる。これが長隆寺(黄檗宗)で、その寺域と西側一帯が来住廃寺跡(国史跡)である」(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)とあり、更に、次のように記されています。

 ……1967(昭和42)年および1977〜78年に行われた発掘調査によって、心礎と8個の礎石を有する基壇9・7m四方の塔跡、東西29m・南北18mの講堂跡、僧坊とみられる桁行8間・梁間3間の掘立柱建物跡、総長85mにも及ぶ回廊跡などの遺構が検出され、白鳳時代のものと推定される軒丸瓦や鴟尾片が出土した。この結果、この寺院は、法隆寺式の伽藍配置を有する白鳳時代の遺構と推定され、地方寺院の成立・展開を考える際の貴重な資料となっている。現在遺構の大部分は埋め戻されているが、塔の心礎と考えられる方形の巨岩が基壇上に露出していて、往時をしのぶよすがとなっている。

 その心礎石は真ん中で二つに割れていますが、これは割れたのではなく、「日本の木造塔跡」に拠れば、「巨石を楔を用いて二つに割り、二つの石の側面にそれぞれ半円形の孔を下まで彫った上、これを再び合わせて大体丸い孔が中央にあるように仕上げ」たものであるといいいます。なお、「愛媛県の歴史散歩」では、万葉集に見える「熱田津(にぎたつ」について囲み記事を設けており、「最近では来住廃寺跡の回廊遺構を『斉明天皇の行宮』と比定し、熱田津を重信川の河口付近と推定する学者もいる」とあります。
 長人差し指サイン寺を後にして浄瑠璃寺から辿ってきた道まで戻り、松山へ向かいましたが、途中に第49番札所の西林山浄土寺(じょうどじ、真言宗豊山派)、第50番札所の東山繁多寺(はんたじ、真言宗豊山派)があります。浄土寺の本堂は国重文に指定されている建造物でありますが、繁多寺には、これといって見るべきものはありませんでした。

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 本当は四万十川を訪れた時にご紹介できれば良かったのですが、タイミングがズレました。今日は、四万十育ちのウド石鹸を、ご紹介します。ウドエキスの力が、洗う度に肌を白くしてくれるようですよ。こちらで ↓ どうぞ。


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2008年11月11日

卯之町から大洲、内子を経て面河へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、今日もまた寄り道です。

 平成15年の四国行のときのことですが、卯之町の東の山腹にあります第43番札所の源光山明石寺(めいせきじ、天台寺門宗)を訪れました。しかし、この寺でも特に見るべきものはありませんでした。この日(4月29日)の宿は、大洲市の市街地の旅館に求めてありました。平成7年の旅のときも大洲市内に宿をとったのですが、その時は、臥龍山荘を見物した後、肘川の遊覧船にも乗り、明治の家並みや「おはなはん通り」を散策したりしました。
 その平成7年の5月5日、大洲を後にして喜多郡内子町へ向かいましたが、その途中にある番外札所の十夜(とや)が橋に立ち寄りました。橋の下に涅槃像や大師像があるのですが、兄妹でありましょうか恋人同士でありましょうか、若い男女が熱心にお参りしていたのが印象的でありました。
 内子町では、まず復元された旧内子座を見物し、奈落なども見た後、内子の町並みを散策しました。「愛媛県の歴史散歩」には、「木蝋生産で栄えた商家・民家・土蔵など、いずれも白や黄色味を帯びた重厚な漆喰壁や海鼠壁、格子・蔀戸などを備えた家屋が70棟も軒を連ね、江戸末期以前の家屋が15軒、江戸末期から明治初期の家屋が43軒ある」(ルビ省略)とあります。そして、この町並みは、「1982(昭和57)年4月、国から八日市護国地区重要伝統的建造物保存地区として、四国では初めて、全国では18番目の指定を受け、翌年3月には県の『文化の里』に指定された」ともあります。更に、この年の前年にノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の出身地として、新たな脚光を浴びるようになってもいました。
 内子町を辞し、国道379号線、380号線を駆しり、美川(みかわ)村の中心部で左折し、県道212号線、県道12号線と辿り、国道四九四号線へと左折し、面河(おもご)村の中心部近くで右折し、石鎚スカイラインに入りました。内子町から、およそ2時間ほど駆しったでありましょうか、土小屋まで行き、西日本第一の高峰である霊峰石鎚山の雄大な姿を拝しました。そしてスカイラインを下り、この日の宿としていました「深い渓谷の底を流れる面河川に面し濃い緑に囲まれた」国民宿舎「面河」に荷物を預け、面河渓をハイキングしました。なお、美川村、面河村は、平成16年8月の町村合併により、今は、上浮穴(うけな)郡久万高原)くまこうげん)町となっています。

☆       ☆       ☆

 秋は、旅行シーズンでもありますね。といっても、冬の到来も近いといった兆しが感じられますが、そうなると、年末年始の休みを利用しての旅行や帰省の計画がある方もおられることでしょう。航空機を利用せざるを得ない場合、格安の航空券が欲しいですね。そんな場合、こちらの ↓ スカイバリューで、探してみては如何でしょう。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月10日

宇和島から吉田町を経て卯之町へ

 五重塔、三重塔をめぐる旅ながら、昨日も書きましたように、暫くは四国八十八ヵ所めぐりのようになってしまいます。

 平成7年の旅では、高茂岬まで脚ならぬ車を延ばし、岬の急斜面に群がり咲く、名も知らない花を観賞した後、国道56号線まで戻り、この日の最初の観光地としていた宇和島を目指して、車を北へ向けたのでありますが、ここで平成15年の旅のときに話を進めることとします。
 国道56号線を少し駆しりますと、間もなく御荘(みしょう)町の町域に入りますが、入って間もなく、愛媛県では最初の札所であります、第40番札所の平城山観自在寺(かんじざいじ、真言宗大覚寺派)があります。しかし、この寺には特に見るべきものはありませんでした。ただ新しいものながら、4、5メートルもありましょうか、石造の多宝塔がありました。なお、城辺町、西海町、御荘町は、平成16年10月1日の町村合併により、現在は愛南町(あいなんちょう)となっています。
 観自在寺を辞した私は、国道56号線を更に北へ向かい宇和島を目指しました。そして、宇和島市の中心部を過ぎ。JR予讃線の北宇和島駅を右に見た少し先で右に折れ、県道57号線に入り、途中で左折して県道31号線を進みますと、何ほどもなく第41番札所の稲荷山龍光寺(りゅうこうじ、真言宗御室派)に着きました。そして、4キロほど先に第42番札所の一時計仏木寺(ぶつもくじ、真言宗御室派)がありますが、これらの寺には取り立てて見るべきものはありませんでした。
 ところで、宇和島の観光名所としては、何といっても国指定名勝の天赦園(てんしゃえん)でありましょう。ここは、平成7年5月4日に拝観しましたが、なかなか素晴らしい庭でありました。
 その時は、天赦園を後にし更に国道56号線を北上し、吉田町(市町村合併により宇和島市となっています)へ向かいました。この町でも古い町並みを見ることができますが、「愛媛県の歴史散歩」には、「今なお北小路や東小路の一部には、門構えに格式を示す武家屋敷の町並が残っている」とあり、「町人町は南北方向に、西から魚之棚(うおのたな)・本町・裏町の三本の通りがあり、(中略)本町には御掛屋(おかけや)・鳥羽(とば)・叶高月(かのうたかつ)などの豪商があり、魚之棚には吉田藩随一の御用商人、豪商法華津屋(ほっけづや)や吉野屋などがあって、今なお伝統的な町並を特によく伝えている」(ルビは括弧で表記。以下、同書からの引用文について同じ)とあります。
 吉田町を後にし、五町合併により西予市となりました、かつての宇和町域となる卯之町へ向かいました。この町では、西日本最古の校舎建築という旧開明学校(平成9年5月29日、国重文に指定されました)を見学しました。そして、旧開明学校から坂道を少し下り、上の書に「江戸中期〜明治初期にかけて建築された土蔵や白壁の家屋が軒を連ねる中町(なかちょう)」とある町並みを散策し、幕末の蘭学者高野長英の隠れ家(県史跡)なども見物しました。また、この町は、明治の文明開化期に多大な貢献を果たした医者のシーボルトの娘であるイネが、シーボルトが帰国後に住んでいたところで、町の案内図も、「おイネさん」が案内するイラストになっています。

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 ところで、私は「道の駅」に立ち寄るのが好きで、あれば必ずと言ってよいほど入っています。四国の「道の駅」にも何ヵ所か入っていますが、必ずと言ってよいほど売られていたのが、ウコンでした。体に良いと言われるウコンを、ハウス食品の通販で求めては如何でしょう。半額セールも行われていて、お得ですよ。こちらで ↓ どうぞ。

posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 19:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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