2008年11月09日

いよいよ愛媛県となります

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、いよいよ愛媛県へ入りますが、昨日のブログで予告しましたように、暫くは寄り道となります。

 四国に入った時に古事記に眼を通しましたが、その一部について、もう一度、見ることとします。

 ……この島は、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、伊豫國は愛比賣と謂ひ、讃岐國は飯依比古と謂ひ、粟國は大宜都比賣と謂ひ、土左國は建依別と謂ふ。(ルビ省略)

 伊予の国が廃藩置県によって1県とされたとき、上にある女神の名に基づき愛媛県とされたということでありますが、司馬[]太郎は「街道をゆく(南伊予・西土佐の道)」で、愛比賣(えひめ)というのは「文字どおりいい女という意味である。(中略)『いい女』などという行政区の名称は、世界中にないのではないか」と記しています。
 さて、愛媛県には、層塔は3基あります。四国の層塔は12基を数えますが、そのうち国の重要文化財に指定されているのは1基で、その他には、江戸期のものが2基あるだけで、その他は明治以降の建立になるものです。このように、文化財としての層塔という点からすれば、四国は、やはり、もの足りない感じを免れませんが、その中にあって、ここ愛媛県は上に記した古塔が総てある県であり、その点から見た場合、四国では第一の文化県ということになります。しかし、3基とも県の北部にありますので、冒頭に書きましたとおり、暫くは塔めぐりというよりも、一般的な観光が続くことになります。観光案内書のダイジェスト版のようになってしまいますが、私がめぐった道筋に沿って記していくこととします。
 平成7年、そして平成15年、いずれの四国行のときも、宿毛から国道56号線(宿毛街道)を、北西へ向かい県境を越えて愛媛県に入りました。そして平成7年のときは更に西へ向かい、城辺(じょうへん)町域に入って少行った所で道を左に採り、県道34号線を西へ向かいました。というのは、この日(5月3日)の宿を、西海(にしうみ)町の公営の宿舎に求めてあったからです。この日の日程では、この辺りで宿を求めなければならなかったこともありますが、JTB発行の「新日本ガイド(四国)」に、「西浦湾に面して、高い石垣をめぐらした家々が、山の中腹までつづき、石垣の村ともいわれる」とあります、外泊(そとどまり)の家並みを見たかったからです。余り人気が感じられない過疎の集落でありましたが、未だにこんな鄙びた家並みが日本に残っていたのか、といった思いにさせられました。

 この先を続けますと長くなりますので、今日は、この辺りでで止めにします。

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 さて、今日は日曜日ですので、定番メニューの、こちらを ↓ どうぞ。

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2008年11月08日

高知県内で、もう一日寄り道を

 五重塔、三重塔をめぐる旅日記でありながら、その名に相応しくないもになっていますが、今日も寄り道です。

 翌日(平成7年5月4日)の早朝、私は、太平洋から登る日の出を見るため宿を出ました。すっきりとした天候ではありませんでしたが、それなりの日の出の光景を味わうことができました。そして、宿へ戻り朝食を済ませて宿を後にして、足摺半島の西側を通る県道27号線を駆しり、前日、足摺スカイラインに入った分岐点まで戻りました。そこで、国道321号線へと左折して西へ向かい竜串(たつくし、県名勝)まで行き、千尋(ちひろ)岬の先端にある見残(みのこ)しでグラスボードに乗り、海中のサンゴ群落の美しさに見惚れ、珍しい化石漣痕(れんこん)などを見物しました。その後、更に西へ向かい、道なりに北上して途中で左に折れ、県道43号線に入り、大堂海岸まで行きました。そして、大堂海岸の景観を暫し味わった後、国道321号線に戻り北上、宿毛(すくも)市に至りました。平成7年の四国行のときは、ちょっと戻る恰好にはなりましたものの市の中心部で右に折れ、国道52号線を東へ向かいました。というのは、「高知県の歴史散歩」に、その途中の「吉名口の国道分岐点よりおよそ1q北西へ進むと、右側の山の手に浜田の泊り屋(国民俗)がある」とあるからでした。そして同書には、「泊り屋は若衆宿ともいわれ、幕末から明治・大正まで幡多郡下のほぼ各村落にあった若者宿の名残で、ここに15歳から妻帯までの若い衆が夜ごとに宿泊して夜警の奉仕や盆踊りの行事に参加したり、災害救助に出動したといわれる」とあります。この民俗については、種々ご紹介したいこともありますが、この旅日記とは関係ありませんので省略します。
 宿毛市の中心部から「浜田の泊り屋」へ行く途中に高知県の最後の札所の第39番の赤亀山延光寺(えんこうじ、真言宗智山派)があります。平成7年の四国行では跳ばしましたので、この機会に訪れました。

 さて、明日は愛媛県に入りますが、またまた寄り道の旅が続きますことを予告しておきます。

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 さて今日は、秋の夜長(といっても、もう冬になったような陽気が続いており、明日も寒いようですが)を、登録料など一切無料の、チャンスイットで、楽しみながら、ちょっとしたお小遣い稼ぎをしてみては如何ですか。私は、かなり前に登録しました。こちらから、↓ どうぞ。

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2008年11月07日

またまた寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅ながら、またまた寄り道です。
 平成7年の四国行のときのことになりますが、国民宿舎「土佐」を出発、横浪黒潮ラインを更に西へ進み須崎市に至り、国道56号線へ入って西へ向かい、今は高岡郡四万十町となっています、かつての高岡郡窪川町にある第37番札所の藤井山岩本寺(いわもとじ、真言宗智山派)を訪れました。この寺には、古い建物や仏像などはありませんが珍しいものがありまする。以前にも見た「四国八十八所遍路」の徳島・高知編には、次のように記されています。

 ……五十三年に新築された本堂の天井を見上げて、お遍路さんばかりか、町の人もアッと驚いたほど、天井絵のデザインは斬新である。全国公募によってあつめられた絵が、五百七十五枚びっしりと列をなしてならべられている。主に高知県の県展に入選した人の絵が多いが、北は秋田県から始まって広島まで県外の作品も百枚は含まれている。マリリン・モンローあり、花の絵ありで、上を見上げて一枚ずつ見てゆくうちに仏教≠ニいうものの永遠の新しさ、寛容さが実感される。

 末尾の一節についてはともかく、前もって知っていましたので「アッと驚いた」りはしませんでしたものの、たしかに斬新で鮮やかなものでありました。私は他人の眼も憚らず、床に仰向けになって数枚の写真を撮りました。
 さて、岩本寺から次の第38番札所の蹉時計金剛福寺(こんごうふくじ、真言宗豊山派)までは長丁場で、第23番札所の薬王寺から第24番の最御崎寺までの距離と、1、2を争うのではないでしょうか。岩本寺を辞したのは正午頃であったと思いますが、お遍路道とは異なるでありましょう足摺スカイラインを軀しって金剛福寺のある足摺岬に着いたのは夕方でありました。もっとも時間的な面から言えば、今は四万十市となっている旧中村市の中心部を散策、四万十川を少し上流に遡り、佐田沈下橋(ちんかばし)まで行き、車1台分しかなく、両サイドに欄干もない沈下橋を車で渡ったりした末でありますので、直行すればもっと早く行き着いたでしょう。それはともかく、四万十川は素晴らしく、河口近くの幅広い川にかけられた鯉幟の光景は忘れられず、沈下橋を車で渡ったのも、平成7年の旅の思い出の一つであります。
 そんな寄り道をしてもなお薄陽のあるうちに、この日(5月2日)の宿と定めていた「黒潮打ち寄せる太陽と緑の地、足摺岬の突端に立つ」国民宿舎「あしずり」に着きました。そこで、翌日のこととしていました宿舎のすぐ近くにある金剛福寺を訪れました。この寺には多宝塔がありますが、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第三巻、多宝塔)には、「すでに平安時代に多田満仲が清和天皇の菩提を弔うために多宝塔を創建したが、その後荒廃を重ね、いまの塔は明治13年(1880)に立てられた」とあります。既に100年を経ているわけですが、このときは初重の扉の補修中でありました。なお、同書には、「多宝塔に向かって右前には、かつて700年ほど前にあった塔の九輪宝塔が立っている」とありますが、私は気づきませんでした。故国見氏は、平成14年に金剛福寺を訪れられたようですが、私は平成7年に訪れていますので、平成15年のときは、とばしてしまいました。最初の訪れ以後のいつの日かに、立てられたのかもしれません。
 この他、「高知県の歴史散歩」には、この寺の「境内には、山内忠義寄進の十三層の石塔・石灯籠・和泉式部逆修の塔などみるべきものが数多くある」とあり、更に「金剛福寺の西隣には白山神社」があり、「社殿のすぐ下の浜辺に高さ16m・幅17mの海蝕洞門の白山洞門(県天然)」があるとも記されていますが、私はそれらを見学し、更に足摺岬の灯台の近くまで散策しました。

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 さて今日は、以前にもご紹介したkとがありますが、天然水を自宅で飲めるアクアセレクトを、ご紹介します。無料の、お試しキャンペーンも実施しているようです。こちらで ↓ どうぞ。


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2008年11月06日

青龍寺の三重塔について

 高知県での五重塔、三重塔をめぐる旅で三番目に訪れた青龍寺の三重塔についてですが、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第二巻、三重塔)に眼を通しますと、「仁王門をくぐると右手に見上げるような急峻な170段の石段が迫る。(中略)気の遠くなるような170段の石段を登り切るだけの体力に、とても自信を持てなかった。幸運なことに石段を登りかけると20段ほどの所に納経所があり、その背後に朱色の鮮やかな三重塔が見えたときにはうれしかった」、と記されています。私にとっても、まさに
幸運でありました。最初に訪れたときは朝の散歩がわりでありましたので右にある石段を登るつもりはありませんでしたし、2度目の四国行のとき(平成15年4月29日)は、もし三重塔に気づいていなければ、既に訪れているからということで、この寺をとばしていたかもしれません。そうであったならば、他の札所は別として、この札所だけは、更に改めて訪れねばなりませんでした。三重塔は石段を登るまでもなく駐車場からも見えましたので、そのようにならずに済んだのです。
 ここで、青龍寺の執事の方からのお手紙に眼を通すこととしますが、その内容は次のようなものでありました。

当寺は桃山時代まで三重の塔がありましたが台風にて倒壊して以後再建出來なかったのを今囬再建したものです。
平成二年一月より工事を始め
仝 三年四月九日地鎮祭
仝 四年十月二十五日落成式
塔は奈良県西国七番霊場岡寺の設計書をお借りして制作したものです。
大工棟梁は当地井ノ尻の南部俊光

 そうした三重塔の姿については、こちらの写真を ↓ ご覧ください。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/39kouchi/seiryu3/seiryu3.html

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 昨日は、アメリカの大統領選挙の報道を、チャンネルをあちらこちら回しながら見ていて、ブログを書く時間がなくなってしまいました。
 さて、秋も深まり、今日は少し和らいでいますが、もう初冬といった感じですね。食欲の秋に因むもののご紹介も、今日が最後になるかもしれません。そこで、以前にも一度ご紹介した、「美味いもの市」は如何でしょう。こちらで ↓ どうぞ。

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2008年11月04日

高知県で三番目に訪れる層塔

 五重塔、三重塔をめぐる旅も寄り道の方が多いのですが、いよいよ高知県で三番名の層塔を訪ねます。ところで、昨日は、何ということなく休んでしまいました。

 さて、その寺は、第36番札所の青龍寺(しょうりゅうじ)ですが、私が、この寺を最初に訪れたのは平成7年5月のことですが、平成15年に再訪しています。それには大分前にもちょっと書きましたことながら、次に記すような事情があったからです。
 平成7年5月1日、この日の宿を、横浪「半島東端の暖帯樹林におおわれた山上で太平洋を一望」できる国民宿舎「土佐」に求めてあった私は、宇佐大橋を渡り横浪黒潮ラインに入った。宿舎への途中に青龍寺があるのですが、陽も落ちかけていましたので、立ち寄らずに宿へ向かいました。特別な思いがあったわけではありませんが、翌日の早朝、霧雨が降るなか、私は車を駆って青龍寺を目指しました。そして、思いがけず、それまで何の情報もなかった三重塔が、長い石段の続く参道の入口近くに建っているのに出会ったのです。その時の感動を、どう表したらよいのか。私は、参拝はそっちのけで、三重塔を鑑賞し、写真を撮りました。
 帰宅後、お寺に塔の規模、建立年月日などについて照会しましたところ、執事の方からご丁重なご返事をいただきました。それは後に見ることとしまして、まず、「高知県の歴史散歩」に眼を通すこととします。

 横浪黒潮ラインの宇佐の料金所よりおよそ2qで横浪県立自然公園龍ノ浜に出る。バスの便もあるが便数が少ない。バス停に寺への道標もあり、西方山手に青龍寺の新築した客殿の屋根が見える。(中略)
 青龍寺(真言宗)は、四国霊場第三六番札所で、独鈷山伊舎那院青龍寺という。本尊は空海作といわれる波切り不動明王で、世に「龍のお不動さん」で親しまれている。この寺の愛染明王坐像(国重文)は像高113pほどのヒノキの寄木造で、三目六臂(六本の腕)と激しい忿怒の形相で肉身部は真紅に彩色されている。腰裳のおやゆびサイン華唐草などの文様にも彩色がみられる鎌倉時代の作である。
 巨木に囲まれた百余段の石段の側には、清水が滝となって流れ、夏は涼しく、冬は一段と身の引き締まる思いがする。かすかに聞こえる潮騒の音とともに四季の風情に富む霊地である。(ルビ省略)

 次いで、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第二巻、三重塔)に眼を通しますと、この寺の由緒について、次のように記されています。

 ……青龍寺建立についての伝説は数多く、そのうちの一つは、弘法大師が在唐のとき、明州から赤栴檀を持ち帰り、海中へ投ずると、この宇佐の地に流れ着いたので、ここに一寺を建立したとある。
 青龍寺の寺名は大師が長安に居たときの師恵果和尚の寺であるところにより名付けられたといい、また、ここの寺名の扁額は弘法大師の直筆であるものとも伝えられている。(中略)
 その後、寺運は衰退し堂宇はだんだん荒廃してきたが、正保年間(1644〜48)土佐藩主山内忠義の外護により伽藍が再興された。しかし、宝永4年(1707)の大地震の際の大津波により、堂宇悉く流失する。以後、明治初年に至るまで歴代土佐藩主の帰依により次第に堂宇の復興が行われて、いまに及んでいる。

 三重塔のことなど、この先を書き続けますと長くなり過ぎますので、今日は、この辺で止めておきます。

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 食欲の秋、といっても初冬のような陽気が続いていますし、今はまだ四国の旅の途中ですが、今日は九州の「くいもんや」をご紹介します。こちらで ↓ どうぞ。

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2008年11月02日

またまた、ちょっと寄り道ですが

 五重塔、三重塔をめぐる旅でありながら、またまた、ちょっと寄り道です。そして、11月になりましたが、初日を休んでしまいました。
 時を確認しますと平成15年4月29日のことになりますが、桂浜荘を出発した私は、県道14号線で西へ向かいました。途中で右に折れて行けば、第33番札所の高福山雪渓寺(せっけいじ、臨済宗妙心寺派)に至りますが、この寺は平成7年に訪れていましたのでとばして、逆に平成7年のときはとばした第34番札所の本尾山種間寺(たねまじ、真言宗豊山派)へ向かいました。この寺には国重文の木造薬師如来坐像があるのみで、他に特に見るべきものはありません。そんなわけで、申しわけ程度に手を合わせ、納経帳の代わりに訪れたことの証拠写真を何枚か撮り、これまた平成7年のときはとばしていた第35番札所の医王山清滝寺(きよたきじ、真言宗豊山派)へ向かいました。しかし少し大きめのマイカーでの旅であった平成7年のとき、この寺をとばしたのは、結果的には正解でした。この寺への道は細く、くの字形に曲がる所では、小さめのレンタカーでも、何回か切り返さなければ曲がりきれなかったのです。
 今日は何時もと比べ短いのですが、切れ目の良いところで終わりにしておきます。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月31日

またまた寄り道ですが

 五重塔、三重塔をめぐる旅としては、今日もまた寄り道です。
 平成15年の四国行のときは、竹林寺を辞した後、第32番札所の八葉山禅師峰寺(ぜんじぶじ、真言宗豊山派)へ廻りました。途中で道を尋ねますと、道を教えてくれた中年の女性が、今からでも間に合いますから、急いで行かれるといいですよと言われます。私を「お四国さん」と思ってのことであったことは、想像に難くありません。しかし、この寺には、国重文の金剛力士像はありますが、それも収蔵庫に収められていて拝観することはできず、そのほか見るべきものがないことは予め承知していました。そんなわけで、写真に撮るべきものは何もなく、私のアルバムには、この寺と第55番の南光坊、第61番の香園寺、第65番の三角寺そして第79番の高照院の5カ寺については、訪れた証拠となる写真がありません。なお、寺の呼び方については、先に見た「四国八十八所遍路」に拠りました。
 この日(平成十五年四月二十八日)は、「太平洋を望む月の名所桂浜の高台に松林に囲まれて」建つ、国民宿舎「桂浜荘」に一夜の宿を求めました。平成7年の時にも利用しましたが、同時にチェックインした関西の人と思われる客が、「すげーなー、へたなホテルより、よっぽどましや」と感嘆の声をあげていました。しかし、この国民宿舎の素晴らしさは、自身で行ってみなければ解らないでしょう。平成15年の四国行のときも、その素晴らしさを再び味わいたく、ここに決めたのです。余裕がある場合はともかく、スケジュールぎっしりの私のような者でも、ちょっと早起きすれば、宿舎から数分で桂浜に降りることができ、坂本龍馬の銅像なども見物できます。
 この銅像について、司馬[]太郎は、「よくできた非常にいい銅像で、しかも昭和初期に学生が中心になって一銭とか十銭という募金でつくった銅像ですから、いやらしさはない」(文春文庫「歴史と風土」所収の「竜馬雑話」)と記しています。
 ここで、ちょっと寄り道に更に寄り道を加えます。それは坂本龍馬のことで、土佐人にとっては、龍馬は郷土の偉大な歴史的英雄であり、土佐そして桂浜に来た以上、彼について触れないわけにはいかないと思うからです。
 まず、司馬[]太郎の「幡桃賞」(中公文庫「風塵抄二」所収)に眼を通すこととしますが、山片!桃(!桃その人については、ここでは詳しく触れません)についての一節で、「大阪府は、山片!桃の名を冠した賞」を設けていて、「外国人にして、日本文化の研究と紹介にすぐれた業績を示した人に賞をもらっていただく」が、平成5年は「第十一回目で、受賞者はアメリカ合衆国のプリンストン大学名誉教授マリウス・B・ジャンセン博士である」(ルビ省略)と記したうえ、次のように記しています。

 明治維新を招来させたひとびとのなかで、坂本龍馬だけが卓越した先見性と開明性をもっていた。(中略)私事だが、私は『産経新聞』に昭和三十七年(一九六二)から四年間『竜馬がゆく』を連載した。
 当時、不遜にも龍馬の右の本質に気づいたのは自分だけかもしれないとおもっていた。
 ところが連載中、たまたま故大岡昇平氏が、丸善で買った右のジャンセン教授の坂本龍馬についての著作を送ってきてくださった。読んで、教授のほうが私より一日の長があることを知った。

 そのジャンセン教授は、その著「坂本龍馬と明治維新」の中で、次のように記しています。

 坂本が国民的な英雄となっていく過程は、近代日本の国家主義の発展を照らしだす好個の一例である。それは一夜にして成ったものではない。国の進路を切り開いた指導者たちが、そのめざした目標について真に民衆の理解を得られるようになるまでには、国家建設の難事業に時日をかけて成功することが必要だったのである。彼らのほめたたえられる日がきたとき、坂本には、その栄光をになうべき理想的な条件がそなわっていた。波乱重畳のその生涯、陽気で自信にみちた挙措や手紙などは、国民が心中に求めていた維新の志士の映像と、まさにぴったりだった。そのするどい機智、実行力、地位や権威への無関心、金銭問題での鷹揚さ、危機にのぞんで動ぜぬ沈着さなどを物語る数々の逸話は、同じく彼の智勇兼備の英傑たる役柄に似つかわしかった。

 上の「坂本龍馬と明治維新」は、平尾道雄・浜田亀吉の共訳でありますが、平尾道雄について、司馬[]太郎は、中央文庫「歴史の世界から」に収められている「平尾道雄史学の普遍性」の中で、「橋詰延寿氏が『天が土佐へ平尾先生を与えて下さったもの』と語っておられるが、同感のおもいがする」と記し、更に「平尾道雄という、近代以後もっとも大きな地方史家」とも記しています。そして、司馬[]太郎自身は龍馬について、「この国のかたち(五)」で、「日本史上、竜馬ほど素晴らしい青春送った人はいないのではないでしょうか」と記しています。

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 今日は、寒い一日でしたね。こんな日は暖かい鍋が美味しいですが、鍋には野菜が重要ですよね。でも、野菜の摂り方にも、色々ありますよね。そして、もう、クリスマスという声が聞こえてくるのですね。もっとも、明日は11月ですものね。そんな時期になりましたが、今日は、「WABISABIYORI」をご紹介します。こちらで ↓ どうぞ。

posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月30日

竹林寺の五重塔

 竹林寺参拝者用の駐車場からは、本坊の脇を通って行くことになりますが、左手に宝物館を見た先に山門(仁王門)があります。山門をくぐり参道を進みますと、数段の石段を登った右手に本堂が、左手に大師堂がありますが、そこから更に10数段の石段を登った、境内では最も高い所に五重塔が聳え建っています。
 昨日見ました故吉田実氏の書に再び眼を通しますと、五重塔は、以前に訪れた広島県福山市の「明王院形を範に採った」とあります。そして同書に拠りますと、五重塔は、昭和55年4月7日に上棟し、同年12月に竣工しましたが、「昭和五八年本堂こけら屋根葺替工事、昭和六〇年西参道修覆他境内景観整備工事の完成を待って、昭和六一年一一月三日五重塔落慶法要を奉修された」といいいます。
 五重塔は、こちらの写真を ↓ ご覧ください。

http://www.geocities.jp/stupacaitya/genson/39kouchi/chikurin5/chikurin5.html

 五重塔もさることながら、客殿(県文)の庭(県名勝)は、「室町時代・文保二年に土佐に巡錫し、五台山西麓に草庵を結んだ禅の高僧・夢想国師により作庭され、その後江戸中期に一部分が嵯峨流庭園として改められた」といい、京都の庭に迷い込んだかのような思いにさせられました。また、宝物館では、国重文の本尊の文殊菩薩像は「五十年に一度の開帳」ということで、その年回りの人しか見ることができませんが、竹林寺に「古くから伝わる藤原から鎌倉時代にかけての仏像十七体はすべて国重要文化財指定)を奉安する。その数は県下の国重文指定の仏像数の四分の一に相当する」という仏像を拝観することができます。以上は鍵括弧内は寺発行のパンフレットからの引用ですが、そのパンフレットに、「当山が文化財の宝庫といわれる所以である」とありますのは、あながち自慢話ではなく、こちらでは奈良の寺を訪れたような思いにさせられました。

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 さて、突然かつ全くの私事です。現在は年金だけが収入の細々とした生活ですが、現役時代は東急グループの某会社に30年勤続しました。そんなわけで今日は、東急ストアを、ご紹介させていただきます。




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2008年10月29日

高知県での2番目の塔のある寺へ

 高知県で2番目の層塔のある寺は、四国八十八ヵ所第31番札所の五台山竹林寺です。この寺は、四国八十八ヵ所の中で、善通寺と並び立つ大寺ですが、街中にある善通寺が庶民的な雰囲気に溢れているのに対し、こちらは五台山の山中にありますので荘厳な雰囲気に包まれています。
 この寺の五重塔については、故吉田実氏が、平成6年9月28八日発行の「史迹と美術」第648号に、「昭和の木造五重塔(四)」として詳細な研究成果を発表されていますので、以下、それを拾い読みさせていただくこととします。なお、私は平成7年と平成15年の2回、この寺を訪れています。

 真言宗智山派を奉じる五台山金色院竹林寺は、神亀元年(七二四)聖武天皇勅願により行基菩薩開創の縁起を伝え、江戸期には土佐藩主祈願寺として隆盛を見たが、明治新政府の神仏分離令と寺領の上地、加えて廃仏毀釈の強行策に際会して寺運は急激に衰退し、伽藍は荒廃の一途を?ることになった。漸く明治の中期、(中略)復興も緒に着いて、以後(中略)寺観は次第に旧に復した。当山は颱風の通り路と呼ばれるコースの高台にあり、強風に見舞われるのは毎年のことであったが、特に昭和四五年八月には颱風一〇号の直撃を受けて諸堂に壊滅的被害を受けるという悲運があった。しかし(中略)再興事業の熱意が実り、昭和五九年に迎える宗祖弘法大師一一五〇年御遠忌記念事業として、昭和五二年最終目標の五重塔建立発願に到達出来たのである。

 五重塔の工事を引き受けたのは、香川県三豊郡詫間町の富士建設株式会社社であったとのこですが、続けて次のように記されています。

 ……富士建設株式会社は一般建築の他、社寺建築にも熟達した技術を有する大手建設業者であったが仏塔建築の経験はなく、社長真鍋利光氏は一度は塔を建てて見度いとの念願で全国仏塔を巡拝し研究を続けて居られたが、この間に、京都で岩上政雄工匠にめぐり会い、更に岩上氏が副棟梁をつとめる志度寺五重塔工事が始まってからは足繁く参観に訪れたと思われ、こうして岩上政雄工匠とのコンビに繋げられたのであろう。

 更に同書を読み進めますと、「竹林寺の古絵図には三重塔が描かれているが明治二〇年頃倒壊したと伝える丈けで、今はその跡地がどこなのか確定出来ない」とあります。同書にその写しが掲載されている古絵図には、確かに三重塔の姿が見えます。
 一方、平成元年3月11日発行の中西亨先生の「続・塔の旅」には、次のように記されています。

 ……この竹林寺にもと塔のあったことを誌した本はみたことがないが、寺僧の話によると明治二十年にそれまで伝えられた三重塔が倒壊したという。今新しい塔から山道を三十メートルほど登った所に三重塔址という所があり、石垣が積まれている。その一辺二・五メートル位の広さの土地だが礎石は残っていない。何か建物があった址のようだが、塔だとするとずいぶん小さな塔だったことになるが……。

 塔跡も、その近くまで行けば訪れている私ですが、2度の訪れの両度とも、時間の都合で、そこまでは行けませんでした。

 さて、これで終わりではないのですが、長くなりますので、続きは明日にします。

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 秋は旅行シーズンでもありますよね。私は貧乏人ですので国民宿舎が主体ですが、お金があれば素敵なホテルにも泊まりたいのは、やまやまです。今日は、レディースプランを主体とした、宿探しのお手伝いをさせていただきます。こちらで ↓ どうぞ。


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2008年10月28日

今日も、少しだけ寄り道します

 五重塔、三重塔をめぐる旅ですが、今日も少しだけですが寄り道します。
 平成5年10月1日の日経新聞の夕刊には、「『三十番札所』善楽寺に統一」という記事が掲載されました。その内容については、この旅日記としては関係ないことですので触れませんが、それまで、安楽寺との間で、札所としての本家争いがあったようです。未だ決着がついていなかった平成4年9月16日発行の「高知県の歴史散歩」では、安楽寺については記されていますが、善楽寺については何ら記述がありません。どちらの寺に見方するわけではありませんし、どちらに見方するかの根拠などの知識の持ち合わせもありませんが、この採り挙げ方は客観性に欠けるのではないでしょうか。
 私は、平成7年の四国行のときは、妙色山安楽寺(真言宗豊山派)を先に訪れましたが、善楽寺はとばしました。しかしながら、上のようなこととは全く関係なく、この寺には新しいものながら多宝塔があるからでした。この多宝塔は、故國見辰雄氏の「塔をゆく」(第3巻、多宝塔)によれば、「躯体をコンクリートでつくられ(中略)、昭和49年(1974)の建立」といいます。
 そして平成15年には、百々山善楽寺(真言宗豊山派)を訪れました。その善楽寺には見るべきものはありませんでしたが、隣接してある土佐神社は、長宗我部元親が、元亀2年(1571)年に本殿・幣殿・拝殿(ともに国重文)を完成したといいます。そして、参道入口の楼門も国重文に指定されており、立派で雰囲気の良い神社でありました。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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