2008年10月27日

昨日は余談で、今日は寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅ながら、今日もまた寄り道です。
 平成15年に時を進めることになりますが、大日寺を後にした私は、取り敢えず土佐電鉄の御免駅を目指しました。「ごめん」とは読みますが、面白い名ですね。どんな地名由来があるのでしょうか、それはともかくとして、私がそこから目指しましたのは第19番札所の摩尼山国分寺(真言宗智山派)です。この寺は、平成7年にも訪れていますが、この寺には塔の心礎といわれる礎石が遺っているからです。
 その礎石は、庭園の庭石として縦に置かれていますので、塔の心礎らしく見えませんが、それについて「高知県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 ……書院の庭内には塔の心礎と伝えられる礎石がある。心礎柱座から掘られた排水溝をもつ凹枘凹座心礎と呼ばれるもので、阿波国分寺の心礎と共通した部分もある。国分寺はふつう七重の塔が原則であるが、土佐の場合この心礎から推して三重の塔が考えられる。

 しかし、「日本の木造塔跡」には、次のように記されています。

 ……大きさは一・二メートル×一・〇四メートル、高さ(厚み)七〇センチで、直径七〇センチ、深さ六センチの穴があり、その中央に直径二〇センチ、深さ六センチの舎利孔がある。岡本健児氏はこの孔は比江廃寺の舎利孔より大きいので枘穴であり、この心礎は土佐国分寺のものであろうと推定されており、『南国市史』でも同様、比江廃寺及び阿波国分寺心礎との比較から枘穴とされている。しかし孔が枘穴であるか舎利孔であるかは、近隣の心礎との比較だけでなく全国的視野で捉うべきものである。穴の中央の孔を舎利孔でなく枘穴と見る様式(幡多廃寺式)はいずれも穴が極めて浅く、中央の孔の径は穴の径の半分以下であって三〇センチ内外となっているが、この心礎の穴の深さは六センチもあり、中央の孔も舎利孔として標準的な規模であるからこれは明らかに枘穴でなく舎利孔である。したがってこの心礎は国分寺のものではなく比江廃寺と大体同じ頃の白鳳期の寺の心礎で、国分寺の造庭に当り持ち込まれたものであろう。これが土佐国分寺の心礎と伝えられていたとすると、(中略)当初の国分寺焼失後この心礎のあった寺が一時国分寺となっていたことはあり得ることである。 

 さて、国分寺の北東わずかな距離のところに、紀貫之邸跡と伝えられる所がありますが、そこから東へ400mほどの所に比江(ひえ)廃寺塔跡(国史跡)があります。その比江廃寺跡について、「高知県の歴史散歩」には、次のように記されています。

 ……土佐最古の白鳳時代の寺院跡であり、その礎石は藩政期に近くを流れる国分川の改修に利用され、現在は塔の心礎だけが残っている。その心礎は最長3・24m、幅の最長は2・21mで心柱の径は81p、そのなかに径15p・深さ12pの円形の舎利(しゃり)を入れる孔がある。この心礎から比江廃寺跡の塔を推定すれば、この期の塔は心柱の約40倍とされているところから、32・4mの高さの塔が考えられ、現在の法隆寺の塔に近いものとなる。伽藍配置は古瓦の出土状況や塔の位置から法隆寺式伽藍配置が考えられ、出土の鐙瓦(あぶみがわら)にも法隆寺の複弁おやゆびサイン華文(ふくべんれんげもん)がみられ、軒瓦に忍冬唐草文(にんどうからくさもん)もある。
 寺の建立年代や名称などは明らかではないが、寺域内の字名に「アマシャカウチ」というのがあり、尼寺ヵ内のことではないかとし、土佐国分尼寺として代用された可能性も強い寺ではなかったかとする学者もいる。(ルビは括弧で表記)

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2008年10月26日

ここらで一休み

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、ここらで一休みといった恰好で、全く関係ないことを書きます。
 ところで、私は美空ひばりの大ファンですが、美空ひばりは、この辺りで大変な事故に遭遇しています。故國見辰雄氏は、この五重塔を平成7年に訪れられたようでありますが、医者であった氏は、その貯「塔をゆく」(第1巻、五重塔)で、次のように記されています。

 ……このあたり町村合併までは大杉村といった。町の中心から少し南の八坂神社の境内に日本一の巨木といわれる3千年の年輪を刻む大杉が60メートルの高さを誇っていて、これが旧村名の由来ともなっている。(中略)
 八坂神社の少し手前に平成5年5月に建てられた美空ひばりの歌碑がある。それにはつぎのようないわれがある。昭和22年(1947)4月28日、(中略)国道139号線の下りカーブで1台のバスが転落した。車掌は即死、乗客のうち井口静波、音丸のコンビと共同巡業中の美空和枝(当時9才)は左新幹線骨部を損傷し、すぐ近くの上村診療所の斉藤医師が治療して漸く意識が恢復し、のち、高知市の宮本病院に移り前後1か月半入院した。
 ところで、普通アルコホリックの死亡時平均年齢は52才といわれている。彼女ものちに国民的英雄となったが、肝硬変と大腿骨頭壊死というアルコール依存症の2大疾患に侵かされて、今から6年前に52才で亡くなった。

 この話は、前に見ました早坂暁著「遍路国往還記」にも詳しく記されていますが、その中で、「九死に一生を得た和枝は、事故現場の近くにある大杉に祈りたいことがあると言った」とあります。そして、「和枝はこの神木の大杉に向かって、『私も、あなたに負けないような日本一の歌手になりますから、どうか守って下さい』と祈った。間違いなく、加藤和枝は美空ひばりと名乗って日本一の歌手となったのだ」ともあります。

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2008年10月25日

高知県での一番目の塔のある所へ

 平成15年の四国行のときですが、吉良川町を後にした私は、第28番札所の法界山大日寺(だいにちじ)へ向かいました。この寺には、国重文の本尊木造大日如来坐像や木像聖観音立像があるといいますが、拝観できるのかどうか、行ってみるまでは判りませんでした。「高知県の歴史散歩」には、「野市の町筋から北へ、龍河洞への道を2qほど行くと、右手の山の中腹に四国霊場第28番の大日寺(真言宗)がある。小型車なら門前の駐車場まで上ることができる」とありますが、平成7年のときは、普通車のマイカーであったからというわけではありませんものの、大日寺をとばして、そのすぐ先にある龍河洞を訪れました。同書には、「龍河洞(国史跡)は、山口県の秋芳洞、大分県の風連洞とともに日本の三大洞穴といわれる巨大な鍾乳洞で、総延長4qのコースは変化に富み、上から下がる鍾乳石と下からのびる石筍がさまざまな姿態で洞内を飾っている」(ルビ省略)とありますが、まさに秋芳洞と優劣を付け難い鍾乳洞でありました。ところで、大日寺ですが、平成15年の旅では訪れましたが、上に記した仏像を拝観することはできませんでした。
 さて、高知県に入ってからは、多宝塔1基は見ましたものの、四国八十八ヵ所札所や、古い町並み、そして鍾乳洞と、塔には関係のない所を巡ってきましたが、高知県の第1番目の層塔は、長岡郡大豊町の資産家の墓園ともいうべき堂ヶ峯園にあります。
 この墓園に建てられた五重塔に関する最初の情報は、故吉田実氏からの平成4年12月25日付のお手紙でありましたが、そのお手紙には、次のように記されていました。

 金花舎、三菱商事GR工法、海住山寺型五重塔が10月18日、高知県長岡郡大豊町(土讃線角茂谷駅)の山奥に完成しました。久里浜霊園、松戸、本土寺の姉妹塔ということになりますか。木造ではないので私の対象外ですが、瑠璃光寺版全国の五重塔の次の改訂版用に取材の都合もあり、明春参詣して来る心算です。但し、塔を建設したのは山口県宇部市に本拠を置く吉永企業グループの事業主吉永浩三氏で、故郷大豊町の町起こし事業にと造営したものです。大豊堂ヶ峯園といヽ老人向け福祉と研修施設に露天風呂付ということで、宗教法人では無さそうですが、詳しいことは明年参詣の上で又御報せします。(氏の勘違いと想われる地名について一ヵ所訂正しました)

 しかし、故吉田氏は、その頃ご多忙であったのでしょう、行かれたとのお報せはありませんでした。私も行く機会を得ぬまま月日が過ぎていきましたが、あの忌まわしい阪神・淡路大震災が発生し、その頃、明石市にお住まいであった氏は、それどころではなくなってしまわれたのであります。
 さて、時を確認しますと、平成7年5月1日のことになりますが、私は、国道32号線へ出て、今は三好市となっています旧池田町方面へ車を駆しらせました。 生憎なことに、風雨が激しい日でした。根曳峠を越え、角茂谷(かくもだに)駅も近くなったと想われる馬瀬という集落に入りますと、前方右手の小高い所に朱色も鮮やかな五重塔が見えました。
 国道の脇にあった店で道を尋ね、国道から右に折れ小さな橋を渡った先、そこが入口と想われる所に車を駐め、折から風雨が更に激しくなったなか、参道(?)を登りました。途中にゲートがありましたが、人影はなく、幸い施錠はされていませんでしたので、閂を外し扉を開け奥へ進みました。登り切った所に、小さなワゴン車が一台駐まっていて警備員がいました。拝観を拒否されるかと思いましたが、許されました。
 まず門のような建造物があり、そこには「吉永家累代之霊域」とありました。いわば一個人、一家族の霊域であり、故吉田氏のお手紙にあったような町興しのための施設とは思われませんでした。警備員の話によれば、五重塔には、吉永家累代の位牌が納められており、塔の左隣りの法隆寺の夢殿風の建物には、観音像だか阿弥陀像だかが安置されているとのことでありました。それらの建物は、いずれも金花舎が販売していたものです。今、私は「販売していた」と過去形で書きましたが、同社は、その後、経営に破綻をきたし、他の大手企業が引き受けましたが、その会社にあっても、うまくいかなかったようです。
 それはともかく、この他にも、法事でも行うときのためと想われます会館風の建物もあり、土地代は別として、建物だけでも10数億になるのではないかと想われました。また、3人3交代で24時間の常駐警備体制で警備しているとのことでしたが、その警備料だけでも相当な金額
になるでしょう。近くに民家はあるものの、気の利いた食堂はなく、また現場を離れるわけにはいかないので、警備員は弁当持参で車の中で食事を摂ったり仮眠したりするとのことでありましたが、世の中には、私など思いも及ばないことを考え、実行する人もいるものだというのが、その時の実感でした。
 ともあれ、私のように、層塔ならば総て、という物好きな人間でない限り、わざわざ訪れるまでもない塔です。

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2008年10月24日

高知県に入ったものの、まだ寄り道です

 五重塔、三重塔をめぐる旅なのか、四国八十八ヵ所をめぐる旅なのか解らないほどですが、お付き合いください。
 時を確認しますと、平成15年4月28日のことになりますが、国民宿舎「むろと」を出発した私は、室戸スカイラインを降りて、平成7年のときにはとばした第25番札所の宝珠山津照寺(しんしょうじ、真言宗豊山派)を訪れました。急な石段を息を弾ませての訪れでありましたが、見るべきものはありませんでした。
 津照寺を後にした私は、「高知県の歴史散歩」に、「ウミガメの産卵地で知られる元海岸から行当(ぎょうど)岬の山上へ2qほど上ると標高160mの景勝地に」(ルビは括弧で表記)ある、と記されています第26番札所の龍頭山金剛頂寺(こんごうちょうじ、真言宗豊山派)へ向かいました。この寺へは平成7年にも訪れていますが、再訪したのです。上の書に拠りますと、この寺には、県下最古という銅像観音菩薩立像(国重文)や木造阿弥陀如来坐像(国重文)、そして朝鮮鐘(国重文)などがあるようですが、私は2度の訪れの時も時間の余裕がないまま、その拝観は省略してしまいました。
 金剛頂寺を辞した私は、国道55線を北西に向かいましたが、行当岬の少し先で、私は思いがけなくも、素晴らしい町並み散策をすることができました。
 国道を駆しっていて、左手の海岸の方に眼をやりますと、なにやら看板が立てられていました。私は後続車を確認したうえでブレーキを踏み道路脇に車を駐め、その看板まで行ってみました。その看板は、室戸市教育委員会によって立てられたもので、「吉良川の町なみ」と大書されており、「室戸市吉良川町重要伝統的建造物群保存地区」ともありました。その看板に拠りますと、平成9年10月31日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたとのことであり、平成7年の旅の時は、まだ選定されていなかったのです。その古い町並みは、国道から一筋、山側に入った所にあります。この旅日記の目的からは逸れますので多くは書きませんが、町並みの中にある「町並み館」で貰った「土佐東方見聞録 散策マップ―白壁と水切り瓦の町―吉良川編」には、「吉良川の歴史」として、「吉良川の主要な産品には近世から木炭と薪があり、特に明治期から昭和初期にかけて、良質の木炭の集積の地として繁栄しました。吉良川の伝統的建造物群の多数がこの時期に建築されており、現在の吉良川町の町並みは近代の経済的繁栄を背景に形成されました」と記されています。
 そして、吉良川町の集落は下町地区と上町地区で構成されているといいますが、「下町地区には旧土佐街道の両側に切妻造りの町家が建ち並び、強い風雨から土佐漆喰の壁面を守る水切り瓦が美しい伝統的建築の町並み」が、「上町地区では、江戸時代中期頃の方形に近い農家型の地割りで、周囲にいしぐろを巡らせ、上町地区の景観を特徴あるもの」にしているとあります。「いしぐろ」とは、河原や海岸で採れる一抱えほどの石で、それを積み上げた石垣塀です。その他にもいろいろあり、なかなかユニークな町並みなので、この辺りまで来られたら、立ち寄られることを、お奨めしたい。
 その後、私はスケジュールどおり第27番札所の竹林山神峯寺(こうのみねじ真言宗豊山派)を訪れましたが、建物など見るべきものはありませんでした。しかし、シャクナゲの花などが見られ、雰囲気の良い寺でありました。
 私は更に車を北西に向けましたが、平成7年のときは、途中にある安芸市の中心部で北に道を採り、JTB刊「町並み細見・西日本」に「土居廓中と呼ばれる水田の中の武家屋敷は野趣あふれる土用竹の生垣をめぐらせている 野良時計がのんびりと、時を刻む」と紹介されています町並みを散策しました。同書には、「この町並みは戦国時代、地元の豪族・安芸氏の居城跡で、防備のために城や侍屋敷の周囲を土塁(土居)で囲み、土居廓中と呼ばれた」とあります。これまた、この旅日記の目的からは逸れますので多くは書きませんが、遍路の途次、疲れた体を癒すにはもってこいの所で、脚を延ばすことをお奨めしたい所です。特に野良時計は、印象に残る光景でありました。

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2008年10月23日

いよいよ土佐国、高知県に入ります

 五重塔、三重塔をめぐる旅も、ようやく昔の土佐国、現在の高知県へ入ります。
 四国に入りました最初の日に、古事記の国生み神話を見ました。すなわち、四国は「身一つにして面四つあり」ということです。このことについて、森浩一先生は「古代史津々浦々」の中で、次のように記されています。

 これは重要な点で、現代人は、四国というのはこんな形だということを地図によって子供のときから知っているが、古代人はそれを知るわけがない。たとえば瀬戸内海をずっと船でいくような古代人でも、四国全体の形を知らない。太平洋側だけを通っている人でも、四国の形が身一つで面四つという地形上の認識は生まれない。
 このことから考えると、お遍路さんの道が陸路で四国を一周しているが、それは空海の遺徳をしのんで空海ゆかりの地を歩く、ということでその道ができたのではなく、『古事記』や『日本書紀』ができる前、つまり古墳時代頃にも、今日の遍路道のようなところを回る習慣とか経験があったと推定されている。(中略)
 ……宮中で大きな儀式をするときは、日本列島の四隅の土地の名を祈りのなかでいうことが、平安時代の『延喜式』に載っている。日本列島の四隅というのは、東は陸奥、北は佐渡、西は五島列島、南は土佐であり、平安時代の前期には土佐は日本の四隅の一つだったという認識があった。土佐というのは、このような土地なのである。(ルビ省略)

 ところで、四国八十八ヵ所の行程としてみますと、前にも見た「四国八十八所遍路」に拠れば、第23番札所の薬王寺から、第24番札所の室戸山最御崎寺(ほつみさきじ、真言宗豊山派)へは77キロとのことでありますが、歩き遍路の場合、南阿波サンラインを通らないかぎり、果てしなく続くかのような、そして車が行き交う国道55号線を、ただひたすら歩き続けなければなりません。もちろん1日では無理で、人によって異なるでしょうが、3〜5日の行程ではないでしょうか。私も、海に沿った防波堤が続く左手の道を、一人、あるいは二人、三人と連れだって黙々と歩くお遍路さんの姿を何回か見かけました。
 さて、車でありました私は、薬王寺から1時間ほどで室戸岬に着き、平成7年の旅では、空海が青年時代に修行したと伝えられます御厨人窟(みくろど)などを見学しました。そして、室戸スカイラインに入り、右手にある駐車場に車を入れ、横手から入る恰好で、最御崎寺の境内に入りました。といいますのも、バス停の所から石段を登るには、20分ほどかかるとのことでありましたので、楽な参詣路を選んだのです。この寺には多宝塔がありますが、中西亨先生の「続・塔の旅」には、「東
寺とよばれる二十四番最御崎寺と二十六番の西寺金剛頂寺には、明治まで共に多宝塔があったようだが、何しろ室戸岬という台風銀座の地にあったため潮風にいたみつけられ、共にその姿を消してしまっていた。近年そのうち最御崎寺の方に多宝塔が再興された」とあります。
 平成15年の旅のことに話を進めますが、最御崎寺の少し先、室戸スカイラインの道沿いにあります、「果てしなく広がる太平洋を望む亜熱帯の高台の宿」、国民宿舎「むろと」に宿を求めました。

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2008年10月22日

今日も徳島県内をウロウロ

 五重塔、三重塔をめぐる旅でありながら、四国に入ってからは、四国八十八ヵ所めぐりもしたりして、とかく寄り道が多く、まだ徳島県内です。
 平成15年の旅では、太龍寺を後にした私は、ロープウェイで道の駅まで戻り、第22番札所へ向かったのですが、この旅日記では一時、平成7年の旅のことに時を戻すこととします。
 第19番札所の立江寺を辞した後、国道55号線で阿南市へ向かい、津峯スカイラインに入って、「阿波松島の橘湾越しに紀伊山地まで望む津峯山麓の宿」、国民宿舎「津峯(つのみね)荘」に、旅の3日目となる4月28日の宿を求めました。宿舎からの眺めは、上にあるとおりの素晴らしいものでありました。
 翌29日、スカイラインを下り、国道55線を少し戻る恰好になりましたが、市内の宝田(たからだ)町立善寺にある隆禅寺を訪れました。といいますのも、「徳島県の歴史散歩」に、「境内には直径35p・深さ14pの穴をもつ塔の心礎が残され、また出土した古瓦は(中略)白鳳(はくほう)時代古瓦の特徴をよくあらわしていて、この寺の創建年代は、白鳳時代後期と推定され」(ルビは括弧で表記。以下、同書からの引用文について同じ)、とあったからです。しかし、心礎はお堂の中にあって、眼にすることはできませんでした。
 さて、第22番札所の白水山平等寺(びょうどうじ、高野山真言宗)ですが、この寺には取り立てて見るべきものはありませんでしたので、ざっと境内を見て廻っただけで、国道55線に出て次の目的地へ向かいました。
 第23番札所の医王山薬王寺(やくおうじ、高野山真言宗)ですが、上の書には、「仁王門をくぐると31段の女厄坂(おんなやくざか)、42段の男厄坂があり、各段ごとに薬師本願経の一字一石経を埋めてあるので、賽銭(さいせん)を一つずつ供えて厄流しをする風習がある」とあり、私が訪れた時も1円玉を主とした賽銭が、石段に敷き詰めるようにして置かれていて、雨模様でありましたので、滑らないよう気をつけねなりませんでした。
 そして同書には、「本堂からさらに上に61段の男女厄坂を上りつめると瑜ボート(船)(ゆぎ)塔がある。瑜ボート(船)塔は、1965(昭和40)年に高野山開創1100年を記念して建立ざれたもので、真言宗の経典でもある瑜ボート(船)経の教理を表現したものである。その意義は、世の中のものはすべて二つの相対したものからできているが、それが一つになることによって初めて真の平和と幸福が得られるというものである」とあります。ちょっと変わった形態ですので、こちらの写真を ↓ ご覧ください。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2002toba/yakuo_y3.jpg

 平成15年の四国行のときは、薬王寺を後にした私は、国道55号線を一気に南下し、室戸岬まで車を進めましたが、平成7年のときは、南阿波サンラインを経由して国道55号線に出て、その日の宿を、「緑の小島が浮かぶ水床湾に突き出た金ガ崎台上に立つ」、国民宿舎「みとこ荘」に求めました。ここは穴喰(ししくい)という変わった名の温泉地であり、水床(みとこ)湾の風景と温泉を堪能したのでした。

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 さて、今日は国民宿舎を二つご紹介した恰好にもなりましたが、今でもありますかどうか。最近は、閉鎖された所も幾つかありますので。国民宿舎はどうも、と敬遠される方は、こちらの ↓ 「旅ツウ」などは、如何でしょうか。私は一人旅が多いのですが、一人旅特集などもあるようです。

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2008年10月21日

次は高知県へ向かうのですが

 五重塔、三重塔をめぐる旅は、次は高知県へとなるのですが、例によって何ヵ所か寄り道をします。そして今日は、まだ徳島県での寄り道です。

 時を再確認しますと平成15年4月27日のことになりますが、鶴林寺を後にした私は鶴峠まで戻り、そこから下って県道19号線へ出ました。鶴峠から県道までの道は、私が最初に鶴林寺を訪れた前年の平成6年に開通したばかりでありました。この道がなかった頃であれば、いったん小松島市域まで戻り、那賀川沿いの道を30キロ近く遠回りしなければならなかったはずです。
 県道を下りますと15分ほどで道の駅「わしの里」に着きますが、駐車場へ車を入れ、第21番の舎心山太龍寺(たいりゅうじ、高野山真言宗)を訪れるべく、道の駅にある太龍寺ロープウェイの駅へ向かいました。平成7年の旅では、天候の具合が悪く高い料金(往復2400円)を払って昇っても仕方がなくカットした寺でありましたが、この度は、どうであれ昇らねば、四国八十八ヵ所を制覇したことになりません。幸いにも天候には恵まれ、眺望を楽しむことができました。
 このロープウェイは、平成4年に開通しました。運賃は高いが、60歳を過ぎていた私が太龍寺を訪れるには、なくてはならないものでありました。「徳島県の歴史散歩」に拠れば、「JR高徳線徳島駅バス川口行阿瀬比下車1時間30分」とあり、更に「阿瀬比バス停から約3・5q、6合目あたりまで車道が通じているが、そこからは徒歩で登山路を1・3qほど」登らねばならないのである。なお、平成5年3月4日付の日本経済新聞の「名所新景」と題したシリーズ記事で太龍寺ロープウェイが紹介されましたが、「JR徳島駅から桑野駅経由の徳島バス・丹生谷線で『鷲敷町東』下車。また桑野駅からはタクシーで十五分」とあります。
 この寺には本堂の右奥に多宝塔がありますが、中西亨先生の「総鑑」には、「ここは近年まで三重塔と多宝塔を持った唯一の寺であったが、破損の著しくなった三重塔を興願寺に譲ったため今は多宝塔のみを有する」とあります。
 その多宝塔について同書には、「江戸末の文久三年(一八六三)のもので大型の立派なものである」とあり、「三重塔とそろっていたらもっとすばらしいのにと残念な気がする」と記されています。
 ところで、高群逸枝が遍路の旅をした大正7年当時は、まだ、三重塔が建っていたのです。「お遍路」には、次のように記されています。

 平安朝期のいわゆる山林仏教の典型をなす道場であって、雲に聳ゆる堂塔伽藍の静かな華麗さ。
 現存の主なる堂塔は、仁王門、六角経堂、護摩堂、方丈、庫裡、鐘楼、三重塔、多宝塔、大師堂、中興堂、多聞堂、十王堂、金堂、鎮守堂、求聞持堂などで、それらが山また山の眺望をほしいままにする各位置に布置されている。

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2008年10月20日

四国で最初に訪れる古塔

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅も、ようやく古塔のある寺へ、ということになります。
 平成15年4月27日、第19番札所の立江寺を辞した私は、県道28号線、22号線、そして勝浦川沿いの県道16号線を辿り、勝浦町役場に至る手前、道路地図に「生名(いくな)」という地名が見える辺りで、標識に従い左折して、朱鷺書房刊「四国八十八所遍路」(徳島・高知編)では、山号の訓みを「りょうじゅざん」としている霊鷲山鶴林寺(かくりんじ、高野山真言宗)とある第二十番札所への山道にとりつき、鶴峠を目指しました。「徳島県の歴史散歩」には、「JR高徳線徳島駅バス勝浦線生名下車1時間30分」とあったうえ、「バスを降りてすぐ南側に入る道が、四国霊場第20番札所鶴林寺(真言宗)の表参道である。麓の生名から標高550mの山頂までのこの道は、急傾斜の山道が3q余りあって、四国霊場のなかでも名高い難所である」とありますが、S字カーブが連続する急勾配の山道でした。
 さて、鶴林寺へは鶴峠から右へ入ることになりますが、この寺の名の由来などについて、同書には、次のように記されています。

 寺伝によれば798(延暦17)年、弘法大師が寺を開き修行中、老杉の梢(こずえ)に雌雄2羽の鶴に守られた黄金の地蔵菩薩を発見し、喜んで木彫りの地蔵菩薩を刻み、その胎内に黄金の菩薩を納め本尊としたので、寺名を霊鷲山(れいじゅうざん)鶴林寺としたという。2世真然(しんねん)僧正が七堂伽藍(がらん)を完成し、代々の天皇の尊信も厚く、三好(みよし)氏・蜂須賀(はちすか)氏らも寺を保護したといわれる。(ルビは括弧で表記)

 次いで、同書を見ると、次のように記さています。

 運慶作と伝えられる仁王像のある山門を入ると、すぐ右手に1861(文久元)年建立の六角堂がある。(中略)少し入って石段を右に上ると、1604(慶長9)年再建の本堂がある。ここに本尊の木造地蔵菩薩立像(国重文)が安置されている。(中略)
 本堂右に1822(文政5)年に建てられた美しい三重塔(県文化)がある。五智如来が安置された、県内で代表的な三重塔である。

 三重塔の建造年に関連して、中西亨先生の「続・塔の旅」には、「この塔には初層の勾欄に十二個のギボシがつき、そのうち十一個に銘文が刻まれている」とあり、「少しみてみると」として、「一番古いのが文化十四年(一八一七)、一番新しいのが文政三年(一八二〇)だからこの間に寄進が集ったのであろう」と記されています。

 三重塔については、こちらの写真を ↓ ご覧ください。

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2002toba/awa_kaku1.jpg

 ところで、司馬[]太郎は、高群逸枝の「娘巡礼記」について「街道をゆく」(阿波紀行)の中で、次のように記しています。

 彼女はまだ無名の娘であった大正七年(一九一八)、ひとり熊本を出て遍路をした。約半年、八十八か所の山野を歩いたのだが、その間のことを『九州日日新聞』(現・『熊本日日新聞』)に寄稿した。百五回にわたる『娘巡礼記』がそれである。

 高群逸枝は、その「娘巡礼記」とは別に「お遍路」という書も著していますが、これは「当時の納経や備忘録を今度国元から取り寄せて新しく綴ったもの」(同書の著者「はしがき」)といいます。そんなことであったためでしょうか、同書では、鶴林寺について、「仁王門、六角堂、十王堂、護摩堂、本堂、二重塔、大師堂などが立ち並び宏壮な構えである」と記していますが、書くまでもなく、「二重塔」とありますのは「三重塔」の誤記、ないしは、どこかの多宝塔と取り違えているのかもしれません。岩波文庫「娘巡礼記」の解説には、高群逸枝は「女性史の開拓者として知られる」とありますが、高群逸枝については、「お遍路」を書店で眼にするまで、私は全く知りませんでした。

☆       ☆       ☆

 またまた、食欲の秋に因むものですが、オイシックスです。どうぞ、こちらで ↓ 食欲の秋を満喫して下さい。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月19日

mada まだ寄り道なのですが

 五重塔、三重塔をめぐる旅にも拘わらず、まだ寄り道の旅です。

 改めて時を確認すると、平成15年4月27日のことになりますが、徳島のホテルを出た私は、国道438号線で西へ向かいました。そし、て、前日に道を間違えて行ってしまった神山町の中心部を過ぎた先で標識に従い道を右に採り、県道43号線に入って、第12番の摩廬山焼山寺(しょうざんじ、高野山真言宗)を目指しました。「徳島の歴史散歩」には、この寺は、「美しい自然に恵まれた山寺で、樹齢300年と推定される山門の杉並木や、参道に藤の群生地(ともに県天然)」があるとあり、境内は心和む聖地ともいうべき所ではありましたが、これといって見るべき特別なものはありませんでした。
 焼山寺を辞した私は、40キロ近く道を戻って右折し県道18号線に入り、更に県道33号、136号線を辿って、第18番札所へ向かいました。
 ここで、また時は遡りますが、平成7年の旅では、瑞巌寺から第19番札所へ直行したのですが、その途中、徳島市丈六町丈領にある丈六寺(じょうろくじ、曹洞宗)を訪れました。この寺は、第18番札所への道筋とも言うべき所にありますので、参詣をお奨めしたい寺であります。三門、観音堂、本堂は国の重要文化財に指定されています。
 時は目まぐるしく平成15年4月27日に戻りますが、第18番札所の母養山恩山寺(高野山真言宗)へ至りました。しかし、この寺も、これといって見るべきものはありませんでした。ただ、石造物には面白いものが見られ、新しいものながら、石造の三重塔がありました。
 次いで、第19番の橋池山立江寺(たつえじ、高野山真言宗)を訪れましたが、この寺は、この時が二度目でありました。というのも、この寺には大正7年(1918)建立という多宝塔があるからでした。「徳島県の歴史散歩」には、この寺は、「四国霊場の
うち四つある関所の一つで、罪人や邪心をもった者は、ここで必ず大師のおとがめをうけるといわれている」とありますが、ろくすっぽ手も合わせない私など咎めを受けること必定でありましょう。
 さて次は、四国八十八ヵ所の札所で初めて層塔に出会う鶴林寺でありますが、この札所について、司馬[]太郎は「街道をゆく」(阿波紀行)の中で、次のように記しています。

 私どもはこの旅で、札所といえば、第一番の霊山寺に詣ったきりである。
 おなじ寺でも、札所の寺は、ちょっとちがう。奈良や京都の古寺なら、なるべく境内に小さな建造物をたてることをひかえ、創建当時の閑寂な空間を保とうと努めている。これに対しお四国≠フ札所の寺は、お遍路さんの信心の脂(あぶら)でぬれているように思われる。
 この霊山寺の境内も、視野のなかにさまざまなものが自己主張していて、目をやすませてくれないのである。(中略)マンガの小僧を描いた看板まで立っている。お遍路さんのための納経所の場所を看板の小僧さんが、指でさし示しているのである。(ルビは括弧で表記)

 そして同書には、阿波へ来るに際し、「人はなぜ遍路に出るのかということを知り」たく、高群逸枝(たかむれいつえ)の「娘巡礼記」を改めて読んだとありますが、「結局、人の動機などそれぞれである」らしいということを知っただけであったようです。そして司馬[]太郎は、「ともかくも私には、遍路がわかりにくい」と記しています。私は何となく解りますが、かといって歩き遍路までするつもりはありません。

☆       ☆       ☆

 生活感覚の上では、まだ土曜日なのですが、時計の上では日にちが変わってしまいました。どうも土曜日はバタバタしてしまうことが多いので、これまで土曜日の定番としていました、こちらは ↓ 今後、日曜日の定番とします。

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posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 00:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月17日

またまた寄り道ですが

 五重塔、三重塔をめぐる四国の旅も、やっと塔のある寺を訪れたわけですが、またまた、何ヵ所か寄り道をします。

 瑞巌寺を最初に訪れた平成7年の旅では、眉山パークウェイで眉山山頂まで行く予定であったのですが、生憎の雨で、それは諦め南へ向かいました。しかし、平成15年の旅では天候もよく、前日(4月25日)に行くことができました。眼下に徳島市が展がり、紀伊水道も望むことができ、眉山公園は、ツツジが真っ盛りでありました。
 そして、瑞巌寺を再訪した時はホテルがすぐ近くでありましたので、車は置いて歩いて行ったのですが、その後、更に歩みを進めて、ロープウェイ発着場の近くにある潮音寺を訪れました。目的は、この寺にあるモラエス・小春夫婦の墓とおヨネの墓を見ることでありました。日本を愛したということでは、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが有名ですが、モラエスは、ハーン以上に日本を愛したと思われるにも拘わらず余り知られていませんので、私の旅の目的とは全く関係ないものの、せめて、その墓なりとも見ておこうと思ったのです。
 早坂暁著「遍路国往還記」には、次のように記されています。

   モラエスは阿波の辺土に死ぬるまで日本を恋ひぬ、かなしきまでに  吉井勇
 詩人のヴェンセスラシオ・デ・モラエスが、ポルトガル日本総領事の職を返上し、神戸から徳島の中州港に着いたのは、大正二年(一九一三)七月四日の早朝である。(中略)すでにモラエスは六十歳になっている。
 ――もうポルトガルには帰らない。徳島で死のう。死んで徳島の土になろう。(ルビ省略。以下、同書からの引用文について同じ)

 同書には、モラエスは、「すぐに市内の眉山麓にある潮音寺に向かった」が、そこには「福本ヨネの真新しい墓が出来上がっていた。法喜蓮照信女、行年三十八歳と刻まれてある」とあり、続けて次のように記されています。

 ヨネは徳島から出てきて大坂松島遊廓の芸者となったが、来日間もないモラエスに見染められて、結婚した。モラエスは美しい大きな眼と、美しい小さな手を持ったヨネを深く愛したけれど、心臓の悪かったヨネは、十三年目で死んでしまったのだ。
 モラエスは伊賀町にある四軒長屋の南端の家を借りた。書斎にした二階からは窓いっぱいに眉山が見え、かねて憧れていた「方丈記」や「徒然草」の隠遁生活をはじめた。

 続けて同書を見ますと、「ヨネの姪になる小春が一緒に住むようになった」が、「モラエスにとって孤独を慰めてくれるのは、小春ただ一人である。しかし、その小春も血を吐いて倒れた。肺結核で、あっという間に二十三歳の若さで死んでしまう。今度こそモラエスは、たった一人になった」とあります。そして、「昭和四年(一九二九)七月一日の夜、モラエスは(中略)、息が絶えた。七十六歳だった」とあります。
 そのモラエスは、その著「徳島の盆踊り」の中で、次のように記しています。

 徳島の巡礼、ここで呼ぶところの「お・へんどさん」、高貴な巡礼さんについて少々述べる。
 四国遍路と言う方がよいであろう。徳島市、徳島全県、四国の大島を構成している他の県いずれもが、はるか往昔以来、すべての日本人に篤く信仰されているいくつかの寺院のあることで、よく知られている。四国の島は非常に山が多い。険しい山をよじ登り、急峻な渓谷を下り、寺から寺へ徒歩でそれらの寺院を訪れ、さまざまな危険やさまざまな疲労に身をさらすことは、称賛に値いする行為となり、多くの信者がそれを行なっている。(中略)
 ……彼らの服装は変わっている。短かい着物をまとい、大きな藁帽子をかぶり、脚絆をつけ、旅人のサンダル〔わらじ〕をはいている。雨が降ると、背中を油紙でおおう。自分の名前や他の文言を書いた札を胸から下げている。杖をつく。それぞれ、四ヵ月ほどの旅に必要なすべての衣類を入れたリュックサックのようなものを背負っている。

 さて、次の目的地へ急ぎたいと思いますが、これから先は、上にあるとおり、険しい山を登り急峻な渓谷を下る道になります。しかし、書くまでもなく、私は車での旅でありました。

☆       ☆       ☆

 さて、これで何度目になりましょうか。私は見ませんでしたし、そんな番組があるのも知りませんでしたが、昨日の「めざましテレビ」で、わさびの化粧品が、花粉対策グッズとして紹介されたようです。こちらで ↓ 探してみて下さい。


posted by 60歳半ばを過ぎた山ちゃんですよー at 12:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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